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◆2020年の解体

・1963年 道庁西18丁目別館   中央区北3条西18丁目

   
 南面  東面

道庁西18丁目別館の解体工事が完了した。
この建物は、元々ここにあった札幌西高が1960年に焼失したのち、1963年に道庁地方職員共済組合の宿泊施設として建設され、1988年に道が取得して道庁別館として使われてきたとされている。
財政の厳しかった北海道が2006年に遊休資産売却促進方針に従って入居部局の移転をすすめ、2016年をもって閉鎖し、今回の売却に至った。

売却予測金額の倍以上で落札をうけた北海道は、売却を急がなくて正解だったといえるだろう。

さて、この建物のスタイルをもう一度眺めてみる。
低層部と高層部に分けた形は当時のお役所建築によく見るもので、来館者対応の低層部と職員のための高層部を機能的に分けた結果である。
だから、宿泊施設としてのデザインには見えないのである。
ひょっとすると低層部は後からの増築なのかもしれない。



◆2019年の解体


・1967年 SK邸  豊平区豊平5条2丁目3−23    設計 田上建築制作事務所

   

2階にある2本の柱型にとりつかれた私は、その原因が、田上先生による小熊邸の柱型と似ていることにあると考えた。
しかし、この住宅はそれほど古いものではないだろうから、きっとどなたかが小熊邸からインスピレーションをもらって設計した住宅なのだろうと思った。
けれども、これはやっぱり田上先生のデザインなのではないかという疑いが私の中で発酵し、そのガスはパンパンに膨らんで私の穴から漏れ出し始めた。

この住宅が田上作品だという確認の方法もなく、また専門家に尋ねる伝手もない私は、そのストレスで腐り始めてきたような気になっていた。
そんな折り、古い住宅雑誌「北国のすまい 第7集」を読んでいたら、偶然にもこの住宅が田上先生の作品だったという事実に接することができたのである。
その時の感覚をどのように表現したら良いか。
ゼンマイ仕掛けの身体に引っかかったゴミを取り出した途端、再び音を立てて動き出したような、定年間近の刑事が長年追い続けた犯人を逮捕した時のような、はたまた、探しつくしたオモチャがじゅうたんの下から現れた時のような…いや、とても言い当てることはできない。
とにかく私は、その時に味わった心臓が止まるほどの満足感を田上先生の作品を探しあてることでもう1度感じたいと、街をさまよい歩き出すことになったのである。

私にそのようなきっかけを与えてくれたSK邸。
もうそろそろですねと感じてはいたが、年末も押し迫ったところで予期せぬお別れとなったのでありました。

   




・1959年 農林中央金庫札幌支店 中央区大通西5丁目  設計 施工ともに不明



ギリシャ神殿の柱が鉄筋コンクリートの柱に置き換わった新古典主義の単純化された外観デザインは、札幌の風土によく適ったものだっただろうと思う。
水切れがよく、雪や氷の積もりにくい無装飾の外観は、それと引き換えに外壁の長寿命化を約束してくれたに違いない。
だから、新古典主義が時代遅れのデザインとなってしまってからも札幌で採用され続けたのは、そこに理由があるのだろう。



・1925年くらい? 鴨鴨堂 中央区南8条西2丁目 

   
 在りし日の鴨鴨堂 (グーグルストリートビューより)  解体中

鴨鴨堂が解体されてしまうという噂話を耳にした。
店主石川さんに事情を聞いてみたかったが、なんとなくやめておいた。
10月になって、石川さんの仲間たち自身の手で丁寧に解体をされるというので、こっそり写真を撮りに行った。

世の石川ファンには羨ましがられると思うが、彼女が保存相談のためにこの家に初めて入った歴史的瞬間、なんと私も御一緒させていただいていた。
保存の方法が思いつかないまま振り返って彼女を見てみると、彼女らしい人懐っこい顔でオーナーさんと楽しそうに話をしているではないか。
最初は諦め顔だったオーナーさんも、帰るころには明るい顔になっていた。



しばらくして、「私が使わせてもらうことになっちゃった。」と、石川さんから電話をもらった。
何が何だかわからないうちに、ギャラリーをつくるためだと言って大工さんやら電気屋さん、設備屋さんやらが作業を始めた。
奉仕活動のようにどんどん集まってくる人達を見て、彼女の人を惹きつける力に驚いた。
その後の彼女のご活躍は、皆さんご承知の通りである。



ところで、鴨鴨堂には気になる点があった。
赤丸で囲った部分、建ち上がった時はこんな形ではなかったはずである。
恐らく、昭和初期の鴨々川は今のような姿ではなく、普段はもっと細い川だったのではないだろうか?
何度か氾濫したことがあるという鴨々川、後になってその対策に川幅を広げたのであろう。
建物ギリギリにまで迫った護岸工事、そこに引っかかってしまった部分を削り取ったのだろうか?



・1975年くらい? N邸  中央区宮ヶ丘  設計 施工ともに不明

     
 在りし日のN邸  解体中  解体中

北海道神宮の正面という場所柄、気になっていた建築マニアも多かったと思うN邸。
ひと気のない雰囲気がずっと続いていたので、いつ解体されるのかと眺める時間が長かった。
今年の春、解体業者と思しき1人の男性が門の前で腕組しているのを見つけ、時は迫ったと覚悟した。


この住宅の見所、最大のポイントは、1階リビングの連続窓である。
7mもの幅、そして床から天井まで全てがサッシなのである。
下がり壁を無くして、サッシを2階の床へ直接ズブッとはめた様子が、すっきりシンプルである。
リビングに居ながらテラスとの一体感を、そして、庭を通して見える神宮の杜を借景にすることを狙っていたのであろう。
一方、西側は道路に面して閉ざし、壁で魅せるという時代感覚を体現し、南西角に鋭くコーナーサッシでアクセントをつけているところにも惹きつけられる。

青いタイルの貼り詰められた塔屋、ひょっとして3層の蔵か、いやいや素直に階段室かと思ってみたが、ついにその謎も解けずじまいに終わってしまった。




・1964年 札幌市南消防署  南区真駒内幸町1丁目  設計 施工 ともに不明

   

「鉄筋コンクリート造平屋建て」という言葉にザワッとするのは、この頃ではなかなか聞きなれない言葉であるからと思うのです。
ただ単に柱と梁をコンクリートで造るのではなく、まるで寺社建築の木造架構であるかのように見せるのは、丹下先生に端を発した流行デザインではありますが、このような案件にまでその影響力が及ぶとは、恐るべし丹下と思うのであります。
そして、壁面がレンガ仕上げというところにもウ〜ンとうなってしまうのであります。



1958年の旭川市庁舎は、佐藤武夫先生がレンガを使用した素晴らしいモダニズム建築ということになっている。
しかし、レンガというものは古い様式建築に使われた材料であり、モダニズム建築には最も不釣り合いな材料ではなかったか。
その土地性や歴史から解き放たれて自由であることがモダニズム建築の真骨頂、であるはずである。
当時の北海道民にしてみれば、レンガというものは懐かしく素朴な材料であって、少なくとも「粋」な材料ではない。
一般的にはそのような印象のレンガを上手に使ってレンガの新しい魅力を引き出しつつ「粋」の領分まで高め、そしてモダニズム建築の新しい局面を切り開いた点が佐藤先生のえらいところと思う。

学生時代に数年間だけ旭川にいたことがあったという佐藤先生、その思い出にレンガの建物の記憶が大きく占めていたそうである。
温かみを感じさせてくれたレンガをタータンチェックにデザイン積みしたという。
タータンチェックを見ると、熱い鼓動がよみがえってくる。
佐藤先生は、タータンチェックのほっかぶりをした女子学生に恋心を抱いていたのではなかったか。
そして今では、街行く女性のタータンチェックのマフラーや事務所女性スタッフの膝掛を見るだけで、初恋の相手を思い出すようになっていた。

還暦前の設計者が少年時代の甘い記憶を市庁舎のデザインに託す。
あっても良い話だと思う。



北海道の風景にもう一度レンガを差し込む。
それもモダニズムとしてレンガを使うという技と勇気が北海道の建築家よりも先に愛知生まれの建築家に生まれたところ、正直に言うと、そこがとっても悔しい。

この札幌南消防署の外観には、当時の建築界の話題を写し込んだ姿が見えてきて、ついついじっくり立ち止まって眺めたものである。



・1955年 旧札幌特別調達局  中央区北2条西19丁目  設計 開発局営繕部  施工 山崎建設工業

   

この頃の解体工事は、しっかりした手順を踏んで行われるから、このようなサッシだけが外れた状況に遭遇することができた。
開口部のみがぽっかりと真っ黒でコントラストの効いた風景を見て、21世紀の建築のようだと目をこすった。
西澤立衛氏の森山邸、または藤本壮介氏のHOUSE Nのように見えてしまったのである。




・1968年 SHALFEIEFF シャルフェーフ商会  中央区北3条西17丁目2   設計 田上建築制作事務所

     
 在りし日のシャルフェーフ商会 2011年  内部及び外装の解体中 2019年  囲って本格的な解体工事準備 2019年

田上教信者の中でも、マニア度の高かったシャルフェーフ商会。
保税倉庫と事務所、そして経営者の住宅を兼ねた建物であった。
ロシア人のシャルフェーフさんが、農業用機械の輸出入の商売をされていたということである。

1967年にソビエト領事館が札幌にできたことと、この建物の建設に何らかの関係がありそうではある。
でも、どのようないきさつで田上先生が設計を受けられたのか、詳しいことはわからない。

保税倉庫の役割があるので鉄筋コンクリート造だったと思われるが、この外観デザインはシャルフェーフさんのリクエストだったのだろうか?
シベリヤのオムスク生まれのシャルフェーフさん、陸屋根と大きなバルコニーのデザインが懐かしき故郷を彷彿させた・・・という訳では無かったようだ。
敷地に必要な部屋数を組み合わせた結果、このようなボリュームになってしまい、頭を抱えることになった田上先生。
師ライト先生のトーマス・ゲイル夫人邸のデザインを拝借して解決した、と思われる。


 1909年 トーマスゲイル夫人邸 

シャルフェーフ商会の解体工事が少し進んだある日、外部に見えがかる木部が全て撤去され、コンクリートだけの姿になった瞬間があった。
バルコニーの手摺と屋根の破風が無くなっただけで、こんなにもすっきりとシャープに見えるものなのか。
ライト師匠を離れ、兄レーモンドの雰囲気になったではないか。
田上先生、ひょっとして設計段階ではこのように見えることを期待していたのではないかと思わせてくれる出来事だった。

 ←この時のRC造すっぴんの顔とボリューム感がカッコいい。

ところで、2階バルコニー内側の窓は全て腰窓だったので、バルコニーへはヨイッショっと窓を跨がないと出られなかったのです。



・1966年 坂本修三郎邸  江別市大麻中町12−7    設計 田上建築制作事務所

   
 在りし日の坂本邸 グーグルストリートビューより  2019年8月

何度も近くに来ていたのに、ちょっと立ち寄ってみればこの通りの坂本修三郎邸。
地面はまだフカフカしていたので、解体工事はつい最近のことだったのだろう。
土の表面から顔を出していたセラミックブロックのかけらを拾い上げながら、「坂本直行邸が危ない。」と車を駆った。




挫折の記憶 可否茶館倶楽部

昔のタウン情報誌を読んでいたら、今は無き可否茶館倶楽部が載っていた。
南8条西18丁目の南9条通りに面してあった古くて立派な住宅を改装した喫茶店だった。
私が大学4年の時、就職活動のOB訪問で「じゃあ、可否茶館にでもしようか。」と指定された場所だった。

当時はまだバブル景気の残り香があって、誰もが知っているような名前の会社に先輩たちはどんどん入社していった。
しかし私の代が就職活動をする1993年になって、世の中の会社という会社はバブル崩壊に対処するため、新卒採用を大幅に縮小した。
更に追い打ちをかけるように、私の志望会社は来年は採用を見合わせますと残酷な発表をした。
それでも私は、アルバイト先の店長が知り合いで且つたまたま大学の先輩だという方に何とかOB訪問をさせてもらったのである。

席に着くと「ここは昔、偉い人の家だったらしいよ。」と、OB先輩が話を始めてくれた。
先輩がこの店を選んだセンスの良さを私はわかります。(だから私は先輩のいる会社へ入社するのにふさわしいと思います。)と、さりげなく自己PRしたような記憶がある。

「実は、コネ枠採用をするんだ。」と、OB先輩は周りを気にしながら声を低くして言った。
もちろん私には何のコネも無かったが、「君は熱心そうだから、面接は受けられるようにしておいてあげる。あとは運と縁だ。」と言われて、店を出た。

結局私は、いくつか進んだ最終面接に落っこちた。

就職活動も下火になった秋に厳しい現実に放り出され、「コネも実力だからな。」と知った顔をした友人にうなづき、内定を獲得したコネ学生を軽蔑し、可否茶館倶楽部を八つ当たりするように怨んだことが思い出された。


もし、あの面接に通っていたら・・・と、本を閉じながら想像してみるのである。












2018年の解体

・1971年 三菱石油トレーニングセンター  白石区本通6丁目北4−1  設計 田上建築制作事務所



私の同期、三菱石油トレーニングセンターが解体されました。
あのせり上がる庇、あの丸い頭の塔、そして、あの色とりどり形さまざまのロンシャン窓。
完成時は、スタンドの給油スペースにかかる屋根は無かっただろう。
だから、今回このように撮影できた姿が、完成時の姿に違いないのです。

この造形チックな重々しい2階部分、ひょっとして高床式に持ち上げられていただろうか?
もしそうだったとしたら、たまらんです。

ENEOSに変わった後も、塔入り口横にずっと残っていた三菱石油の切り文字サイン。
解体工事に気がついて確認した時には、既に無くなっていました。



在りし日の三菱石油サイン。 「三」だけが外れていた。




・旧電電公社 札幌電気通信学園   中央区南22〜23条西7丁目

     
 小講堂  東宿泊棟  体育館

現在取り壊し中のNTT北海道セミナーセンタは、元々電電公社時代に建設された札幌電気通信学園の校舎、施設群ということです。
2町角もある敷地に、研修棟をはじめ、様々な建物が建っている。
私をうっとりさせるのは、敷地隅にある初期に建てられただろう、小講堂、東宿泊棟、体育館である。

逓信省時代から引き続く、エリートの香り漂う設計。
無難なデザインで良しとはしませんよという姿勢が感じられる。

コンクリートブロック造の平べったい小講堂は、ぐるっと回った庇によって、痛みが見られない。
東宿泊棟の角は、コンクリートが露わされて、逆に引っ込められている。
空から眺めると「井」の形になっているのだが、10年前に解体された西岡の施設も類似のデザインであった。
上半身は和風の味付けの体育館、腰下はコンクリート板仕上げとなっており、屋根から落ち溜まる雪から室内を守っている。
コンクリートの冷たさがそのまま内部に伝わるようなミスは、絶対に無かっただろう。

施設を取り囲むスチールの柵、この柵にもデザインの細やかさが光っていました。
あくまでも控えめなデザイン、しかし細部を見つめれば見つめる程、引き込まれていくのです。





・1963年 第2三谷ビル 中央区南1条西6丁目   設計 岡田設計

   
 北面  西面

昭和のクラシックビルもどんどん消えていく。
役所や学校などの設計を得意としていた岡田設計が、民間のテナントビルを手がけた。
やはり、北面の路面電車の通る南1条側のファサードが一番の見せどころである。

   
 北面詳細  裏口の南面

ガラスをはめ込んだアルミのフレームを吊り下げて、軽快で美しい壁にしてみよう。
だから、下から見上げた室内には、がっちりした鉄筋コンクリートの柱と梁が透けて見えるのです。
竣工当時なら、このデザインにしてみたいという設計者の狙いもなかなか理解してくれなかったのではないだろうか?
こんなデザインが美しいって?なんか骸骨模型みたいだな・・・。
ビルの外壁というものは、タイルを貼って重厚に作るものじゃないのか?そしてそれが、北国の風土にも適っているのじゃないか、と。
最近でこそ、床スラブも透かせて見せ、足元から全てガラスで丸見え状態のビルも多いが、札幌での元祖は第2三谷ビルだったのではないだろうか?

     
 階段踊り場の階数表示サイン  1階廊下の集合ポスト  フロア案内板

各フロアのペンキ仕上げの廊下には、小さな雑貨屋や中古レコード店、事務所などが並んでいた。
お目当ての店にドアを開けて入るという行為が、何ともいえず懐かしい心温まる気持ちとさせてくれたものだった。




・1961年 宮本ビル 中央区南2条西1丁目   設計 不明

     
 北西角の正面  北面のサインがかわいらしい  玄関

宮本ビルも亡くなりました。
外壁にパネル貼りされる前の竣工当初の外観がとてもカッコ良かったはずなのですが、写真もないし、どんな風だったか思い出せません。
そういえば確かバブル時代に、このビルの地下1階に「CAFE ZINC」という喫茶店がありました。
床も壁も天井もコンクリートむき出しで、真っ黒いテーブルとイスだけの空間でした。
古びたビルの中に最先端の喫茶店が対比的にあったこと、そうした意外性に惹かれました。

     
 階段室  謎な配置の男女トイレ  喫煙スペース

昭和のビルには、例外なく手抜きなしの階段があります。
施工の面倒なところであり、まじめに工事をやったかバレる場所でもあります。
ここにお金をかけたかどうかで、施主がどのような人か推し量ることもなかなか趣き深いことでした。

宮本ビルは共用廊下の壁が塗りなのか吹き付けなのか、ザラザラとした仕上げとなっていました。
オリジナルのままかどうかはわかりませんが、職人の手間跡の残る、ひび割れひとつない美しさに見惚れてしまいました。
そうした廊下の片隅でタバコをふかすことのできる幸せ、ここなら一層美味かったことでしょう。



・1928年 三谷牧場のサイロと牛舎  西区発寒8条13丁目1



札幌建築鑑賞会の中村祐子さんからメールが届く。
添付写真を開けば、三谷牧場のサイロと牛舎が解体されている様子の画像であった。

私の通った小学校は三谷牧場の隣にある札幌市立西小学校で、その時にはもう牧場経営はしていない敷地で自由に走り回ったという記憶がある。
学校の周りには、この三谷牧場をはじめ、発寒木工団地の工場群、函館本線を越えれば豊平製鋼を代表する発寒鉄工団地の工場群があって、写生会のネタには事欠かなかった。
レンガ造のサイロや牛舎は、緑を背景としてレンガの壁に白い目地と窓枠を浮き立たせて描けば、おおきな失敗はしない。
しかし、モクモク煙をはく煙突や外壁にウネウネ絡みつくダクトのある鉄工工場、木の切断にブンブンうなる機械音を出している窓に冬対策のビニール目張りをしたブロック造やモルタル塗りの木工場を描くのは難しかった。
だいたいにして、すす汚れた雰囲気やくたびれた建物の様子をさわやかな青空の下で描くというのは無理なのですよ、先生。
しかし、早熟な生徒というのはやはりいるものでして、どんより曇った空に傷んだ外壁の工場からうつむいて憂鬱そうに出てくる作業員の姿などを描くのです。

それを見て、今まで描いた画用紙を破り捨て、早熟バージョンを描いてみるのですが、どうしてもダルい感じにならない。
中途半端の状況で写生会の時間は終わり、私は欲求不満分子になっていた。

しばらくしたある日、朝の会で先生が、早熟君の絵を小学校コンクールに出してみたら最優秀賞をとったと、うれしそうに報告をした。
私は立ち上がって、先生の勝手な行動に抗議した。
何人かが、援護射撃をしてくれた。
早熟君は申し訳なさそうに小さくなっていた。



というような事を思い出しながら画像を見ていると、?マークが点灯した。
レンガ造と思っていた牛舎は、鉄骨造でブロック壁にレンガを貼っていたのだろうか?
確かこの牛舎はレストランに改修されて使われていたので、その時の改修跡なのだろうか?

さっぽろ・ふるさと文化百選の建物に選ばれていた、このサイロと牛舎。
そのプレートによると、建築年は1928年とある。
時代からして、鉄骨造なんてことはないですね。



2017年の解体

1974年 T邸 中央区宮の森1条14丁目   設計 アトリエブンク

   
 竣工時 1974年  解体中 2017年

ホッケン研の訪問取材ターゲット先であったのに、手遅れとなってしまったT邸。

湿地帯にある遊歩道のようなアプローチを玄関に引き込ませている。
外壁面には、アプローチの反転形がそのまま映しこまれてる。
水面の光る細い川をちゃぷちゃぷ歩くがごとく、壁面を歩く私の姿を想像してしまう。

この住宅は、どうして外部に対して閉じていたのか。
私の想像が、その謎を解いてくれた。
どうせなら小さな2つの窓も無くしてくれれば、もっと早く、遊歩道と光る小川だったのだと気がついたのに・・・。

この直方体の内部は、上がったり下がったりを繰り返すスキップ空間が展開していたらしい。
小野氏から送られた解体中の写真を見てみれば、その断面を拝むことができ、せめてもの願いが叶った。
ホッケン研の諸君、来年からは躊躇なく玄関ベルを押そうではないか。

モノクロ写真(アトリエブンク作品集 1970−1983)より



・通称 樺太団地  北区北26条西3丁目

     
 解体中の2棟  正面より最後の姿  現在も残る最後の1棟

戦後、樺太からの引揚者のため、この辺りに引揚者専用住宅が建てられた。
それがどんな建物だったのかわからないが、1961年から鉄筋コンクリート3階建の市営住宅「幌北団地」に建て替えられて多くの人が移り住んだと言われている。
23棟あった団地は10年ほど前から取り壊しが始まり、残り3棟となっていた。
樽川通に面していた2棟の団地は北26条中心街と呼ばれ、1階に個人商店の連なる下駄履きスタイルで、印象深かった。
市主導で商売を奨励したのか、商売をしたい引揚者のために機会を設けてくれたのか。
この2棟も取り壊しが完了し、残すは1棟となった。



・南円山派出所  中央区南9条西22丁目


南9条通と環状通の交わる交差点にあったかわいらしいRC造円形の交番。
現在、ホーマック旭ヶ丘店のある場所には、札幌初のマンションである旭ヶ丘マンションがあったのだが、住人はさぞかし安心しただろう。
窓から飛び出た煙突にもプッと笑ってしまうが、ちょっとトイレ貸してねと、気安く入りやすい雰囲気がある。
交番と公衆便所を一緒に語ると怒られそうですが、こんな形の公衆便所も植物園内にありますね。















・日本出版販売北海道支店  中央区北1条西13丁目

     
 北1条教会と共に最後の撮影  正面  イモ積みのレンガ塀

1980年、元々アメリカ領事館のあった場所に日本出版販売北海道支店の社屋が建設された。
設計を担当した上野建築デザイン事務所は、高さを抑えて平べったい形にし、アメリカ領事館の解体で発生したレンガと米沢レンガ工場の古い窯の解体材を混ぜて塀に使ったという。
恐らく、庭木のいくつかも領事館時代からのものであったのではないだろうか?
上場企業の社屋というものは高さを競うはずだという凝り固まった考えを見事に打ち砕き、解体材を活かすことで真新しい建物に延々と続く時間性を付け加えた。
この建物に第1回札幌市都市景観賞を与えた札幌市、なかなかやりますねえ。

目立とう精神がはびこっていた時代に、こんな落ち着き払った建築が生まれるということ。
建築デザインというものは、やはり捨てたもんじゃないと再認識させられるのです。
日販の最後の姿をながめていると、隣に建つ1年先輩の北1条教会に「一足先にいってます。」と話してるように見えたのでありました。


2016年の解体

・土田歯科医院  北区新琴似2条1丁目1−53

     

琴似栄町通りを走っていると、どうしても目に入った歯科医院。
片流れスタイルの形が、母屋、医院、裏の物置小屋それぞれに繰り返し現わされ、見ていてリズム感の沸いてくる建物であった。
軒の出が意図的に厚くデザインされており、その点が低音の響きを感じさせるのであるが、こういうものもまた趣のある印象であった。

某パチンコ店の駐車場の中でポツンと佇む姿はちょっと寂しいものがあったが、ぐるりと邪魔者なく見渡せるという得難い体験をすることができた。



・北陸銀行札幌行員クラブ  中央区大通西15丁目  2016年春解体

   
 竣工時 1973年  朝まで飲んだ帰りに撮影 2014年

北陸銀行の行員クラブとして建てられたのが、1973年。
北陸銀行札幌支店(1966年)と同じく、北海道日建設計によって設計された。
海老茶色のタイル張りは札幌支店と共通する(本当に同じ材料かどうかは未確認)が、でこぼこの多いデザインが70年代の空気をプンプンかもし出している。
1階から6階まですべて窓の種類を変えるというやり方は、モダニズム建築にケンカを売っているように見える。
このような外観になるべき必然性…を気にしてしまう事、そんな事は時代遅れのおっさんの発想として切り捨てられたか、それとも難しい建築哲学があるのか、私にはわからない。

いつから持ち主が変わっていたのか、解体時は宗教法人願海寺 龍雲閣研修道場となっていた。

モノクロ写真 (「ARC74」北海道建築設計監理協会 1974年)より



・可否茶館円山店  中央区南5条西27丁目1  2016年2月解体

「ねえ、覚えてる? あの時言ってた天窓のある喫茶店の話。」

「北の国から’89 帰郷」で、上記セリフの舞台となった可否茶館 円山店が取り壊された。
山晃ハイツ円山というマンションのはなれに、倉本龍彦氏により1986年の設計で建てられた。

マンション解体時も、この建物だけは少しの間だけ残されていた。
ひょっとすると、この部分だけ残されるのか?
いや、ファンのためにしばらく解体猶予しているのか?
そんな疑問は、数日後に始まった解体工事とともに消え去った。

「純とレイちゃんが過ごした2階の窓辺の席からは、円山墓地が見えるんだ。」
テレビドラマを見て、実際に行ってみた友人カップルは、そう言って笑った。
「ふうん。」と気の無い返事の私は、一緒に行く女の子がいなかったという事を差し引いても、実際に興味がなかった。
今もそうなのだが、ブームをあおる情報に気安く迎合することに抵抗していたのである。

しかし、取り壊されそうになれば、そんな建物も記録しなければならぬ。
ついに1度も入ることのなかったお店の天窓に雪が積もっているのが見えた。
営業中であれば、窓の放熱であの雪は解けるだろう。
しかし、サッシの能力を超えた雪解け水が室内に悪さをしたと伝えられている。

天窓をやってみたいという施主と設計者は、もしかしたら雨漏りするかもしれないという危険を承知しながらも突き進んだ時代である。
そんなことを気にしていたら、素敵な夢ある空間はつくることができない。
雨漏りは、発生してからその対処法を考えよう。。

あの時代、少数派ではあるが、このような考えがある程度の力を持っていた。
無謀な直球では困ってしまうが、そのような気概を忘れたくないものである。










2015年を振り返る

間もなく2015年上半期を終える。
今年消えていった心に残る素敵な建物たちをここに記録する。
春は解体の季節。
解体シーンを見逃さないように気を張って、疲労するのである。

・岩井 関口法律事務所  中央区大通西14丁目  2015年2月9日解体

上遠野先生が鉄骨住宅を設計された以降、その類似品が札幌市内にいくつかあらわれた。
この弁護士事務所は、そのうちのひとつであった。
上遠野先生以外にこのデザインをやってはいけないという法律は、ない。
ないのだが、他の方の設計では、洗練度がイマイチなのである。

しかし、そのような物件であっても、ひとつの時代を十分に物語ってはいる。
かえって、こういう物件にこそ記録魂が燃えるというものである。












・1969年 市立小樽病院  小樽市若松1丁目2  2015年3月解体  設計 久米建築事務所  施工 佐藤工業

       

でこぼこのアクセントに富んだ外観の市立小樽病院は、久米設計の手によるもの。
透かせた5層部分が薄い壁にサンドイッチされているところがお気に入りである。
つやつやのエンジ色タイル仕上げが何とも艶めかしい。
60年代の久米設計は、たまらんです。

裏へ廻ると、コンクリートの塊がでんと居座っている。
スチールサッシと外部階段の手すりが錆びて寂しい感を盛り上げている。
「建物上部からの落下物に十分に、注意願います。 病院長 」という看板が、登ってみようとする私を思いとどまらせる。
階段を崩し壊しながら登っている私の姿を妄想してしまうのである。



・1964年 旧菱和自動車ショールーム 北海道三菱自動車販売南支店  中央区南10条西10丁目2−23  2015年4月8日解体  設計 栄建築設計事務所

     
1964年 竣工時 (「春の雪 栄米治遺稿と追憶の日々」より)  在りし日の姿  2015年4月 解体準備

明治37年生まれ、旧東京美術学校建築科を卒業後、樺太庁技師から北海道電力土木部建築科を経て、栄建築設計事務所を立ち上げた栄氏60歳の作品である。
頭のボリュームの大きさとそれを支えた鉄骨の三本足に惹きつけられ、記録だけはとっておいた。
ある日、栄氏の追悼誌に掲載されていた作品年譜にその竣工時の写真を見つけた。
だいたい、増築・改修工事というものは、オリジナルの魅力を殺してしまうようだ。

     
東面  北から正面のお顔  門のサインデザイン

東面から眺めると頭のボリュームは片流れ屋根になっている。
跳ね出した頭を支えた姿は栗谷川邸からのインスピレーションかなあと、もともとはこの姿に惚れたのである。
しかし、東面の片流れと西面の四角い立ち上がりのつじつまをどんなふうに処理されていたのか、確認をしないままであった。

正面のお顔は、旧札幌市民会館に似ている。
コルトの立て看板は平らでなく、でこぼこにデザインされているが、ここにも旧札幌市民会館のディティールが見て取れる。
栗谷川邸+旧札幌市民会館かと簡単にまとめてしまえば、天国の栄氏に怒られてしまうかも知れない。



・藤田興業?  中央区宮の森2条10丁目4−8   2015年4月9日解体

   

北1条通を走っていたら、藤田興業に重機が入っているのを見て、「ヨッシャー!」と奇声を上げてしまった。
「保存」より「解体」、「再開発」より「解体」、まずもって解体の瞬間が見たいのである。
いや、正しく言うと、「変な保存なら解体!」を、「つややかさを失った古建築なら解体!」を求めてしまうのである。
そして、その歴史的瞬間に立ち会い、記録したいのである。

         

何の会社かと思っていたが、ゼネコン下請けの土木基礎工事会社の作業員寮だとわかった。
拓銀破たんの3か月前、1997年8月に倒産したということである。
だからこの建物は、18年間放置されていたものと思われる。
宮の森の1等地に400坪はあろうかと思われるこの敷地を一体誰が持っていたのか、そして誰が買ったのか?
せめて、これから何が計画されるのか、今後を見守りたい。



・月寒東小学校  豊平区月寒東3条10丁目1  2015年4月16日解体

・北海道造形デザイン専門学校  中央区北2条西20丁目  2015年4月解体  設計 上遠野建築事務所

日産ディーゼル北海道販売 札幌東支店  厚別区厚別中央2条2丁目1  2015年2月解体  設計 上遠野建築事務所



2014年に解体されたビルの記憶

今年も昨年に引き続いて解体の進んだ年であったが、特に印象に残ったのはお気に入りのビルが失われたことであった。

・東宝公楽ビル  中央区南5条西3丁目

ある日、東宝公楽ビルの解体場面に出くわした。
むき出しになったコンクリートの梁に目が釘付けになった。
あそこには、札幌クラブハイツがあったのである。

1,060?の無柱空間は、あの巨大なコンクリートの梁で実現されていたらしい。
柱の無い大空間は、クラブやキャバレーの大物オーナーに涎を垂らさせた。
しかし、この構造が、現在の耐震基準に引っかかってしまったとも伝えられている。

   
 太い梁...  解体完了


・1962年 北1条ビル  中央区北1条西5丁目  設計 山下寿郎建築設計事務所 

いわゆる、端正なレトロビルであった北1条ビル。
隣のろうきん本店ビルとつながっていたという。
解体時、ろうきんビルとくっついていた壁は部分的に壊れながらも何とか剥がれたが、耐水両面テープの痕のような黒い面が現れた。

両面テープでの施工が耐震基準に引っかかってしまったという噂は、聞いていない。

   
 在りし日の姿 (Googlemapより)  解体完了 (ろうきんの壁が部分的に黒い)



・美松ビル  中央区南8条西14丁目

ついに解体の始まった美松ビル。
いくつかテナントの入退去が繰り返された後、空きビルとなって施錠された。
階段室がどうなっているか気になっていたが、入ってみればなるほど、狭い窓間隔のところは踊り場であった。

まだ入れた時に撮影しておいて良かった。

     
 札幌銀行時代  解体開始  美しく光の入る階段室

特に覚えておきたい3物件である。     2014.12.29



同時期に解体された2つの住宅に共通する恐るべき和洋折衷度合い

・1954年 桂田邸 札幌市中央区南6条西26丁目2−12 
・1930年(?) 荒谷邸 札幌市中央区南9条西8丁目

「桂田邸解体へ」という新聞記事が出た。
この建物は、北大初の女性教授桂田芳枝さんの住宅として昭和29年に建てられたと伝えられている。
桂田先生が亡くなられた後、1988年にレストランへ改装された。
私の学生時代、デートの定番スポットとして、そしてバブル景気の裏参道エリアのお店として大変賑わった。
上げ下げ窓の連続した洋風部分とその後ろに控えた和風部分が絶妙に組み合わさり、これぞ和洋折衷の魅力と理解していた。

しかし、後になってその洋風部分はレストラン改装の為に増築されたものだという事を知り、恥ずかしい勘違いに顔が真っ赤になった。
「昭和初期の和洋折衷住宅のレストランへ行こう。」と、ツウを気取っていた私の過去を消したいと思った。
だから私の場合、実はあまり触れたくない建物であった。

今になって見れば、その和洋の組み合わせぶりはあまりに無茶である。
和風の住宅のままレストランをやっていても良かったのではとも思う。
この桂田邸の場合、解体を惜しいという気持ちは建物そのものに対してというよりも、懐かしい記憶が失われることへの寂しさにあるのであろう。

     
 「桂田邸」 2014年2月7日  2014年4月7日  2014年4月11日 桜の木は立ったまま

この「桂田邸解体」と同時に、その陰でひっそりと無くなった建物がある。

札幌市民交響楽団初代常任指揮者であられた荒谷正雄氏の住宅である。
この荒谷邸もなかなか悩ましい外観で、私を苦しめた。
一見、ドイツ風とも見える洋風の外観なのだが、玄関には寺院風の破風に懸魚が付いている。
この混ぜ合わせ方は、和洋折衷を超えたアバンギャルド、いやアナーキーである。
しかしもちろん、荒谷正雄さんの人となりは札幌が誇るべき立派な紳士であり、建築テロリストではない。

では一体、このデザインは何なのか?
解体工事の昼休みに入らせて頂いた際、その謎を解く手がかりとなる昭和初期の電話帳を見つけた。

荒谷さんの電話番号の横に「陶器商」とあるではないか。
つまり、和陶器屋を営んでいた先代がこの和風住宅に住み、音楽の道へ進んだ息子の正雄氏が後になって洋風へ増改築した。
しかし、父の破風と懸魚を形見として遺した、と読んでみた。   2014.4.15
  

       
 「荒谷邸」 2014年4月6日  玄関の破風と懸魚  2階 教室  増築部は北海ハウジング つまり1976年以降となる

   

見逃していた洗面所と風呂場に残されていた九谷焼タイルの飾り。
併設の蔵にもお椀がたくさん残っていたし、先代の荒谷金之助さんが陶器商だったというのは、間違いなさそうだ。
(写真提供 札幌建築鑑賞会 中村祐子さん)


2013年は2003年に次ぐ解体ラッシュになる予感

2003年は、円山をはじめ各地域のお屋敷が随分と失われた年であった。
新築マンションの建設が好調で、大きな敷地のある住宅がピンポイントで狙われたのである。

その後、しばらく続いていた落ち着きも2013年に入って俄かに騒々しくなった。
無理に煽られている経済状況が影響しているのだろうか?
苦手な政治経済に触れることなく、とにかく記録だけを淡々と継続する。



・1926年 道立文書館分館  札幌市中央区北1条西5丁目1−2  設計 北海道庁建築課

「道は12月18日、道立文書館分館を菓子製造販売の「北菓楼」へ売却することを決めた。」という新聞記事がでた。
外観の意匠を残しつつ再生させる事、という売却条件が発表されて以来、その行方を見守っていたが、記事を読んでほっとした。
この企画が頓挫して解体されるようなことになれば、いやそれよりも、とんでもない外観に改修されて残り続けるのではないかと心配で夜も寝られなかったのである。

   
 現在の姿 (ウィキペディアより)  完成予想図 (北海道新聞 2013年12月19日より)

主屋の屋根は取り除かれ塔屋にはピラミッド屋根が復活する。
この姿こそ、設計時に実現したかった外観であるに違いない。
積雪問題に対処した結果、主屋は勾配屋根で完成、塔屋は後になってから改修してピラミッドを撤去した。
この辺りのいきさつは、ぜひ研究者の発表を待ちたい。

ところで、北菓楼の「楼」とは、高い建物や遊女屋をも意味する。
再生の設計の狙いが、こっちの方向に進まなくて良かったと胸を撫で下ろす。
解釈を誤ると、塔屋の上に時計塔を付けるとか雪ダルマを乗せるとか、はたまた寺社風の屋根を被せるとかになっただろう。

再生の設計担当者と北菓楼さんは、オリジナルの姿に敬意を払う良心の持ち主であった。
しかし、まだ安心はできない。
計画通りに完成するまでは。




・1951年 丸一斉藤ビル  札幌市中央区南1条西2丁目  設計 竹中工務店北海道営業所(当時)   施工 山口建設

  「丸井今井一条館西ビルが10月いっぱいで閉鎖、来月より解体」という新聞記事がでた。
 元の丸一斉藤ビル、丸井に譲渡されたあともそのまま活用されていた。
 丸井さんもこのビルが美しいと理解されていると聞いたことがあるが、遂に取壊の判断をしたようだ。
 昭和20年代の建築がまたひとつ消えてしまう。

 このビルの建設当時は、本州企業の札幌支店ビルか官庁建築がポツリポツリと建つ程度。
 そんな戦後の物資不足の時代に、札幌の会社が鉄筋コンクリートのビルを建てた。
 きっと、札幌市民に復興の自信を与えてくれたに違いない。
 しかもこのビルは、オーチスのエレベーターがついた贅沢建築であった。

 以前、そのエレベーターが今でも動いているのかどうか確認しに行ったことがある。
 恐る恐る呼出ボタンを押すと、「チーン!」という大きな音が上階から聞こえてきた。
 見上げてみれば、階数表示板の針がぶきっちょに左へ動きだすではないか。
 その針の動きに合わせて、箱がゴトンゴトンと揺れながらゆっくりと下りてきた。
 その箱と共に現れたエレベーターのオールドガールが白手袋で蛇腹式の扉を開きながら、「何階でいらっしゃいますか?」と聞いてきた。
 自動運転と思い込んでいた私は、しどろもどろに外へ飛び出した。
 







 ビル閉鎖10月末日のおしせまったある日、最後の姿の確認に行ってみた。
 しかし、「停止中」という札の付いたエレベーターは、もう動いていなかった。
 
 その夜、熱が出てうなされた。
 夢の中に、このエレベーターに乗せてもらおうと考えている私が登場した。
 素直にお願いをすれば、きっと乗せてくれるだろうと企んでいるのである。
 呼出ボタンを押すと、針が動き出して箱がゆっくり下りてくるではないか。
 願いが叶ったと手を打って姿勢を正した。
 白手袋が蛇腹の扉を開く。
 全て順調に事が進んでいた。
 例のオールドガールに話しかけようとして口を開いたまま、私の体が固まった。
 
 その女は、小学生だった私を捨てて行方不明になっていた私の母だったのである。
 
 「・・・母さん。」
 女は少し黙った後に、「私には、息子などありませんよ。」と言い捨てて、再び上っていってしまった。
 非常階段で追いかけようとする私の足がどうしても動かない。
 というところで目が覚めた私は、ベッドと壁の隙間に挟まっていた。
 

 昨晩、寺山修司の映画を見たのが良くなかった・・・。
 




・1978年 M氏研究所  札幌市中央区北3条西26丁目    設計 画工房    

   
 在りし日の姿  2013年9月

豊嶋守氏のデビュー作、M氏聴覚研究所が取壊された。
この建物を見ると、一筋縄では理解出来ない白井晟一氏をどんな風に料理されたのかを想像してしまい、興味が尽きなかった。

この建物が建てられた1970年代における建築を志す若者の気分とは、一体どんな感じだったのだろうか?
いわゆる新しい戦後教育を受けた世代には、既成の体制に反抗する熱い方々が多い。
彼らにしてみれば、高度経済成長期を通して見てきた戦後モダニズムの街並というものは、合理過ぎ、堅苦しく、遊び心の無いものと映っていたに違いない。
その頃にはモダニズムの可能性も出尽くした感が蔓延し、薄汚れたのっぺらぼうと見られたビル街は、それまでの歴史的建築と調和が取れていないと批判にさらされ始めていた。

当時の若者は、モダニズムをしてそれを乗り越えるべきもの、乱暴に言えばぶっ壊す対象としていたのではないか?
時代に乗って、内向した建築をはじめる者、過去の歴史様式をモチーフに再構成しはじめる者、見たことも無い形を表現しはじめる者達が現れ始めた。
札幌に於いては1969年に住宅金融公庫が木造住宅にも適用され、それまでの画一的な三角ブロック住宅に対する欲求不満を爆発させる土壌ができた。
これらは方法の違いこそあれ、70年代の本流になりつつあった。
新たな世代による既成建築業界への逆襲の気分が、当時の若者達の心にあったに違いない。

そのような歩みを進めた建築史において、モダニズム全盛時代もその終焉の時代においても、われ関せずを決め込んだ白井晟一氏。
メインストリームに背を向けた人に影響を受け、デビュー作でそれをやってしまった豊嶋氏とはどんな若者だったのだろう?
M氏研究所は無くなってしまったが、今度豊嶋先生にお会いできた時に当時の話をお伺いしてみよう。


ところで、時代が80年代に入り、一部の建築が消費と結びついて、忌まわしくその存在を主張した。
私は、自分の青春時代に狂い咲いたポストモダニズムを未だに憎んでいて、そしてまだ客観的に見ることができないのである。




・1928年 柏岡宅  札幌市中央区南5条西22丁目2−3

   
 2013年8月5日  2013年8月6日

円山の柏岡邸が解体された。
戦前の瀟洒な住宅が多く残っていることでこの地区特有に感じられてきた歴史の重みは、これでもうほとんど無くなった。

昭和3年に建売住宅として建てられたというこの柏岡邸。
今年の大雪で致命傷を負ったらしい。
断熱材の無かった時代の住宅の内部はどうなっているのかと覗いてみた。

   
   天井にポリフィルム?




・1964年 純喫茶 声  札幌市中央区南1条西9丁目


昨年暮れ、48年の歴史にピリオドを打った「純喫茶 声」。
開店当時は、札幌市内で4日に1店がオープンするという喫茶店戦国時代。
片方では、お座敷喫茶・同伴喫茶・ゴーゴー喫茶が幅を利かせていた。
5年もてば老舗の仲間入りという業界で、48年も続けられたのには驚きである。

和田義男氏の「札幌喫茶界昭和史」によれば、喫茶店経営の4要素は?コーヒーの味 ?室内のムード ?音楽 ?軽いエロ であるという。
私は3度ほど入らせて頂いたが、この4要素があったかどうか・・・、わからないけれども、印象に残っているのは食事メニューの多さであった。

スパゲティーナポリタンが人気メニューであった。
伊丹十三氏に言わせれば、味に貧しい日本人がアレンジした「炒めウドンのケチャップ和え」である。
彼がこの店に入ることがなくて良かったと胸を撫で下ろす。

食後はテーブルクロスを捲って、スペースインベーダーに興じるのがお決まりコースだったらしい。

先日、通りかかったら更地になっていた。
 
 営業最終日の姿 2012年12月21日




・1971年 明治生命ビル 札幌市中央区大通西3丁目  設計施工 大成建設

  1971年生まれ、私の同期である旧明治生命ビル。

数年前、このビルの解体方針が決まり全テナントが退去をすませた後も某クリニックが残り、夜は11階にのみ照明が点くという状態が続いていた。
人の寄り付かなくなったこのビルに浮浪者が棲みついた。
竣工当時、近未来的なデザインであっただろう1階ピロティの隅っこが、彼らのねぐらとなったのである。
一昨年の春、遂にそのクリニックが退去するとともに気温塔と1階部分が囲われた。
豊平橋を追われ、伊藤邸裏のJR高架下を追われ、最後にここへ辿り着いた彼らは、またも追い出されることとなった。
彼らは今、一体どこにいるのだろうか?


それから更に2年が経過し、遂に解体が始まった。

このビルの設計施工は、大成建設。
この度の解体工事も大成建設が請け負っている。
寂しい解体現場でありながら、その最初と最期を同じゼネコンが請け負っている姿を見て、何と素敵な事かと唸った。
 在りし日の姿  2013年7月



・1976年 アトリエインディゴ 札幌市中央区南4条西18丁目2−22  設計 竹山実建築綜合研究所

   
 竹山実・建築録(六耀社 2000年)より  営業最終日の姿 2013年3月31日

我等が故郷の札幌から世界を舞台に活躍されている第1号の建築家、竹山実氏。
氏がアメリカやデンマークで巨匠の建築家やインテリアデザイナーから様々な吸収をし、日本に戻られたのが1964年。
新宿の1番館や2番館で華々しく注目された所で体に不調をきたし、札幌へ戻られた。
地元での仕事場として生まれたのが、このアトリエインディゴであった。

   
 2013年の大雪を乗り越えたのに  2013年7月1日

一見、真っ黒に塗られた木造に見えるが、実は8.8m角の多目的スペースを無柱空間で実現するため、RC造となっていた。
この黒く塗られた外壁は15cm角の松材で、ただ積み上げただけで完成したという。
後年、様々な活用のされ方をした建物であったが、入居者が寒さに震えていたのは、もしかすると木が積みっ放しで無断熱だったからなのか?
それを解体現場で確認してやろうと頻繁に通っていたのに、ちょっと気を抜いたところで真皿にされてしまった。



・1981年 K邸 札幌市豊平区福住2条2丁目3−12  設計 アトリエブンク

   
 道路側  庭側 (アトリエブンク作品集 1983年より)

福住の富裕層エリアにあった住宅である。
道路側は、大きなアールを描いた野ぺら坊の外観。
それに対比させた南の庭側は、深い彫りのカクカクした開口が連続し、大変印象的であった。
業界中央から影響を受けたスマートな若々しいセンスが初期アトリエブンクの持ち味で、このような姿勢を持った設計事務所は当時の札幌では珍しかったのではないだろうか?
これから80年代の作品の探索を始めようとしていた矢先に起きた解体事件。
全く油断も隙もあったものではないと、記録魂に火が点いたのであった。



・大正12年頃 森永製品北海道販売?倉庫  札幌市中央区北2条東3丁目2−1

     
 往年の姿 (「札幌の建築探訪」北海道新聞社より)  2009年8月 屋根塗替え  2013年5月1日 解体

北3条通りに建っていたレンガ倉庫。
2009年に囲われた時、最期の姿になると覚悟したが、トタン屋根の塗替えであった。
まだ大事に使うのかと安心仕切っていた所に、事件は突然やってくるのであった。


・1930年 円山時逍館  札幌市中央区南5条西21丁目1−5

懐かしい建物が解体され、その後の風景が味気無いものになると歯軋りをしてしまう。
その建物にある美しい手作業の跡をうっとりと時間を忘れて眺めるのも楽しみが尽きない。

いつまでもその場所に残って、その土地の歴史を匂わせて欲しいと願わずにはいられない。

しかし、それを無理に残そうとするとおかしな事になることが多い。
一部保存の方法に素敵な例を見たことは無い。
喫茶店や商業空間等への活用をするという方法で残しても、それはどうも違うのではないかという気分を拭えない。


だから、耐久的な寿命や、その建物の運命が来た時、素直にその最期を見届けたいと思う。

 息子たちと 2013.3.29

しかし、それでも尚、「残すべき建築」というものがあるという。
「残っていてほしい」とか「残したい」とは、ニュアンスが違う。
断定の言い方が、積極的な深い理由が存在していると考えさせられる。
そして、そのまま裏を返せば、「素敵なのに残らなくても全く構わない建築」があるとも受け取れる。

「残すべき建築」とは一体どんな定義で、そして札幌にあてはまる建物があるのなら、どの建物になるというのか?
これがはっきりすれば、すっきりきっぱりとお別れできる建物もあるという事になる。
確かに「懐かしいから壊したくない」という気持ちだけでは説得力が無いし、古けりゃ何でも残すのかと問われれば、確かにそうではない。
こんな悶々とした気持ちに整理が付くのではないかと、松隈洋氏の「残すべき建築」という一冊を手に取った。
しかし、残念ながらその中に納得できる回答は無かった。


恐らく「残すべき建築」なんて無いに違いない。
残す事を目的にした途端、その建物が色褪せていくのを見るのは辛い。
生々しく使われていることに色気が宿るのであって、それを大事に住み続ける住み手の人となりを想像するのが楽しいのである。

もしも、ほんの少し希望のもてる答えがあるなら、ただひたすら記録して時代の象徴を切り取り、記憶を残し続ける事に違いない。 2013.5.14

     
 ?2013.3.29  ?2013.4.29  ?2013.4.29  ?2013.4.30
       
 ?2013.5.7  ?2013.5.7  ?2013.5.8  ?2013.5.9

まだまだ解体の危機にさらされている建物は多い。
今年は一気に街の様子が変わるかもしれない。   2013.7.14



羊肉をめぐる冒険

老舗のジンギスカン店で食事をすると、とても気分が良くなる。
特に美しい景色を眺められる年季の入った店で、ビールを飲みながらゆっくりと過ごすのがよろしい。

その1
2007年6月30日を以て50年の歴史に幕を下ろした「宮の森ガーデン」。
15年程前に一度きりしか行くことは無かったが、そのタイムスリップ感溢れる雰囲気に、私のノスタルジック趣味が大いに刺激された事を思い出す。
もっと当時の記憶を呼び覚ませはしないかと、在りし日の画像を入手した途端、奥の赤い三角屋根の建物に目が釘付けになった。



最近知った昔話に、「1965年に金本正という方がススキノにビルを新築。その設計は田上義也氏。」というものがある。
金本氏の正体を紐解くと、「宮の森ガーデン」創業オーナーというではないか。
この赤い三角屋根もそうであると確信を持つことは早合点の恐れがあるが、もしかするともしかするぞと思われてくる。

ジンギスカンを食べることに夢中で、建物に注意を払わなかったあの時の自分をただひたすらに恨む。
あそこの1階で緑の庭を眺めつつ、気持ちの良い風に吹かれて食べていた筈なのである。          2013.4.3



◆「札幌クラブハイツ」さようなら



この世に残ったたった一人の証人が静かにその幕を下ろす時、その最期に立ち会いたいというのが私である。
日本に残る最後のグランドキャバレー「札幌クラブハイツ」が、2013年2月末日を以て創業43年の歴史にピリオドを打つという。
同時代に生きたものの証として昭和の残り香を体験しておかねばならぬと、財布を膨らませて出発をした。
御賛同頂いた同行者は、松林常与氏(仮名)65歳と八村明氏(仮名)36歳である。

 入店した時の様子

勢い余って店に一番乗りした我々は、ステージ前の一等席に座らされた。
「ホステスが来るまで30分ありますので、それまでは男同士で飲んでいてください。」と黒服が笑って戻っていった。

 店内を歩き回って

真っ赤なチンチラソファに身をうずめ、金メッキのスチールパイプを触りながら、黒い天井から無数にぶら下がりながら妖しく光る透明アクリルに目を凝らす。
席を立ちステージの方へ緩く傾斜した1千?の無柱空間を歩き回っているところへ女性達がやってきた。
ベテラン、準レギュラー、満席の時だけ呼び出されるヘルプのホステス3人が我々の席についた。
向こう側では、最古参の30年選手が和服姿で常連らしき客の相手を始めた。
指名をすれば昔話を聞けるかも知れない。
指名料は幾らくらいなのかと考えていると、「頂いてもいいですか?」と隣のホステスがつぶやいた。
何を飲むのかと聞けば、氷の入ったグラスを差し出して「ビール」というではないか。
我々の残した温いビールをアイスビール「アイビー」として蘇らせるのだという。



ステージが始まって照明が落ちると各テーブルのランプが暗闇に残る。
ホステスがランプのスイッチをひねって緑色に変えると、黒服がビールの瓶を交換しにきた。
後ろのボックスの若い男が、ステージの途中でトイレに立つのはマナーを知らない奴だと上司から諌められている。
そのタイミングで延長するかどうかを問われた我々は、痛い耳を押さえながら店を出た。

野次馬根性丸出しの私は、ついにホステスさんから名刺を頂くどころか自己紹介さえしてもらえていなかったことに気が付いた。  2013.2.21


白石亭解体

   
 2011年夏  2012年冬

私には、それほど見るべき点の無い住宅であったが、広い庭と斜めに入りこんで軽く曲がっていく玄関へのアプローチが魅力的であった。
地域住民の保存運動の甲斐むなしく、10月5日より解体工事が始まっていたらしい。

建築に興味ある者の端くれの私だが、数年前にこの建物の売却話を聞いた時、ほとんど関心を持てなかった。
一体、保存すべき建物とは何なのか?
考えてはならない事をふと思わせられてしまう白石亭の解体現場であった。   2012.12.12

   



コーヒーハウス 「ミルク」

私は高校生時分、ビートルズを初め1960年代の英米ロックやポップソングの鑑賞にどっぷりと浸かっていた。
バブル経済の真っ只中で青春を過ごした筈なのに、トレンディードラマも知らず、流行歌を口ずさむ事も出来ない男であった。
放課後といえば、レコーズレコーズ琴似店へ中古レコードを漁りに行くという3年間を過ごした。

私は音楽の興味の表面をビートルズとしておきながら、裏面では中島みゆきのフォーク時代も愛していた。
私の粘着質の性格は、その頃に培われたのかも知れぬ。

さて、札幌出身の中島みゆきさん。
彼女の歌に、今も札幌に実在する「ミルク」という喫茶店を舞台にした作品がある。

本日、縁あってその「ミルク」へ行った。
開店から38年目にして、そのお店を少し手直しされたいという。
私は、そのリニューアルのお手伝いが出来るかも知れない。
取り急ぎ、ビフォーアフターのビフォーだけ掲載しておこうと思う。

打合せの間、お店のオーナーである前田氏から70年代の札幌の昔話を沢山して頂き、大層盛り上がってしまった。  2012.8.3

  Maybe it'll come・・・ 
 BEFORE AFTER 



北海道開拓の村に潜む名脇役

昔の消火栓が、北海道開拓の村にひっそりと残っているらしい。
4基だけ大事に保存され、移築されたというのだ。
この消火栓、私の祖父が造ったのだという伝説が、親戚の間で誠しやかに伝えられている。
ならば確認しに行こうと、勇んで出発をした。


現在の札幌市の消火栓は黄色である。

この消火栓は、水色だったようだ。
自分の記憶に残っているような気もする。

現在の消火栓には、ホースをつなぐ栓がある。
しかし、これには見当たらない。
代わりに動物の顔が付いている。

顔を覗き込んでみたら、口に穴が開いているではないか。
蛇口を廻すか、呪文でも唱えれば、口から水が出てくる仕掛けらしい。













この口元に桶を構えて火事場に向かったのだろうか?
そんな事では、あまりに悠長ではないか!?




















家に帰って調べてみると、これは消火栓ではなく上水道の共用栓ということである。
井戸汲から水道に代わり、まだ各戸に供給がされていない時代、数戸の家で共同使用した水の汲み出し口だったのだそうだ。
札幌に上水道が創設されたのが昭和12年。
この共同栓の基礎部分に右横書きで「栓用共寒耐」(耐寒共用栓)と表示されている。
だからこの共同栓は、昭和12年から左横書きが定められる昭和26年までの間に作られたものと思われる。

既に本州の主要都市には、明治時代にイギリスから輸入された共用栓が広がっていた。
上水道普及の遅れた札幌は、そのデザインを元にレプリカを準備したらしい。
そこで、菊水北町にあった鶴巻鋳造からその向かいで木型職人をしていた私の祖父に依頼があったと思われる。

山下家の自慢話として、子孫代々伝えていこう。  2012.5.6




◆建築探偵マネゴト記

まだ住宅の断熱方法に良い技術が無かった頃、トタン屋根を壁まで延長して厳しい冬に対抗しようとした時代があった。
様々な試行錯誤が繰り返された結果、その究極形とも言うべき、ぐるりとトタンで包まれた住宅が完成した。
飯田勝幸(北大工学部助手 当時)先生が設計されたNi邸である。
現存しているかどうか、写真にうつる背景の山々を手掛かりに市内を歩き回った。
果たして、藤野にその建築場所を特定した。

   
 Ni邸 竣工時 1962年  現在 2012年

既にその住宅は無かったが、敷地だったと思しき辺りに横山尊雄(北海道大学工学部 名誉教授)先生の御自邸を偶然発見し、私の探偵心は大いに満足した。

   
 横山邸 竣工時 1963年  現在 2012年 

帰宅して、先述の飯田先生の業績を調べていたら、「ショッピングモール四番街」という写真を見つけた。



その昔、確かに札幌中心街のデパート前の歩道が、白黒2色のタイルで楽しげにデザイン張りされていた。
白を跨いだり、黒い所だけを進んだりと、下ばかり見て歩いた子供の頃の記憶を思い出した。
痛みの出だしたタイルを補修する職人さんの姿を見て、子供心に「大変そうだなあ。」と感じたこともあった。
しかしこの割付デザイン、やたらと既存デパートの寸法に合っている。
現場指示で貼り込んだのだろうか?

(モノクロ写真のみ 「北海道の建築」 日本建築学会北海道支部 1976年より)  2012.2.27



王子サーモン館も解体?



北1西1再開発事業に翻弄されている王子サーモン館。
昨年、遂に解体作業を臭わせる囲いに包まれてしまった。
この建物、昭和24年頃に北海道ホルスタイン会館として建てられた、と伝えられている。
当時は、既に耐火建築として鉄筋コンクリート技術があるのに、この建物はレンガで建てられている。
もしも、戦争が原因の物資不足にその理由があるとするならば、この建物も戦争遺産の建物と考えられないこともない。
戦後の昭和20年代は、特に札幌のような地方都市は復興が進まず、民間企業の建築はほとんど建たなかった。
このような貴重な建物が、我々の目の前から消えようとしている。

開発行為やビックプロジェクトには、大きなカネが動く。
恐らく我々は、歴史の保存より今のカネの方が大事なのだろう。私はカネを恨む。  2012.1.9


トタン屋根の色について

札幌にはトタン屋根の住宅が多い。

私が社会に出た1990年代、ペンキメーカーに勤めた友人がこんな事を言っていたのを思い出す。
「東京の大学出身者は赤、北海道の大学出身者は青が担当の色になるんだ。」
色別に営業担当がいるというのは、部外者にはなんとも理由の分からない話である。
とにかく、赤を担当する一流大学出身者は左団扇で好成績を確保できるという事を意味するのであろう。
そんなに赤と青の需要が多いのだろうかと考えて、ふと、札幌のトタン屋根の事を思いついた。


 
(昭和51年 札幌市北区麻生町) 「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」 より

昔の札幌の空撮写真を見ると、町が赤と青の屋根で覆いつくされているのが分かる。
トタン屋根は明治時代からあるが、昭和30年以降より標準的に採用されて、更にペンキ仕上げとなったらしい。
この町、赤6割、青4割くらいの比率だろうか。
青い屋根も、なかなか健闘しているではないか。

札幌の住宅設計の歴史を読むと、本州式の設計や因習から簡単に逃れたということを頻繁に目にする。
それなのに、屋根のペンキ色については、赤か青かの二者択一の時代を長く引きずった。

私の父は、昭和52年に自宅を建てた際、トタン屋根を茶に塗らせた。
コダワリ派を自称する彼の小さなコダワリだったようだ。  2011.12.4


27年振りの再会

手稲富丘には、ラブホテルが多い。
その代表格が「ホテル太陽」とそれに連なる「ていね山荘」「ホテルオリンピア」である。
1984年、近くの中学に上がったばかりの私は、その妖しきネオンサインの奥で行われているであろう秘め事に想像を膨らませていた。

本日、なんとこのホテルの前に閉館の立て看板が設置されているのを見つけた。
驚いて、最後の姿を記録すべくカメラを構えていると、
「そこで何をしている!」という大声と共に、こちらへ走り来る足音が聞こえてきた。
ホテルのご主人と思しき初老の男性が、怖い顔をして私の方へ近づいてくる。
私は突然懐かしい記憶を思い出し、姿勢を正して彼を迎え待った。

折しもその年に始まったテレビドラマ「毎度おさわがせします」に影響を受け、私と悪友はホテルの窓を覗いてみようという計画を立てた。
そして真夏のある放課後、ホテルの裏山からの侵入を決行した。
しかし、藪を掻き分け、やっとの思いで敷地へ到着した所で事件が発生した。
「そこで何をしている!」という大声と共に、こちらへ走り来る足音が聞こえてきたのだ。
我々は、もたつく足を引きずりながら無我夢中で山へ引き返した。
恐らく、あれを腰が抜けた状態というのであろう。
初動段階で失敗した計画は、結局その後も果たされることは無かった。



ご主人が近づいてくる間、私は直立したまま微笑みさえ浮かべていたかも知れぬ。
初めは怪訝な顔をされていたご主人だったが、事情を話して撮影の許可を得た。
そしてその後しばらくの間、付近の昔話に花を咲かせたのは言うまでも無い。  2011.8.24


よろめく家

私は、1977年(昭和52年)に札幌市中央区から手稲区西宮の沢(当時は西区宮の沢)へ引越しをした。
当時この地区は、手掘りの側溝のある砂利道ばかりで、その向こうには泥炭の荒地が果てしなく広がっていた。
そこでは汚れた残雪がいつまでも融けず、その水は捌けて行かずに永遠に留まるかと思えた。
5月ともなれば、カエルがあちこちに卵を産んだ。
時間を忘れて蠢くボウフラやミジンコ、そして糸ミミズを眺め続けた。

そんな悪条件の土地でも、やはり少なからず家が建っている。
当然、それぞれが好きな方へよろめいている。
片輪走行さながらの家もあった。
我が実家も立派に北側へお辞儀している。
絨毯の上をビー球が転がっていく程である。


そのような記憶があるからなのか、よろめいた家を見るとつい見入ってしまうのである。

 札幌市豊平区豊平3条
4丁目1−32 札幌プロセス社


今日、札幌郊外を走っていて、我が懐かしき水捌けの悪い光景に出くわした。

そうしたら、湿地の中に更に懐かしい物体を見つけた。


それは、「谷地坊主」のことである。
記憶から完全に消え去っていたものを再発見するというのは、何と甘い感覚であろうか。 2011.5.2



夢蘭 「蔵座敷」 享年81歳
室内施工者 加藤親子(指物師)
完成年 昭和5年(1930年)
閉店年 平成23年4月22日(2011年)
所在地 札幌市中央区南5条西4丁目




ススキノに老舗の郷土料理店として名高い「夢蘭(むうらん)」という店がある。
北海道最大の生簀が店内中央に配置されていることで有名である。
その生簀の中で、多種多様の魚達が悠々と回泳している。
さながら、ムーラン・ド・ラ・ギャレットで舞踊する紳士淑女達のようである。

しかし、その四方を取巻くカウンターの人間達から指名を受けると、板さんに掬い上げられて捌かれてしまう。
魚貝達にとっては、恐ろしい舞踊会場なのである。
もしも、店名の由来が私の推測通りだとしたら、夢蘭さんよ、悪だのう。

さて、この店が明日を以て閉店してしまうという噂を聞いた。
無論、その最期を味わわなくてはならぬ。
目的は、店の奥に密む「蔵座敷」の鑑賞である。




無垢のケヤキの階段を登り、札幌軟石の蔵の入口へ踏み込む。
昭和5年にしつらえられた赤松の皮付丸太柱、杉アジロ天井、じゅらく壁からなる和空間に身を浸す。
この部屋は、ススキノの歴史を80年以上も見つめてきたのである。
恐らく、札幌の政財界の重鎮達がここに座って、将来の事を語ったり、陳情を聞いたりしてきたのだろう。

しばし、熱燗をやりながら感慨に耽る。

     

明日が最後の営業日である。
一見客の私が、こんな大事な夜にいても良いのかと心配になりつつ、大いに満喫した。 2011.4.21



◆懐かしの廃ペンション



留寿都リゾートの一寸手前に、廃ペンションが点在して残っている。
1991年、大学生だった私は、誤って友人達とこれに宿泊してしまった。


当時、もう既にこれらの建物の幾つかは廃屋になっていたり、部分的に壊れて使用できない状態になっていた。
案内係の老人は「あれに辛うじて電気が通っている。」と、唯一まともな外観の1棟を指差した。
我々は、体を硬直させて唾を飲み、これから展開されるであろうハプニングを覚悟した。

玄関扉を引いて、古く冷たい空気に分け入る。
吐き出した息が、白く留まって消えない。
足の裏のじゅうたんが、硬い。
この世に冷凍保存された空間というものがあるとすれば、ここに違いない。
テレビのスイッチを入れる。
どのチャンネルも映らない。
「昨年の猛吹雪でアンテナが折れた。」と、老人はテレビに一瞥もくれず独り言のように言う。
とても古い布団と毛布には説明が無い。
見れば分かるという事なのだろう。
無論、風呂は湯が出ない。
小さなポータブルストーブが一つ置いてある。
これで今夜を過ごせと言うのか。
老人が、炭化したストーブの芯にマッチで繰り返し火を点けている。
灯油の目盛りは四分の一しか指していない、が、もう質問はやめた。
和式の汲み取り便所。
これを本当の和洋折衷と呼ぶのかも知れぬ。
その便器の木蓋を恐る恐る持ち上げると、穴の奥から乾いた風の音が聞こえてきた。
更にじっと見つめていると、荒涼とした恐山のような霊場風景が浮かんできて立ち眩んだ。

1970年代の建築と思しき、これらペンション群。
当時の日本人が抱いていた洋風に対する憧れ、そんなものが強烈に伝わってくる。
青や黄、ピンクに塗られた外観の貧しい色が悲しい。

現在も人気の新築洋風住宅を見かけると、どうしてもあのペンションの事が思い出されるのである。 2011.3.23




◆つららの風景




軒から下がるつららの風景。
長年、北国の風物詩であったが、近頃の札幌に於いてはほとんど見かけることが出来なくなった。

子供の頃、つららを見つけると必ず壊しながら歩いたものだ。
更には、アイスキャンデーさながらに登下校した事、
チャンバラの武器とした事、
自分の背丈よりも大きなやつを大事に折り取って宝物にした事など、
際限なく記憶がよみがえる。

この住宅を見ると、そんな昔の事だけではなく、8年前の事も思い出されてくる。

その頃、この住宅がBASS(バス)という名の酒場として使われていた一時期があった。
住まいが近かったので、繁く通った。
「BASSに寄って帰る。」と家人に連絡すると、電話の向こうに怪訝な表情を感じる。
恐らく「BATH」と聞こえるのだろう。
つまらない下ネタは置いておく。

この店、冬はとても寒い。
ストーブの暖気が屋根裏に流れて行ってしまうのであろう。
そんな夜は、マスターときついスコッチを飲み合う。
酔ってくると必ず昔話になる。

このマスター、70年代初頭の頃はサックス吹きだったのだそうだ。
渋谷のジャンジャン、新宿のピットインと言えば伝説のライブハウス。
しかし、そんな一流所で出鱈目のアドリブを延々と演っていたのだと言う。
「そんな事、誰も気付かないからいいんだ。それでも最前列の女の子達がウットリと俺を見つめるんだよ。」と笑う。
「毎晩、そのうちの1人を旅館へ連れて行ったもんだ。」と腕を組んで遠くを見つめる。
当時の青春小説に出てくる話を地で行っていたのだ。
私にはそんな東京の昔話を聞けることが一番の楽しみだった。

その後、札幌に戻って始めた仕事が、仏壇塗替仲介業。
世の中には、色々な仕事があるのだ。
大きな家を選んでの訪問販売である。
仏壇を見せてもらっては、親切に難癖をつける。
マスターのイカサマトークとグルの塗替職人との連携プレーで一財産作ったのだと言う。


ある日、店に行ったら看板が外されていた。
元のひっそりとした家に戻っている。
寝たきりのお婆ちゃん、自閉症気味の壮年男は今でも2階に2人で暮らしているのだろうか?
そしてあのマスターは、第3のイカサマ人生へ旅立って行ったというのか?

今日、久しぶりに立ち寄ってみたら、以前と変わらずつららの風景を見せてくれた。  2011.1.29





◆旧浅野邸 享年97歳   
設計者 不明  施工者 不明   
建築年 大正2年(1913年)   
解体年 平成22年10月(2010年)   
所在地 札幌市中央区南5条西8丁目1−2                                           









坂邸 享年80歳
設計者 田上義也  施工者 山谷建築店
建築年 昭和2年(1927年)
消失年 平成19年5月(2007年)
所在地 小樽市見晴町


 
   

札幌藤学園キノルド館 享年77歳    
   設計者 マックス・ヒンデル  施工者 三浦建築工務所   
   建築年 大正13年(1924年)
   解体年 平成13年1月(2001年)
   所在地 札幌市北区北16条西2丁目
       


大原邸 享年76歳   
設計者 大原卯吉  施工者 小島与一   
建築年 昭和2年(1927年)   
解体年 平成15年12月(2003年)   
所在地 札幌市中央区南6条西20丁目   
       



大和生命保険札幌支店 享年72歳
設計者 不明  施工者 大林組
建築年 昭和9年(1934年)
解体年 平成18年8月(2006年)
所在地 札幌市中央区大通西5丁目  

旧小熊邸 享年71歳
設計者 田上義也  施工者 篠原要次郎 
建築年 昭和2年(1927年)
解体年 平成10年5月(1998年)
所在地 札幌市中央区南1条西20丁目
       

旧相内邸 享年70歳  
  設計者 田上義也  施工者 相内氏本人(?) 
  建築年 昭和8年(1933年) 
  解体年 平成15年11月(2003年) 
  所在地 札幌市中央区南1条西28丁目
  大谷邸→アンセリジェへ  
     
  アンセリジェ→解体撤去へ  
     



旧陸軍施設「北部軍司令部防空指揮所」 享年64歳   
設計者 不明  施工者 不明   
建築年 昭和18年(1943年)   
解体年 平成19年12月(2007年)   
所在地 札幌市豊平区月寒東2条1丁目   
       


新山邸 享年60歳    
設計者 猪俣勝雄  施工者 不明  
建築年 昭和17年(1942年)  
解体年 平成14年6月(2002年)  
所在地 札幌市中央区宮の森2条11丁目2−1  
 
 


旧札幌市民会館 享年49歳
設計者 日建設計  施工 大林組
建築年 昭和33年(1958年)
解体年 平成19年4月(2007年)
所在地 札幌市中央区大通西1丁目