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古代史ロマン 第16章 ヤマトタケル


                                               

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第16章 ヤマトタケル

熊襲征伐のヤマトタケル

 
ヤマトタケルは、『日本書紀』では日本武尊と記され、『古事記』では倭建と記されている。幼少の時は小碓尊(オウスノミコト)、またの名は日本童男(ヤマトオグナ)と呼ばれていた。その他の呼び名もあり、煩雑を避けてここではヤマトタケルとカタカナで表記している。これまで崇神天皇以前の多くの神々の名前や大王(天皇)の名前も主にカタカナ表記をとってきたが、『記紀』の表記の違いや、明らかな表音による当て字でわかりづらいこともあったためである。しかし、時代が下がるにつれ漢字表記も妥当なものが多くなるので徐々に漢字表記で記していくようにしたいが、しばらくは混在することをお許しいただきたい。

 ヤマトタケルの話は、『記紀』の中でもよく知られた話でロマンに満ちた部分でもある。小さい時から荒々しい性格の持ち主であったようで、『古事記』によれば、ある時、天皇が兄の大碓尊(オオウスノミコト)が食事に顔を見せないので小碓尊に催促を命じた。しかし、5日経っても現れないのでもう一度小碓尊に尋ねると、「とっくに殺して手足をバラバラにもぎ取り薦(こも)に包んで裏庭に投げ捨てました」と平気な顔で答えた。天皇は優しげな少年に似合わぬこの荒々しさを不安に思い、西国征伐に行かせることになったと記している。
これは、ヤマトタケルと西国征伐を結びつけるための作為的な記事と言える。

 ヤマトタケルの話は、大きく分けると西国熊襲征伐の話と東国征伐の話になっているが、よく見ると同じ事件の記事でも『記紀』の間でかなり違う構成になっている。熊襲征伐の話と東国征伐の話には、記述にまるで別人のような違いもある。そうした違いはいずれ検証することにして、ここではまずヤマトタケル伝説を、『記紀』を対比しながら紹介してみたい。古代史ロマンにふさわしい話として気楽にお読みいただければと思う。

  『日本書紀』によれば、景行天皇の27年、九州の熊襲が再び背いて辺境を侵しているとの情報により、ヤマトタケルを遣わしてこれを討つことにした。ヤマトタケルは弟彦という弓の名手などの陣容を整え、九州の熊襲の国に到着後、熊襲に関する情報を集めた。熊襲の中に川上タケルという首領がいて、ちょうど一族を集めて新築の祝の最中であった。ヤマトタケルは童女のように髪を垂らし、剣を懐に隠しながら宴会の女たちの中に混じり、川上タケルに近づいた。川上タケルはその童女の容姿が美しいのに惹かれてそばに引き寄せ、杯を挙げた。夜も更けて酔いのまわったころを見計らい、ヤマトタケルは衣の中の剣を取り出し、川上タケルの胸を刺した。

 川上タケルは死ぬ前に「しばらくお待ちください。申し上げたい事があります」と言うのでヤマトタケルは剣を押し止めて聞いてみると、「あなたはどなたさまですか」と尋ねてきた。「私は大足彦(景行天皇)の子で日本童男
(ヤマトオグナ)という者だ」と答えると、川上タケルは「私は国中で一番強力な権力者で、私に背く者はいないのに、あなたのような勇敢な方は初めてです。卑しいものの口で言うのも憚られるが尊号を差し上げたい。お許しいただけますか」と言った。そこで「許す」と言うと「今より後は日本武皇子(ヤマトタケルノミコ)とぜひ称して頂きたい」と言って川上タケルは命を終えた。この時より日本童男は、ヤマトタケルと称するようになったと記している。ヤマトタケルはその後弟彦を遣わして熊襲の仲間たちを悉く残らず殺した。

 九州からの帰路、吉備の穴海を渡るとき、悪ぶる神がいたのでこれも殺し、また難波に帰る時も柏の渡りの船着場付近にいた悪ぶる神も殺した。ヤマトタケルは大和に戻り天皇に「私は天皇の御神霊により兵を挙げて熊襲の首領たちを平らげ、その結果西国も鎮まりました。帰路には吉備の穴海と難波の柏の渡りにいた悪ぶる神たちも殺して、水陸の道を開きました」と奏上した。天皇はヤマトタケルの功績をほめて一層愛されたと記している。

 『古事記』の記述では、西国征伐に出発する前に、叔母にあたる倭姫命から身につけた衣装をもらい短剣を懐に入れて旅立ったとしていて、なぜか伊勢まで出かけてから出発している。また川上タケルについては、熊襲建(クマソタケル)の二兄弟になっていて、宴席に混じったヤマトタケルに二人とも殺されることになっている。また熊襲征伐の帰路、『古事記』では出雲の国を通ったことになっていて、出雲建(イヅモタケル)を討とうとして策略をめぐらしこれを殺した話が記されている。一緒に肥川に出かけて水浴し、その間に刀を偽刀に取り替え、交換を申し出て計りごとでこれを切り殺すのである。

 こうした違いはあるが、あらすじはほぼ同じであり、両書とも同じ説話を元にしていることがわかる。ここで記されているヤマトタケルは勇敢な若武者としての存在であるが、実戦では策略をめぐらし、相手を皆殺しにする容赦ない荒々しい戦士としてリアルに描かれているのである。しかし、この後の東国征伐に出向くヤマトタケルの話は抒情あふれる歌や地名説話に包まれた悲話の話に一変するのである。


東国征伐のヤマトタケル

 
西国征伐から戻ったヤマトタケルに、父である景行天皇は再び新たな東国征伐の命を出した。この再命について『古事記』では西国から帰って休むまもなく命じたとあるが、『日本書紀』では、その間に12年の間があることになっている。このように『記紀』の記述には少し違いはあるが、遠征記事の大筋は一致している。

 再命の場面について『日本書紀』では、天皇は群臣に対して「東国に暴れる神が多い。また蝦夷が背いて人民を苦しめている。誰を遣わして鎮めようか」と問うたところ、ヤマトタケルは、「私は西国征伐に働かせて頂きました。今度は兄の大碓命が良いでしょう」と答えた。しかし大碓命は驚いて草の中に隠れてしまい、仕方なく天皇はヤマトタケルに命じたところ、「大変ですが、引き受けましょう」と答えたので、征夷の将軍に任じたとある。ヤマトタケルは出発後寄り道をして伊勢神宮に行き、倭姫命に別れのあいさつを述べたところ、倭姫命は草薙剣(くさなぎのつるぎ)を与えたとある。

 一方、『古事記』では、天皇は西国征伐から帰ったヤマトタケルに休む間もなく東国征伐を命じたとある。ヤマトタケルは出発にあたり、叔母であり伊勢神宮の斎宮である倭姫命を訪ね、「天皇は私のことを早く死ねばいいとでも思っているのでしょうか」とグチをこぼし男泣きをした。倭姫命は返す言葉も無く、はなむけに草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と後で役立つ事になる嚢(ふくろ)を授けたとある。

 『日本書紀』にある行程記事は次のようである。東国征伐に出発したヤマトタケル一行は、尾張の国に着き、尾張の国造の家に泊り、その娘の美夜受比売(ミヤズヒメ)を嫁にしたいと考えたが、これから先の困難を考え、帰路に寄って嫁にする約束をして旅立った。山や河に住む荒ぶる神々などを倒しながら進むと、相模の国で激しい抵抗に会った。そこの国造が策略をめぐらしヤマトタケルは野原で火に囲まれてしまった。火が迫ってくるなかで、倭姫命からもらった嚢を取り出したところ火打石が入っていた。そこで腰に付けていた草那芸剣で回りの草をなぎ払い、それに火打ち石で日をつけ向火を起こし、その火勢を弱め国造達を打ち倒す事が出来た。そこでこの地を焼津と呼ぶようになったと記している。

 次に相模の国に着き、上総国に船で渡ろうとした時、ヤマトタケルは「こんな小さな海は飛んで渡れることが出来よう」と高言したが、海中に至って突然暴風が起こり船を進めることが出来なかった。そのとき付き従っていた后の一人に弟橘姫(オトタチバナヒメ)がいて、「こうして風が起こり波が荒れて船が沈みそうなのは、きっと海神のたたりでしょう。わたしが海に入りましょう」と言って海中に身を投げた。すると暴風はすぐにやみ、船は無事に岸に着くことが出来た。この海を名づけて馳水(はしりみず)と呼んだ。
この話は、ヤマトタケル伝説の中でも涙を誘う悲話としてのロマン性で良く知られている部分である。

 ヤマトタケル一行は、上総から陸奥国に入り、蝦夷の住む地に向かった。蝦夷の首領たちは遠くからヤマトタケル一行の船を見てその勢いに恐れをなし、持っていた弓矢を捨てて恭順した。そこでその首領達を俘虜として手下にし、日高見国(ひだかみこく・東北)から帰還した。

 その後信濃、越にいる賊を討つため、甲斐の国から武蔵、上野を通って碓日坂(碓井峠)に差し掛かったとき、弟橘姫を思い出し、山にのぼり東南の方向を見て三度深い嘆息を漏らし「吾嬬はや」(ああ吾が妻は・・)と歎いた。そこでこの東の国々を吾嬬(あづま)の国と呼ぶようになった。

 ここで吉備武彦を越に派遣し、ヤマトタケル一行は信濃に入った。信濃では深い山々や谷などに悩まされ、苦労して山中に入ったところ、山の神が白い鹿になって現れた。ヤマトタケルはこれを射止めたところ、道に迷いどちらに進んだら良いかわからなくなってしまった。そうすると白い犬が現れ、その後をついていくとようやく美濃の国に出ることが出来た。このことにより以後この山を越える人々は、山の神の邪気にあたる事がなくなった。

 ヤマトタケルは尾張に入り、往路で約束をした尾張氏の娘、美夜受比売(ミヤズヒメ)を妻としてその地に一月以上滞在した。近江の五十葺(いぶき・伊吹)山に荒ぶる神がいる事を聞き、草薙剣を置いたまま出かけていった。するとこの山の神は大蛇になっていく手を阻んだ。しかしヤマトタケルは「この大蛇はあらぶる神の使者であろう」と無視して踏み越えて山中に進んだ。山の神は怒り、雲を起こして風を吹かし、雹(ひょう)を降らなど山は大荒れになった。ヤマトタケルは、山中をさまよいながらやっとの事で脱出し、山麓の泉のところで水を飲んだところやっと気持ちが醒めることが出来た。そこでこの泉を居醒
(いざめ)の泉と名づけた。

 やがて病気にかかり、伊勢の野褒野(のぼの)に着いた時、病気が一層重くなり、吉備武彦を天皇の下に派遣して東国での蝦夷やあらぶる神々を征伐したこと、自分の身が今終わろうとしていることなどを奏上させた。天皇はこれを聞き昼も夜も悲しまれた。「吾が子小碓命は、昔熊襲が背いた時十分な働きをし、その後も自分を助け、また東国の賊たちを鎮めるためにも進んで闘ってくれた。なぜ死んでしまったのか。この後は誰とともに天津日嗣を治めたらよいのか」と歎き、ヤマトタケルを野褒野に葬った。

 このときヤマトタケルは白鳥になって陵から飛び立った。陵の中を調べると衣だけが残されていた。白鳥は大和の琴弾原に留まったためこの原にも陵を造ったが、白鳥はさらに飛び立ち河内の古市の邑(大阪府羽曳野市)に留まった。そこでここにも陵を造り「白鳥陵」(しらとりのみささぎ)と名づけた。白鳥はここで天高く飛び去ったため、衣冠を陵に葬った。

 また『古事記』でも、ほぼ同じ行程記事であるが、『日本書紀』よりも多くの歌が読まれ地名説話が多くある。少し紹介すると、伊服岐山から帰ったあと足を患い、「自分の足がたぎたぎしい」といった所が多芸(たぎ)と言い、杖をついてのろのろと歩いた所を杖衝坂(つえつきざか)と言い、さらに歩いて「自分の足がこんなにはれて三重にくびれた餅のようになってしまった」と歎いた所が三重と呼ばれるようになったなどである。さらに野褒野に着いた時に遠い故郷を偲んで歌を歌ったが、これが有名な望郷歌である。

 「大和は 国の真秀ろば 畳なづく 青垣 山籠れる 大和しうるわし」

 この歌は、『日本書紀』にあるの景行天皇の熊襲征伐記事の中で、天皇が日向の国に着いた時に歌った国偲び歌と同じである。『古事記』には無いもので、なぜ錯綜したのか不思議である。

ヤマトタケルの謎

 これまでヤマトタケルの説話を見てきたが、大碓命(オホウスノミコト)と小碓命(ヲウスノミコト)の話のほかは、九州などの西国征伐記事と東国征伐記事がすべてである。これらの記事を通してヤマトタケルは、古代史上の勇敢な皇子としてよく知られる存在となっている。しかし、これまで述べたように2つの征伐記事をよく読んでみると、両者にはかなりの記述内容に差があることに気付く。九州における熊襲征伐は策略をめぐらし、川上タケルという熊襲の首長を刺し殺すとともにその仲間全てを殺してしまった。帰路では吉備や難波でも悪い神を殺した。『古事記』ではさらに帰路に出雲にも立ち寄り、出雲健にも策略をめぐらして太刀を交換し、偽刀を持った出雲健を切り殺している。まさに殺戮に次ぐ殺戮である。また、歌はこの時の太刀交換を歌った一首が『古事記』にあるのみである。

 一方、東国征伐では、『日本書紀』『古事記』ともに美夜受比売や弟橘姫との恋物語や悲話、更には地名の由来を述べるために付け加えたような現実離れした説話がほとんどである。また、陸奥国での蝦夷征伐も戦わずして相手がその威厳にひれ伏したなど真実味が無く、帰路の荒ぶる神々との争いも旗色悪く逃げ回り、その上病気になり亡くなったとしている。反面、東国征伐記事の特徴として、全体的に叙情的で数多くの歌が記されている。『日本書紀』に3首、『古事記』では14首を数えている。

 両者を比較すると、西国征伐では熊襲や出雲健を殺す場面のリアルな状況描写などに比べ、東国征伐ではほとんどが地名説話などで現実感に乏しく、ヤマトタケルにもその荒々しさや力強さが全く感じられない。西国征伐のヤマトタケルと東国征伐のヤマトタケルは『記紀』の記述を読む限りでは、まるで別人のようである。

 そこで一つの仮説として、これが全く別人で別な話を繋いだものとしてみよう。そうすると2つの話と人物像の違いは当然になるし、『日本書紀』にある景行天皇の九州征伐記事を巡る謎も解けてくるのである。さらには、真実味の薄いヤマトタケルの東国征伐記事や、まるで付け加えたような景行天皇の東国巡行記事の持つ意味も見えてくるのである。

 ここで導かれる推論は、景行天皇とヤマトタケルに相当する人物がそれぞれ大和と九州にいたということである。これがやがて『記紀』編纂時にイリ系王権とタラシ系王権の結合作業の中で、一人の人物として描かれていく事になったと思われるのである。次章でこのことを具体的に検証してみたい。

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