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宇井純の高知: 風聞異説
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2008年03月04日

宇井純の高知

 言葉は生きもののようなものだ、という人がいる。
 たしかに毎年たくさんの流行語や新語が生まれ、その陰で、消えていく言葉も少なくない。生まれたばかりの初々しい元気な言葉はマスコミにもてはやされ人口に膾炙(かいしゃ)するが、いつの間にか時代のなかで消費し尽くされ、賞味期限がきれると消え去る。
 いまもっとも旬な言葉は、「地球温暖化」「エコロジー」「LOHAS」などの環境用語だろうか。遅きに失した感もないではないが、人間がやっと地球環境に真剣に向き合いはじめた証でもあり、この傾向は歓迎すべきことに違いない。

 さて、このような環境関連用語が隆盛をきわめるその陰で、ひとつの重要な言葉が消え去ったことにお気づきだろうか。「公害(Public Pollution)」である。日本の環境問題は、「公害」から始まったことすら、この言葉と共に忘れ去られようとしているようである。
 じつは私の生まれた年、昭和31年(1956年)は、ふたつの出来事で後々まで記憶される年となった。ひとつは、この年の経済白書が使った「もはや“戦後”ではない」という名文句(?)が大流行語となったこと。そしてもうひとつは、この言葉に象徴される経済成長の勢いとコインの裏表のように起こった未曾有の公害病、「水俣病」の“発見”である。
 私はだから、高度経済成長と公害の申し子だとよく自称することがある。少々余談だが。
 
 この、世界を震撼させた公害病、水俣病との闘いに生涯をかけた人物のひとりに、故宇井純さん(2006年11月11日死去、享年74歳)がいる。
 宇井さんはまさに日本の公害運動の象徴的な存在で、1970年代、東大には総長がふたりいると言われるほど、夜の総長の自主講座「公害原論」は受講者が殺到した。多くの人びとに勇気と希望を与えつづけた科学者、宇井純さんは54歳で東大を退官して沖縄大学に教授として移ったが、その後体調を崩して入退院をくりかえしていた。
 そんな宇井さんに、当時小さな新聞を発行していた私はアウトドアライターの天野礼子さんの紹介で連載原稿をお願いした。宇井さんが亡くなる6年半前のことである。
 鉛筆で、一文字一文字しぼり出すように丁寧に書かれた文字で原稿用紙の升目が埋められた「私の高知と四万十川」の第1回原稿「生コン裁判の思い出」が郵送されてきたとき、憧れの宇井純さんの直筆原稿なのだといううれしさと、なにか鬼気迫るものを感じたことだった。
 書き出しは、次のようにはじまっていた。
 
 高知、それは私を三十年近く昔へひきもどす響きを持った地名である。
 高知パルプ生コン事件をおぼえている人はもう中年以上になっているはずだが、この土佐の人々の行動性と計画性を全国に知らしめた事件の最初から最後までの経緯を、縁あって知ることができた。日本中を旅することの多い私の生涯で、おそらく水俣の次に親近感をもって思い出す土地の名前であり、また共に公害とたたかった人々の群像である。

 高知パルプ生コン事件のことを、どれだけの高知県人が覚えているだろうか。
 昭和30年代から40年代にかけてのまさに高度成長期、パルプ排水で真っ黒なドブ川と化した江ノ口川の無残な姿と耐えがたい悪臭。自転車で学校に通っていたころ、九反田付近であの悪臭がおそってきたことを、私は昨日のことのように思いだす。真っ黒な川底のヘドロからぶくぶくとガスが湧きでて、おもわず鼻をつまんだものだ。
 貧しさからやっと脱して経済成長に向かいつつあるあのころの市民にとって、鼻が曲がるほど臭いドブ川すらも明日の豊かさのために我慢しなければならないものだったのだろうか。
 しかし、これに敢然と立ち向かった男たちがいた。
 行政のあらゆる機関に訴えても埒(らち)があかないため、自然保護運動の先頭に立っていた山崎圭次さん、坂本九郎さんらは肚(はら)をくくる。1971年6月9日未明、高知パルプからの排出口のマンホールに生コン車一杯のコンクリートを流し込んで排水を止めたのだ。それも、交番の前で。この快挙に、高知市民は拍手喝采した。あの、日本でもっとも汚い川と呼ばれた不名誉な江ノ口川がこれで蘇る。
 山崎さんらはもちろん、有罪を覚悟していた。愛する故郷を守るための、それはやむにやまれぬ行動だった。
 弁護の依頼を受けた宇井さんは当時日本最高の公害研究者を高知に集め、山崎、坂本両氏の裁判で特別弁護人チームを組んだ。都留重人、戒能通孝、宮本憲一、庄司光、そしてのちに環境リスク研究の第一人者となる中西準子さんもいた。
 宇井さんの原稿にこうある。

 さて証人は私の同僚の中西準子助手。普段は地味な装いの人がこの日は大サービスでこれまで見たこともない服でやってきて、かねて用意しておいたパルプ排水に金魚を入れた。すると、パタン、コロリと死ぬ。硫化水素ガスを白ネズミに吸わせると、キリキリ舞いしてパタリと死ぬ。「このガスを江ノ口川沿いの人々は毎日吸っているのです。裁判長、検察官、あなた方もひとつ嗅いでみて下さい」と彼女が厳しく命令したときの検事のしぶい顔はいまだに忘れられない。

 こんなユーモアのある宇井さんだが、筋は絶対に曲げない芯のつよさがあった。水俣病の原因がチッソ水俣工場からの排水に含まれる有機水銀であることに確信を持つようになって、ペンネームで書いていた合化労連の機関紙への寄稿を実名にした。当時の産業優先の日本の現状では、研究者として自殺行為だ。東大の研究者だった宇井さんの出世の道は、これで閉ざされることになる。生後1ヵ月の長女を抱えた妻に、涙を見せながら、そう話したという。そしてその通りに、54歳で沖縄大に教授として招かれるまで、東大は宇井さんを助手のまま放置したのである。

 いまや「公害」という言葉が消え去り、それに代わる環境用語がマスコミを賑わしている。時代はたしかに変わった。しかしここに至る道のりは、決して平坦ではなかった。その歴史の1ページを知ってもらいたくて、そして遅ればせながら宇井先生への鎮魂の想いをこめてこれを書いた。

 かくすれば かくなるものと 知りながら
 やむにやまれぬ 大和魂  (吉田松陰)

         Text by Shuhei Matsuoka
posted by ノブレスオブリージュ at 16:43 | コラム

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