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中世ヨーロッパ、 都市の社会福祉と修道院
修道院と施療院、その源流と分化についての考察
04K051 高野 真之介
はじめに
「中世のあらゆる期間を通じて修道院は、困窮せる時、 まず第一に考えうる避難所であった」 と言われて
いるように、 中世ヨーロッパにあって修道院とは、単なる修道士のための求道施設に留まらない社会的な評価
を得ていた。
こういった評価は、 禁欲のもと修道を行うという本来の修道制の姿とは相反するものでもある。 しかし中世
においては、そういった二面性 (宗教的閉鎖性と社会的開放性)は巧みに共存し、また (社会にとっても修道
院自身にとっても) 有効に機能していた。
修道院などの宗教寺院、施設は、 歴史的にみて、 また現代においても救貧の思想の実践を行ってきたものが
少なくない。だが、 中世におけるキリスト教修道院制のそれは、 以降の時代における寄与の度合からいって、
特筆に値する功績というものを我々に残していると言える。
本稿の目的は、特に中世から近代への過渡期に多く見られ、 実際の救貧の現場として機能していた 「施療院」
施設が、修道院から如何に生まれうるに至り、 その存在が中世ヨーロッパの都市社会においてどのような役割
を担っていたのか、 そして後世においてそれがどのように発達と変遷を遂げたかをみて、 キリスト教修道院制
の当時の、そして現代に至るまでの社会福祉史的な視点での功績を見出していこうというものである。
そのための足がかりとして、 まず一章では「砂漠の隠修士」 と呼ばれた古代の修道士たちからキリスト教修
道院制に至るまでの歴史を概観し、 先に言及した修道院の二面性のうちの一面、本来、 修道院という施設が持
つ宗教的閉鎖性を把握する
次に二章では、それ以降の諸修道会に非常に大きな影響を与えていく聖ベネディクトの『戒律』 から修道院
の持つ二面性のうちの、救貧思想と社会的開放性の萌芽を見出す。
三章において、 河原温 『中世フランドルの都市と社会』 を資料に、 修道院から生まれた 「施療院」 概念が、
当時の都市の社会福祉においてどのように用いられ、 実績を挙げていたかを見ていき、最後に修道院が果たし
た歴史的役割と功績について、 現代からの視点も踏まえて総括してみたい。
1. 隠修士の時代から修道院制の成立へ
キリスト教 「修道制」 の歴史及び修道士たちの生活史は、 「隠修士時代」 と 「修道院時代」 とでは劇的な変
革がみられる。 それは共住のための生活空間であるのと同時に、単なる荒屋ではなくて、修道院という社会性
を持った施設を有しているか否か、 で分別することができうる。
本章ではまず、「隠修士」 と呼ばれた修道院以前の修道者たちの姿から、 キリスト教修道制の原点とその普
遍的心性を見出してみたい。
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(1)隠修士時代━聖アントニウスの修道生活
本項での主な資料としては、 D. ノウルズ (朝倉文一訳) 『修道院』 を用いていく。
キリスト教に限らずとも、いわゆる 「修道者」 一般がその宗教的生活において目指すところは、その帰属宗
教が謳う倫理の実践であり、自らの宗教的深化であるといえる。
古来の、キリスト教以前の修道者たちがそうであったように、 そうした生活には孤独と清貧とが不可欠な
ものとして重視される傾向が強く、 「修道士」 という単語が 「隠遁者」 や 「世捨て人」 といった人々を指す言
葉を語源に持つことは、ある種当然のことのように思える(3)
では、当代のキリスト教修道者たちが目指したものとは何であったのか。 それはキリスト教修道制史におい
て草分け的な存在といえる聖アントニウス (251~356) が触発を受けたイエスの言葉から窺うことができる。
あなたがたがもし完全になりたいなら、持ちものを売りにいき、貧しい人々に施しなさい。そうすれば
天の宝をうけるだろう。 それから来て、 私に従いなさい。
この一文から、既に修道士たちの喜捨と清貧の精神とを汲み取ることもできると思う。 しかし 「制度的救貧」
や「社会福祉」という観点からみれば、こういった貧者への行為はあくまで二義的なものに過ぎない、という
ことを留意しておかなければならない。 何故なら、彼らが私財を捨て (施し)、 イエスと共に、イエスの理念
と共に野へ下っていくのは自己本願的な求道精神によるもので、 その関心は遍く衆生の救済へとは向けられて
はいなかったからである。
ここで宗教史的に注目すべきは、上記の一文をエジプト教会の一司祭より聞いた聖アントニウス、 その他な
んらかの形でイエスの思想に触れ、 触発を受け下野した者たちが送った宗教的生活が、 キリスト教の中で「修
道者」(その生活様式をして隠修士) という一階層を形成していたという点である。
彼らはまるで、迫害の脅威が薄れ、 コンスタンスティヌス帝(在位 306~337)によるキリスト教公認(ミラ
ノ勅令)などで安定した地位を得ていく教会から、あえて孤独で過酷な環境に身を投じ離脱していったように
もみえる。 そういったことが考えられる一つの理由として、 修道者たち、 とりわけ当時の隠修士たちが目指し
求道の姿勢が、 それまでの宗教的共同体 (教会)のなかにあっては成しえないものであったことがある。 そ
れは、つまるところ汎宗教史的に見受けられる修道者というものに共通する、 孤独性、世俗社会から距離を置
く、といった態度である。
そうした当時の隠修士たち様子は、「砂漠の隠修士」と呼ばれた人々に見受けられるような、洞窟や仮小屋、
煉瓦作りの庵室を住処とし、 祈りや労働、 読書などに時間を費やす禁欲的で閉鎖的な修道生活から窺い知るこ
とができる。 また、 先の聖アントニウスもまたそのような隠修士たちの例に漏れず、 祈りと手仕事の生活にそ
の一生を捧げた。
「教会の外」で生きる彼らが、ともすれば単なるアウトサイダーとして忘れ去れずに、 「キリスト教の」修
道者としての階層を保ちえたのには、 彼らが孤独に生きることを基本としつつも、そこに隠修士同士の横のつ
ながりが存在していたからである。
それは週に一回行われた礼拝への参加 (原則として隠修士たち同士で集まって行われる) や、 手仕事の産物
としての生活用品の交換や売買に伴う定期的な交流であった(5)。
このことから、彼らの謳う 「孤独性」 とは単純に 「一人」 でいることを指すのではなく、 生活上、 また礼拝
という宗教生活上においての必要性から一定の共同体を形成していたことが窺える。 それは次項でみてい
く、共住的修道生活への移行へとつながる要素を含んでいることに注目されたい。
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(2)共住的修道生活と聖パコミウス
前項において、 「キリスト教修道士」という階層は、聖アントニウスに代表される隠修制を始まりとし、ま
たそれは当時「教会の外」 での使徒的生活をアイデンティティとする個人ないし集団を指していたものであっ
たことがわかった。
そうした隠修士たちのある種牧歌的な生活様式に、 規律と団結をもたらしたのが聖パコミウス (290頃~346)
であった。彼をして、キリスト教修道士たちの修道院生活の祖と言うことができるであろう。
本項では、 K.S. フランク (戸田聡訳) 『修道院の歴史』 を主な資料に、 修道士たちの生活様式の変化に伴う、
アイデンティティの変化。 隠修制から修道院制への発展をみる。
パコミウスが提起した共住修道制とは、厳格な秩序の下に修道者たちが共同生活を行うという新しい形態の
修道生活であった。
古代エジプトに端を発する個人による修道生活は、その環境(「砂漠の隠修士」) と禁欲という生活上の大き
な制約も相まって、 非常に過酷なものであったことは想像に難くない。
そうした状況下で自らの生のうちに本願を達成するためには (もっとも、彼らの場合は過度な禁欲の中での
宗教生活そのものを目的としていたといえるが)、 隠修士同士の連帯は不可欠であった。 但し、 それでさえ彼
らが本来目指す 「孤独」 と 「禁欲」 の下の修道生活からしてみれば、 必要性による譲歩的心情を伴っていたこ
とに注意しなければならない (8)。
そのような文字通り孤独な生活形態こそが「究極の」キリスト教修道制の本質であったとするならば、隠修
士同士による共同生活は妥協でしかない。 隠修制の欠陥は、 その理想と現実の差を埋める術が無かったことで
あった。
現状否定を内包し、幾分閉塞感が抱かれていた隠修制を超えるものとして提起されたのが、 パコミウスの共
住修道制であったと言える
パコミウスの改革事業は、 修道院生活への移行と、それを教義的に肯定する意識改革の二つが挙げられる。
まず彼が目指したものは、 修道者を俗世から隔てつつも安全のうちに生活ができる空間をつくることであっ
た。隠修士的生活においてまずを以て懸念される生活上の危険の排除は、 隠修制においても命題的要素であっ
たが、パコミウスもそれを十分理解していた。 同時に、 彼は 「彼ら (修道者) がもはや自分だけに頼らずに自
らの救いに励むことを可能にする」 空間をも目指していた。 つまり人間生活において生じる諸々の負担を
人間が集まることによって個々の負担を軽減し、より宗教生活への没頭を図れるようにしたのである。
このような合理的かつ効率的な方向性が、 修道院を構成する要素には盛り込まれていた。
次にそれを実現し、肯定するために、 彼が持ち出したのが聖書に描かれる兄弟的共同体を生成せしめた原始
教会への回帰であった(0)。
聖書に基づく新たな理想像を提起したことにより、 修道者同士の共同生活は、 隠修士時代における必要性に
迫られての譲歩ではなく、禁欲生活の本質を構成する要素として昇華され、肯定されたのである。
聖書に基づく共同生活という新たな規範を得た修道制は、テーバイのタベンネシで創建された最初の修道院
を皮切りに、 多くの修道院がつくられ、 そこで展開された修道生活が以後のキリスト教修道院制の基礎となっ
た。
(3) 修道院という象徴と功罪
では、修道院という独自の居住施設を得たことによって、 修道制はどのように変化し、また変化しなかった
のか。
まず重要なことは、 高潔な信念と高い理想を持ってはいても現実社会においては「世捨て人」として浮き草
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のような存在でしかなかった修道士たちが、 「教会の外」 において自らの拠点を持ちえた、ということである。
修道院は生活空間であるのと同時に、 そこでの共住生活によって生じる関係性が修道士たちの新たなアイデ
ンティティと成りえた。 そしてそれは、世俗と交わらないという宗教集団としての強烈な個性を、 荒野に埋も
れさせることなく、 修道院という存在をシンボルとして世俗に提示し続けた。
修道院亮は修道士たちにとって、拠点を持って活動することの社交性、拠点を持って活動することの閉鎖性を
兼ね備えた非常に都合の良い発明品であった。
また、一個の修道院は、それ自体がひとつの 「社会組織」 であった。 そこから生じ得るものは社会性と経済
力であり、 彼らは望めば富と社会的地位とを得られる立場にまで至ったのである(II)。
ここまで、キリスト教修道者たちが 「砂漠の隠修士」 から修道院という拠点を持って活動するに至るまでを
みてきた。
この時点での修道士、社会組織としての修道院を救貧者、救貧組織としてみると、先のアントニウスの項な
どにおいて貧者に対する思慮や喜捨の精神は見受けられるものの、積極的な救貧の姿勢をとっているとは言い
難い。
だが、それもそのはずで、キリスト教修道制草創期にあって修道士と修道院は「砂漠の隠修士」 たちが孤独
と禁欲を目指して野に下ったのと同じく、俗世との距離感は維持し続けていたのである。 彼らの目的は第一に
俗世からの隔絶の下の修道生活であり、 その点においての目的意識は隠修制の時代から変わらずに、 むしろそ
の目的を健やかなうちに達成せんとする情熱と努力が、 修道院制を生み出したのだと言える。
しかし、修道院という安定した居住空間を得るに至り、 修道士たちには修道院の外へと目を向ける 「余裕」
が生まれてくる。 もとより困窮者に対する思慮は彼らがよりどころとした聖書にも記されており、 教義的な意
味での下地といったものは既に内包していた。
あとは、継続的かつ効果的に慈善活動を行う組織力と経済力の有無であったが、 修道院はそうした方面への
成長の余地を十分に持っていた、と言える。
古代の修道院がそうした「余力」 を持つにはまだ少々の時間を経なければならなかったが、精神面・ 教義面
での下地はそれよりも先に育っていたと言える。
実際、次章で取り扱う聖ベネディクトの 『戒律』 には、元来閉鎖的修道施設であるところの修道院が、慈善
活動を行うにあたって求められる様々な譲歩と対応への即応の姿勢がいくつか見て取れるのである。
2. 聖ベネディクトの 『戒律』 から汲み取る慈善の精神
本章での主な史料として、上智大学中世思想研究所編 『聖ベネディクトゥスと修道院文化』と古田暁訳『聖
ベネディクトの戒律』 を用いていく。
570年頃に聖ベネディクトが記したとされる戒律は、 一個の修道院の会則に留まらず、以降も創建されてい
く多くの修道院の生活様式はもとより、 その精神性にも多大な影響を与えたと言える。
ではその戒律の内容を見る前に、 まずはヨーロッパの修道院制を窺う上で無視できないこの戒律はいかにし
て誕生したのかを簡潔にまとめてみたい。
『戒律』の著者とされる、 歴史上の人物であるベネディクトなる者の人物を窺い知るための史料としては、
修道士グレゴリウス (のちの大教皇グレゴリウス一世) によって592年から594 年頃に記されたと思われる作
品、『対話』が挙げられる。 偉人譚にありがちな奇跡に彩られた物語ではあるが、 そのなかでベネディクトは
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品性を持った聖人気質の人間として描かれ、 それ故に学芸を学ぶために遣わされたローマの退廃を厭いて世俗
を離れ一旦は隠修士となるも、 彼の名声と徳を慕って集まってきた弟子たちと小規模の修道院を創設する。 そ
の後モンテ・カシノに移り住み、そこに修道院を建て、 死去するまで修道士たちの指導に当たった、とされて
いる(12)
では、以降、『戒律』 の具体的な内容をみていく前に、その呼称の問題についても少し触れたい。
本章初めに、この 『戒律』 は一修道院の会則を超えた、 修道院の歴史的にも多大な影響力を持つものである
と記したが、 それは単純にこの 『戒律』 (会則)の有効性が認められた結果であると言えるのだろうか。 勿論
それはあるものとして、文言から汲み取るその精神性は次項から述べていくのであるが、 『聖ベネディクトゥ
スと修道院文化』の中で坂口昂吉氏が最初に述べているように、 歴史的に見ればこの全修道士にとって規範と
なるべくして記されたかのような 『聖ベネディクトゥス修道規則』 (この呼称は前掲書の中の同氏の記述によ
る)は、初めから、 著者ベネディクトの意図したところにより全西欧的な修道院規範として記されたのだろう
か (13) それらは論争が続いており、 決断が下せるような問題ではないが、そうした論争があることを踏まえた
上で、本稿内においては同書内における古田暁氏と同じく (14) またその歴史的有効性を加味した上で「会則」
「規則」よりも『戒律』の表記を用いていきたいと思う。
(1)『戒律』の構成と概観
『戒律』 の構成としては、序文において 「子よ、 心の耳を傾け、師の教えを謹んで聴きなさい。そして慈し
み深いあなたの父の勧告を喜んで受け入れ、これを積極的に実行に移しなさい」 (15) から始まる、 子である人間
のキリストを模範とした父なる神への回帰の訴えと、その目的に即した 「学び舎」 として修道院設立の意図が
述べられている。
第1章から第3章までは総論とされ、 第1章において 『戒律』 に従い生きる共住修道士 (「修友」と呼びか
けられる修道院にて居を共にする修道士) とそれ以外の修道士 (隠修士、独修者、 放浪者。 後の二つは嫌悪す
べき存在であるとされている) の定義を示したうえで、 『戒律』 が適応する範疇を定めている。 第2章におい
ては修道院長に求められる責任や人格等を示している。 第3章では院内において問題が発生した際の修友の招
集と協議、解決のための裁量権の在り処 (修道院長) と公正なる対処の奨励といった、今日的に見ても民主的
で倫理的な方法が示されている (16)。
第4章においては福音書を引用しながら、 「善き行いのための道具 (精神性)」 が羅列されている。
続く第5~7章において、 修道上の徳服従、沈黙、 謙遜について述べている。
内容的にはここまでが序章とも呼ぶべき部分で、 修道上の具体的な生活規範については第8章以降 第72
章までで取り扱われている。
『戒律』の文章は比較的よく整理されており、記されている内容ごとに区分けすることが可能であるので、
以下、第8章から第72章まで記されているテーマごとにまとめてみる。
第8章 (「夜間の聖務日課について」) から第20章 (「祈りのおける畏敬の念について」) までは、 昼夜規則
的に行う祈りの形式と、 それに対する態度を定めている。
第23章 (「過失に対する破門について」) から第29章 (年少者をいかに叱責するか」)は罰則の規定。さら
に第43 章から 45章、 69章 70章、 71 章の六章 (17) も同様である。
第21章(「修道院の十人係長について」)、 第31章 (「修道院の総務長について」)、 第35章 (「厨房の担当者
について」)、第38 章 (「朗読の週間担当者」)、第47章 (「『神の業』 の時刻を知らせることについて」)、 第62
章(「修道院の司祭について」) から第66章 (「修道院の門衛について」)は、院内人事を記している。
第32章「修道院の器具と物品について」) から第34章 (「必要とするものは誰にも平等に支給されるべき
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か」)、第54章 第55章などは修道院、 修道士の所有物や、 物品の所有に対する制限などの規定が記されてい
る。
第39章から第41 章は、 食事と飲食物の分量等の規定である。
第21章(「修道士の睡眠について」)、 第42章 (「修課後には誰も話しをしてはならないことについて」)、第
49 章(「四旬説の過ごし方について」)、 などは修道士の生活様式と態度を定めたものであるといえる。 第48
章、第50章 第51 章など、 労働に関する規定もこの分類に属する。 これらは以後の修道院制の歴史を見てい
く上でも重要であるので、 後にも見ていく。
第53章 (「来客を迎え入れることについて」)、 第56章 (「修道院長の食卓について (18) 」)、第58章 (「修友を
受け入れる手続きについて」) から第61章 (「外来の修道士の受け入れについて」) は、 院外からの来客に対す
る対応と態度が記されている。
最後に、総論として第72章 (「修道士が持つべき熱誠について」)、 第73章 (本戒律に完徳の実践に関する
規定がすべて盛られているのではないことについて」)が置かれ、これらは 「愛 (19)」 と 「戒律』 の実践を謳っ
ている。
『戒律』 の概観としては以上のようになるが、 では次に、本稿の趣旨に沿う形で条文を採り上げて見てみた
い。
(2) 『戒律』に見る 「慈善の精神」
『戒律』 から 「慈善の精神」、 貧者救済の精神の有無を見るために、以下の条文を採り上げて考えてみたい。
また、その条文から窺い知ることのできるであろう精神性についての分類も合わせて行ってみた (内容上、重
複するものもある)。
<救済の論理、神学>
第4章 「善い行いのための道具について」
第31章 「修道院の総務長について」
<修道院の開放性について>
第53章 「来客を迎え入れることについて」
第56章 「修道院長の食卓について」
第58章 「修友を受け入れる手続きについて」
第59章「神に捧げられる、 身分の高い家柄あるいは貧しい家庭の子供たちについて」
第66章 「修道院の門衛について
<救済対象について>
第36章 「病の床にある修友について」
第37章 「老人と子供について」
第53章「来客を迎え入れることについて」
上記の条文を中心として、 『戒律』 から弱者救済のための 「慈善の精神」を考察していきたい。
では第一に、『戒律』 の中にはそもそも弱者救済の論理となる精神、宗教的倫理が盛り込まれていたのか。
本稿1章の聖アントニウスの項でも少し触れたが、 聖書には (そのままキリスト教には、 と言い換えること
ができる)、 そして修道院以前の修道士には、 貧者に対する配慮が、 確かにあった。 この場合の貧者とは、「キ
リストの貧者」などの宗教的救済対象の概念が確立する以前の、 現実の困窮者を示していると言える。 福音書
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の中でイエスは「貧しい人々への施し」 を推奨しているが(それは自力本願的な目的に基づくものであったが)、
その際に貧者の 「信仰」については言及していない。 「善きサマリア人」の譬えなどからも信仰を超えた救済
の倫理が示されている(この場合、 救う側が異教徒であるが)。
『戒律』 は、 そうした聖書の倫理観を引き継いでいる、 といえる。 その証明となるのが上記の第4章の内容
である。 第4章においては聖書からの引用がその大部分を占め、 修道士が実践すべき徳目は聖書に拠っている
ことが窺い知れる (20)。 具体的に貧者救済の倫理に言及している箇所としては、4章14節 「貧しい人たちに食
事を与えること」 15節 「裸の者に衣服を与えること」 16節 「病人を見舞うこと (マタイ 25:36)」、 18節 「苦
しんでいる人に助けを与えること」 などが挙げられる。 実践の有無はともかくとして、 『戒律』 が掲げた精神
の中に、貧者救済の倫理はあった、 と言える。
また、そういった精神は第31章 (9節) にも見られ、 「病人、 子供、 来客、貧しい人たちへの心からの配慮」
を修道士 (ここでは総務長に) 求めている。
では次に、救済の対象とは如何なる者であったのかを見てみたい。
まず取り上げるのは、 第36章に見られる病人看護についての記述である。 対象者は一応 「修友」とされて
いるが、ここで重要なのは本章の規定の範囲ではなく、 「何事よりも先に、 何事よりも熱心に」 (36章1節)
病人を看護する、 という精神を掲げていること、 病人看護は神に対する敬意に基づくものである (同章4節)
という、病人に対して 「神の代理者」としての役割を認めていることである。 特に、後者は修道院における貧
者救済の際によく見られる論理構造であるが、 苦しむ者をキリストに重ねて敬愛する姿勢というのは、このと
き既に見られることに注目したい。
また興味深いのは、 同章7~9節において記されている看護の方法である。 病状に応じて必要ならば入浴や
肉食を認める、というのは禁欲を謳った修道制、 『戒律』 において異例とも思える処置である。 当時にして食
事の滋養性にも注意を注いでいたことも驚くが、 入浴の有効性 (21) など、 衛生にも配慮が及んでいたことは、修
道院の文化水準の高さに驚かされる。 これは、 当時から修道院における有効な病人看護のノウハウの存在を示
すものとして、非常に重要な観点であると思う。
第37 章 「老人と子供について」では、老人と子供、これら今日でも社会的弱者とされる人々に対して「慈
「愛」の念を持つことを自然としながら、 同時に 「戒律の権威による規定」 (法的規制) の必要性を説いている。
自然の感情というある種 「曖昧な」 道徳観を、 戒律によって規定し、 修道生活における確たる精神的指針の一
つとしているのは、修道院の秩序立った救済の姿勢を想起させる。 また、 収容者に対して徒に院内の厳しい規
定を押し付けるのではなく、 その 「弱さ」に配慮し、食事の規定についてはこれを適用しない、としている(22)。
第53章 「来客を迎え入れることについて」では、「修道院への来客はすべてキリストとして迎え入れなけれ
ばならない」とされ、来客に対する最大限の配慮を謳っている。
但し、 「来客」 の範疇については 『戒律』 の中でも多義的に用いられており、 そのまま万人を受け入れてい
たと解釈することはできまい。 第53 章2節では聖書からの引用を用い、 「“すべての人、 そのうちでも特に信
仰における兄弟(ガラテア 6:10)"と巡礼者には、彼らにふさわしい敬意を払います」 としているが、註597
でも言われているように、 やはり字義通りに受け取るのではなく、聖職者や (遍歴の、あるいは他院の) 修道
士を主な対象としていた、というのが現実的に見て妥当であろう(23)。 このことは受け入れる側の体制、 具体的
には第60章、第61 章の存在が裏付けとなり得る。
「貧しい人と巡礼者に対しては、 最大の気配りを示して彼らを受け入れます」 としているのは同章15節で
ある。2 節では、 「来客」 に関しては時代的背景から異教徒や非キリスト者の類は受け入れられなかったであ
ろう、としたが、15節では「来客」と「貧者」は区別して記されていることに注意しなければならない。 「貧
者」は「来客」と同じく、最大の配慮を以て迎えられる(24)。 そして、 やはりここでも貧者を通してキリストを
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重ね見ることがなされている。 これはつまり、貧者を受け入れ、救済するのに神学的意義が見出されていたこ
とを意味し、単なる憐憫の情を超えた、宗教的情熱がそこにあったことを意味するのではないか。
『戒律』に規定されるところの修道士をして、 これ以上の 「積極的救済」の姿勢を求めようと言うのであれ
ば、それは修道院の外において行われるほかない。しかし、『戒律』 が記すところの修道士の規定では、修道
士が修道院を出るには厳しい制限があった。 例えば第51章 「仕事のために短い旅に出る修友について」では、
修道院長の許可無く外で食事をしてはならず、違反した場合は破門に付せられるという厳しい罰則が科せられ
ている。
第67章 「旅に遣わされる修友について」 でも、帰還した修道士が外部で見聞したことを、それが及ぼす害
は甚大であるとして、他の者に話してはならないことになっている。
これらのことから、 修道院の閉鎖性について考えてみたい。
『戒律』が示すところの修道院像とは、はたして閉鎖的な修道施設であったか。
その答えは否であり、 応とも言える。
先の第 53 章を見る限り、確かに異教徒に対しては当時の社会背景もあってその門戸は閉ざされていた、と
言えるのかもしれない。 だがキリスト者であれば身分や貧富を問わず受け入れ、 貧しき者には柔軟な救済の手
を差し伸べる姿勢を示す 『戒律』 をして、はたして 「閉鎖的」であると言えるのだろうか。
しかし他方で、 修道士の外出を制限し、 世俗の情報が入ってくることを規制する姿勢をして、 「開放的」で
あるとは言い難い。
言うなれば、一方で身内に対してはあくまでも厳しく、世俗との関係を断っての禁欲的生活の維持を目指し、
しかし他方ではキリスト教の宗教的施設として、 その倫理の体現者たることを求め、万人に対して受け入れの
姿勢を示したと言える。
自らが動くことはしないが、 救いを求める者に対しては最大限の配慮と対応をする。 この姿勢は、修道施設
(ある程度、閉鎖的でなければならない)と福祉施設の両面を活かそうとするものである。 しかしあくまで修
道施設であることに重きを置くのは、 修道院本来の意図からして何ら非難されることではない。 故に、 動者と
しての「積極的活動」 を期待し、 それを以て 「積極的」 とするのでは、その評価においてあまりに公平さを欠
く。
では、その「積極性」 を何処に見出すか。
それは修道院の「開放性」に示されると思う。 内なる厳しさを維持しながら、 どれだけ門戸を開放できるの
か、 それを 『戒律』 の条文から窺ってみたい。
第56章「修道院長の食卓について」では、修道院長のその食卓には、常に来客と巡礼者が同席する、とあ
る。
『戒律』で最も短いこの一文は、その内容から最も議論の多い箇所であるとされる。
食事という共住生活における重要な行為を、共同体の長である修道院長が修友ではなく 「来客」 と共に行う、
ということはどう考えればよいのであろうか。しかも第53章10節では、 修道院長は来客との食事に際し、 大
斎(断食)を破ってもよいことになっている。
これを解釈するに、同章の謎 649 の言葉を借りるなら、やはりベネディクトが客を受け入れるために敷いた
二つの原則 「客の内にキリストを見ること」 と 「客が修道士の生活を乱さない」の存在があり、その中で客に
対して礼を尽くし (即ち、 修道院の代表者が客に応対すること)、かつ一般の修道士と客との接触をなるべく
避けるための手段だったのではないだろうか。 そういう意味で、一見共住生活の精神とは矛盾するようなこの
行為も、閉鎖性と開放性のバランスを保つ上で必要であったと考えることもできるであろう。
第 58 59 章は成人、 または年少者を修友として受け入れる場合の手順であり、 これは非常に慎重なものと
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なっている。 確かに、 修道士たちの世俗から離脱した生活を維持するには、人の出入りや情報の管理は重要で
ある。入院希望者はまず宿舎 (来客用の宿舎) にて数日留まった後、 修練所 (一般修道士たちとは別の学び舎
兼宿舎、修道院史上初めてベネディクトによって設けられた) にて年長者の監督を受けながら、幾つかの段階
を経てようやく修道士として受け入れられる。 これら慎重な手順を踏むことは、 内なる閉鎖性の維持のためで
ある、と言えよう。
第66章「修道院の門衛について」。 修道院の入り口には、世俗の魅力に惹かれて彷徨する危険性のない 「知
恵のある老人」が配置される。 ここでも一般修道士たちと世俗との隔絶の維持が図られている。 しかし、来客
や貧しい人が声をかけたなら、 祝福の言葉で迎え、愛を以て急ぎ対応する。 また、 その際に必要であれば若い
修友が助手としてつく、というから、 世俗との隔絶を掲げつつも、 来客に対して礼を失するようなことがない
よう配慮されてい
以上、 『戒律』 の条文からその慈善の精神を汲み取ってみたが、ここまでで言えるのは、当時より修道院は、
閉鎖的な宗教施設というだけではない、 序章で引用したところの「避難所」 的な役割を既に帯び、 また 『戒律』
からも見て取れるように、 修道院側もそれを自覚し、自らの修道姿勢 (孤独と禁欲) とキリスト教的慈善の精
神の間で現実的な折り合いを見せていた。
しかし、『戒律』における修道院はあくまで修道院であったのである。
『戒律』の精神、作者ベネディクトが目指したところはあくまで修道生活を妨げない程度と規模の慈善精神
の実践であって、 救貧を専業とするソーシャルワーカーを目指していたわけではない。 しかし、 中世ヨーロッ
パにあっては修道院の持つ福祉施設的役割は確かに認知され、 「中世における」 社会福祉の大きな比重を占め
ていたのである。
そして、人々からのニーズはそのままで、修道院は修道施設としてその対応に苦慮しなければならなかった。
だが、時代が下り、 クリュニー修道院などの経済力と組織力を持った修道会の出現によって、 それには一応
の解決策が提示されることとなった。
次章では、中世の都市社会を一例に、 修道院より生まれた 「施療院」概念の発展と運用の形態を見てみたい。
3.都市の社会福祉と施療院
中世フランドルの都市ヘント (Gent) を例に
本章では様々な組織、 勢力の手によって建設された施療院施設とその活動をみていく。
ここでの主な資料としては、 河原温『中世フランドルの都市と社会』 に当時の施療院の詳細な記述があるの
で、それに依って進めていきたい。
『中世フランドルの都市と社会』 で採り上げられている中世フランドル地方は、中世においても早くから都
市化がなされ、 また経済的な富を蓄積した地域であり、その中でのフランドル伯領に擁される都市ヘントは、
都市の慈善組織・施設についての記録が比較的多く残されている。 本章でみるところの施療院施設を多く有し
ただけでなく、世俗権力の領邦下の都市として発達した社会構造は、 「世俗権力」、 「民衆」、 「教会」 という三
勢力が描く中世ヨーロッパ全体の社会構造の縮図、 福祉事業の有力なモデルケースであると言える。
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(1)施療院とは何か。 思想と分化の問題
ヘント市の社会福祉おいては、 施療院は救済対象に即した専門分化が行われ、 効率的な運用がなされていた
が、施療院とはそもそもどのような施設であったのか、 そしてこのような有効な施設概念がいかにして修道院
から生まれるに至ったのか、それをまず見ていきたい。
まず、施療院の一般的な定義を示すものとして、 河原温 『世界史リブレット23 中世ヨーロッパの都市世界』
からの引用を挙げてみたい。
施療院とは、一夜の宿と食事を必要とする巡礼や旅人、 また病人や捨児、 物乞いたちを受け入れた施設
であり、本来修道院に付属する施設であった。 しかし、十二世紀以降、 多くの都市で俗人 (市民)層が、
その設立にかかわるようになってくる(26)。
ここでまず注目したいのは、 施療院とは本来修道院に属する施設であったということである。
修道院は本来、修道士たちが禁欲的かつ俗世間から離れた共同生活を行う場であった。 しかし、だからこそ
巡礼者や貧者のための宿泊所を別に設ける必要があったのであろう。
こうした「修練を行う場」と「慈悲を行う場」 の分化が進んだ結果、 修道院から独立した「施療院」という
慈善行為に特化した施設 (「愛徳のための外部施設」) が生まれたのではないだろうか。 また、それを物理的に
実現するための組織力や経済力を、当時の一部の修道院は持っていた (27)
また、中世の修道院が古代からの貴重な文献を保持するなど「ヨーロッパの知」の守人であり、担い手でも
あったことはよく知られているが、それは医学・薬学の点でも同様であった。 二章において 『戒律』の条文か
ら、当時の(執筆当時からの) 修道院の高い衛生観念が窺い知れたが、そういった福祉に有用な技術面でのノ
ウハウを修道院は期せずして積み重ねていたとも言える。
ハインリッヒ・シッパーゲス (濱中淑彦監訳) 『中世の患者』 では修道院内に設けられた(病人)宿泊施設
は三種の異なる施設にはっきりと区別することができるとしている。 即ち、
一、 貧者と巡礼者のための家(貧者たちの宿坊)
二、富める巡礼者のための宿泊所 (宿泊所)
三、 修道士と僧のための病院(病舎) (27)
ここで既に、中世において建設された施療院の性格と、 病院施設の確立の原型が見て取れると思う。
一口に貧者を「キリストの貧者」として修道院内に迎えるにしても、そこには様々な人々がいたのであり、
病院施設が確立される以前、 中世ヨーロッパの医学を担っていたと言える修道院の見地からすれば、 傷病者と
健常者を同じところに置くのは衛生的な観点から言って好ましくないことであっただろうし、また身分の違い
によってその対応も違ってくる。 とすれば、必然的に上記のような場所と対応の分化が起こってくる。 こうし
た修道院施設の役割の分化がそのまま 「施療院」 や 「病院施設」 という独立した福祉施設としての概念として
成立、 それが世俗に定着し、 広く民間組織の手によってもその建設が為されたのではないだろうか。
「施療院」が修道院の付属施設から独立した福祉施設の概念として受け取られ、12世紀以降にはその建設
に俗人が関わってくるようになったが、 俗人の手によって建設された 「施療院」 には、それまでの一般概念と
しての施療院(修道院の付属施設) と性格を異にするものも存在した。 「キリストの貧者」 をあまねく受け入
れてきたのは修道院付属の施療院施設であったが、 その建設と運営に俗人が関わることによって救済対象の選
別や救済活動の専門分化が行われるようになった。 代表として挙げられるのが職業組合という俗人団体の手に
よって建設された施療院で、これは貧者を広く受け入れるというよりは、傷病によって失業したメンバーや貧
困化したメンバーの為の厚生施設としての役割を持っていた(29)。
こうした多様化する施療院概念から離脱する形で発展、 確立を遂げたのが 「病院施設」 であると言える。 施
療院は病院としての機能も持ち得たが、 それは修道院の 「療養所」としての役割が引き継がれたからだと言え
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る。修道院は当時に在って医学の中心地でもあった。宗教的慈善行為の場であった修道院から広義な福祉施設
としての「施療院」 概念が分化したように、 「施療院」での社会的救済活動が専門分化することに伴って医療
活動に特化した「病院」概念が生まれたのである。
このように、修道院から独立した時点での 「施療院」 概念とは広義な社会的救済施設であったが、救済活動
の担い手(職業組合や兄弟団など) の性格や意向を反映する形で活動が限定 (組合員の福利厚生施設として、
など)・専門化(医療施設としての 「病院」概念の確立、など) されてい
では次に、ヘント市を一例として、 各組織、 各勢力によって作られた様々な施療院施設を採り上げながら、
その性格の違いや施療院概念の変遷、 施療院を中心に描き出される当時の都市で展開されていた社会福祉の形
態を見ていきたい。
(2) ヘント市における施療院の分布と特徴
中世ヘントの都市の施療院 救済施設の一覧 (30) をみると、まずその施設ごとの救済対象者の分化と、創建に
関わった組織、勢力の多様性に驚かされる。
ここで名を連ねている主な創建主体としては、 「都市」、 「都市貴族」、 「修道院 (教会)」、 「市民」、 「ギルド (職
業組合)」、「兄弟団」 が挙げられる。 創建主体と救済対象との関係で興味深い点は多々あるが、 特に注目した
のは病 (ハンセン病) 患者や盲人を対象とした施設の設立に 「都市」 が当たっているという点と、思いの外、
各ギルドによるメンバーの為の厚生施設が多いことであろう。
中世ヘントの施療院 救済施設は資料の中で挙げられているだけでも31 あるが、 河原氏は貧民救済組織を
二つのタイプに大別し、主要な救済施設を五つのカテゴリーに分け、その性格を定義している。
まず第一のタイプは、 旅人、 貧民、 病者等の宿泊ないしは居住の場を提供した施設であり、中世後期には 「禄」
を購入した通常の市民を受け入れることで 「養老院」 的機能も併せ持つことになる。 第二のタイプは、 前者の
ような宿泊や収容の為の施設を持たず、 小教区ごとに特定の貧民に対して食料物資の施与を行った「精霊の食
卓」、「貧者の食卓」 と呼ばれる教区貧民救済組織である(31)。
次に、主要な救済施設の分類である。 第一のカテゴリーは、 都市当局によって創建されたもので、 その最古
の施設は1146年頃創建された癩 (レプラ) 施療院である。 第二のカテゴリーは、12世紀から13世紀にかけて
現れる修道院付きの施設である。 第三のカテゴリーは、13~14世紀に有力な都市民家系によって創建された施
設であり、その影響力を受けてか当該市民の名を冠したものが多い。 第四のカテゴリーは、手工業ギルドや兄
弟団など都市の社団により設立されたものであり、13世紀から知られている。 最後のカテゴリーとして、 13
世紀以来出現する 「半聖半俗」 の生活を送ったベギンとよばれる在俗女性集団の為の施設がある。 河原氏はこ
のベギン会について資料の中で詳しく取り扱ってはいないが、 中世の女性福祉をみるうえで興味深い組織であ
ることには違いない。
本項では第一から第四のカテゴリーに属する中世ヘントの主要な施療院を一つ採り上げ、 その創建 運営に
関わった救済組織の性格や、 当時の福祉政策の実態とその思想性についても併せて見ていきたい。
1) 聖ヨハネ施療院 (Sint-Jans-ten-Dullen) にみる施療院の宗教的精神性
まず、第一のカテゴリーに属する救済施設として、 聖ヨハネ施療院を採り上げてみたい。
当施療院は1190 年代に聖ヤコブ教会のそばに創建され、 その活動に当たっては修道会からの強い影響力を
受けていた。それを証明するものが、 1196年から修道院長により得ていた一連の規約の存在である。 1196年
の第一の規約は21の項目からなり、そのうちの多くは当施療院で生活するメンバーの禁欲的生活態度の維持
と罰則の規定であった。 具体的には特定期間の肉食の制限や、 侮辱行為、 肉欲の行為などに対する罰としての
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断食の期間の設定、スタッフの採用方法などが定められていた。 こうした規約にみられる入所者への修道院的
生活規律の指導や人事・運営に対する修道会の影響力は、 当施療院が 「修道会に準じた霊的組織」 であったこ
とを示している。
主な救済対象は病者であったが、1404年の第三の規約において精神障害者も受け入れることが明記されてい
る。 注目したいのは1432年に司教により更新された規約において、当施療院の運営・管理が 「参審人」によ
り行われる旨が確認されていることである。 先にも示した通り、 当施療院の実態は 「修道会に準じた霊的組織」
であったが、しかしその創建の主体は 「都市」 であった。 ここで言われている 「都市」とは、 都市当局、参審
人団体のことである。 「参審人」とは有力市民(都市貴族、大小のギルドの代表者など)により構成される都
市エリート層であり、 施療院の創建にもみられるように、都市の政治に大きな影響力を持っていた (22)。 こうし
た都市の有力者は兄弟団や施療院などの監督者としても活動しているが、都市有力市民層の意向によって創建
されたはずの当施療院はその運営における規約を修道会より得ている。 これは何故であろうか。
前項でも河原氏の引用を挙げて述べたが、ここで再び氏の言葉を借りて当時の施療院概念を見てみたい。
中世において施療院の運営を定めていた規約は、理論上司教ないし修道院長によって与えられ、 また修正
されるべきものと見做されていた。 なぜなら施療院は中世初期以来霊的性格をもつ教会組織の一部と見做
されていたからである。 しかし、12世紀以降フランドル地方では都市に司教座がおかれていなかったとい
う事情もあり、 個別都市の施療院に対する司教・修道院長の役割は名目的なものとなっていたように見え
(33)
当施療院において、言われているように教会勢力の役割が名目的なものであったかは、 規約の効力をみる限
りそういったことは見受けられない。
前項では持論も交えて、 修道院の付属施設であった施療院概念が変遷していったことを述べたが、氏の言葉
は一見するとその動きに反しているかのように思える。 しかし、こうも考えられる。 12世紀以降、俗人の手に
よってもその創建が為された施療院施設は、概念的には修道院 (教会) に限らない普遍性を持つに至ったが、
その運営は実態的には修道院のノウハウ (加えて、 当時の社会性から鑑みて、 結局は「慈善活動の場」である
施療院の運営に対する神学的な裏付け) に頼るところが大きかったのではないか。加えて、 当施療院は病者を
主な救済対象としており、 資料 『中世の患者』 にみられるような修道院医学の直接的な支援、または間接的な
技術提供などを必要とした可能性も考えられる。 当施療院の運営の実態がどうであったにせよ、12世紀以降も
貧者救済や慈善行為を支える (動機となる) 精神性にキリスト教的精神が少なからず影響力を持っていたこと
が窺える。
2) ヘベレヒツ施療院にみる 「禄」 制度と養老院的機能
ベネディクト系大修道院であるシント・ピーテルス修道院によって13世紀初頭に創建されたと考えられる
(当施療院の創建に関する文書は現存せず) 当施療院は、その管理権もシント・ピーテルス修道院にあった。
よって当施療院は第二のカテゴリーに属する。
ただ、その管理運営の実態をみていくと必ずしも修道院に従属した施設とはいえず、 1270年代~1500年ま
での間に知られている監督者の構成において聖職者は27人中 7人と意外に少ない (その他は俗人)。 同じカテ
ゴリーに属していても、 中世を通じて修道院の管理下にあり続けたシント・アンナ施療院 (34) とは異なり、 その
活動実態は修道院から独立した組織であったといえる。 そのことは当施療院がカロリング期以来の伝統的な修
道院の救貧理念のみに基づいて生まれた組織ではなく、 都市民のニーズに対応した形で設立された福祉施設で
あったことを窺わせる。
当時の施療院施設に対する都市民のニーズを窺う上で、 施療院施設の養老院的機能は無視できない。そして
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その機能を象徴し、支えるものの一つに「禄」 制度が挙げられる。 この施療院禄とはどのような制度であった
のかを、このへべレヒツ施療院から見ていきたい。
当施療院の入所者は、原則として 「受禄者」であった。 (救済対象は病者)
当施療院の「受禄者」 の数は、会計帳簿の記載から1392年以降1497年まで合計 187人であったとされる。
但しその数には重複 (二人分の禄を得ている者) もある。 受禄者の数は、年代が進むごとに、 生活環境(食事
の質や毎週受禄者に対して与えられた 「週手当」 の金額の向上に反比例して減少傾向にあった。 これは施療
院の収入自体が伸び悩んでいたことを受けて、 禄の数を減らすことでサービスの質を保とうとした結果である
といえる。このことからわかるのは、 当施療院が救貧よりも市民の養老院的機能に重きを置いた活動をしてい
たということである。 (それもかなり行き届いたサービスを提供する施設として)
「緑」の概念は、当時にあってはやや多様な意味を含んでいるので、ここでは資料からの引用に頼って見て
みたい。
「受禄者(prebendari/proveniers)」とは、もともと中世初期の修道院共同体で日々給養された者であ
ったが、中世盛期以降さまざまな救済施設で援助を受ける貧者も意味するようになった。 G. マレシャル
の定義に従えば、 中世ネーデルランドにおいて「禄 (prebende) とは、 「当該施設の費用で休養され、そ
こに居住する権利」 を意味し、 「受禄者」とは 「そうした禄を何らかの形で得た者」を意味したのである。
したがって「受禄者」には、禄を無償で与えられた者(貧民・病者・当施設の監督官など)と禄を購入し
た者(市民)とが含まれていることに注意する必要がある。 (35)
ヘベレヒツ施療院は、13世紀には貧民や病者を「受禄者」として無償で受け入れていることから、当初は必
ずしもその活動は養老院的機能に限ったものではなかったことが窺えるが、14世紀以降、市民による禄の購入
が進行したことによりそういった傾向が強まっていったことが見て取れる。 また禄の購入者と受禄者の男女比
をみてみると、 14世紀末以降知られている受禄者の約70パーセントが女性であったことが分かる。 当時の当
施療院の規約には、女性を優先的に受禄者とする旨の規定はみられず、また女性達は禄を購入することで受禄
者としての権利を得ているのであるから、ここに施療院や修道院側の作為性は見て取れない。 あくまでこの数
字は「救済される側」の意志と選択によって生み出されているのである。 そしてこの数字は、 当施療院が果た
した機能の変遷と無関係ではあるまい。 ここに中世社会における女性の地位と立場を窺い見ることができる。
未婚女性ないし老齢の女性、夫に先立たれた寡婦の立場の弱さは近現代にも通ずるところがあるが、こうした
社会的に低い地位、 社会的弱者であった女性たちの生活保障の手段として、 当施療院を始めとする施療院禄の
購入はベギン会と並んで有効な選択肢の一つであったに違いない。
先にみた聖ヨハネ施療院では、 俗人の手によっても施療院施設が創建されるようになった12世紀以降にお
いても(聖ヨハネ施療院は都市当局、 参審人団によって創建されていることを思い起こしていただきたい)、
その運営には 「修道院時代の名残」というか、神学的な裏付け、キリスト教思想の影響力があったような印象
を受けたが、 ここでみたヘベレヒツ施療院の 「緑」 制度や養老院的機能 (勿論、 それは当施療院の独壇場では
なく、当時の救済施設においては少なからず共通することであるが) からは、 「救済を受ける側」 の自発性や、
そういった市民からのニーズに応じてその役割や機能を変える都市施療院の即応性を感じ取ることができよ
う。
3) ウェネマール施療院にみる都市貴族の慈善事業
14世紀には都市貴族によっていくつかの施療院が創建されているが、 その代表的なものとして1323年に建
てられたウェルマール家による施療院を取り上げたい。
第三のカテゴリーに分類される施療院施設の特徴として、 当該市民の名が冠せられているという点があるが、
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このウェルマール施療院も創建者である Willem Wenemaer の名を冠している。 彼は14世紀にヘントの参審人
職を何度も務めるとともに、毛織物会館の裁定人や他都市との交渉におけるヘントの都市当局の代表も務めた
有力者であった。
当施療院は1318年に彼とその妻 (Margarete De Brune) が購入した石造りの家屋を、 1323 年に貧民の為の
施設として用いる (相続人に譲渡する) 旨を参審人団体の前で確認した後、 1325 年から施療院施設として転用
されたのが始まりである。 当施療院に関する 1328 年の参審人文書では、「貧民と病人を受け入れる施設」とし
て定義され、 「管理者」 には Wenemaer と De Brune 両家の相続者たちから選定された二名が当たった。 1339年
にはヘントの参審人団体から規約を与えられ、それによれば当施療院には 「少なくとも三十人の貧民と病人」
を受け入れることが定められている。 さらに1420年に新たな内容の規約が参審人団体より与えられ、 都市の
施療院としての役割が強化されたが、 15世紀においても設立者の両家のメンバーが引き続き「管理者」として
当施療院の運営を担い、スタッフや受禄者の選定を行っていた。
以上が当施療院の大まかな歴史であるが、 注目すべきはその創建から管理運営までが都市の有力者(創設に
関わった夫妻の両家と参審人団体) によって行われている点であろう。
また、施設運営の規約についても参審人団体より与えられている。 それでいて当施療院の主な救済対象が貧
民や病者であったことは、 当施療院の創建、運営が都市の有力者達による 「慈善事業」であったことを示して
いる。
ここに描かれる構図は、 「富者による貧者救済」 と 「財産の寄進」というキリスト教的な貧者救済のプロッ
トと符合するが、 資料を見る限りにおいては当施療院の実際の運営に教会や修道院が関わっている様子はない。
創建者である Willem Wenemaer は上述の通り、他都市との交渉などといった都市の運営に関わっているところ
の有力者であり、そういった都市の支配層が社会的弱者の救済に力を注いでいたということは、当時の人々の
慈善意識の高さを示していると言える。
4) 手工業ギルドの施療院にみる民衆間の相互扶助
同業組合(ギルド)は同職の市民 (民衆) 同士による社会生活上の相互扶助を目的とする社会組織である。
同様の組織としては兄弟団があるが、 ギルドを職業的絆によって結ばれた組織であるとするなら、兄弟団は信
仰によって結ばれた救済組織であると言える。 自然 キリスト教信仰を土台とした思想性はギルドよりも広範
な救貧活動をし得た、 と言えるが、 中世ヘントにおける兄弟団の救済活動は、こと施療院の創建、運営に関し
ては数例 (代表としては、巡礼者を対象としたヤコブ兄弟団) しか確認できない。 これは必ずしも当市におけ
る兄弟団の活動が活発ではなかったということを示すものではないが、同時に当市は中世において毛織物工業
を中心とした都市であり、毛織物生産の様々な工程に関わった手工業ギルドが政治的、 社会経済的に重要な地
位を占めていた。こういったなかでギルドは市民 (労働者階級) の福利厚生を担う役割を期待され、そういっ
た体勢のニーズに応える形で主に手工業ギルドやその他の有力ギルドによる貧者救済事業の一環として、史料
において確認されている限りでも十もの救貧施設が創建されたと言える(36)。 ギルドとは同職者によって結成さ
れる組織であるから、 救貧に当てるための資金力には組織の規模的な限界が伴う。 しかし当市において織布工
は14世紀半ば、総人口の実に33~36パーセント (約2万1000~3000人)を占め、また縮絨工もそれに次い
で総人口の22パーセント (1万4000人) 余りを占めていたとされ、 同職のギルドは当市における最大の職業
集団であると同時に、 市民の大勢 (majority) を占めていた。 つまりこれらのギルドによる救貧活動の規模は
都市的福祉政策のそれと同義で、必ずしも「同職者同士の相互扶助」 という限定的な活動実態から受ける感覚
だけではその社会的意味を推し量れない、同市内における高い 「公共性」を持ち得たのである。(但し、それ
が実際の市政において発揮されたかどうかは後述)
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以下、当市における市民の大勢を占めた両ギルドの手により創建・運営された施療院を見ていきたい。 しか
し当市においては手工業ギルドの活動を記した史料が多く失われた、ということもあり、 その詳細な実態につ
いては不明確な点も多い。
まず織布エギルドの施療院である。 現存する史料では、1336年の都市当局による物資と貨幣の供給の記録が
この施療院の初出となる。 その他、 1340 年代から1390年までに市民からのさまざまな寄進文書8点が残され
ている。 規約は現存していないが、14世紀後半までに礼拝堂を備え、 他の施療院と同様、 祈りの共同体として
の性格を持っていたことが窺える。 後代 (16世紀後半) の史料によれば、 当施療院が織布工で老齢となったメ
ンバー23人を受禄者として収容するために建てられたとされ、15世紀の会計帳簿からは、年により21~23人
を受け入れていたことがわかっている。 当施療院の管理は「出納役」により行われ、 会計帳簿の管理や食糧、
日用品の購入をつかさどっていた。
次にみる縮絨工の施療院は、1302年にZacbroeders 家の寄進によって設立された。 Zacbroeders 家は、 彼ら
の居住地が 「自ら生活しえないヘントの貧しい、 病気の縮絨工のために」 施療院として用いられるように取り
決めたのである。 当施療院の管理には三人の 「監督者」 が当たり、 joncwive と呼ばれる女性スタッフが受禄者
の世話をした。受禄者の数は織布工の施療院と比べてさらに少なく、15世紀に3~5人を受け入れているのに
過ぎない。
両施療院に関して共通している点は、創建に携わった両ギルドが総人口の半数近くを占めるメンバーを持つ
巨大勢力であるのに、 その施療院の利用者数があまりにも少ないということである。 両ギルドの市政に対する
影響力については、当時の市政を担った二つの参審人委員会 (Schepenen van Keure と Schepenen van de Gedele)
を構成するそれぞれ13人、 計26人の参審人の選出において、10人は両ギルドを中心とする毛織物業ギルドか
ら選出されていたことからもわかる (37。 故に、 先に私は両ギルドの救貧活動は都市規模の福祉政策であり得た
し、公共性を持ち得たといったのであるが、 実際の両ギルドの救貧活動として両施療院を見たとき、はたして
その市政における存在感と影響力に相当するだけの 「福祉政策」 だったと言えるであろうか。両施療院の規約
は資料では明らかとなっていないため、 実際にどのような選考基準で受禄者が選ばれていたかは定かではない
が、両施療院のサービスの 「質」を受禄者が受け取った 「給付金」 からみた場合、 先に挙げたヘベレヒツ施療
院と比べても格段に高いわけでもなければ、 織布エギルドに至っては約半分の額でしかない。 勿論この要素だ
けで各施療院のサービスの質を量れるわけではないが、 基本的には各施療院における入所者の生活水準はあま
り大差が無く、食事の質は宗教色に左右されるところがあるので、 重要な尺度とはならない。むしろ利用者の
少なさがそのまま質を表しているとも言える。 (禄の購入制度にみた 「救済される側」 の選択性)
しかし、こうも考えることができる。両ギルドが直接関わったメンバーの福利厚生としての施療院創建は、
ギルドという組織体系からいえばこれは特筆すべきことであるが、同時に両ギルドを市政を担う政治的・社会
的勢力として見たとき、 「政策」 としての物足りなさを感じる。 が、 そもそもこの施療院に当初から公共性な
どは考慮されておらず、ただ老いや傷病などで労働力を失った共同体内の仲間の救貧の為の施設であったとす
れば、納得もいく。 それは 「職業組合」 としての 「義務」に応えたに過ぎないからである。
両者が公共性を持った都市の福祉政策として影響力を発揮したとすれば、 それは 「職業組合」 としてではな
く、都市の多数派 (majority) として参審人団内においてであろう。
両施療院にみられるのは、あくまで職業組合としての貧者救済の精神であり、それは共同体内での相互扶助
の精神と形を同じくする。
以上、ヘント市における四つのカテゴリー(ベギン会のものを含めれば五つ)に属する施療院を取り上げ、
その性質と特徴を見てきた。
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四つのカテゴリーは時代区分が可能であり、一から四へと時代が下るほど施療亮は救貧の為のより効率的か
つ分業的なシステムとして機能していっていることがわかる。 但し、 それは必ずしも現実の貧者にとって歓迎
すべき変遷とはいかなかったのであるが。
第一のカテゴリーに見られるように、 初期の頃は創建主体は都市であっても、 その実際の運営と管理につい
ては修道院に頼るところが大きかった。 しかし、禄制度の採用や同業組合の福利厚生に施療院概念が利用され
るようになると、その救済の対象はより限定的になり、 施療院がそもそも修道院内における救貧活動の場であ
ったことを鑑みると、 修道院的救済施設としての性格が失われていっていることがわかる。
では、そのことを踏まえて、 結びを述べたい。
おわりに
修道院内における救貧活動は、 そもそもがその存在意義との間で矛盾を抱えていた、と言える。 キリスト教
修道制の源流には、 「砂漠の隠修士」と呼ばれた、文字通り孤独と禁欲のうちに生涯を終えんとする苛烈な求
道者としての姿があった。但し、 それはやはり非常に危険を伴うものであって、 聖書からうかがえる死生観や
使徒的生活と照らし合わせても、 そのような過酷な苦行とも取れる行為は、 必ずしも奨励される行為であると
は言えなかった。故に彼らは極小規模な集落共同体をつくり、聖アントニウスに代表される賢人の下、譲歩的
心情でもって自らの生を繋ぎつつ、 修道に務めた。
そのような古代の修道制をより安全に、そしてより効率的なものとしてシステム化したのが、聖パコミウス
による修道院制への改革である。 彼の功績により、 修道院という安定した生活拠点を持った修道士たちは、 過
度な禁欲と孤独から解放され、 修道院文化はより飛躍を遂げることとなった。それと同時に、それまで目を向
けることができなかった 「外との関わり」 を彼らに意識させることになった。 彼らはともすれば、一転して俗
化する危険をも抱えることになったのである。
その点で、 聖ベネディクトの 『戒律』 は、 非常にバランスの取れた修道の姿勢を提示したと言えよう。自分
達の修道を念頭に置きつつも他者への配慮を忘れない、キリスト教精神の体現者として、中世における 「避難
所」という地位を築き上げた。
同時に、そこが修道院が修道院たるための一線でもあった。 「慈善行為を行う場」である施療院施設が修道
院に付随してつくられたのは、古来よりの修道制第一の理想が生きていた結果であるともいえる。 つまり、そ
れほど修道院の隔絶性というものは重視されるものであり、修道院という施設の、組織のそもそもの存在意義
であったのである。 同時に、 それが修道院単独での慈善活動の限界であったということができる。
修道院が社会福祉史において果たした役割と功績は何であったか。
まず第一に、 「避難所」 でありえたこと。 これは中世を通しての評価であり、 現代人の心情にも少なからず
通ずるところがある。
次に、修道院は中世にあって高い知的水準を誇り、 それが様々な分野、 社会福祉にとっても重要な医学・薬
学、衛生や栄養学の分野においても寄与したところが大きい。
そして、それらは修道院内の救貧活動として、また専用の救済施設としての施療院で発揮され、特に施療院
でのそれは衆目に触れるところが大きかった。 これが一種のモデルケースの役割を果たしたのだと言える。
施療院の創建と運営は、世俗権力や有力市民の慈善的情熱を満たし、かつ民衆からのニーズに応えるものと
して、人々の意識的な分野でも社会福祉の普及と発達に貢献した。
ヘント市での実例からも見て取れたように、 修道院から発せられた文化が制度的、技術的にも、中世の社会
福祉の発展に寄与、貢献した事実は疑いようがないであろう。
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(1) ハインリッヒ・シッパーゲス (濱中彦訳) 『中世の患者』 人文書院 1993 244頁。
(2) D. ノウルズ (朝倉文一訳) 『修道院』 36頁。 訳注。
ユダヤ教エッセネ派。 独身での質素な共住生活など、キリスト教の修道制との共通点は多い。
(3) D. ノウルズ (朝倉文一訳) 『修道院』 24~25頁。
(4) D.ノウルズ (朝倉文一訳) 『修道院』、23頁。
新共同訳聖書 マタイ19:21 マルコ 10:21、 ルカ 18:22
(5) K.S. フランク (戸田聡訳) 『修道院の歴史』 36頁。
(6) K.S. フランク (戸田聡訳) 『修道院の歴史』 36頁。
ただこれは、「隠修者集落」 という文中の通り、 個の連帯による関係性に留まる。
(7)K. S. フランク (戸田聡訳) 『修道院の歴史』 36~37頁。
(8) K.S. フランク (戸田聡訳) 『修道院の歴史』 37頁。
(9) K.S. フランク (戸田聡訳) 『修道院の歴史』 37頁
(10) 使徒言行録第4章32~35節に描かれる共産・共同主義的生活様式。
(11)こうした修道院の権能に関する聖界の煩悶は、クリュニー修道院と11世紀以降の修道完改革において発露されること
となる。
(12) 朝倉文一 『修道院制にみるヨーロッパの心』 16~19 頁。
(13) 上智大学中世思想研究所編 『聖ベネディクトゥスと修道院文化』
坂口昂吉、 3~4頁及び註訳 (1) 参照。
(1) 上智大学中世思想研究所編 『聖ベネディクトゥスと修道院文化』
古田暁、 前掲書55頁の註 (1) 参照。
(15)古田暁訳『聖ベネディクトの戒律』、3頁。
(16) 但し、 同章12項 (前掲書4頁)では、瑣末な問題は年長者のみによって協議されるとある。 私はこれを寡頭政治のよ
うな体制ではなく、 組織運営のための合理的な手段であると感ずる。
(17)第43章「『神の業』 あるいは食事に遅刻した者について」
第44章「破門を受けた者について。 どのように償うべきか」
第45章 「祈祷所で過失を犯した者について」
第69章「修道士は修道院内において他の修道士を弁護してはならないこと」
第70章 「誰も人を見境なく打ってはならないこと」
第71章 「修友は互いに服従すべきこと」
前掲書、 凡例参照。
(18) 前掲書226頁。
第56章 「修道院長の食卓について」 では、 修道院長の食卓には、 常に来客と巡礼者が同席する、とある。
(19) 第72章で述べられているところの 「愛」 とは、 修友に対する 「友愛」である。
(20) 前掲書33頁 (註65) は、 四章から七章を 「修道士の霊的形成を語る部分」 とする。
(21)前掲書152~153頁 (註413) 参照
「ベネディクトは病人のみならず、 健康な修道士にも慎重だがそれを認めた。」
「中世の西欧では水道や便所の設備は修道院を通して一般に広がったとされる。」
これらは、修道院の医療や衛生を含む文化水準の高さを窺わせる。
(22) 前掲書154頁 (註418 419)。
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(23) 前掲書213頁 (註597)。
(24) 前掲書 215頁 (註610)
これらは用語の訳の問題もあり、箇所によって用法が異なっていたり、必ずしも日本語の語感とは一致しない部分もあ
る。特に、同章における「来客」 に関する定義は同書註597 を参照のこと。 同章においては 「来客」と「貧者」は別個
の対象として扱われる。
(25) 例として第37章。 本稿の註20、 参照
(26) 河原温 『世界史リブレット23 中世ヨーロッパの都市世界』、 66頁
(27) 朝倉文一 『修道院制にみるヨーロッパの心』 34~35 頁。
隆盛を誇っていたクリュニー修道院を指す。
(28) ハインリッヒ・シッパーゲス(濱中淑彦監訳) 『中世の患者』247 頁。
(29) 河原温 『世界史リブレット23 中世ヨーロッパの都市世界』 67 頁。
(30) 河原温 『中世フランドルの都市と社会』 37~39頁の表参照
(31) 「貧者の食卓」 または 「精霊の食卓」の活動については本稿では詳しくは採り上げない。 前掲書 99~144 頁を参照のこ
と。
(32) 河原温、 前掲書17~18頁。
(33) 河原温、 前掲書73頁
(34) 河原温、前掲書44頁参照。
この施療院は14世紀末まで、運営責任者である 「監督者」 を修道院に関係する聖職者が務めていた。
(35) 河原温、 前掲書48頁。
(36)河原温、前掲書58頁。
今日の中世ヘントにおいてギルドの活動を記した史料が限定されてしまうのには、 1540年にカール五世によるギルド組
織の解体に伴い、その関係文書もまた破棄されたことによる。
(37) 河原温、 前掲書164頁。
参審人委員会 26人の具体的な内訳は、 都市貴族から6人、毛織物業ギルドから10人、 その他のギルド(パン匠、肉屋、
ビール醸造匠など53 の小ギルド)から残りの10人が選出されていた。ここからわかるのは、当時の市政において職業
組合のメンバーが大勢を担っていたこと、 その中でもとりわけ毛織物業ギルドが大きな存在感と影響力を持っていたこ
とである。
参考文献
D. ノウルズ (朝倉文一訳) 『修道院』 平凡社、1972年。
K. S. フランク (戸田聡訳) 『修道院の歴史』 教文館、2002年。
坂口昂吉 『聖ベネディクトゥス』 南窓社、2003年。
朝倉文一 『修道院制にみるヨーロッパの心』 山川出版社、1996年。
古田暁訳 『聖ベネディクトの戒律』 すえもりブックス、2000年。
上智大学中世思想研究所編 『聖ベネディクトゥスと修道院文化』 創文社、1998年。
古田暁訳 『聖ベネディクトの戒律』 すえもりブックス、2000年。
河原温『中世フランドルの都市と社会』 中公大学出版部、2001年。
河原温『世界史リブレット23 中世ヨーロッパの都市世界』 山川出版社、1996年。
ハインリッヒ・シッパーゲス (濱中淑彦監訳) 『中世の患者』 人文書院 1993年。
(卒業論文指導教員 山田 耕太)
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