IMG_2705 3回目となる、南北朝鮮首脳会談が始まっています。
 スムースに協議が進むと思われていましたが、アメリカの態度硬化に「中断」した状況になっています。
 その打開を模索し、アメリカを協議の中に引き戻す対策が練られるのではないかと推察するものです。
 世界中が朝鮮半島の安定、非核化を望んでおり、せっかくここまで進展してきているわけですし、それをストップさせてはならないと思いますが。


IMG_2699 私が議員として「青柿」にもならないとき、阪神淡路大震災での柴生前市政の対応では、市民のくらしを早く取り戻すべきであること、仮設住宅では孤独死は起こしてはならないという共通する立場で施策は行ったものです。
 神戸市などと比べても、被害はかなり少なかったせいもありますが、トイレの設置、仮設住宅の設置はかなり早く対応できた都市でもありました。
 そうそう仮設住宅が作られた一か所が、中学校給食のセンター施設を計画されている川西市立南中学第2グランドでした。


IMG_2673 孤独死をなくすため、訪問し生存を確かめるため「飲料水を届け、声掛けをする」という制度を始めようとしたとき、かなり反発が起きました。私たち日本共産党議員団は「安否確認ができる」と賛成の立場をとりました。それを柴生前市長は喜んでくれ、当時衆議院であった藤木洋子さんが見舞いにおとづれた時、「日本共産党と同じ考えだ」と楽しそうに話しておられたのを覚えています。とにかく市民の生活の復旧を早くやるんだというところでは共通していました。私が議員になって3か月目に起きた自然災害でした。


IMG_2691 その後の「同和問題」と「中央北地区開発」だけは真っ向意見が衝突しました。激しく論争をしました。
 そうです、青二才の新人議員時代も、私の質問に、市長自ら討論に立ちこちらの質問に対して激しく反論してこられました。
 こちらは「何も知らない」ことを最高の武器としてしつこく質問したものです。懐かしく、楽しい時代だったかもしれません。


IMG_2700 そうそう、何の質問をしたか忘れましたが、3回までしか質問できない制度の時、行政を激しく攻撃し、3回目の討論を行いました。反論させてはならないと「答弁はいらない」としていたのに、柴生前市長が3回目の答弁に立ったので、「答弁は求めていない」と自席から大声で訴えました。ところが答弁を始めたので、私は議場から出て行きました。後にも先にも質問時間に議場から出たのはこの時だけでしたが。
 議員として、はやる気持ちで様々に議論を吹っかけ論争した相手、柴生進氏。
 ご苦労様でした。安らかにお眠りください。