David Walsh

2013年12月30日

マーティン・スコセッシ監督。テレンス・ウィンター脚本。ジョーダン・ベルフォートの著書『ウルフ・オブ・ウォールストリート』ハヤカワ文庫に基づく。

マーティン・スコセッシの新作映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は、アメリカにおける寄生的、犯罪的金融業界が勃興したおかげで、1980年代末と1990年代、最終的に監獄行きとなる前に財を成し、有罪判決を受けた株ぺてん師、詐欺師ジョーダン・ベルフォートの半生を扱っている。

ウルフ・オブ・ウォールストリート

適切な芸術家の手にかかれば、そのような伝記物語は、歴史的な経済と道徳の衰退状態にあるアメリカ資本主義の大きな現実を指摘することも可能だろう。ところが、いかなる客観的基準からしても、スコセッシの映画は社会批判作品ではなく、マルクスの有名な言葉“ブルジョア社会の頂点で”再生した、ベルフォートや同僚達というルンペン分子の軽蔑に値する称賛なのだ。

映画 (2007年に刊行されたベルフォートの回想録)は、24歳のベルフォート(レオナルド・デカプリオ)が、多国籍企業に特化した投資銀行LF ロスチャイルドで、研修中の株式仲買人として働き出す1987年から始まる。彼はもまなく上級の株式仲買人マーク・ハンナ(マシュー・マコノヒー)と出会うが、彼が誰も何も実体を生み出すことのないウオール街で生き抜くには、セックスと麻薬が役に立つと教えてくれる。ベルフォートにとって不幸なことに、1987年10月19日の“ブラック・マンデー”相場崩壊の直前に、株式仲買人免許を取得し、それから間もなく、神々しいロスチャイルドは破綻する。

ベルフォートは、ロング・アイランド(ニューヨーク市郊外)で、小企業の株を高い手数料で売り歩く“もぐりの株屋”で仕事の口を見つけることに成功する。彼自身の冷笑的な言葉によれば、彼は“ゴミをゴミ収集人に売るのだ。”押しの強い売り込みで彼は成功し、同僚の羨望の的となる。彼はドニー・アゾフ(ジョナ・ヒル)と友人になり、二人は最終的に“店頭取引の”証券会社ストラットン・オークモントをたちあげ、最盛期には1,000人の株ブローカーを雇う。

ストラットン・オークモント社は、“株価”操作として知られているものを含め数多くの違法行為をした。“株価”操作というのは、株ブローカーが自社が大量に(しかも秘密に)投資している特定の株について、潜在顧客に、誤解させる様な、あるいは偽の(“内部”のものとされることが多い)情報を伝え、株価急騰を引き起こすものだ。そこで、株ブローカーは暴騰した価格で株を“投げ売りし”、大もうけをするが、犠牲にされた投資家達は無価値な株を掴まされたままになる。

ベルフォートは、膨大な量の麻薬を摂取し、高級売春婦ひいきにしてぜいたくな生活を始める。彼は魅惑的なナオミ・ラパグリア(マーゴット・ロビー)と関わるようになり、最初の結婚が終わる。不正な手段で得た収入を隠すため、ベルフォートは、膨大な金額の資金洗浄と、何百万ドルもの現金を海外口座に隠すことを始める。パトリック・デナム調査官((カイル・チャンドラー)という名のFBIが捜査を開始する。

ベルフォートは、麻薬常用と、金融リスク負担ゆえに、様々な災難にぶつかる。ある時には、部下が膨大な額の現金で逮捕され、刑務所入りするに行く。当局のストラットン・オークモントに対する詮索は以後、強化される。地中海でのヨット旅行中、ベルフォートは顧客の一人が彼を裏切っている様だと知り、銀行口座から金を引き出す為、即座にスイスに行くことが必要になる。致命的な結果をもたらしかねない荒海航海を彼は主張する。彼と政府やFBI職員の間で様々な紆余曲折がおきる。

映画は三時間で、麻薬服用や性的行動の様々な場面がある。後者の場面は冷たく、下劣で、その大半に女性が関わっている。彼女達は、スコセッシの全ての実に多くのギャング映画の特色である極端な暴力と流血場面の代わりをしているように見える。解釈は男性なり女性なりの素人精神分析家の自由にお任せしよう。

ウルフ・オブ・ウォールストリート

スコセッシの最新作は退屈で繰り返しが多く、見続けるのは苦痛だ。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は、拡張しすぎの“ブラック・コミック”逸話に依存しており、有名俳優が登場するが、彼等の多くは、無意味な、あるいは取るに足らない役(ジャン・デュジャルダン、ジョアナ・ラムリー、クリスティン・エバソール等々)で無駄に使われている。中間点のストラットン・オークモント事務所の愚劣で不愉快な堕落の極みに、映画のあさましい道徳頽廃の調子から、クエンティン・タランティーノの『ジャンゴ 繋がれざる者』を連想して驚いた。死体が犬によってバラバラにされるわけではないが、同様にひねくれた、気味悪いほど厭世的な雰囲気に満ちている。映画に登場する全員が語ること全て、後ろ向きで、不正で、恐ろしい …

映画中の出来事例。事務所で、ベルフォートと同僚達が、ヘルメットを被ったこびとを的にめがけて投げつける。彼等は女性の営業担当者に、頭を剃れば10,000ドルやるという。彼女はお金を豊胸手術に使うことに同意する。半裸の楽隊やストリッパーの集団がストラットン・オークモント社内をパレードする。乱痴気騒ぎは、会社でも、飛行機でも、ヨットでも起きた。麻薬の影響下で、ベルフォートは自動車で様々な無生物に突っ込む(実際、ベルフォートは無謀さによって、女性の運転手を入院させた)。その一方でストラットンの株ブローカーは、電話で、顧客を仮借なく威嚇し、怖がらせ、ろくでもない企業に投資させる。彼らの座右銘は“客が買うか、死ぬかするまで電話を切るな”だ。

部下の株ブローカー達に、ベルフォートはこう叫ぶ。“貧困の中には高貴さなどない。私は金持ちだったし、貧乏人にもなったが、私はいつも金持ちになろうとした。少なくとも、金持ちとして、自分の問題に直面しなければならない時には、2000ドルのスーツと40,000ドルの金時計を身につけて、リムジンの後部座席に座って登場した! … 君達も金持ちになって、各自の問題に対処して欲しいと思う! … 積極的であれ! 貪欲たれ! 電話のクソ・テロリストになれ!”観客は、膨大なこの種の物事を最後まで見ることを強いられるのだ。ベルフォートの能天気な道徳的汚らわしさの映画描写には皮肉や諷刺は皆無だ。もしも冷静な判断力を持っていれば、そうなる可能性は低いのだが、観客はストラットンの高価な服を着た泥棒連中同様に興奮することになっている。

スコセッシは1970年代の初期のより興味深い映画の時代から、決して芸術と批判の距離の要素を評価したり、導入したりすることができなかった。これは結局、彼が既存の社会に対する姿勢を反抗的なものへと発展しそこねたことから来ている。2003年に我々が書いた通り、フランス・ヌーヴェル・ヴァーグ、シネマ・ベリテ、無意識、即興性や“メソッド・アクティング”の一番弱い面に依拠して、スコセッシはずっと昔から、“自分は一貫したストーリーを展開したり、維持したりする義務などない”と思い込んでいるのだ。

この監督の“リアリズム”の概念は、あたかも、その種の強制的に没頭させることが、所与の状況や人間関係の、自覚的な理路整然とした把握を可能にするのと同じであるかのように、常に、高まった暴力的で、えてしてヒステリックな瞬間や状況を、観客に押しつける。そうではない。

そうした知的にあいまいで無責任な方法で、社会秩序の構造や、そのイデオロギー的な“既存の事物”は調査の対象外として無視するのだ。(“それは‘政治映画制作者’の為のもので、本当の芸術家の為のものではない!”)。かくして、“いかなる判断もせず”、“ひたすら事実を提示する”監督は、彼なり彼女自身を既存社会にしっかり植え込み、それを無批判に受け入れる。これは、バマザックやディケンズ、あるいは、ついでに言えば、オーソン・ウェルズやルキノ・ヴィスコンティ達が生み出した“リアリズム”とは全く無関係だ。

真面目な芸術は、常に卑近な一時的なものを越え、より深遠で永続的な現実を扱うようになる。ジョージ・エリオットやトルストイが言っている通り、芸術家にとって真実を語ることは困難で大変な労力を要するものだ。それには、たぐいまれな底深さ、知性と徹底的な誠実さが必要だ。二流、三流の芸術家達は、表層だけを楽しむのだ。もちろん、ある時代の方が、他の時代よりも、激しく鋭い芸術的な取り組みに寄与するということは有り得る。スコセッシが映画を制作してきた時代は、真実を語るには、歴史上もっとも相応しからぬものの一つだ。とはいえそれは、支配的な雰囲気を、恥ずかしくも黙って受け入れる口実にはならない。

映画制作者の意図が何であれ、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は、描き出している生き方にふけり、迎合するだけに終わっている。スコセッシ自身によるウォール・ストリート・ジャーナルのインタビューを見てみよう。“彼[ベルフォート]はこの世界に入り、見事に習得し、大いに楽しみ、制御不能になりました。ジョーダンは、あらゆる障害やあらゆる規制をうまく避けられる人物で、やがて麻薬や、富みとそれがもたらすものへの耽溺から、自分を止められなくなったのです。ジョーダンはかなりの危険を冒しますが、彼は楽しみの一環として、そうしていたのです。彼は非常に聡明なので、いつも限界を試していたのです。”スコセッシは更にやかましく言い立てる。“あらゆる犠牲を払っても、頂点に立つのがルールである自由市場資本主義の特性からして、金融業界に英雄が出現することが可能なのです”

ベルフォートには“聡明さ”も、まして“英雄的”の片鱗もない。彼は時代の反動的な経済生活と文化の産物だった。カーター政権とレーガン政権が、組合つぶしと、賃金引き下げの波と共に、事業に対する政府の規制への攻撃を開始した。レーガンの下での反労働者階級攻勢が、議会の民主党による協力を得て、企業の営利行為や、裕福な人々の大規模減税を抑制していた環境、健康、安全や他の諸規制を骨抜きするに至ったのだ。

WSWSが2008年に述べた通り、“こうしたこと全てが大企業支配下のアメリカを、製造から切り離された様々な投機へと転換してゆくことによって促進された。この金融寄生性の拡大は、‘大きな政府’への攻撃と、‘自由市場’の美点と無謬性という果てしない祝詞による正当化で推進された。全てのプロセスは、社会的富のより大きな部分を金融エリートの金庫に注ぎ込むことを狙ったものだったが、まさにそうすることに成功した。”

アメリカの支配層エリートは、客からすべてをはぎ取れと指示して、厄介な金融ギャングという貪欲な連中に好きなようにさせたのだ。ベルフォートは貪欲な連中の一人だが、その中の最重要人物とは到底言い難い。回想録で書いている通り“もちろん、私が金融強奪というこのうまいゲームを考えついたわけではない。ある10億ドル企業が、彼等と協力しないと決めれば、その企業をいためつけることに、どの会社も一かけらの良心の呵責を感じないメリル・リンチやモルガン・スタンレーやディーン・ウィッターやソロモン・ブラザーズや他の何十ものウオール街の超一流企業で実際まさにこの過程が起きていた。”

スコセッシにとっては、こうしたこと全てが“大いに目ざましい”のだ! 一体何故我々がベルフォートや彼の仲間を称賛する必要があるだろう? 映画の無批判な姿勢は、老後の蓄えが消滅したり、心理的に苦悩したり、ストレスから病気になったりという、ストラットン・オークモントの事業が引き起こした不幸のいかなる詳細も盛り込みそこねていることからも判断できる。

ベルフォートの同僚の娘、クリスティーナ・クダウェルは、先週発表された『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の監督にあてた公開書簡の中でこう書いている。“あなた方は危険です。あなたの映画は、アメリカが更なるウオール街スキャンダルであえいでいるさなか、この類の策謀が面白いことであるようなふりをし続けようという無謀な試みです。我々が、こうしたまやかし投資家の慰みであるとっぴな性的行為やコカイン乱用に夢中になりたがっているですって? いいかげんにしなさい。我々は真実を知っているのです。こうした類の行動が、アメリカを倒産させたのです。”

オリバー・ストーンの『ウオール街』(1987)は、少なくとも、他人につけこむ金融界の連中によって引き起こされた苦悩を指摘するという価値はあった。スコセッシの新作映画は、社会的不公平や大企業の犯罪性が膨大な悪性の広がりを見せた時期、四半世紀以上前に公開されたストーンの限界のある作品より、批判的姿勢はずっと弱い。監督は、映画制作の主題として、広範な国民の層の状態には何の興味も示していない。

一体なぜ芸術家が、広く是認されるようなキャラクターではなく、ベルフォートや共犯者達の様な人間の屑に注目するのだろう? 一体なぜ、評論家や論敵以外を除いた我々が、虚構のベルフォートや、この不快な連中の為に、3時間あるいは3分たりとて、費やしたり(耐えたり) したいなどと思うだろう?

スコセッシは、長らく一種中途半端なニーチェ主義を示しており、それがある種のプチブル知識人のお決まりの設定になっている(スコセッシの『ケープ・フィアー』[1991]の恐ろしいマックス・ケイディは、あからさまなニーチェ崇拝者だった)。現実に即さない教授達、人生で本物の犯罪人に会ったことのない評論家、孤立した映画監督、全員が“社会の規則に従って生きない”一匹狼の“無法者”、ギャングについて空想にふけっていた。そこに自由がある! それが赤裸々な人生だ! 様々な映画で、スコセッシはならず者やチンピラを美化してきた。

『グッドフェローズ』(1990)冒頭の画面外の声で、ヘンリー・ヒルが、監督自身の社会的態度をほのめかしている。“私が思い出せる限り、私はいつもギャングになりたいと思っていた。… 放課後のアルバイトで、タクシー乗り場に初めて行く前から、彼らの一人になりたいと思っていた。私は彼らの仲間なのだと分かっていた。私にとって、取るに足りない連中だらけの近隣で、ひとかどの人物であることを意味していた。”“ごみ収集人”“負け犬”“取るに足りない連中” … こういう連中は山のようにいるのだ。

スコセッシの見方は、イデオロギー的な混乱や退化の単純な結果ではない。むしろ、こうした知的プロセスは、個人的に裕福になることと、政治的保守主義の増大が大半の上流中産階級エセ・インテリにとってそうである様に、付きものとして正当化される。2011年に、スコセッシは1700万ドル稼いだ。彼は2007年に、マッハッタンの高級邸宅を1250万ドルで購入した。民主党支持者で基金調達役のスコセッシは、この監督が“依然として、世界的な問題における重要な発言をする大物で”“アメリカにおいても、世界においても、政治対話を方向付け続けている”と評するビル・クリントン元大統領のドキュメンタリー制作・監督に関与している。

現在の社会状況の下、映画や音楽界の極めて裕福な人物達が将来の事を見通し、既存の社会秩序と対峙するようになることも、確かに考え得る(可能性が高いとさえ思われる)。

スコセッシの場合にはそうした抵抗の痕跡は皆無だ。彼は2008年、(最初、ヒラリー・クリントンの選挙活動に献金した後)と2012年、バラク・オバマを支持しており、ショウビズ411ウェブサイトは、12月19日“マーティン・スコセッシ監督と、俳優のレオナルド・デカプリオは,今日の午後、重要な仕事で、ワシントンに飛んだと報じている。情報源によれば、彼等はホワイト・ハウスでオバマ大統領のゲストだった。実際、二人は『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のDVDデモ版を大統領に贈った。”

悲しいことに、パズルの社会学的、イデオロギー的、そして芸術的なピース全てが、ぴったりまとまっている。

筆者は下記もお勧めする。(いずれも英文)

人間嫌いと現代のアメリカ映画制作 『ギャング・オブ・ニューヨーク』についての記事
[2003年1月16日]

卑劣な人物を、一体何故この様にいい加減に描き出すのだろう? 『アビエーター』ハワード・ヒューズの半生を描いた作品についての記事
[2005年1月13日]

スコセッシの『ディパーテッド』: 立ち止まって考えてみよう
[2006年12月5日]

記事原文のurl:www.wsws.org/en/articles/2013/12/30/wolf-d30.html
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彼の映画一本も見たことがない為、わけもわからず日本語に置き換えてある。
ともあれ、お金を貰っても、こういう主人公のお話見る気分になれない。皆様ご自由。

映画による洗脳は、もちろん宗主国専売ではない。
戦争挑発参拝氏、『永遠の0』を見て「感動しました」と大本営広報部は報じている。
怪訝に思って読んでみると、最近指名されてNHK委員だかになった作家の本が原作。
単なる仲間褒め広報記事。

一体なぜ我々がこのような映画を称賛する必要があるだろう?

そういう名画を、お金を払って見に行く方々の意図が不思議でならない。考えてみれば、神社付属の遊就館で零式艦上戦闘機五二型(復元機)を見たような気がする。(たしか、奇特な外国人を案内する為見学したのだと思うが、定かではない。)

属国はかくして宗主国のパシリとしての侵略戦争への道を着々と進んでいる。

映画はでかけなければ見られないので、さして気にならない。電気洗脳箱はそうではない。居間に侵入してくる。郵政破壊を推進し、常雇いを大幅削減し、大手派遣会社トップに平然と座る人物を国営放送番組で見かけ、あわててチャンネルを変えた。

今もまさに、その中の最重要人物のお一人に違いない御方のご尊顔もご意見拝聴も、精神衛生の為、徹底的に避けている。