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中世ヨーロッパ社会と売春婦 | 中世史の保管庫(テーマ別を使うと見やすいです)
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中世ヨーロッパ社会と売春婦

『中世の裏社会』(A・マッコール)から〔15〕



○中世ヨーロッパの売春事情


(1)性行為と教会

 A.教会の教えでは「肉体的快楽は悪魔が作り出したものであり、人間の恩寵からの堕落と大罪の産物」であった。原理的には教会にとって、性行為から快楽を得ることはたいへん邪悪だったので「結婚していても性交に制限を加える」ように主張する聖職者もいた
 B.しかしトマス・アクィナスのバランスある見解では「性交への喜びの衝動は神が人間の本能として創造されたのだから、過度な追求をしない限りは罪にならない」とされた(13世紀)
 C.売春についても、教父アウグスティヌスとトマス・アクィナスが共に「社会における必要悪」と捉えていた


(2)中世初期の売春

 A.ローマ人が繁栄させていた「贅沢な売春宿、特殊浴場」は、ほとんどがゲルマン人の侵入によって破壊された。そして売春が見られたのは「官憲から逃れて食物をあさって生きる人々の群れ、主人から逃亡した男女の奴隷の中」だった
 B.彼ら多様な社会層に属した人々は「市場に運ばれる商品、行軍する軍隊、聖地に向かう巡礼団」に従って移動した。中には「婦人の巡礼者が本来の敬虔な目的を見失って、最も不信心な新しい人生を始める」ケースも少なくなかった
[例:8世紀には、多くのイングランドの婦人・修道女がローマ巡礼を許されて出発したが、汚れなく帰る者はほとんどなく、ロンバルディアやガリアには売春婦となったイングランド人の巡礼を見かけない町はほとんど無いほどだった]
 C.統治システムが弱体な中世初期では、売春は概して組織的にはなりにくかった

【奴隷】
 D.西欧に奴隷制があった時代には、奴隷が所有者・友人の性欲を満たしていた。しかし教会が奴隷制の根絶に成功すると、特に女性の売買に関して顰蹙を買うようになり、こうした取引は次第にキリスト教圏の未開の周辺&圏外に限られるようになった(例:ふしだらな女性をしばしばアラブ人に売ったヴァイキング、ノルマン征服以前のイングランド人)
 E.カロリング帝国内では、買春が発覚した男は処罰の対象だった。また女性売買についての非難は、主に異教徒(ユダヤ人・アラブ人の商人、とりわけアラブの馬商人)へと向けられた


(3)中世盛期の売春

 A.都市の復活とともに組織的売買が復活する。「軍隊と共に旅する、犯罪組織や傭兵隊に身を投じる」よりも、商人の共同体=都市に定住して売春する方が有利となったからだった。11世紀以降「それまで遍歴商人だった者、逃亡農奴、法外放置者」たちは、発展途上の都市へと急激に流入した
 B.商人たちは、売春婦に課税することで都市の財政が潤うことに気付き、都市当局による売春管理へと進んでいく。通常は市壁のすぐ外側に、¨御婦人街¨とフランス・ドイツで呼ばれた公設売春地区が設けられた。その地区の住民は「しばしばリボン・マント・ボンネットを目印に付けるよう義務付けられたが、一方で許可を与えられて当局の保護下に置かれた」
 C.一方で、当局にとって上前をはねるのが難しい、もぐりの「周旋人、夜鷹(遊女)、『悪霊に取り憑かれている』という口実で市場や教会の外で裸になって商品を開示する¨気違い¨」は、市門に連れて行かれて鞭を打たれ、さらに追放された
 D.売春宿に行くことを禁じられていたのは「聖職者、しばしばユダヤ人、時には既婚の男性、都市のパン屋(ウィーンの場合)」だった
 E.ローマ人が好んだ入浴は、十字軍の帰還兵士によって復活したと考えられている(彼らは東方のトルコ風浴場の喜びを味わった)。ロンドン(早ければ1100年)には風呂屋が作られたが、12世紀中には売春宿となっていたという

【教会組織や当局と売春の規制・黙認】
 F.多くの教会組織は、売春宿の経営に直接関わることは避けていたが、場所貸しはしていた。中世を通じ、多くの司教・大修道院・修道院・教皇庁(中世末期に売春宿の主人に土地を貸して、多い年には2万ドゥカーティ以上の収入を見込んだ)が関与した。売春宿からの収入を巡って教会組織と世俗当局が論争することも珍しくなかった
 G.「ウィンチェスタ司教領管轄下のサザク(ロンドン市外)での売春宿管理に関する定め」は、ヘンリ2世によって定められた(以下はその項目の幾つか)

 「売春宿の所有者は、1人の女性であっても自由に出入りすることを妨げてはならない」
 「彼女に対して売春宿に住むように強制してはならない」
 「彼女が住むと言っても、部屋代を週14ペンス以上取ってはならない」
 「女が売春をやめたいならば、宿の主人はそれを妨げてはならない」
 「明らかに妊娠している女性・夫のいる女性・修道女を雇ってはならない」
 「祝祭日に営業したなら、教区から追放される」
 「売春婦は一晩共に寝ない限り、男から金銭を取ってはならない」
 「支払いを拒否した客は、売春宿に拘留されるのではなく、荘園領主(※ウィンチェスタ司教)の牢獄に連行される」
 「売春婦は戸口に立ったりしても、通行人の袖をしつこく引いたり、彼らに石を投げたりしてはならない」
 「何らかの性病を持つ売春婦を使った者には罰金20シリングが科せられる」
 「売春宿の主人はボートを持ってはならず(サザクの荘園はテムズ河を挟んでロンドン市の対岸にあった)、洗濯女1人・厩番1人より多くを持ってはならない」
 「いかなる女性にも6シリング8ペンス以上貸してはならない」
 「ウェストミンスタで議会が開かれている時・王が枢密院の集会を開催している時には、全ての売春婦は期間中領地を立ち去らねばならない」

 H.荘園の荘官は毎週視察しなければならないとされた。視察時には、病気の女がいないか・無理矢理置かれている女がいないかを確認し、さらに「予め準備された一連の質問を売春婦・主人に対して行い、規定が守られているかどうかを確認」した(違反にはその度合いに応じて罰が科された)。もちろん「賄賂を受け取る、賦課金の一部を着服する」といった、王・荘園領主の正当な利益をかすめ取ることが無いよう、荘官自身も厳しく取り締まられた
 I.この規定の特徴は「売春宿はまじめで有用な場所である」と主張している点だった(大陸のものには無いという)。規定の上では「客は1人の女性に1晩中もてなされるだけであり、主人は客にエール・パン・肉・魚・蝋燭・いかなる必需品も出してはならない」とされた
 J.しかし、この規定が目指した「サザクの騒々しい売春宿を静寂な性風俗の店にする」という狙いはほとんど実現しなかったようだ

【十字軍と売春婦】
 K.教皇庁は、十字軍に従軍する兵士が売春婦を連れていくなどというみっともないことをするのを止めさせようとしたが、もちろん無駄に終わった。アラブ人イマド・アッディーンはかなり潤色して、「若さと美貌に満ちた300人の愛らしい」女性が船に乗ってやって来た、と記述した
(※イマドの記述の抜粋は省略)


(4)売春する側の事情

 A.売春婦たちは、金銭のためだけでなく感謝されるために「身体を提供したり、魅力を振りまいた」のは事実だった。これが売春規制立法の重大な障害の1つだった
 B.セミプロもしくは臨時の売春婦があまりにも多く、当局の監視は到底及びきらなかった
(例:あるロンドンの薬種商は、経営していた売春宿に既婚の女性を多く出入りさせていたので投獄された。この宿は¨悪名の館¨と名指しされていた・1338年)
 C.尊敬すべき市民の妻や娘ですら、性欲を満たすため・僅かな小遣い稼ぎのために¨悪の巣窟¨にしげしげと通った(ロンドンの布告・1417年)
 D.一方で、田舎出の貧しい娘・飢えた家族の母が身体を売って、自分や子供の惨状を救う機会に飛びつくのは当然のことだった。田舎から出てきて女中として働く女性が受け取れる賃金は少なく、それを補うためにパートで売春せざるを得ない者は少なくなかった。そうした彼女たちが、自分のことを売春婦と思っていたとは想像しにくいし、当局に出頭して登録しようとは考えなかったようだ


(5)パリの売春(13世紀)

 A.中世の国王の中で、道徳的観点から売春に最も意を注いだのは聖王ルイ9世だったが、祖父の尊厳王フィリップ2世は全く関心を示さなかった。フィリップ2世にとってみれば、性的に特に忌み嫌うべきは同性愛だった

【フィリップ2世治世下】
 B.パリ大学の発展とともに売春は盛んになっていくが、学生の多くがカルティエ・ラタンの売春婦とかなりの時間を過ごした
 C.特に、経営のしっかりとした売春宿によるものは奨励された。新しい役人である「風紀取締官」が、パリの売春婦「組合」からの上がりを守るために宮廷で任命された

【ルイ9世治世下】
 D.彼は幾度となく売春婦を改心させる努力をした。時には「その道を悔い、売春宿から身を引いた売春婦」に対して年金を約束した。さらに「貞節の徳の実践に残りの一生を捧げる」と決心した女性が不自由なく暮らせるように「多くの新しく立派なベギン会の修道院を設立」or「その基金を寄付」した。また、パリ郊外に¨神の娘たちの家¨と呼ばれる、貧困のために売春せざるをを得なかった女性たちを住まわせる建物を建設し、それを養うために年400リーヴルを与えた
 E.しかし彼が驚き大変悔しがったのは、足を洗おうとする売春婦がほとんど居なかったことだった
 F.ある売春婦が生活を改めると言ったとしても、それが本当とは限らなかった。¨神の娘たちの家¨でも、生活の改まらない住人が昔の古巣に行ったり、最悪なのは「今住んでいる¨神の娘たちの家¨に客を連れ込み、他の住人の悪い見本となる」パターンだった
 G.彼女たちの変節・堅い意志の欠如を見たルイ9世は「戒められても売春を続ける女は教区から追放され、財産は没収される」という勅令を発した(1254年)。しかしほとんど実効性はなく、結果として売春を地下に潜らせただけだった