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ヴェトナム独立宣言の世界史
Page 1
ヴェトナム独立宣言の世界史
―― ヴェトナムとアメリカの独立宣言を結ぶ――
はじめに
ハノイを旅して
二度目のハノイ訪問だった。今回の旅の主な目的は、1945年 9月 2日 に出されたヴェトナム民主共和
国の独立宣言の成立事情を探ることであつた。ハノイは11世紀に李朝の首都がおかれて以来、約1000年
の歴史をもつ古都である。だが、旅人の印象に強く残るのは、19世紀後半以降のフランス統治が残した
蒲洒な洋館やカトリック教会に見られるコロニアニズムである。あるいは20世紀末以降のヴェトナムの
経済発展を象徴する建築現場と街を走り回る原付バイクの群れだろうか。
2012年 12月 26日 、飛行機から降り立ったハノイの街は、時折、小雨交じりで霧に煙っていた。到着し
て数日後、当初の予想よりも肌寒い気温15度以下の街を散策し、やがてホーチミンが独立宣言を発布し
たバーディン広場にたどり着いた (図 1を参照)。
そこには、現在、ホーチミンが永遠の眠りにつく廟が
ある (図 2を参照)。
今から67年前、ホーチミン廟のそびえ立つ場所に本製のやぐらが組まれ、そこから
記念すべき独立宣言がホーチミンによって読み上げられたかと思うと、感慨深かった。
多くの日本人にとって記憶に残る年は、長きにわたるゾェトナム戦争が終わりを告げ、南北が統一さ
れた1975年であろう。その翌年にヴェトナム社会主義共和国は成立した。しかし、ハノイを首都とする
この国の出発点は、1945年の独立宣言発布に求められる。実際に、1945年を起点として、例えば1995年
には建国50周年記念が挙行され、独立記念日は9月 2日 と定められている。この国の出発を画した場所
だからこそ、バーディン広場周辺は、今でも「聖地」として神聖視され、厳重に警備されているのかも
しれない。
それでは、ヴェトナム民主共和国の独立宣言 (以下「ヴェトナム独立宣言」と略記)とは、どのよう
な文書だろうか。文書は、ホーチミンがヴェトナム語で起草し、すぐにフランス語や英語にも翻訳され
た。この独立宣言に多大な影響を与えたと言われるのがアメリカ独立宣言とフランス人権宣言である。
実際にヴェトナム独立宣言で引用されるアメリカ独立宣言とフランス人権宣言は、ヴェトナム独立宣言
とどのような関係にあったのだろうか。本稿では、ヴェトナム独立宣言の内容や形式に、より直接的な
影響を与えたアメリカ独立宣言を取り上げ、両者の比較と関係を考察してみたい。具体的には、最初に
ヴェトナム独立宣言の内容を、歴史的背景と宣言時の状況とともに検討し、第二にアメリカ独立宣言の
内容を紹介し、第三に両者の比較と関係を探ることにしたい。
研究史上では、もちろん二つの独立宣言を比較し、両者に形式的・内容的な類似性があることは指摘
されてきた。しかし、両者がどのようにつながったかという点は、必ずしも明らかにされてこなかった。
独立宣言の研究者の多くが当初、法学者だったこともあり、彼らの関心は、出来上がった文書そのもの
にあった1。
独立宣言がどのように起草され、その背後に何があったのかは、あまり注目されなかった
と言える。加えて、独立宣言は、あくまで一国の独立を画するものという視点が強く、多くの研究は一
国史的な枠組みでなされてきた。一国史的な視点は、法学者だけでなく、歴史家にも共有され、他国ヘ
の影響や他の独立宣言との相互関係を問うという国際的な視座は、最近まで希薄であった2。
1そ
の代表的なものが、高本八尺・末延三次・宮沢俊義編『人権宣言集』(岩波文庫、1957年)である。この本には、ア
メリカ独立宣言も、ヴェトナム独立宣言も収録されている。
2例
外として、フランス人権宣言200年 を記念して出版された長谷川正安・渡辺洋三・藤田勇編 F講座 革命と法・全 3
巻』(日 本評論社、1989-94年)力
'あ
る。世界への人権宣言の影響を説いたこの講座の第 2巻「フランス人権宣言と社会主
- 19 -―

Page 2
しかしながら、2007年に出版されたデイヴィッド・アーミテイジの『独立宣言の世界史』
3は
、ァメリ
カ独立宣言に始まる「独立宣言のジャンル」という系譜に着日し、1776年の独立宣言が、その後、次々
と独立する諸国家に影響を行使してきたことを立証し、「独立宣言のグローバル・ヒストリー」という研
究分野があることを強く印象付けた。アメリカ独立宣言を合衆国の専有物から解放し、世界史に開いた
アーミテイジの功績は甚大であろう。実際、『独立宣言』の第 3章は、アメリカ独立宣言とヴェトナム独
立宣言のつながりを指摘している4。
だが、ァーミテイジの主要な関心は、あくまでアメリカ独立宣言
の世界的な広がりにあり、それを受け止めた側、つまリヨーロッパやアジア、アフリカ、オセアニアと
いった各地の状況を十分に掘 り下げるには至っていない。そのため、本稿では、ヴェトナムの独立宣言
が、どのようにアメリカ独立宣言を受け入れたのかという点に比重をおき、ヴェトナムの側からアメリ
カ独立宣言の受容を照らし出すことにしたい。こうした視座は、アジア研究をアジアだけで完結させる
のではなく、アメリカやヨーロッパ、広く世界史と結び付けて論じる必要があるという筆者の問題意識
に基づくものである。
1 ヴェトナム民主共和国の独立宣言
最初にヴェトナム独立宣言の歴史的背景を見ておこう。独立宣言が出された1945年のヴェトナムは、
直前までフランスと日本の支配下にあった。フランスのインドシナ支配は、19世紀後半までさかのぼる。
フランスは、ヴェトナムでの院朝創設の援助を契機とし、1858年のフランス軍によるサイゴン占領を皮
切 りに、62年のサイゴン条約によって南部ヴェトナムを奪い、63年にはカンポジアと保護条約を結び、
84年のフエ条約によって中部・北部ヴェトナムを保護領化し、87年にはラオスを除くインドシナ全土を
統轄するインドシナ総督府をおき、フランス領インドシナ連邦を形成させた。その後、1893年にはラオ
スを、1900年には広州湾租借地をもインドシナ連邦に加えた。
このようにフランスが、連邦制によって分割統治策をとったことは特筆すべきである。ヴェトナム自
体も、南からコーチシナ、アンナン、 トンキンと二つの部分に分けられ、コーチシナは植民地となり、
アンナンとトンキンは保護領になるという形で分割統治された。この間、インドシナの宗主権を主張す
る清との間に1884年、清仏戦争が起き、85年の天津条約によって戦争は終結した。この条約によって、
清は宗主権を放棄し、フランスのヴェトナム支配は確実となった。
フランスによる植民地支配に苦しむヴェトナムの人々にとって、明治維新によって近代化を達成し、
日露戦争にも勝利 した日本は、大きな希望となった。20世糸3初頭の東済運動では、ヴェトナム独立を目
指す人々が日本の近代化に学ぶため来日し、一時は200人以上が東京に滞在した。しかし、その日本が
ヴェトナムを侵略することになるとは、なんとも皮肉な結末である。第二次世界大戦中の1940年 6月
フランスがドイツ軍によって占領され、ヴィシー政権が発足すると、日本は、 9月 に「北部仏印進駐J
を行った。ヴィシー政権は、フランスがドイツに対して降伏した後、非占領地域に成立した親独政権で
あった。そのため日本がインドシナをフランスから奪い、単独で支配すると、同盟国ドイツに対する背
信行為になりかねなかったので、日本は、フランスとともに共同でヴェトナムを支配することになった。
こうして1940年から
年までヴェトナムは、「日本 =フ ランス共同支配期」を経験した5。
日本は、19411T以降、フランスの植民地政権と協力し、その統治システムを温存・利用しながら、ヴェ
トナムを支配した。しかし、第二次世界大戦末期になると、連合軍のインドシナ上陸という事態が予想
Jの第5章「フランス人権宣言と第三世界」(鮎京正訓)において、ヴェトナム独立宜言が取り上げられている。
3 Davld Armiage.rtt D∝
鯰″磁 げLと
認″″ ′G7aみ α″おり ndge,Mass,2007〔 平田雅博・岩井淳・菅原
秀二・細川道久訳『独立宣言の世界史Jミネルヴァ書房、2012年
4ぁ″,pp 134 135〔 同上訳書、150151頁
5古
田元夫 Fベ トナムの世界史』(東京大学出版会、1995年)、
121頁
-20-―

Page 3
され、フランス植民地政権の協力も期待できなくなったので、日本軍は1945年 3月 9日 に植民地政権を
打倒するクーデタを起こし、インドシナを単独で支配するようになった6。
ただ、この単独支配は長続
きせず、1945年 8月の日本の敗戦によって、ついえることになる。後に紹介するヴェトナム独立宣言に
おいて、「フランスの帝国主義者」批判に続いて、1940年秋以降「日本のファシストJが登場するのは、
以上のような経緯によるものである。
フランスと日本の支配に対して立ちあがったのが「ヴェトミン同盟」である。この同盟は、1941年 5
月に結成され、その綱領では「日本 =フ ランス・ファシスト帝国主義者」を打倒し、「ヴェトナム民主共
和国の革命政府Jを樹立することを主張した。ヴェトミンは、1945年 3月の日本軍のクーデタ後、 4月
にヴェトナム解放民族委員会を設立し、 8月の武装蜂起によって勝利を確実にし、 8月 27日 にヴェトナ
ム民主共和国の臨時政府が樹立された7。
当時55歳だったホーチミンが、臨時政府の首席となった。こ
うして独立宣言が読み上げられる日に至る。以下では、レンズの倍率をあげて、その日の様子をたどっ
てみよう。
1945年 9月 2日のハノイは快晴で蒸暑かつた。その日が日曜だったこともあり、ハノイのキリスト教
徒の多くは、午前中、カトリック教会のミサに参加していた。教会の司祭は、ミサが終わると、人々を
バーデイン広場へ導いたようである。仏教寺院でも、同じような光景が見られた。昼過ぎには、バーディ
ン広場は多くの群衆でごった返していた。
ヴェトナム民主共和国の成立を祝う式典は、午後 2時から始まった。国歌斉唱と国旗掲揚の儀式の後、
ホーチミンが紹介され、本製のやぐらの上に登壇した。彼は、「バーディン広場で独立宣言を読む際に、
古ぼけたカーキ色の服とゴム・サングルという姿で国民の前に姿をあらわした。このスタイルは、その
後のホー・チ・ ミンを象徴するものとなる」8。
彼は、「独立 !独!Jと大声で叫んだ後、聴衆に手を
振つてあいさつした。数分してから両手をあげて、人々に沈黙を促した。ようやく静かになると、ホー
チミンは、手に持った独立宣言を読み始めた (図 3を参照)。 記録は、それに続いて、彼と聴衆との興味
深いやり取りを伝えている。彼は、独立宣言を数行読んだところで急に止めて、聴衆に問いかけた。「皆
さん、私の声がよく聞こえますか ?J。 聴衆は、すぐに「よく聞こえます」と応じた9。
そうしたやり取
りを通して、バーディン広場に集まった大衆は、ホーチミンの肉声から流れる独立宣言を体感したので
ある。
ホーチミンの手による「ヴェトナム民主共和国の独立宣言Jは1945年 8月 下旬にヴェトナム語で起
草された (図 4を参照)。
その内容は、以下のようになっている°。
①すべて人間は平等につくられている。すべて人間はその創造主によって、だれにも譲ることのでき
ない一定の権利を与えられている。これらの権利の中には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれる。
②この不減の声明は、1776年にアメリカ連合諸邦の独立宣言の中でなされた。このことは広く解釈す
ると、次のようになる。地球上の全人民は生まれながらに平等であり、全人民は生きる権利、幸福にな
る権利、自由である権利を持つ。
1789年 〔原文は1791年だが、1789年の誤記と思われる一― 〔……〕内は引用者、以下同様〕になされ
たフランス革命の「人間と市民の権利の宣言」〔人権宣言〕は次のように述べている。「全ての人間は自由
6同
上書、122頁
7前
掲『フランス人権宣言と社会主義』、332,336頁。
3古
田元夫「ホー・ チ・ ミンーー民族解放 とドイモイ』(岩波書店、1996年)、
134頁。
9 D G Marr2■
o Chi Mhislndependence DedaratiOr h K W Taylor and」
K IVhitmore← ds),Es響
た物
"●
´
PaSち Ithaca,1995,PP 224-226
10 Ho Chi MinL Sι睦 ″′シンb嘱4vols,HanoL 1960 62′ Ⅲ,PP 17 21〔岩井淳訳、訳出にあたっては、稲子恒夫訳「ヴェト
ナム民主共和国独立宣言」前掲『人権宣言集』、初に349頁を参照した。前掲『独立宣言の世界史J、
%8251頁。① ②③ Э
は筆者によるもの〕
-21-

Page 4
で、平等な権利を持つ者として生まれ、常に自由であらねばならず、平等な権利を持たねばならないJ。
これらのことは否定できない真理である。
③ しかるに、80年以上にわたってフランスの帝国主義者は、自由
平等・友愛の原理を裏切り、我が
父祖の地を侵略し、我が同胞市民を抑圧してきた。彼らは、人道と正義の理念に反する行動をしてきた。
政治の分野では、彼らは我が人民から全ての民主的自由を奪った。
彼らは人道に反する法律を強制した。彼らは、我々の民族的統一を破壊し、我々人民が団結すること
を防ぐために、ヴェトナムの北部、中部、南部に異なった三つの政治制度を設けた。
彼らは学校よりも多くの監獄を建設した。彼らは我が愛国者を容赦なく殺裁した。彼らは我々の蜂起
を鎮圧し、血の川に沈めた。
彼らは公論を東縛した。彼らは我が人民へ愚民政策を実行した。
彼らは、我が人種を弱体化させるために、我々にアヘンとアルコールの使用を強要した。
経済の分野では、彼らは我々を徹底的に搾取し尽くし、我が人民を貧しくし、我々の土地を荒廃させ
た。
彼らは我々から水田、鉱山、森林、そして原料を略奪した。彼らは通貨発行と対外貿易を独占した。
彼らは無数の不当な租税を捏造し、我が人民を、とりわけ農民を貧困の極みへと追い込んだ。
彼らは我が民族の資本家の繁米を妨害した。彼らは我が労働者を容赦なく搾取した。
日本のファシストが、連合国との問いで新しい基地を設けるためにインドシナの地に侵入した1940年
秋、フランスの帝国主義者は、ひざまずいて屈服し、わが国を彼らに引き渡した。
この時以来、我が人民は、フランス人と日本人の二重の幅に隷属させられた。我々の音難と悲惨は、
いっそうひどくなった。その結果、昨年末から今年初めにかけてクアンチ地方からヴェトナム北部にか
けて二百万人以上の我が同胞市民が飢死するに至ったのである。3月 9日にフランス軍は日本軍によっ
て武装解除された。フランスの植民主義者は、我々を「保護する」能力がないばかりか、五年の間に二
度までもわが国を日本人に売り渡したことを明らかにし、逃亡するか降伏するかした。
3月 9日以前に、ヴェトミン同盟は繰り返しフランス人に、日本人と対抗するため同盟するように呼
び掛けた。フランスの植民主義者は、この提案に同意する代わりに、ヴェトミンの構成長に対する暴カ
活動を激化させ、逃亡する前に、彼らはイェン・ベイとカオ。バングで我が政治犯の大多数を虐殺して
しまった。
これらのこと全てにかかわらず、我が同胞市民は、つねにフランスに対して寛大で人道的な態度を示
してきた。1945年 3月の日本の武装侵入の後でさえ、ヴェトミン同盟は、多数のフランス人が日境を越
えるのを助け、何人かを日本の捕虜とならないように救出し、フランス人の生命と財産を保護したので
ある。
1940年秋以来、事実上、わが国はフランスの植民地ではなく、日本の占領地となった。
日本人が連合国に降伏した後、我が全人民は、民族の主権を取り戻し、ヴェトナム民主共和国を建設
するために立ち上がった。
我々は、フランス人からではなく、日本人から独立を勝ち取ったというのが、真実である。
フランス人は逃亡し、日本人は降伏し、皇帝バオダイは退位した。我が人民は、一世紀近くにわたつ
て我々を東縛してきた鉄鎖を断ち切り、父祖の地の独立を勝ち取つたのである。同時に我が人民は、10
世紀以来、君臨してきた君主制を打倒した。代わって現在のヴェトナム民主共和国が樹立された。
④以上の理由から、我々臨時政府の構成員は、全ヴェトナム人民を代表して、今後、植民地的性格を
有する全ての関係をフランスとの間で断ち切り、フランスがこれまでヴェトナムと調印してきた全ての
国際条約を撤回し、フランス人が我が父祖の地で不法に手にしてきた全ての特権を廃止することを宣言
する。
共通の目的に鼓舞されたヴェトナム全人民は、フランスの植民主義者によるわが国を再び征服しよう
-22-―

Page 5
とする一切の企みに対して、断固として闘うことを決意している。
我々は 〔1943年 11月〕テヘランと 〔1945年 4月〕サンフランシスコで民族自決と諸国民の平等を承認
した連合国が、ヴェトナムの独立承認を拒むことはないと確信している。
80年以上にわたつてフランスの支配に勇敢に立ち向かってきた人民、ここ数年の間はファシストに対
して連合国と共に関ってきた人民、そのような人民は自由で独立していなければならないのである。
以上の理由から、我々ヴェトナム民主共和国臨時政府の構成員は、世界に対して厳粛に、ヴェトナム
は自由で独立した国家となる権利を持ち、事実、ヴェトナムは自由で独立した国家であると宣言する。
ヴェトナム全人民は、その独立と自由を自らの手で守るために、物質的・精神的力の全てを投じ、生命
と財産を犠牲とすることを決意したのである。
ここに紹介したヴェトナム独立宣言の構成を分析すると、次のようになるだろう。まず冒頭で、①「す
べて人間は平等につくられているJという原則を掲ヤ八 ②その根拠として、アメリカ独立宣言とフラン
ス人権宣言を引用し、自然権思想を強調して、「これらのことは否定できない真理であるJとする。その
後、③80年以上に及ぶフランスの植民地支配を痛烈に批判し、1940年秋以降は、フランスだけでなく日
本の侵入も加わるが、それを払いのけ、ヴェトナム民主共和国が樹立されるまでを回顧する。この部分
が独立宣言で最も長い部分である。④そうした歴史を受けて、民主共和国臨時政府がヴェトナム人民を
代表する正当な政府であると主張し、この点を世界に向けて訴えている。
この独立宣言の最大の意義は、すでに繰り返し指摘されてきたように、自由・平等といった人間の権
利を民族の権利に読み替え、自然権思想に基づきながら民族解放の理論を提示したことにあるだろう。
「ヴェトナム独立宣言は、第二次世界大戦後もえあがったアジア・アラブの民族解放運動の最初の産ぶ声
であつた」
nと ぃぅ評価は、おそらく今日でも通用する。しかし、この独立宣言を慎重に吟味すると、も
う一つの独立宣言と形式も内容も酷似していることに気づかされる。そうなるとヴェトナム独立宣言は
「最初の産ぶ声」というだけでなく、旧来の独立宣言の継承者という見方も成立するだろう。もう一つの
独立宣言とは、他ならぬアメリカ独立宣言である。
2 アメリカ独立宣言
アメリカ独立宣言は、トマス・ジェファソンによって起草され、「1776年 7月 4日、大陸会議における
アメリカ連合諸邦による全会一致の宣言」
Pと
いう正式名称で公布された。その背景を説明すると、1763
年に七年戦争が終結すると、財政難に陥ったイギリス本国は、北米13植民地に様々な税を課した。これ
に対して植民地側は、「代表なくして課税なし」という主張を掲げて反対運動を展開したので、課税政策
の大部分は撤回された。しかし、1773年にポストン茶会事件が起きると、本国政府は植民地を厳しく罰
したので、イギリス本国とアメリカ植民地との抗争は本格化した。1775年 4月 には、レキシントン・コ
ンコードで武力衝突が始まった。アメリカ植民地は、同年 9月 、フィラデルフィアで開かれた第一回大
陸会議以降、結束していった。
だが、1775年の武力衝突は、本国軍と植民地軍がイギリス帝国のなかでぶつかったという性格のもの
で、まだ独立は既定路線ではなかった。独立の気運が広がるのは、翌1776年 からである。その年の 6月
7日、ヴァージニア代表のリチャード・ヘンリ・ リーが植民地の独立を含む三項目の決議案を大陸会議
H前
掲『人権宣言集』、344頁。
2通
常「合衆国」と訳されるthc Untcd Statcsであるが、本稿は1776年から88年までを「連合諸邦Jと訳した。この理解
は、アメリカ独立革命史の研究者・斎藤員氏による、合衆国憲法が発効する1788年 6月 まで、Statcは 「州Jでなく、国
家に準じる「邦」を意味するという見解に従ったものである (斎藤員『アメリカとは何か』平凡社ライプラリー、1995
年、154、
176頁を参照)。
-23 -―

Page 6
に提出した。この時点では、独立に反対する植民地もあり、その決議は先延ばしになったが、7月 1日
を目途に独立の宣言を起草する委員会が作られた。この委員会でジェファソンが中心となって起草した
ものこそ、独立宣言案である。 7月 1日には、まだ13植民地の全部が賛成しなかったが、翌日になって、
ニューヨーク代表が棄権した以外は足並みがそろい、独立宣言案が審議され、若干の削除・加筆をして
7月 4日 にアメリカ独立宣言が公布されたのである
Ю
こうして世に広 く知られる「アメリカ独立宣言」が誕生した。その一部は、世界史の教科書などにも
紹介されているが、全体となると意外に知られていない。全文は、以下のようになっている
・ 。
①およそ世の成行きとして、一回の人々がいままで彼らを他の人々に結びつけていた政治的絆を断ち
切り、地上各国の間にあって、自然の法や自然の神の法によつて本来当然に与えられるべき独立対等の
地位を主張しなければならなくなる場合がある。そうした場合、人類の意見をしかるべく尊重しようと
するならば、その人々が分離せざるをえなくなった理由を、公に表明することが必要であろう。
②我々は、次の真理は別に証明を必要としないほど明らかなものであると信じる。すなわち、すべて
人間は平等につくられている。すべて人間はその創造主によつて、誰にも議ることのできなぃ一定の権
利を与えられている。これらの権利の中には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれる。これらの権
利を確保するために、政府が設置されるのであつて、政府の権力はそれに被治者が同意を与える場合に
のみ、正当とされる。いかなる形体の政府であれ、こうした政府本来の目的を破壊するようになれば、
人々はいつでもそうした政府を改変し、廃止する権利を持つている。そして、新しい政府をうちたて、
その政府によって立つ原理、その政府権限の組織形体を、人々の安全と幸福とに最も役立つと思われる
ものに求める権利をもっている。もちろん、長く確立されてきた政府を、一時的な理由によって軽々し
く改変してはならないことは、まことに思慮分別の示すとおりである。事実、人類の経験に照らすなら
ば、人類は、慣れ親しんできた形体を廃止することによって権利を回復しようとするよりは、その弊害
が忍びうるものである限りは、むしろ堪えようとする傾向のあることが示されている。しかし、長年に
及ぷ権力の濫用と権利の侵害とが、一貫した目的の下に行われ、人々を絶対的な専制政治の下に引き入
れようとする意図が明らかなときには、そのような政府を転覆し、みずからの将来の安全を守る新しい
組織をつくることは、人々の権利であり、また義務でもある。これらの諸植民地が堪え忍んできた苦難
は、まさしくそうした事態であり、いまや彼らはやむなく、彼らの従来の続治形体を改変する必要を見
るに至ったわけである。グレイト・ プリテン現国王の歴史は、通法行為と権利侵害とを繰り返し行った
歴史であり、すべてこれらの諸邦の上に、絶対的な専制政治を確立することを直接の目的として行われ
たものであつた。このことを証明するために、ここに、公正な世界に向かって多くの事実を提示しよう
とするものである。
③彼、国王は、公共の福祉のために有益にして必要な法律の裁可を拒んだ。
彼は、彼の裁可あるまではその執行を停止するという規定のない場合には、その総督をして緊急の法
律すら成立させることを禁じ、その規定ある場合には、その執行を停止しておいて、その法律をまった
く放置しておいた。
彼は、広大な選挙区を分割して人民の便宜をはかる法律の制定を拒み、人民が議会に代表される権利
を放棄することを求めたが、代表権は人民には最も尊いものであり、ただ暴君にとってのみ恐るべきも
のである。
彼は、いくつかの植民地議会を常と異なり、公文書記録類の所在地から遠く離れた不便な地に召集せ
しめたが、これはもっばら議会をして疲労させ、結局彼の方策に同意させることを目的としたものであ
Ю
斎藤員「1776年時点における独立宣言」前掲『アメリカとは何かJ、
131‐ 133頁。
И 67a″″ο″助 滋ιR響
"″"“
ゲ厖θυ″″ S″め グス″′″
rz c″ ″′″′C″ssスss笏 6″4 PhJadelpha.1776
〔菅原秀二訳、前掲「独立宣言の世界史』、192198頁。◎ЭЭ④は筆者によるもの〕
-24-

Page 7
る。
彼は、各植民地議会代議院が国王による人民の権利の侵害に対して雄々しくも反対したために、代議
院を繰り返し解散した。
彼は、このように解散したのち、選挙によって新しい代議院を成立させることを長期にわたって拒ん
だ。その結果、本来消滅することのない立法権は人民一般の手に復帰したままになり、その間諸邦は外
部からの侵入と内部よりの反舌Lと いう危険にさらされることとなった。
彼は、諸邦の人口の増大の阻止に努めた。その目的のために、外国人帰化法の制定を妨げ、移民の来
住を奨励する立法の成立を拒み、土地を新しく取得する条件を厳しくした。
彼は、司法権設立のための法律に裁可を拒むことによつて、司法制度の実現を妨げた。
彼は、裁判官を、その任期およびその報酬の額・支払いについて、もっぱら彼の一存の下に左右する
ようにした。
彼は、数多くの官職を新しくつくり、新任の官吏を数多く派遣して、我々人民を悩まし、その財産を
消耗させた。
彼は、平時において、植民地議会の同意を得ることなく、我々の間に常備軍を駐屯させた。
彼は、軍の権力を、政治の権力より独立させ、かつ優位に立たしめるようにした。
彼は、プリテン議会の越権の立法行為に裁可を与え、その結果、プリテン議会と結託して、わが憲法
の認めていない、またわが諸法律の承認していない権限に、我々を服従せしめた。その立法行為とは次
のようなものである。
我々の間に多数の軍隊を宿営せしめた。
その軍隊が諸邦の住民に対して殺人を犯すことがあっても、偽りの裁判によって処罰を免れしめた。
わが諸邦が世界各地と通商することを禁止した。
我々の同意なくして租税を課した。
多くの裁判において、陪審による裁判の利益を奪った。
こじつけの犯行を理由として、植民地人を裁半」のために大西洋をこえて移送した。
隣接の王領植民地においてイングランド法の自由な制度を廃して、そこに専断的な政府を樹立し、し
かもその境界を拡大して、同時に既存の諸植民地に同様な専制的な統治を導入する先夕Jと し、また格好
の手段とした。
我々の特許状を撤回し、我々にとり最も貴重な法律を廃止し、わが政府形体を根本的に変えた。
我々の議会の活動を停止し、いかなる事項についても本国議会自体が植民地のために立法する権限あ
りと官言した。
彼は、我々植民地人を、国王の保護外にあると宣言し、我々に戦争をしかけることによって、アメリ
カにおける統治を放棄した。
彼は、我々の海域を略奪し、沿岸を侵略し、町村を焼き、植民地人の生命を奪った。
彼は、現在外国人備兵の大軍を輸送しつつあり、もって、最も野査な時代にもその比をみない、およ
そ文明国の元首というには全くふさわしくない残虐と背信の数々をもって始められた殺裁、荒廃、専制
の所業を成就しようとしている。
彼は、公海において捕虜となったわが同胞をして、強制的にその祖国に対し武器をとらしめ、その友
人同胞を処ЛUするもの、あるいは逆にみずから友人同胞の手に倒れるものたらしめた。
彼は我々の間に反乱を起こし、辺境の住民に対して、苛酷なインディアン蛮族に攻撃させた。インディ
アンの戦闘法が、年齢、性別、貧富の別なく相手方を蔵減するものであることはよく知られている。
以上のごとき圧制的措置に対しては、我々はそれを止めるよう、その都度、きわめて謙譲な言葉をもっ
て請願してきた。だが、我々の繰り返し行なわれた請願は、ただ繰り返し行われる権利侵害をもって応
えられたにすぎない。このように、どれも暴君の定義となるような行為をその特色とする君主は、およ
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そ自由な人民の続治者としては不適格である。
我々はまた、プリテンの同胞に対しても注意を促すことに欠けるところはなかった。
我々は再三再四、彼らに対し、その議会が我々の上に不当な権限を押し及ぼそうと企てていることに
ついて、警告してきた。我々は、ここに移住し定住した事情について、彼らに想起させてきた。彼らの
生来の正義観と寛大な精神に訴え、相互の結びつきと交渉とを必ずや妨害することになる上記の侵害行
為を否認するように、血縁の絆を通して嘆願してきた。だが彼らブリテンの同胞もまた、この正義と血
族の声に耳をかそうとはしなかった。それゆえに、我々は、我々の分離を宣言する必要性を認めざるを
えず、彼らブリテンの同胞を、他国民と同様、戦争においては敵、平和においては友と見なさざるを得
ないのである。
④以上の理由のゆえに、我々アメリカ連合諸邦の代表は、大陸会議に参集し、我々の企図の公正なこ
とを世界の至高の審判者に訴え、これらの植民地のよき人民の名において、その権威によつて、次のご
とく厳粛に公布し宣言するものである。すなわち、これら連合諸植民地は自由にして独立した国家であ
り、また当然にそうあるべきものである。これらの諸邦はプリテン国王への忠誠からいっさい解除され、
これら諸邦とグレイト・プリテンという国家との間の政治的結びつきはすべて当然解消された。したがっ
て、諸邦は自由にして独立した国家として、宣戦、講和をなし、同盟、通商の条約を結び、その他の独
立国として当然行いうるいっさいの行為をなす権限を持つものである。この宣言を支持するために、神
の摂理の加護を信じ、我々は互いに、おのが生命、おのが財産、おのが尊き名誉を棒げ合うことを誓う
ものである。
ここに紹介したアメリカ独立宣言の構成を分析すると、次のようになる。まず冒頭で、①「およそ世
の成行きとして、一団の人々が・……自然の法や自然の神の法によって本来当然に与えられるべき独立対
等の地位を主張しなければならなくなる場合がある」という原則を掲げ、②その根拠として、「次の真理
は万Uに証明を必要としないほど明らかなものである」として、17世紀以来、ジョン・ロックなどによっ
て唱えられた自然権思想と社会契約論を強調する。この部分は、世界史の教科書などに記載される最も
有名な箇所である。しかし、その後で③イギリス国王ジョージ3世の圧政を列挙した文章が延々と続く
ことを忘れてはならない。この部分は無視されがちであるが、当時の人々にとっては独立の理由として
必要不可欠であった。この部分が独立宣言で最も長い箇所である。④そうした国王批判を受けて、大陸
会議に集まった人々によるアメリカ独立の声明が正当なものであることを宣言している。
3 二つの独立宣言を結ぶもの
以上の分析から分かるように、アメリカ独立宣言とヴェトナム独立宣言は、形式的にほぼ同じ構成を
とっている。もう少し言えば、両者の形式は酷似している。①で一般的原則を掲げ、②でその根拠を示
す。③で、一つ一つ事例をあげ、本国の国王や宗主国の悪政を徹底的に批判し尽くす。この部分が二つ
の独立宣言で最も長い部分である。④で、そうした批判を受けて、アメリカ連合諸邦や民主共和国臨時
政府が人々を代表する正当な政府であると主張し、この点を広く世間に訴えている。
内容的にも両者は類似する。確かに、アメリカ独立宣言は、自然権思想に立脚して個々人の権利を主
張している。しかし、それは「自由で独立した国家の権利と「すべての人間」に与えられた「生命、自
由、幸福の追求」の権利の両方を説いていた」
のである。ヴェトナム独立宣言も、アメリカ独立宣言と
フランス人権宣言を引用し、自然権思想に訴えている。もちろん、ヴェトナム独立宣言の眼目が民族の
権利に置かれていることは否定できないが、個人の権利と国家の権利、両方を論じ、両者を結び付けよ
b Davld Amitage,の
ε晨,p140〔同上訳書、167頁
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うとしているのは確実であろう。
アメリカ独立宣言とヴェトナム独立宣言を文書として比較すると以上のような結論が導き出される。
しかし、話はそれだけで終わらない。なぜ、両者が類似しているのかを問う必要があるだろう。その回
答は、「アメリカ独立宣言が先で、ヴェトナム独立宣言が後であり、後者が前者を模倣したから」という
単純なものとはならない。二つの独立宣言が類似する理由は、大きく三つあると思われる。それらによっ
て、両者は相互に結びあっていると言えるだろう。
第一は、アメリカ独立宣言が人間の権利だけでなく、国家の権利も主張したことによって、後に続く
民族や国家に独立宣言の普遍的な枠組みを提供し、「独立宣言というジャンル」を創始したことにある。
この点は、すでにアーミテイジが『独立宣言の世界史』において詳しく述べているので、多言を要しな
いだろう。
第二に、二つの独立宣言が宗主国や侵略国との交戦中に構想され、極めて実践的な意図をもって起草・
発表されたことである。アメリカの場合、独立宣言は、イギリス本国との戦間中に構想され、13植民地
が実際に独立するという目的のために起草され、独立を広く世界に訴えるために発表された。ヴェトナ
ムの場合、独立宣言は、80年以上に及ぶフランスの植民地支配と日本の軍事的侵入に直面して構想され、
日本の敗戦とともに、臨時政府が樹立されるというタイミングで起草され、新国家の正当性を世界に訴
えるため発表された。その証拠として、両者は、③ において敵対する国王や国家の圧政を列挙して強調
している。両者が、ともに実践的な意図をもって起草されたのは明白であろう。
第二に忘れてならないのが、独立宣言を受容したヴェトナム側の事情であろう。この点は、従来看過
されがちであるが、丁寧に吟味しなければならない。この見方が軽視されてきたのは、「ヴェトナムが、
アメリカ独立宣言の模倣をしたり、アメリカ合衆国の援助を期待したJという見方に対して、多くのヴェ
トナム研究者が反発したことにも関連している。しかし、最近の研究に依拠すると、ヴェトナム側には、
アメリカ独立宣言をモデルとする積極的な理由があったことが分かる。この点は、起草者であるホーチ
ミンの経験や卓越した能力と、独立時にヴェトナムが置かれた国際情勢という二つの面から論じること
ができるだろう。
最初にホーチミンの経験であるが、彼は「ジョージ・ワシントンの長年の信奉者であつた」
16と ぃぅだ
けでなく、実際にフランス・アフリカを経由して1912年12月 にアメリカにわたり、ニューヨーク郊外に
一年ほど滞在した。後になってから、ホーチミンは、この時の経験によって、アメリカの独立革命が、
彼の初期の考え方に刺激を与えたと語っている
。彼は、1913年暮れ、アメリカからさらにイギリスに
渡 り、様々な職業に従事し、1917年 には再びフランスを訪れているB。
こうした彼の経験は、国際的な
視点からヴェトナムのナショナリズムを考えることを可能にし、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言
を拠り所としながら、ヴェトナム民族の解放を説くという卓越した能力に影響を与えたと思われる。
次に、独立時にヴェトナムが置かれた国際情勢に目を移そう。ホーチミンは、独立前にソ連や中国な
どを度々訪問し、当時の複雑な国際情勢の中でヴェトナム独立運動を成功に導こうと努めていた。しか
し、ソ連や中国と並んで、もう一国、忘れてならない国がある。それはアメリカ合衆国である。ヴェト
ナム史研究者の古田元夫によると、1945年ころ「アメリカのルーズヴェルト大統領は戦後のインドシナ
信託統治構想を主張して、フランスの植民地支配の継続に難色を示していた。また南中国に基地を置く
米空軍も、インドシナの情報を必要としていた。このような情勢を背景として成立したアメリカとの協
力は、量的にはとるに足らないものではあったが、ベトミンの国内的
国際的な地位の強化にはかなり
貢献することになったのである」"。
あ晟,P135〔同上訳書、151頁〕
Vチ
ャールズ・フェン著、陸井二郎訳「ホー・チ・ミン伝」上、岩波新書、1974年、50頁。
前掲『ホー・チ・ミン』、45-47頁。
Ю
同上書、112頁。
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では、「アメリカとの協力」とは、具体的にどのようなものであったか。ホーチミンは、1944年 3月
プェトナム革命同盟会の在外代表の大会に出席するため、中国を訪れた。同年 9月 に中国から戻った彼
は、1945年 2月、今度は中国国境近くの町カオバンでヴェトミンに救出された一人の米軍パイロットを
伴い、再び中国に向かつた。彼は、当時、アメリカの戦略事務局 (OSS)力S拠点としていた中国
雲南
省の昆明に赴き、戦略事務局の何人かと接触し、「米軍から若千の軽火器、薬品、通信機をベトミンに提
供すること、及び通信機の使用を指導する二人のアメリカ人をホーに同行させるという約束を得た。ホー
は、45年 5月、この通信機を通じて昆明のOSSにアメリカ独立宣言を一部、パラシュートで降下させて
ほしいという依頼を発信している」20。
ァメリカの戦略事務局とは、1941年 に創設された諜報機関であり、
47年に設立される中央情報局 (CIA)の前身であった。
このようにホーチミンは、確実にアメリカに接近し、ヴェトナム独立への協力を要請した。その中で、
アメリカ独立宣言の入手まで依頼したのである。この経緯からすると、個人的な経験や卓越した能力に
よってだけでなく、当時のアメリカとの関係もあって、彼はアメリカ独立宣言に着目したという推論が
成り立つ。その鍵を握る人物こそ、アメリカから中国に派遣されたアメリカ戦略事務局の士官アルキメ
デス・パッティである。パッティは、ホーチミンが昆明へ赴いて、接触した戦略事務局の二人であった。
1945年 4月、ホーチミンは、中国からヴェトナムに戻り、 8月革命へ向けて、全国蜂起の準備をしてい
た。彼を追うようにして、パッティは、196年 8月 22日 に中国の昆明からヴェトナムのハノイに飛行し、
ホーチミンと再会し、以前にも増して密接な関係を築いた21。
パッティは、日本敗戦後、中国からヴェ
トナムに移動し、ヴェトナム国家の独立をアメリカの援助によって達成するという使命を帯びていたよ
うに思われる。彼は、ハノイでホーチミンに寄り添い、1945年 8月下旬にホーチミンがヴェトナム独立
宣言を起草する様子を、詳細に記録している。
ホーチミンは、 8月 27日 28日 に、ハノイの旧市街地にあるハンガン通りの居室にこもり、独立宣言
の草案を練っていた。29日 には、「インクで消され、書き直された多くの言葉と欄外に多数の注釈がつい
たタイプ印昴Jの文書J22が存在したとパッティが伝えている。ホーチミンは余程パッティを信頼していた
ようで、ヴェトナム語の独立宣言の草案を彼に手渡し、読むように促した。ホーチミンは、すぐに彼が
ヴェトナム語を理解できないことに気づき、弟子に翻訳させ、パッティに意見を求めた。彼は、ホーチ
ミンが引用したアメリカ独立宣言の誤 りに気付き、訂正したというa。
1945年 8月下旬から9月初めというヴェトナム独立にとって決定的な時期に、二人がハノイにいた。
二人とはホーチミンとパッティである。両者の密接な関係をたどると、ホーチミンがアメリカに大きな
期待をいだきながら、独立宣言を起草したという推論がより確実になってくる。日本の支配に置かれて
いたヴェトナムが、日本の交戦国だつたアメリカに期待するのは当然のことかもしれない。もちろん、
アメリカ独立宣言が、後に続く民族や国家に普遍的な枠組みを提供したことや、ヴェトナムがアメリカ
と同じく、宗主国や侵略国との戦争という厳しい状況下で、独立宣言を構想したことも併せて考慮しな
くてはならないだろう。しかし、ヴェトナム側がアメリカ独立宣言とアメリカ合衆国に積極的にアプロー
チしたベクトルも忘れてはならない。これらの理由を総合的に勘案することによって、アメリカ独立宣
言とヴェトナム独立宣言は結びつけられるのである。
おわりに一一ヴェトナム独立宣言の位置
以上、本稿では、ヴェトナム独立宣言および、それに多大な影響を与えたアメリカ独立宣言を取り上
2。
同上書、111‐ 112頁
a A L A Patt″
η ν7′′ハ石α%PP″ル′θ
"ス
″″tctスあα曲 s,Berkeley・ 1980,P152
22 rb昴広,p 223
23 D c Marr2 op cit,pp 222-223
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げ、両者の比較と関係を考察してきた。最初にヴェトナム独立宣言の内容を、歴史的背景と宣言時の状
況とともに検討し、第二にアメリカ独立宣言の内容を、歴史的背景とともに紹介し、第二に両者の比較
と関係を探った。
その結果、浮かび上がってきたヴェトナム独立宣言の歴史的位置は、次のようなものである。従来、
ヴェトナム独立宣言の意義は、自由・平等といった人間の権利を民族の権利に読み替え、自然権思想に
基づきながら民族解放の理論を、第二次世界大戦後の世界に提示したとされてきた。つまり、それは第
二次世界大戦後のアジア・アフリカの民族解放運動の創始者として高く評価されることが多かった。
本稿は、この点を否定するものではないが、ヴェトナム独立宣言とアメリカ独立宣言の類似性を指摘
することによって、ヴェトナム独立宣言に従来の評価とは異なる側面があることを強調した。それは、
ヴェトナム独立宣言が、様々な理由から、アメリカ独立宣言を受け継ぎ、人間の権利を国家や民族の権
利に架橋したことによって、自党的に過去の独立宣言の継承者になったことである。理由として考えら
れるのは、アメリカ独立宣言が、後に続 く民族や国家に普遍的な枠組みを提供したこと、ヴェトナムが
アメリカと同じく、宗主国や侵略国との戦争という厳しい状況下で、独立宣言を模索したこと、ヴェト
ナム側にも現実的な必要性があり、アメリカ独立宣言に積極的にアプローチしたことである。
要するにヴェトナム独立宣言は、アメリカ独立宣言を受け継ぎながら、第二次世界大戦後の世界に新
しいモデルを提示したのである。継承と創始の両方の性格を兼ね備えている点にこそ、その最大の特色
があるように思われる。だが、本稿に、まだまだ論証不足があるのは否めないだろう。今後とも、「ヴェ
トナム独立宣言の世界史」というテーマに関わり、アジア研究をアジアだけで完結させるのではなく、
アメリカやヨーロッパ、広く世界史と結び付ける作業に携わっていきたい。
(2013年 2月 25日 )
バーディン広場から見たホーチミン廟
出典)岩井淳撮影
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2 ホーチミン廟
出典)岩井淳撮影
H@) Do Hoang Linh, President Ho Chi Minh and Capital of Ha Noe, Hanoi,2012, p. 19.
3 バーディン広場で独立宣言を読むホーチミン
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4 ヴェトナム語の独立宣言
出典)許可を得て、ハノイ歴史博物館にて岩井淳撮影
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