鍋田干拓事業は、“食糧増産と農家の次三男対策”という“国による日本社会の戦後復興事業”のひとつとして敗戦の翌年1946年から着手された……当時は、誰もが緊急にして最重要と考えた日本社会の課題解決への道だった。そして、この事業は、江戸時代以降の連綿と続いた新田開発の流れに沿う、的を得た政策と思われた。少なくとも、10数年のうちに食糧不足の潮流が逆に変わるとは、誰もが考えなかった。

鍋田干拓地 のGE写真

鍋田干拓地のGE写真3

集団移住地の今

鍋田干拓地の風景

 1959年の伊勢湾台風被害からの復興では、農業用としての干拓地の範囲は大幅に縮小され、多くが公共用地や農業以外の用地となった。そして、縮小された再入植は1961年に終了。1964年にはこの地域の干拓事業は完了した。

 敗戦後、日本が生きていくためには輸出に活路を見出そうと必死になった結果、日本は短期間のうちに農業国から工業国に変貌……食糧生産は、化学肥料・農薬の大量使用と品種改良と農機具の普及で米作を中心に急回復。
 そして、次三男は、工業発展と共に農業を離れて、都市生活者となる。さらに、農業に専業することが期待されたはずの長男も、親の農家に住みながら二次・三次産業の会社勤めとなることが普通となって、爺ちゃん・婆ちゃん・母ちゃんの“三ちゃん農業”と呼ばれた兼業農家の時代に変わっていった。“三ちゃん農業”は1960年(昭和35年)頃の造語だから、農業用地増加の鍋田干拓事業が縮小されたのも当然だった。

産廃処理場

クリーンセンターといこいの里

廃車処理場

 その後も工業の隆盛・農業の衰退は進み、“三ちゃん農業”の次の世代の農家では、母ちゃんまでが離農するようになり、農業の高齢化が顕著になる。
 こうなってくると、大都市に近い鍋田干拓地のような場所は“都市の迷惑施設”の受け皿となることが期待される……魚アラ処理場・廃車処理場・産廃処理場・ゴミ焼却場等が多額の周辺対策費を伴ってつくられることになった。
 グーグル・アースで鍋田干拓地の現在の様子を見ると、この辺りの事情がよくわかる。集団移住地の公民館には、若い夫婦たちが喜ぶようなテニスコートが4面も付属されている。若い夫婦は離農しても、営農する老親の家に同居してほしいということなのでしょう。

湾岸道路沿い 1湾岸道路沿い 2 1970年から始まった在庫米を押えるための米の生産調整は、開田禁止・政府米買入限度の設定・転作奨励等から減反政策へと進む。

 鍋田干拓地では、2002年に中央を東西に横切る伊勢湾岸自動車道が開通すると、物流施設の適地ともなった。こういった土地使用は、干拓事業が始まった敗戦時では思いもよらなかったこと。
 社会は誰も予想ができなかった程に変わっていく。現在では、ここにある住居で営農住戸は、わずか数戸、といわれている。 (続)