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パリ人肉食事件 - クール・スーサン(音楽 芸術 医学 人生 歴史) 

パリ人肉食事件

パリ人肉食事件 昭和56年(1981年)

 昭和56年6月11日夕方5時ごろ、パリの郊外・ブローニュの森の湖畔でトランクに詰められた女性のバラバラ死体が発見された。その当時のパリではバラバラ事件が10件以上も連続していて、ほとんどが迷宮入りになっていた。そのためこの事件の第1報を聞いたパリ警察の刑事は事件解決の長期化を予想した。ところが刑事の予想に反し、今回の事件は発生から4日目に犯人逮捕となった。このバラバラ事件が早期解決したのは、目撃者がいたからである。

 夏時間の夕方5時のパリはまだ太陽が高く、ブローニュの森には多くの人たちがいた。そして犯人が大きな旅行用カバン2個を運ぶのを、中年のアベックが目撃者していたのだった。アベックの証言によると、犯人は子供のように小柄な東洋人で、アベックに顔を見られた犯人は、あわてて近くの茂みにカバンを投げ捨てたということであった。不審に思ったアベックがカバンをのぞくと、切断された女性のバラバラ死体が入っていた。

 この事件が報じられると、警察に犯人らしい男性を現場近くまでタクシーに乗せたという運転手から連絡があった。運転手はパリの高級住宅地のアパートからブローニュの森まで犯人を乗せ、旅行用カバンの運搬を手伝ったと証言。犯人のアパートを警察官が張り込み、犯行から4日後の6月15日、日本人留学生・佐川一政(32)が殺害容疑で逮捕された。

 逮捕時、佐川一政はまったく抵抗しなかった。身長155cm、体重35kgと子供ぐらいの体格で、手が小さすぎて手錠が抜けてしまうほどで、そのため手錠なしで連行された。佐川は素直に殺人を認め、さらにこの殺人事件の信じられない全貌をしゃべりはじめた。この事件は単なるバラバラ殺人事件ではなかった。まさかと思えるほどの衝撃を与えた。

 佐川一政のアパートの家宅捜査をおこなったパリ警視庁は、佐川の部屋のなかで驚くものを発見した。部屋の冷蔵庫を開けると、そこに12個の人間の肉片らしいものがビニール袋に包まれていた。後にこれは殺された女性の鼻、唇、乳房、尻、太股などの肉片と判明、さらにフライパンには、料理された肉片が食べ残された状態で置いてあった。犯人の佐川は「殺害した女性の死体をナマで食べたあと、残りの一部を3回にわけてビフテキのように焼いて食べた」と平然と答えた。誰もがまさかと半信半疑であったが、全貌が分かるにしたがいこのカニバリズム(人肉嗜食)は世界を震い上がらせた。パリの新聞には「カニバリル・ジャポネ(人食い日本人)」の文字が大きく紙面を飾った。

 佐川一政はパリ大学のサンミッシェル分校に通う自費留学生であった。博士論文のテーマは「川端康成とヨーロッパ20世紀前衛芸術運動の比較研究」で、フランスに留学していながら、なぜか川端康成とシェークスピアを研究していた。そして犠牲になったのは、同じパリ大学に学ぶオランダ人留学生レネ・ハルテベルト(25)さんであった。レネさんは裕福なユダヤ人の家庭の出身で博士号を取るためパリに来ていた。レネさんはブロンドの美人であったが、佐川に特別な感情を持っていなかった。レネさんが佐川のアパートを訪ねたのは、ドイツ近代表現主義の詩人ベッヒャーの詩をドイツ語で朗読して欲しいと頼まれたからである。佐川はレネさんに高額の謝礼を渡して詩の朗読を依頼していた。レネさんは何度か佐川宅を訪問して詩を朗読、佐川はそれをテープに吹き込んでいた。

 佐川一政は帰国後に室蘭の新設短大の講師に内定していた。そのためレネさんを妻にして、帰国したかったのである。レネさんは佐川に何の感情も持たなかったが、佐川はレネさんに恋愛感情を抱いていた。佐川はアパートでレネさんに愛を告白、関係を迫ろうとしたがレネさんは笑いながら相手にしなかった。これに逆上した佐川が、詩を朗読するルネさんの背後から、消音装置付22口径ライフル銃でレネさんの頭を撃ったのだった。

 関係を拒まれての犯行であれば、片思いによる衝動的殺人と解釈することができる。だが佐川一政は消音装置付のライフル銃を持っていたのである。護身用ならば消音装置付のライフルは必要ないはずである。護身用ならば発射音が大きいほうが危険を周囲に知らせることになるからである。さらに解体用の電気ノコギリを用意していた。このことは計画的殺人を疑わせるに十分であった。

 佐川一政は息絶えたルネさんを屍姦すると、死体を浴室に運び、用意していた6本の料理用ナイフと料理用電気ノコギリで遺体を解体し、解体の経過をフイルム2本分の写真に残していた。佐川は料理の経験がないのに、料理用ナイフで切り取った尻、大腿部などを生で食べていた。さらに3回にわたって肉の一部をビフテキのように焼いて食べていた。

 佐川一政は完全犯罪をもくろんだ。レネさんの遺体から部屋のカギを手に入れると、彼女のアパートに入り、残されていた自分の手紙を処分した。そして腐敗の早い内蔵をゴミと一緒に捨て、犯行翌日、旅行カバンを2つ購入してタクシーを呼んだ。小柄な佐川はレネさんの遺体を運べず、タクシーの運転手を部屋にいれてタクシーまで運んでもらった。この事件の経過は、計画的殺人を思わせたが、カニバリズムを精神異常、狂気とする雰囲気に占められていた。

 恋愛関係のもつれ、片思いが殺害の動機とされたが、佐川一政は後に「レネさんを殺したかったのではなく、愛しているゆえに食べたかった」と供述している。カニバリズム(人肉嗜食)は霊魂を継承する宗教的理由から、かつては未開人がおこなっていた。また日本でも病気への治療がなかった時代に肝臓の肝が効くという迷信があり殺人事件がおきている。それは昭和23年、愛知県新川町で紫斑病に冒された23歳の男性が生肝(キモ)をとる目的で殺人を犯した事件だった。この愛知県の事件では殺害したものの、肝臓がどれなのか分からず食べてはいない。

 世界的にみて、人が人を食べるというカニバリズムは数件の報告しかない。アンデス山脈の飛行機事故や海難事故で死体を余儀なく食べた例があるが、これらは緊急避難的行為であってカニバリズムとはいわない。

 佐川一政の動機は、恋愛感情を馬鹿にされた憎しみなのか、愛ゆえにすべて征服したかったのか、食べることにより自己同一化を図りたかったのか、あるいは屍姦していることから異常な性的願望だったのかもしれない。しかし佐川の供述によると、小学生の時にグリム童話を読み、それ以降人肉嗜食に関心を抱いていたと述べている。また自宅に売春婦を連れ込み、人肉食の願望を果たそうとしたことも自白している。

 それまでの佐川一政の女性関係は、カネで買うことのできる娼婦だけだった。佐川の部屋からは娼婦の裸の写真がたくさん押収された。普通の女性から相手にされず、身体的コンプレックスと重なり、カニバリズムという異常な犯行を引き起こしたのだろうか。また川端康成の小説「眠れる美女」、「片腕」、「死体紹介人」にカニバリズムを臭わせる部分があることから、川端康成の崇拝者であったこともうなずける。

 佐川一政は裕福な家庭に育ち、祖父は朝日新聞の論説委員で、父親は東証一部上場の大手水処理会社の社長であった。中学生になると小説を読みふけり、ベートーベンやヘンデルを好んで聞いた。佐川はシェークスピアの「テンペスト」を修士論文のテーマにして、逮捕された時には出版直前だった。佐川の父親は東証一部上場企業の社長であったが、この事件で辞職している。

 警察の取調べによると、人肉食の願望は小学生の頃からで、16歳のときに人肉食の願望を精神科医に相談したが相手にされなかった。和光大学3年のとき35歳のドイツ人女性宅に忍び込んで逮捕されたが、父親が示談金を払い告訴を取り下げてもらっている。

 佐川一政は生まれた時は極端な未熟児で、大人になっても小学生なみの体格であった。この身体的な虚弱さゆえに過保護に育てられ、肉体的コンプレックスから、身体の大きな白人女性が好みだった。パリ留学中も親から大金が送金されていたが、フランス語は書けず、友人は少なく、プライドの高いフランス女性は佐川を相手にせず、フランス人の排他的性格が佐川の孤立感を深め、肉体的脆弱に加え精神的にも衰弱していた。犠牲となったオランダ人はフランス人のような排他性はなく、陽気で明るい性格だった。

 佐川一政は警視庁の調べを受け、サンテ刑務所に収容された。パリ刑事裁判所は1年8ヶ月にわたり精神鑑定を行い、犯行時は心神喪失状態であったとして佐川一政を無罪にした。佐川はアンリ・コラン精神病院へ入院を命じられた。レネ・ハルテベルトさんの家族は控訴したが不起訴処分となった。当時、「人を殺せば死刑になるが、そのあと食べれば無罪になる」と話題になった。

 佐川一政が入院中、劇作家の唐十郎が脚本の下調べと言って佐川と3ヶ月にわたって文通をかわした。佐川が「母親が傷つくから小説にするのはやめて欲しい」と頼んだが、唐十郎は手紙の内容を「佐川君からの手紙」として出版、32万部を売り上げ芥川賞を受賞している。

 佐川一政は昭和59年国外追放となり、エールフランス機で日本に帰国。成田から救急車で世田谷区の精神病院・都立松沢病院に収容された。警察当局は殺人罪の起訴を検討したが、フランスの判事が証拠提出を拒否したため起訴は見送られた。日本の医師も異常を認めず、昭和60年10月に都立松沢病院を退院。刑事事件も問われず、保護観察もないという中途半端な社会復帰となった。

 佐川一政は犯行体験を素材にした処女作「霧の中」を執筆し20万部を超えるベストセラーとなった。この「霧の中」は一人のジャーナリストが佐川を訪ねてくるという形式をとり、パリ人肉食事件そのものを書いた小説である。その後も作家活動を続け「カニバリズム幻想」など12冊以上の本を書き、本が売れたため一部マスコミは文化人扱いの姿勢をとった。佐川は小説家としての創作の野心を燃やしたが、この事件が忘れ去られると共に、佐川も忘れられた。また生活の面倒をみてくれていた父親が風呂場で倒れ寝たきりとなり仕送りが途絶えた。佐川一政はその名前が障害となり職につけず、佐川は自己破産し生活保護を受けて生活をしている。