戦国時代に海外へ売り飛ばされた「日本人奴隷」の謎③[二束三文で売られる奴隷]
天正六年(1578)、“九州の天下分け目”といわれる耳川の合戦で大友宗麟が薩摩の島津義久に大敗すると、本拠の豊後国そのものが島津軍の侵攻に晒されはじめます。
天正十四年(1586)、九州平定の軍を挙げた島津軍は本格的に豊後へ攻め入り、「おびただしい数」と、南蛮人宣教師のフロイスが記すほどの非戦闘員を奴隷として売り飛ばしたのです。
ある島津家の家臣は、雑兵らが乱取りした女子供数十人を引き連れて歩いているため、豊後からの道が非常に混雑していたと証言しています。
また、フロイスによりますと、島津軍によって拉致された女子供は肥後の国で売り払われ、そこでは彼らにとってより過酷な運命が待ち受けていたといいます。
肥後で買い手のつかなかった奴隷たちは島原半島の高来(長崎県諌早市)などへ連れていかれ、南蛮人に二トスタン(当時のポルトガルの通貨単位)か三トスタン、つまり、日本流にいうと二束三文の安さで叩き売られたのでした。
(つづく)
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