シベリアのポーランド孤児765名の救出(日本人なら知っておくべき実話)
日本が世界中から愛される秘話 - 2011年04月01日 (金)
シベリアのポーランド孤児765名の救出
≪ポーランドからの好意≫
阪神淡路大震災の哀しみの時に、
ヨーロッパの一国がこの時こそ感謝のお返しを
実行に移すときと、ある計画をしていました。
その国名は、「ポーランド」である。
阪神・淡路大震災の震災児童30人ずつが
96年、97年の2回にわけて3週間の招待を受けた。
ポーランド各地で歓待を受けたそうです。
そして
その日本の震災児童の一人の男の子が片時もリュックを
背中から離さないのを見て、世話をしたポーランド夫人が
理由を聞くと、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、
家も丸焼けになってしまって、
焼け跡から見つかった家族の
遺品をリュックにつめているからだと言う。
だから片時も離さないのだと知った夫人は、
不憫で涙が止まらなかったという。
なぜポーランドの人達がこんなにも
親身な親切を?と誰もが思った。
この働きかけをした中心人物は、
東京のポーランド大使館に勤務していた物理学者で
外交官、スタニスワフ・フィリペック氏。
フィリペック氏はポーランド科学アカデミーの物理学教授
だったがワルシャワ大学で日本語を学び、東京工業大学に
留学の経験もあった。
祖母からヤポンスカ(日本)は、小さいけれど
ロシアを打ち負かした事がポーランド人にとって希望となった事、
勇気づけられた事など聞かされて育っていた。
ヤポンスカ(日本)がポーランド人捕虜を手厚く扱った事。
大勢のポーランド人孤児をシベリアの流刑地より助けた事。
この祖母の影響を受け、
フィリペック氏は、日本に興味がわき、日本語を学び
両国の友好のために働こうとしたと言う。
このような親切を戦後の日本人が受けられるのは、
先祖になられた過去の日本政府、過去の一般日本人達
からの徳の遺産、有り難い恩恵だと思います。
そのポーランド人は知っていて、日本人が知らなかった
歴史的事実とは.......
★★★★★
その前に
ポーランドの歴史
ポーランドという国が建国されたのは10世紀。
14世紀から始まったヤギェウォ王朝時代には欧州の大国として繁栄し、
16世紀 に国土が最大となりました。
しかし16世紀後半から選挙王制に移行すると、
地方の貴族が勢力を持つようになり、徐々に国力が低下していきます。
そして18世紀後半には、
隣接していたロシア、プロシア、オーストリアの三国に分割され、
1795年にポ ーランドは消滅。
第一次世界大戦が終了する
1918年に独立するまでの123年間、
ポーランドは世界地図から姿を消すことになります。
(外務省HPより)
首都:ワルシャワ
有名ポーランド人:
ショパン、キュリー夫人、コペルニクスなど
★★★★★
≪大和心≫
1917年(大正6年)ロシアに共産革命が起こりました。
その混乱に乗じてドイツ・ロシアに支配されていたポーランドは、
1919年(大正8年)に念願の独立を勝ち取りました。
このとき
シベリアには祖国に帰りたくても帰れない10数万人もの
ポーランド人が取り残されていたのです。
シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てた者の
ポーランド愛国者の流刑の地だった。
ポーランドが独立した当時は、ロシア国内は革命、反革命勢力を
逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーランド人が
いたといわれている。
その混乱の中、シベリアのポーランド人を救出するのは困難で
特に親を失った孤児たちは、行き場所もなく生きる場所も
見つかりません。
飢餓と疫病の中で苦しい生活を余儀なくされていた孤児たち。
特に親を失った子供達はきわめて悲惨な状態に置かれていた。
この窮状にせめて子供達だけでも生かして祖国に送り届けたい
との願いから1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によって
ポーランド救済委員会が発足した。

委員会は各国に支援の要請をしましたが、ことごとく拒否されていた。
翌1920年春にはポーランドとソビエト(ロシア)との間に戦争が
始まり、孤児達をシベリア鉄道で送り返すことは不可能となった。
ポーランド救済委員会に応じたのは、日本だけだった。
この時の日本の対応はすばやく、ポーランド救済委員会の
アンナ・ビエルキエビッチ会長が1920年(大正9年)6月に
来日し外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えてから
17日後に外務省は救済を決定し赤十字に依頼。
独立後間もないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない
状態での決定である。驚くべき早さだった。
ちょうどこの時期、日本はロシアの赤化による影響防止と
チェコスロバキア軍救出のためイギリス、アメリカ、フランスとともに
シベリアに出兵しており、その帝国陸軍の支援も得て、
救出決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣が
ウラジオストクを発ち、敦賀経由で東京に到着した。


↑ウラジオストックでの孤児達。
それから翌1921年7月までに5回。孤児375名が来日。
さらに1922年夏には、第二次救済事業として3回にわたり、
390名の孤児達が来日した。
合計765名に及ぶポーランド孤児達。
習慣や言葉が違う孤児達のことを考え、日赤は孤児10名に
1人の割合で合計65名のポーランド人の大人を一緒に招く
という手厚い配慮までしている。
日本で病気治療や休養した後、第一次はアメリカ経由で、
第二次は日本船にて直接祖国ポーランドに送り返された。
続く。

人道上とはいえ、まだ独立間もないポーランド国の
孤児達を救済すると外務省の早い決断決定は、
日本の外交史に残る英断だと思います。
また日赤による大人同行の配慮も当時において
素晴らしい決断だったと思います。
こうして、日本に到着したポーランド孤児達は、
日赤の手厚い保護と治療を受ける事になります。
〔孤児達を迎え入れる準備と受け入れ先〕
1920年(大正9)から21年にかけて収容された
第一次孤児達375名は、東京渋谷町へ。
(現東京渋谷区広尾)
「福田会育児所」に収容されました。
日赤本社病院に隣接しており、設備も整い、
運動場や庭園もあり、子供達を収容するに
適した環境だった。
1922年(大正11)に助け出された第二次孤児達
388名は、大阪へ。(現大阪市立大学医学部付属病院)
「大阪市公民病院付属看護婦寄宿舎」が用意された。
新築2階建ての未使用だったため、清潔で庭も広く
環境がすばらしく良い場所だった。

第一次孤児達375名は、東京渋谷町へ。
(現東京渋谷区広尾)
「福田会育児所」に収容されました。
日赤本社病院に隣接しており、設備も整い、
運動場や庭園もあり、子供達を収容するに
適した環境だった。
1922年(大正11)に助け出された第二次孤児達
388名は、大阪へ。(現大阪市立大学医学部付属病院)
「大阪市公民病院付属看護婦寄宿舎」が用意された。
新築2階建ての未使用だったため、清潔で庭も広く
環境がすばらしく良い場所だった。
ウラジオストクから陸軍の輸送船「筑前丸」が
敦賀湊に入港しました。
乗船していたのは、粗末な服を着た、
痩せた青白い顔の
疲れ切った子供達だった。
敦賀湊に入港しました。
乗船していたのは、粗末な服を着た、
痩せた青白い顔の
疲れ切った子供達だった。

敦賀での孤児達
日赤は
病気を防ぐため、着ていた衣類などをすぐさま熱湯消毒をし、
孤児達には代わりに新しい浴衣があてがわれた。
病気を防ぐため、着ていた衣類などをすぐさま熱湯消毒をし、
孤児達には代わりに新しい浴衣があてがわれた。

人道の敦賀港
孤児たちの上陸にあたり、敦賀町内では、
お菓子、玩具、絵葉書などを
たっぷりと孤児達に支給しました。
地元の有志をはじめ、婦人会でもお菓子、果物などの差し入れを行い
子供達を慰めました。
敦賀での滞在は、数時間または長くても1日というものでしたが、
敦賀の人達は出来る限りの温かい手を差しのべました。
◇◇◇
この時の様子を特に印象深いと回想されている孤児もいました。
当時9歳だったハリーナ・ノビツカさん(故人)回想
「到着した敦賀の美しい花園のある浜辺の民家とバナナ・みかんなど
見たこともない果物を食べ、日本の子供達と一緒に遊んだ想い出が
忘れられない」と語りました。
◇◇◇
近くの小学校で昼食をとり、休憩をとった後、列車で東京に
向かいました。
◆◆◆
ここで当時の敦賀湊の歴史。
敦賀港は当時国際港で、
この港と大陸を蒸すんだ航路の入港、出港に合わせて
東京からの直通列車が運行されていました。
敦賀からウラジオストックへ渡り、
シベリア横断鉄道を経由してヨーロッパへ渡る
「欧亜連絡国際列車」とも言われていました。
度重なる人道的な受け入れ港として
のちに「人道港」と
言われるようになりました。↓
欧亜連絡国際連絡の旅路
◆◆◆
≪手厚い保護≫
到着したポーランド孤児達の事は、たちまち日本国民の
最大の関心事になり、同時に大きな同情を集めました。
日本国民からは、寄付やおもちゃ、人形、お菓子など
子供達が喜びそうな品々を贈る人が後を絶たず、
無料で理髪、そして歯の治療なども申し出る人もいました。
また、学生音楽会は慰問に訪れ、
各仏教会婦人部からの慰安会招待、寄贈品、慰問品などを
持ち寄る人々が後を絶たなかった。
そんな折、
4月6日には、赤十字活動を熱心に後援されていらっしゃった
貞明皇后(大正天皇のお后様)様が日赤本社病院の孤児達を
慰問のため行啓され、親しく接見されました。
皇后陛下は、孤児達に優しく語りかけ、親の温もりを忘れて久しい
孤児達を優しく抱きしめました。
孤児達の中の最も可愛らしい3歳の女の子
ギエノヴェファ・ボグダノヴィッチをおそばに召されて
その頭を幾度も撫でながら、「健やかに育つように」と話されました。
◇◇◇それぞれの回想◇◇◇
孤児のひとりの少女が回想でこう述べています。
「どんなに優しくされても心細くてたまらなかった時に、
孤児収容所に訪問された貞明皇后様に抱きしめてもらったことが
今でも忘れられない」
ヘンリク・サドスキさん(故人)回想
「孤児収容所に慰問された貞明皇后様に抱きしめてもらった
ことが忘れられない」
だから、
「一番大事にしている物を皇室に渡して」と救出当時の写真を
「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」に託していた。
シベリーナ・リロさん(故人)
平成14年
今上天皇・皇后陛下がポーランド訪問の時に
孤児生存者の一人として
「長年の感謝の気持ちを」と恐縮しつつも謁見。
「日本は天国のようなところだった」と言い残している。
◇◇◇
続く
(かたくり)
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