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「聖武と桓武の宮都」
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   関西考古学の日 2012
「聖武と桓武の宮都」
日時:平成 24 年 10 月 13 日(土) 10:00∼16:00   会場:京都アスニー 4階ホール
報  告 「平城宮」             (財)元興寺文化財研究所 佐藤 亜聖・・・ 資料 2
     「恭仁宮」    (公財)京都府埋蔵文化財調査研究センター 岸岡 貴英・・・ 資料 3
     「後期難波宮」  (公財)大阪市博物館協会大阪文化財研究所 高橋 工 ・・・ 資料 4
     「紫香楽宮」        ( 公財)滋賀県文化財保護協会 大崎 哲人・・・ 資料 5
     「長岡宮」       ( 公財)向日市埋蔵文化財センター 中島 信親・・・ 資料 6
     「平安宮」 
     (財)京都市埋蔵文化財研究所 上村 和直・・・ 資料 7
主催:財団法人京都市埋蔵文化財研究所・関西考古学の日実行委員会
共催:公益財団法人京都市生涯学習振興財団(京都アスニー)  
後援:京都新聞社
資料
記念講演会
基調講演 「聖武と桓武の宮都」  (財)京都市埋蔵文化財研究所理事長 井上 満郎・・・ 資料 1
パネルディスカッション 司会 網 伸也(財)京都市埋蔵文化財研究所・報告者

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資料1
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資料1
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平 城 宮
−その基本構造と変遷−
財団法人 元興寺文化財研究所
主任研究員 佐藤亜聖
はじめに
 平城京への遷都は、慶雲4年(704)に帰国した遣唐使が持ち帰った唐長安城の情報が藤原京とかけ
離れていたためにこれを廃止し、新たに長安城をモデルとした平城京が造られたという考えが支配的
である。しかし、74年間続いた平城京は、784年の長岡京遷都まで安定した形態を持ち続けたわけで
はなく、特に聖武朝前後を中心に大規模な改変を繰り返したことが判明している。ここでは平城京中
枢の平城宮を中心にその変化を概観し、聖武朝前後の都城改変の意味を考えたい。
1.平城宮の基本構造
宮都中枢は大極殿地区と朝堂地区・朝集院地区、内裏地区によって構成されているが、田辺征夫氏の
用語(田辺1997)に従い一括して「推定第一次(二次)大極殿地域」と呼称する。「第一次」「第二
次」という用語も大極殿院・朝堂院のシンプルな移動モデル時代の用語であり、現状にそぐわないが
研究史上定着している用語として使用する。
【推定第一次大極殿地域】
・大極殿 東西53m、南北30mの基壇。山城国分寺と一致。『続日本紀』には平城宮→恭仁宮→山城
国分寺金堂に。記録との一致からも本来の大極殿。ただし南面築地回廊の整地土から和銅3年(710)
木簡が出土し、遷都当初は未完成であったことが判明。平城還都の後は北端に掘立柱建物が密集す
る、全く別の施設になる。『続日本紀』中の「中宮」「西宮」?
・朝堂院 東西200m、南北280mの範囲に2棟×2列=4棟の大型建物を配置。藤原宮、平城宮第2次大
極殿地区、平安宮はいずれも12堂型式の朝堂院であり、朝堂院としては異質。東区画塀に伴う南北溝
が715年銘木簡出土の土坑を切るので、成立は715年以降。
【推定第二次大極殿地域】
・大極殿 東西46m、南北24mの基壇。
・朝堂院 東西178m、南北284mの範囲に12堂が配置。朝集院あり。
推定第二次大極殿地域下層からは同じ配置の掘立柱建物群を発見。これらの年代は大尺設計であるこ
とと、出土遺物から遷都当初から恭仁京遷都直前まで継続していると推定。
【問題点1】
 奈良時代当初は第一次大極殿地域がやや遅れるものの、第二次大極殿地域下層遺構が併用されてい
る。第一次大極殿地域の大極殿は、巨大な礎石建物で、朝堂とともに新調した平城宮式の瓦を使用す
るが、第二次大極殿地域の主殿は檜皮葺で藤原京式の瓦を使用。階層差は明白。
第一次大極殿地域の推定朝堂は715年以降の創建。とすると和銅6年(713)の「朝堂」記載、霊亀元
年(715)年の新羅使接待記録の「朝堂」は第二次大極殿地域の下層遺構以外には考えられない。→
平城京遷都当初は第二次大極殿域下層の施設のみか?
◎推定第二次大極殿地域の大型建物は何?
?大安殿説→朝堂正殿としての大安殿。
?大極殿2棟並列説 礎石立ちの長安城モデルの大極殿と、難波宮以来の掘立柱型式大極殿を並置し
て融和を図る。→大極殿は唯一無二の存在。藤原京ではすでに大極殿は瓦葺基壇建物。平城京で掘立
柱建物にする理由がない。
【問題点2】二つの「朝堂」の意味は?
今泉隆雄氏の説→推定第一次大極殿院には朝集院がなく、二次下層にはある。二次下層は毎朝政務を
行うために臣下が待機する場所を必要としたが、一次は臨時的な使用の場だったのでこうした空間を
必要としなかった。
 一次の4堂型式は位階表現の場、二次下層の12堂型式は実務のための型式。
⇒一次が儀礼・饗宴空間、二次下層は実務空間?平安宮豊楽院朝堂と朝堂院朝堂の使い分けと同じ。
朱雀門の正面が儀礼的空間。
2.聖武朝(724-749)の変化
(1)養老造作
 養老5年(721)、藤原武智麻呂を造宮卿に任命、宮の改作を行う。聖武の即位を見越した改変。推
定第二次大極殿地域朝堂の荘厳化。715年以降聖武即位を前後する時期(回廊東側溝延長溝出土の木
簡による)までの間に、推定第一次大極殿地域に「朝堂」設置。これも養老造作に関連か?岩永省三
氏は瓦編年との対比から朝堂設置を霊亀−養老と想定(岩永1996)。いずれにしても聖武即位前に、
大極殿と朝堂が整備され、藤原宮にはない巨大な儀礼空間が完成。
 内裏基本形態の確立
(2)平城還都
 最大の変化は740年の恭仁遷都と、745年の還都。還都により大極殿は内裏・朝堂・朝集院と一体化
して安定化。朝堂も礎石建物に。儀礼空間の優位から実務空間優位へ。
 推定第一次大極殿地域の大極殿跡地には長安城大明宮麟徳殿を模した正殿・付属屋からなる建物
群。⇒唐長安城モデルへの接近
3.京の変化
 十条の改変と羅城の付加。遷都当初は都城南面に十条条坊と考えられる条坊付加。平城宮土器?・
?以降?までに廃絶。その後羅城設置。⇒聖武朝を前後する時期に唐風都城への大きな改変。
 近年の調査で九条大路幅員が27m(90小尺)の可能性判明。網伸也氏の指摘する平安京九条大路幅
と一致(網2011)。平城京で聖武朝前後に決められた京極の規模がその後の規範に。
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資料2

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おわりに
 平城宮中枢部の変遷について概観してきた。これにより、平城宮が予想以上に複雑な形態と変遷過
程をもつことを理解いただけたと思う。このことは、平城京・宮がこれまで言われてきたようにミニ
長安城として完成された姿で成立したのではなく、何段階もの試行錯誤を繰り返して平安京へと引き
継がれる基本形態を生み出したことを示している。
最期に若干想像のエッセンスを加えて宮都の変遷にかんする見通しを述べてみよう。平城遷都当初の
宮は政務空間をまず建設し、やや遅れて豪壮な儀礼空間として朱雀門正面に第一次大極殿域を建設し
た。このように大極殿が異常に重視される光景は飛鳥浄御原宮エビノコ郭を大極殿と考えた林部均氏
の指摘を彷彿させる(林部2005)。林部氏はこうした大極殿の独立性を、天武の壬申の乱による簒奪
政権を正当化させるための装置と考える。天武没後、聖武即位までの天武系皇統の不安定さが、藤原
京よりも先祖がえりしたかのような宮形態を生み出したのであろうか。
 その後安定した聖武政権は平城還都を機会に不必要に巨大な儀礼空間を放棄、実務空間を充実さ
せ、かつて藤原京で目指した実務的宮城を達成したと考えることもできよう。
 いずれにしても複雑なプロセスを経て、聖武朝後半には宮の形態は完成する。そして遷都当初の皇
統をめぐる社会状況から設置された大極殿空間である推定第一次大極殿域は、儀礼空間として機能し
続け、やがて平安京豊楽殿に引き継がれてゆくのではないだろうか。
平城宮は遺構残存度の良さと、調査の蓄積によりかなり詳細な復元が行われている。同時に古代都城
のモデルとなるがゆえに多様な解釈が行われ、未だに課題がのこされている。
【参考・引用文献】
網 伸也2011『平安京造営と古代律令国家』塙書房
金子裕之1987「平城宮」『古代を考える 宮都発掘』吉川弘文館
今泉隆雄1984「律令制都城の成立と展開」『講座日本歴史』2 東京大学出版会
今泉隆雄1989「再び平城宮の大極殿朝堂について」『律令国家の構造』吉川弘文館
今泉隆雄1993「平城宮大極殿朝堂考」『古代宮都の研究』吉川弘文館
岩永省三1996「平城宮」『古代都城の儀礼空間』奈良国立文化財研究所
田辺征夫1997『平城京 街と暮らし』吉川弘文館
奈良文化財研究所編2010『平城京辞典』柊風社
林部 均2005「古代宮都と天命思想」『律令国家と古代社会』塙書房
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図 1 平城宮の変遷 (1)(岩永 1997 を一部改編)
資料2

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図 2 平城宮変遷図(奈良文化財研究所 2003『東アジアの古代都城より』)
図 3 推定飛鳥浄御原宮の遺構(林部 2001 より)
図 4 藤原宮(林部 2001 より)
図 5 唐長安城(奈良文化財研
究所 2003『東アジアの古代途
上より)
図6 平安宮の構造(網2011より)
資料2

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恭仁宮跡の調査
公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター
 岸岡 貴英
1.はじめに
くにきょう
仁京は、聖武天皇によって木津川市に造られた都です。天平12(740)年から16(744)年の
間、国の首都としての役目を担いました。恭仁京の中心、恭仁宮には、内裏や大
だいごくでん
極殿、朝
ちょうどういん
堂院な
ど国の中でも最も重要な施設が造られていました。しかし、天平18(746)年には、その中心部が
やましろ
背国
こくぶんじ
分寺へと造り替えられました。
恭仁宮は、これまでさまざまな調査、研究がおこなわれてきましたが、足利健亮氏による歴史
地理学的な研究は、大きな指針となっています。足利氏は恭仁小学校北の土壇を大極殿跡と考
え、8町(約1km)四方を宮域と想定、京域についても平城京のプランを基本に、東西約6.1km、
南北約4.8kmの独自の学説を展開しました(第1図)。
調査は昭和48年度から京都府教育委員会が、昭和61年度からは、旧加茂町教育委員会(現木津
川市教育委員会)と京都府教育委員会が分担して実施してきました。平成8年度には東西約560m
×南北約750mの宮の範囲が確定、平城宮の約1/3の面積と判明しました(第2図)。その結果、宮
は北の丘陵から木津川に向かってのびる高台にあり、西側を深い谷が走り、東側を小河川が流れ
る地形に位置していることがわかりました。なお、宮の造成に伴い以前の古墳のほとんどが削平
されたと考えられています(第3図)。
2.発掘調査の成果
宮の四至を確認する調査では、大
おおがき
垣(築
ついじべい
地塀))の基礎地業や基壇土が見つかり、深い谷の走
る西側を除き大垣(築地塀)が巡らされたと考えられています(第5図)。また、宮の東面では
八脚門と考えられる南門跡を確認しています(第4図)。さらに、宮南西地区では、大垣(築地
塀)基壇の基礎を補強する目的で石組を設け、排水のための溝をつくるなどさまざまな工夫が認
められました(第6図)。
大極殿は、東西約53m×南北約28mの基壇上にある9間×4間(約45m×約20m)の建物で、平城
宮から移築されてきたことが明かとなりました(第8図)。建物は身舎が梁間2間18尺(5.4m)
等柱間、桁行7間17尺(5.1m)等柱間、身
も や
舎から側柱まで15尺(4.5m)と復元されています(第
9図)。調査では、13箇所の礎石跡と2箇所の礎石及び瓦積み基壇と石積みの階段が検出されま
した。なお、礎石の地業には二つの手法(第10図)があり、4隅の礎石に使用されるBタイプと
それ以外で使われるAタイプのが認められます。
*なお、恭仁宮の時期の1尺は29.6cm≒30cmと考えられています。
大極殿院の周囲に巡らされた回廊は、西北隅の調査でその実態が明かとなりました。西側の雨
落ち溝と15箇所の礎石の抜き取り穴が見つかり、回廊の柱間は15.5尺等間を基本として、隅部
のみ12尺等間であることが明かとなりました(第11図)。これは平城宮の大極殿回廊と同じ規格
であり、『続
しょく
ほん
』天平15年12月26日の条に、「平城の大極殿并に歩廊を壊ちて遷し造る」
と記された記載が史実であることがわかりました。これにより、大極殿院の東西幅は約480尺(約
141.5m)の規模として復元されています。
朝堂院と朝
ちょうしゅうでんいん
集殿院の周囲に巡らされた板塀(掘立柱塀)は、朝堂院南西隅・朝集殿院北西隅の
調査と、朝集殿院南東隅の調査に重要な成果がみられました。柱間はともに10尺等間で、雨落ち
溝が併行して検出されています(第12図)。
朝堂院の東西幅は約390尺(約115.8m)、朝集殿院の東西はその南端で450尺(133.9m)、南北
は約420尺(約124.7m)です。その東西幅は朝集殿院がやや広いことは明かですが、朝集殿院はそ
の南東隅の板塀(掘立柱塀)が鋭角に屈曲することから、宮の東面大垣と同じくややいびつな形
状になると思われます(第13図)。
だ い り
裏は、大極殿の北側に、東西に2つ並ぶ「内裏西地区」、「内裏東地区」にわかれます。
内裏西地区」は、東西約330尺(約97.9m)、南北約430尺(約127.4m)の周りを全て板塀(掘
立柱塀)で囲まれていました。柱間はほぼ10尺等間となりますが、一部15尺になる箇所は、門的
な施設と考えられます(第16図)。中心となる建物(SB5303)は梁行4間×桁行5間の南北庇を
もつ東西棟で柱間は10尺等間、北側庇のみ9尺です(第15図)。
内裏東地区」は東・西・南の三方を土塀(築地塀)で、北側だけは板塀(掘立柱塀)で囲ん
でいました。これまでの調査で土塀の掘り込み地業や基壇の積み土などが確認されています(第
17図)。「内裏東地区」の広さは東西が約370尺(約109.3m)、南北が約470尺(約138.9m)で、
内裏西地区」より一回り大きく造られていました。中心となる建物(SB5501)は梁行4間×桁
行7間、四面庇をもつ東西棟、柱間は10尺等間です(第14図)。
北側に柱筋をそろえた同規模の建物が確認されていますので、南北に大形建物が並び立つと考
えられています。
3.おわりに
恭仁宮は現在のところ、大極殿院や朝堂院の規模に未確定なところがあり、さらには朝堂の存
在も確認されていません。今後の調査でこれらの課題を明らかにする調査成果が期待されます。
-1-
資料3

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資料3
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資料3
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資料3
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資料3
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関西考古学の日記念事業
「聖武と桓武の宮都」
見えてきた孝謙天皇の「東南新宮」
―後期難波宮宮殿東方の発掘調査―
2012.10.13
大阪文化財研究所 高橋 工
1.はじめに
2.難波宮宮殿東方の発掘調査 −a.前期難波宮の遺構 −b.後期難波宮の遺構
3.後期難波宮の宮殿東方 〜山根博士時代発掘調査との邂逅〜
−a.難波宮発見の地 −b.40 年前に発見された遺構との類似
−c.浮かび上がるふたつの区画 …孝謙天皇の東南新宮か
4.後期難波宮の再評価
−a.前期の官衙群 −b.後期は 2 段階 −c. 後期難波宮の性格
1.はじめに
文献にあらわれる宮殿などの名前が、実際に発掘された遺跡の中でどれに相当するのかを決
定することは難しい作業です。50 年の調査・研究を経て、飛鳥時代の難波長柄豊崎宮と奈良時
代の難波宮が中央区法円坂の遺構群に比定されることは確実となってきました。しかし、他に
も実際に遺構が見つかっていない宮殿や施設がまだたくさんあります。奈良時代、孝謙天皇が
御した難波宮東南新宮もそのひとつで、『続日本紀』には、「天平勝宝 8(756)年 2 月 28 日
(壬子) 大雨。賜河内國諸社祝祢宜等一百十八人正税。 各有差。是日行至難波宮。御東南新宮」
とあります。
難波宮略年表
5 世紀 大型倉庫群がつくられる
6〜7 世紀 難波に大郡宮・小郡宮・味経宮等がつくられる
650(白雉 1) 難波長柄豊碕宮造営開始
652(白雉 3) 難波長柄豊碕宮完成
683(天武 12) 複都制の詔、難波は複都に
686(朱鳥 1) 大蔵省から出火、宮室全焼
699(文武 3) 持統・文武が難波宮に行幸
726(神亀 3) 難波宮再建に着手
734(天平 6) 難波京で宅地班給(難波宮この頃完成)
744(天平 16) 難波宮が一時皇都に
756(天平勝宝 8)孝謙難波行幸 難波宮東南新宮に入る
784(延暦 3) 長岡京に遷都
前期難波宮
後期難波宮
下線は遺構との比定
ができていない宮殿
?
-1-
資料4
?
2.難波宮宮殿東方の発掘調査
成 21〜23 年に行った 3 回の発掘調査では、難波宮造営に伴って埋められた谷、前期難波宮
の掘立柱塀(図中の濃い網)、後期難波宮の建物基壇(薄い網)を発見することができました。
図 1 平成 21〜23 年の調査成果

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2.難波宮宮殿東方の発掘調査
−a.前期難波宮の遺構 今回発見された柱穴は 5 個ですが、直線上 200m 南方でも同様な塀が見
つかっており、両者は連続するひとつの塀とみられます。この塀は東方官衙群の西を画し、朝堂
院東回廊との間は幅 12m ほどの通路状の空閑地であったと考えられます。宮の中心軸を西へ折り
返した位置にも、20 年度の調査で柱列が見つかっており、西側も同じ構造になっていたのではな
いでしょうか
?
−b.後期難波宮の遺構 平成 21 年の調査で盛土による 20 ?ほどの高まりがみつかり、その周
りからは瓦が集中して出土しました。建物の基壇の残欠と考えられましたが、翌年の調査でも
その範囲を特定できず、基壇かどうかは未解決のままでした。23 年度の調査では、別のもう一
辺(西側)と北西のコーナー部を発見し、高まりは東西 19.5m×南北 14.1m であることが分かり
ました。高まりの落ち際には凝灰岩の破片が出土し、もともとは凝灰岩の地覆石が据えられて
いたものと考えられました。3 年目にして、建物の基壇であることが確かめられたのです。
東方官衙群
朝堂院
内裏
西方官衙群
図 2 平成 20 年に朝堂院西方で発見された塀跡
図 3 東・西官衙群外郭塀の位置
図 4 大極殿の検出状況
図 5 基壇模式図
?
盛土は外装の地覆石や羽目石等を取り外した基壇の盛土部分だけが残ったもので、さらに、上
面は中世の畠の耕作によって削られていました。盛土上では柱穴などは検出されなかったので、
上屋は掘立柱建物ではなく、礎石建ちで、礎石やその据付け穴も削られてしまったとみるべきで
しょう。盛土の規模からみて、間口 5 間×奥行 4 間くらいの建物だったのではないでしょうか。
西側の盛土が突出した部分は階段があったのかもしれません
階段のあと?
基壇の周りには瓦の破片が散らばっていました。建物を解体したときに散乱したものが残され
たのでしょう。瓦は重圏文の瓦当をもち、建物が後期難波宮のものであることを示しています。
また、基壇の盛土にも少量ですが瓦片が含まれていました。前期には瓦は使用されず、後期にな
ってから用いられますから、この基壇は後期難波宮の建物を一度こわした後に建てられたことに
なります。つまり、後期難波宮でも新しい段階の建物ということになるのです。
前期難波宮造営面
後期難波宮の盛土
基壇の盛土(瓦を含む)
図 6 発見された建物の想像図
図 7 層序模式図
図 8 出土した重圏文軒丸瓦
-2-
資料4

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-3-
?
3.後期難波宮の宮殿東方
〜山根博士時代発掘調査との邂逅〜
−a.難波宮発見の地 調査地のすぐ北側(左図
?)は、1953 年、難波宮発見の契機となった鴟尾
が発見された地点です。ほかにも、約 50 年前、
山根徳太郎博士によって行われた初期の調査が
行われています。
−b.50 年前に発見された遺構との類似 それら
の調査と今回の調査でみつかった後期難波宮の
遺構には類似した点があります。盛土による基壇
をもつこと、その周りに瓦の堆積を伴うこと、先
行する後期の遺構の上に築かれていることです。
これらの遺構は同じ時期に築かれたものなので
はないでしょうか。
−c.浮かび上がるふたつの区画
…孝謙天皇の東南新宮か
これらの遺構のうち、調査地の北には土壇と瓦
堆積が東西に長く連続する地点があります(?・
?)。この遺構は築地塀のあととみてよいでしょ
う。(*)
?
?
?
?
?
?
?
?
?
?
?
北区画
南区画
図 9 ふたつの築地区画
図 10 築地塀模式図
図 11 難波宮発見の
契機となった鴟尾(?地点)
図 12 基壇と石敷のようす(?地点)
?
4.後期難波宮の再評価
宮殿中枢部の研究は進んでいるが、周辺の付属施設の検討はまだ少ない。周辺施設の性格付け
から難波宮を見直してみたらどうなるのだろうか?
(*)?地点の築地は西方で曲がり、段状の高まりや雨落溝、瓦堆積を手掛かりに、?・?を経
由して北へ延びていることが分かります。?地点では再び曲がって東へ延びていきます。?地点
でも瓦の堆積の報告があり、南北 115m、東西 85m の区画が復元できそうです(北区画)。区画内
部の建物は基壇をもつようです(?)。?は別の築地と考えられ、南にも同様な区画があるよう
です(南区画)。両区画の内部は石敷(?・?・?)が施され、鴟尾が出土する(?)などして、
相当に格式が高いしつらえがなされていたとみられます。こうした中で、今回発見した建物は、
南区画内の西に偏った位置にあります。このことから、区画の中心建物ではなく、付属的な建物
になるのではないでしょうか。そして、鴟尾が出土した位置付近、区画の最も奥まった中央部に
中心建物があったのではないでしょうか。
また、?の地点では、石敷が後期の溝?を埋めた後に敷かれたことがわかっています。つまり、
区画全体が後期難波宮の新しい段階に造成されたとみられるのです。そして、この場所は宮殿か
らみると天皇の居所である東南にあたります。「東南」にある「新しい宮」。『続日本紀』孝謙天
皇の「難波宮の東南新宮」はここを指しているのではないでしょうか。
基壇状の高まり
雨落溝
雨落溝
・前期難波宮 西=倉庫・官衙 東=官衙・饗宴
・後期難波宮古段階 西=儀式?饗宴?(高い格式)
東=何もない?
・後期難波宮新段階 西=わからない(でも饗宴?)
東=東南新宮(行宮)
後期難波宮には、一貫して実務的政務
を行う場所=曹司がないのではない
か?外交や儀式に特化した宮殿だっ
たのではないか?
図 13 築地塀跡の瓦堆積(?地点)
図 14 北へ延びる築地塀跡(?地点)
資料4

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?
儀式と饗宴?
高い格式
何もない?
何もない
わからない
(饗宴?
東南新宮(行宮)
朝堂院
内裏
朝堂院
内裏
大極殿
大極殿
図 17 後期難波宮古段階
図 18 後期難波宮新段階
-4-
資料4
?
官衙・饗宴
官衙・倉庫
宮殿東方では、後期に 2 段階
があり、築地と溝は同時に存
在しないことがわかった。西
方にも後期の中で遺構の重
複があることがわかってお
り、やはり 2 段階にわけて考
えた方がよい。この図は従来
の解釈に基づいている。
朝堂院
内裏
朝堂院
内裏
大極殿
図 15 前期難波
図 16 後期難波宮(従来の理解)

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関西考古学の日記念講演会 2012
平成24(2012) 年10月13日
紫 香 楽 宮
 
公益財団法人滋賀県文化財保護協会 大崎哲人 
1 紫香楽宮
天平 12(740) 年 10 月 東国行幸
12 月 恭仁宮
天平 14(742) 年 2月 恭仁宮の東北道を開く
8月 造離宮司任命
   紫香楽宮に行幸(第1回目 9日間)
12 月 紫香楽宮に行幸(第2回目 4日間)
天平 15(743) 年 4月 紫香楽宮に行幸(第3回目 14 日間)
7から 11 月 紫香楽宮に行幸(第4回目 100 日間)
9月 甲賀郡の調庸を畿内に準じた扱いに
10 月 大仏造立の詔
          東海東山北陸三道の租庸調を紫香楽に納めるよう命じる
寺地を開く(寺院建立の整地を開始)
天平 16(744) 年 2月 紫香楽宮に行幸(第5回目 437 日)
11 月 盧舎那仏の体骨柱が立つ
天平 17(745) 年 1月 「 新京 」 と称し、宮門に大楯槍が立つ(→甲賀宮)
4・5月 紫香楽宮周辺で山火事や地震相次
諸司官人・僧に都を置くべき所を聞く
          平城宮に還都
6月 平城宮の宮門に大楯が立つ
10 月 「 造甲賀寺所」
天平 19(747) 年 1月 「 甲賀寺造仏所 」
天平勝宝 3(751) 年 「 甲賀宮国分寺大工家」
延暦4(785) 年 11 月 近江国分寺焼失
           
2 紫香楽宮跡
◆ 宮 跡
 ◇ 宮町遺跡
  □昭和 40 年代のほ場整備事業で柱根が出土
    年輪年代測定法で天平 15(743) 年秋に伐採したことが判明
  □昭和 58 年度から発掘調査を継続実施
  □朝堂と見られる大型建物群  正殿と2棟の脇殿
  □離宮造営計画の変更  後殿の建築中止と内裏区画の整備
  □墨書土器  「御厨」など
  □木簡  荷札・付札・帳簿・和歌木簡・習書・削り屑など、7,000 点以上
  「造大殿所 」( 削り屑 )「皇后宮職 」( 習書 )
「外西門籍」
◆ 寺院跡
 ◇ 史跡紫香楽宮跡 内裏野地区
   礎石の存在と 「 内裏野 ・ 寺野 」 地名を根拠に宮跡として指定
      → 測量調査などにより寺院跡であることが判明
   東大寺式伽藍配置  甲賀寺を引き継いだ近江国分寺の可能性
◆ 官衙・道路跡
 ◇ 新宮神社遺跡
   宮殿と寺院を繋ぐ2条の道路 ( 推定道幅約 12 m)、橋脚、官衙建物、井戸
   橋脚の部材 天平 16(744) 年伐採
   荷札木簡 〈上総国山辺郡[ ]□[ ]天平 16(744) 年 10 月〉
 ◇ 北黄瀬遺跡
   大型井戸跡 一辺 1.8 m四方 横板組み 檜材を鉄釘で固定
         付属の堰状施設の部材 天平 15(743) 年伐採の檜材
         周囲に関連の施設がなく、建設整備途中の官衙の可能性
◆ 銅製品鋳造工房跡
 ◇ 鍛冶屋敷遺跡
   第1段階 官衙建物とその付近での銅の精錬
   第2段階 大規模な鋳造工房群による中型銅製品の鋳造
   第3段階 大型製品 ( 梵鐘・仏像台座 ) の鋳造
   墨書土器 「 二竈領 」・鉄鉢形土器の出土
-1-
資料5

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-2-
資料5

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宮域の造成に関わる流路等
宮の中心建物群
官衙建物・区画施設
0
200m
紫香楽宮跡(宮町地区)主要遺構配置図
資料5

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資料5

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            長岡宮
                    
公益財団法人向日市埋蔵文化財センター 中島信親
 はじめに 
 長岡京は延暦三(784)年に奈良の平城京から遷都し、延暦十三(794)年に平安京へ遷都するまでの
10 年間、京都府向日市周辺におかれた宮都です。短命でしたが、桓武天皇の理想を実現するため初めて
山背国に造られた都です。今回は大極殿・朝堂院、内裏といった中枢部の重要施設を中心に、長岡宮の
構造について紹介します。
1 地形
 「長岡」の名前のとおり、南北に続く丘陵(向日丘陵)の先端付近に位置します。丘陵の西側は小畑
川によって削られ切り立った崖状ですが、東側は緩やかに傾斜しており、その中で比較的高くかつ広い
平坦面が確保できるところに大極殿・朝堂院が配置されました。そして周囲の段丘中位面(M面)・低
位面(L面)を階段状に造成し(ひな段造成)、内裏や諸官衙を造営しました。向日神社や元稲荷古墳・
五塚原古墳などの前期古墳が位置する最高所(段丘高位面(H面))は、長岡宮の西端にあたりますが、
宮城大垣などは造られなかったと思われます。
2 宮の四至
 長岡宮ではこれまでに約 500 回の発掘調査が行われていますが、宮の範囲のうち北と南の端は確定で
きていません。平安宮は、北は一条大路(北京極大路)、南は二条大路(東西は東・西一坊大路)で区
画される、南北 10 町、東西8町の範囲ですが、長岡宮の場合、北京極大路と想定していた道路が小路
の幅(約9m)で確認されたこと、二条大路は朝堂院のすぐ南を通過し、最近の調査では路面上に平安
宮翔鸞楼に相当する楼閣が配置されていたことがわかりました。そのため複数の復原案が提示されてい
ます。
 a)北一条大路〜二条大路間の8町から北京極大路〜三条条間小路の 12 町へ拡張(山中 2001)
 b)一条大路〜三条大路の8町(國下 2007・梅本 2010)
 c)一条条間南小路?〜三条条間南小路の8町(網 2007)
 東西はいずれも東・西一坊大路間の8町で復原されています。南北が確定できない理由には宮城門が
確認できていないことがあります。今後、門が推定される地点を計画的に調査していく必要があります。
 3 大極殿院・朝堂院
 大極殿院は、大極殿・後殿(小安殿)の2つの殿舎と、それを取り囲む回廊から成り立ちます。回廊
には南北に門が取りつきます。大極殿院の構造の特徴は、a後殿が回廊から独立する。b南の朝堂院とは
回廊によって区画し、大極殿閤門を配置する。c南半部、大極殿の前面に広い前庭を設けて宝幢を立て
るの3点です。aは長岡宮で初めて確認できる構造です。平城宮まで大極殿の北に位置した内裏が東
(もしくは西)に配置されたこと、日常の政治の場が大極殿・朝堂院から内裏へ移っていく(内裏聴政)
ことがその理由と考えられます。これに対してbは前代から引き継がれた構造です。平安宮では門・回
廊がなくなり龍尾壇になります。cの宝幢は天皇の即位式と元日朝賀の儀式に際して建てられました。
長岡宮で即位した天皇はいませんので、元日朝賀に宝幢が用いられていたことがわかりました。朝堂院
は東西2間 × 南北7間で東西に廂がつく礎石建物6棟(東西第一〜三堂)、東西 10 間 × 南北2間で南
北に廂がつく礎石建物2棟(東西第四堂)、合わせて8棟の朝堂が東西対称に配置されていました。藤
原・平城・平安宮の朝堂院には東西にそれぞれ6棟、合わせて 12 堂の朝堂が配置されており、八堂形
式は長岡宮朝堂院の大きな特徴の一つですが、これはできるだけ早急に造営を進めるため、平城宮の副
都であった後期難波宮の朝堂院をそのまま移築したために起こりました。朝堂院地区の出土瓦を見ると、
ほぼ9割が難波宮の軒瓦で占められており移築を裏付ける証拠となります。南端中央には南門が位置し、
その左右に回廊が取りつきます。回廊は門から8間目で南へ折れ曲がり、先端に楼閣が配置されていま
した。門の前面に左右対称の位置に楼閣建物を配置する構造を門闕といい、古代中国では重要な門に用
いられていました。日本では平安宮応天門(朝集殿院南門)の左右でのみ確認されていました。門の位
置はやや異なりますが、長岡宮で確認されたことはこの構造が長岡宮で初めて用いられ、平安宮応天門
に引き継がれたことがわかりました。応天門左右の楼閣の名称(翔鸞楼・栖鳳楼)から、唐大明宮の含
元殿に強い影響を受けたことがわかります。なお東西と大極殿回廊・南門から延びる回廊までの間は築
地によって区画されていました。
 4 内裏
 長岡宮の内裏は遷都当初に造営された「西宮(第一次内裏)」から延暦八(789)年二月に「東宮(第
二次内裏)」、そして平安京遷都が決まった延暦十二(793)年正月に「東院」へと2度移転します。ま
ず「西宮」については、a大極殿の北に位置する説とb大極殿西側の「東宮」とほぼ対称の地点に位置
する説があります。bでは近年掘立柱の回廊が確認されました。aは平城宮以前の諸宮の配置を引き継ぐ
ことを前提とし、小字「荒内」(荒れ内裏に由来するか?)から推定されていました。しかし明確な遺
構は確認できておらず、軒瓦の出土も少ないこと、大きな開析谷が位置するなど地形的な制約が大きい
ことから否定的な見解が多くみられます。bでは、確認された回廊は柱間 10 尺の複廊で、東へ折れ曲が
る様子が確認できました。柱間 10 尺の掘立柱回廊は後期難波宮内裏など内裏に相当する施設にのみ用
いられており、大極殿・朝堂院と同じく後期難波宮の資材を用いて建造された可能性が高くなりました。
しかし回廊内部(内郭)の構造については全く不明なこと、復原した内郭は東へ大きく傾斜(東西で長
岡京期の遺構検出面レベルが 3.6m低い)していること、出土した軒瓦は難波宮式が5割、平城宮式が
4割で、大極殿・朝堂院のようにそのまま移建したとは考えがたいことなどから、まだ確定したとはい
い難い状況です。次に「東宮」については、大極殿の東、ひな段を一段下がった地点で正殿(平安宮内
裏の紫宸殿に相当)、東脇殿(春興殿)などの殿舎、内郭を区画する築地回廊が確認されています。中
央やや南寄りに正殿および脇殿を、北半に後宮の諸施設、東西の端に内廷官司の建物が配置されていま
した。この配置は光仁・桓武朝の平城宮内裏、そして平安宮内裏と共通する構造です。桓武天皇は多く
のキサキをもっていたため、後宮の整備は必要不可欠のことだったのでしょう。「東院」は左京北一条
二・三坊に位置しており、今回は詳しく触れませんが、正殿・脇殿の構造が平安宮内裏に酷似すること
が確認されています。
 5 他の宮内諸施設
 この他平安宮には、大極殿・朝堂院の西に儀式・饗宴用の施設である豊楽殿、内裏の東に皇太子の居
所である東宮・春宮坊、宮域の北端に大蔵が配置される他、二官八省およびその被管官司の曹司(役所)
が置かれていました。また平城宮では、離宮や苑池などがあったことが確認されています。長岡宮では、
まず豊楽殿に相当する施設は確認されていません。大極殿・朝堂院の西側は難波宮式を中心とする軒瓦
が多量に出土する地点ですが、顕著な遺構はあまり見つかっていません。春宮坊については、内裏の東
側で、宮と京の境である東一坊大路西側溝から東宮坊に関連する木簡や墨書土器が見つかっていますの
で、この付近に配置されていたと考えられます。大蔵についても北辺地区で築地に囲まれた礎石建物の
倉庫や池・石組み溝が確認されています。この他官衙政庁の一部と思われる廂を持つ大形礎石建物が数
棟確認されています。これらは大極殿・朝堂院を取り囲むように西および南側に位置します。最近行わ
れた長岡宮跡第 483・485 次調査では、大極殿の北方で南北棟の大形礎石建物が確認されました。
資料6
-1-

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 6 まとめ
 長岡宮諸施設の構造、特に大極殿・朝堂院や内裏の構造をみると、新たに創出されたもの(大極殿後
殿の分離、楼閣建物の造営、内裏の分離など)と伝統を引き継ぐ部分(大極殿閤門の設置、内裏内郭の
構造など)が共存する様子が確認できます。まさに変革期の宮といえます。新たに創出されたものには
当時最先端であった中国・唐の影響が色濃く反映されています。宝亀八(777)年、あるいは宝亀十
(779)年の遣唐使によってもたらされた大明宮など唐の宮殿の情報をもとに、桓武天皇は新たな王統に
ふさわしい宮を長岡宮で造営したと思われます。
参考文献
網 2007      網伸也「平安宮の造営−古代都城の完成−」『都城 - 古代日本のシンボリズム』青木書店 2007 年
梅本 2010     梅本康広「長岡京」『恒久の都平安京』古代の都3 吉川弘文館 2010 年
梅本他 2010    梅本康広・初村武寛・津野仁「長岡宮跡第 472 次 (7ANEHI-8 地区 ) 〜第二次内裏正殿地区東脇殿、内裏下層
遺跡〜発掘調査報告」『向日市埋蔵文化財調査報告書』第 84 集 向日市教育委員会・財団法人向日市埋蔵文化
財センター 2010 年
國下・中塚 2003  國下多美樹・中塚良「長岡宮の地形と造営〜丘と水の都〜」『財団法人向日市埋蔵文化財センター年報 都城』
14 2003 年
國下 2007     國下多美樹「長岡京〜伝統と変革の都城〜」『都城 - 古代日本のシンボリズム』青木書店 2007 年
國下・松崎他 2011 國下多美樹・松崎俊郎・中島信親・吉野秋二・山岸常人『長岡宮推定「西宮」 向日市埋蔵文化財調査報告書』
第 91 集 財団法人向日市埋蔵文化財センター 2011 年
松崎 2007     松崎俊郎「長岡宮跡第 444・445 次(7ANFMK-22・23 地区)〜朝堂院南面回廊・「翔鸞楼」、乙訓郡衙跡、山畑
古墳群〜発掘調査報告」『向日市埋蔵文化財調査報告書』 第 75 集 財団法人向日市埋蔵文化財センター 2007 年
 
向日市埋文セ 2003 ( 財 ) 向日市埋蔵文化財センター編「長岡宮域地形図・遺構分布図」『財団法人向日市埋蔵文化財センター年報
 都城』14 付図 2003 年
山中 2001     山中章「長岡京東院の構造と機能−長岡京『北苑』の造営と東院−」『日本史研究』461 日本史研究会 
2001 年
 
第1図 長岡宮の地形(國下・中塚 2003)
第2図 長岡宮域復原案
(山中 2001)
(國下 2007)
(梅本 2010)
(網 2007)
資料6
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第3図 大極殿院・朝堂院復原図(松崎 2007)
第4図 「西宮」掘立柱回廊北西隅(國下・松崎他 2011)
第5図 「東宮(第二次内裏)」の遺構配置(梅本他 2010)
大極殿院
朝堂院
後 殿
大極殿
宝幢遺構
閤門
西第四堂
東第四堂
朝堂院南門
「翔鸞楼」
「栖鳳楼」
西
西
西
「正殿」
「脇殿」
築地回廊
「後宮」の諸施設
資料6

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第 6 図 長岡宮遺構分布図・「西宮」復原図(國下・松崎他 2011)
資料6

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平安宮の構造
 
財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 上村和直
 はじめに
 考古学的成果から、平安時代前期の平安宮の実態を明らかにし、構造について考える。
 1.平安宮の完成度
(1) 発掘調査の成果
 平安宮内では、これまでの約1800件の調査が行われ、その内、平安時代前期の遺構は約100箇所で
検出している。〔図4〕
◎ 中央部…大極殿・同回廊、朝堂院・同回廊、豊楽殿・清暑堂・栖霞楼など
内裏関係…蔵人(所)町屋・承明門・内郭回廊・外郭築地など
◎ 官衙関係…太政官・中務省・民部省・造酒司・内酒殿など
◎ 宮内道路・宮域大垣…西側の隍など
・ 最近の調査をあげておく。〔図1〜3〕
  ⇒これまでの調査で検出した遺構数は少なく、遺構だけで平安宮を復元することは困難である。
  〔図5・6〕 ⇔平城宮・長岡宮と比べる
(2)伝存された宮城図の検証
?『南都所伝宮城図残欠』…成立年代不明、大同年間統廃合orその後〔図10〕
?『九条家本(延喜式)付図 宮城図』…12世紀頃に作成〔図8〕
?『陽明文庫本宮城図』…元応元年(1319)に転写…内裏再建用の指図〔図9〕
◎ つまり、宮城図は同時代図ではない。
  ⇒『宮城図』が無かったら、どこまで復元できるか?→ほとんど分かっていない平安宮。
  ≒平安京の施工状況は『京域図』と異なる。⇒平安宮はどこまで施工されたか?
 2.平安宮の造営プロセス
文献史料を時期・地域に分けて表にしてみると〔表1〕
? 延暦11年(792)〜延暦13年(794)…長岡京期の後半から遷都の準備が始まる
  宮域周囲の大垣・宮城門・内裏などの造営…長岡宮からの移築が主体
? 延暦13年(794)〜延暦15年(796)…大極殿・朝堂院や主要施設などを造営…新造が主体
? 延暦15年(796)〜大同3年(808)…豊楽殿などの造営…新造
? 大同年間以降…大同3年(808)頃の官衙の統廃合、朝堂院の修理、官衙施設の再建
   ⇒宮域内は変化している…施設の改造、官衙の位置の変化
→いつの時点の「平安宮復原図」か?
 3.平安宮の構造
(1)宮域内の区画
宮域内を大まかに二つのエリアに分ける…藻壁門と待賢門のラインで北半と南半
◎ 北部地域…内裏、内裏関係の官衙・施設と、大蔵などの地域
  ≒中国都城の宮城(皇帝の居所と関連機関)に相当する。
◎ 南部地域…儀式と行政官衙地域
  ≒中国都城の皇城(国政機関の官庁街)に相当する。
(2) 宮域内の配置
宮域内を構成する諸機関を、機能によって細分する。
? 北辺官衙地区…………倉庫群及び大蔵省関係の官衙などの地区
? 内裏地区………………内裏及び内裏関係の官衙(内庭官司)
? 朝堂院・豊楽院地区…国家的な儀式と饗宴施設の地区
? 東辺官衙地区…………警備関係の官衙が主体の地区
? 西辺官衙地区…………警備関係の官衙が主体の地区
? 南東官衙地区…………行政官衙地区、太政官・中務省・宮内庁など主要官衙が集中
? 南西官衙地区…………治安警察官衙が主体の地区
⇒官衙は機能的に応じて配置され、計画的に設置されたと考えられる。
 4.平安宮の特質
(1) 平安宮の特徴
◎ 宮域・京域の造営基準線が一致 → 宮域・京域の造営計画の一体化
  ・朱雀門・応天門・朝堂院・大極殿・中和院・内蔵寮が南北軸で並ぶ
  ・中御門大路と朱雀大路の延長中心ライン交点に大極殿が位置
  ・中和院(中院)が宮域の中心に位置
  ・ただし、内裏と豊楽院は軸が異なる
◎ 朝堂院・大極殿院間の閤門が無く、龍尾壇となる…朝堂院と一体化…儀式の場
  ・応天門前庭を広くとり、応天門に楼閣が付く。
◎ 内裏が朝堂院・大極殿の東北に分離…政議の場が内裏へ移行
  ・内裏周辺に内庭関連の官衙・施設が集中 → 天皇に直結した空間の成立
◎ 豊楽院が朝堂院の西方に分離…饗宴施設が独立
(2) 平安宮の系譜
? 前代の都城から継承しなかったもの
・宮域北側の北苑(禁苑)
・太上天皇宮(後院)
? 前代の都城から継承したもの
・中軸に朝堂院・大極殿などが位置する。(藤原宮・平城宮・長岡宮)
・朝堂院南門に楼閣が付く。(長岡宮)
  ・内裏が朝堂院・大極殿の東北に位置する。(長岡宮)…内裏の位置が固定
? 平安宮で新たに創出したもの
・朝堂院閤門が無く、龍尾壇が成立
・豊楽院の成立…平城宮中央四朝堂の継承か?
  ・宮城門が14門となる。
・中和院(中院)・神嘉殿の成立…内裏での天皇の神事が独立
・ 内裏西側に宴の松原が位置−内裏の遷地か?or太上天皇宮の予定地か?
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資料7

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時期
天皇
長岡京
京 外
造営関連
平安京
平  安  宮
備考
宮域周囲
朝堂院・豊楽院地区
内裏地区
東方官衙
西方官衙
北辺官衙
桓武
延暦3年(784)6.10造長岡宮使任命
〔続紀〕。11.11桓武天皇長岡宮に
移幸〔続紀〕。(長岡宮遷都)
延暦4年(785)1.1天皇大極殿で朝
賀、五位以上内裏で宴〔続紀〕。 
延暦8年(789)2.27西宮から東宮に
遷御〔続紀〕。
延暦10年(791)4.18山背國部内諸
寺の浮圖修理〔続紀〕。9.16平城
宮諸門を壊し運んで長岡宮に移建
〔続紀〕。
延暦11年(792)1.9天皇諸院を巡覧
〔紀略〕。
延暦11年(792)
8.4山城国深草
での埋葬が京城
に近接したため
禁止〔類史〕。
この頃内裏造営
始まるか?
中心部造営
(移建)
延暦12年(793)1.21宮を壊すため
東院に遷御〔紀略〕。
延暦13年(794)1.1宮殿を壊し始め
、朝賀廃止〔紀略〕。
延暦12年(793)
1.15遷都のため
、藤原小黒麻呂
ら山背國葛野郡
宇太村の地を相
す〔紀略〕。
延暦12年(793)3.12新京
宮城造営のため五位・主典
以上に役夫を進上させる
〔紀略〕。7.25新宮を巡
覧し、造宮使・将領に衣を
賜う〔紀略〕。
延暦13年(794)6.23諸国
の夫5000人を徴発し、新宮
を掃す〔紀略〕。
延暦12年(793)3.1天皇葛野に行幸、新京
を巡覧〔紀略〕。7.15葛野郡百姓の口分
田が都中にあり、代わりの地を班給〔類
史〕。9.2菅野真道らを遣わし新京の宅
地を班給〔紀略〕。
延暦13年(794)4.28天皇新京を巡覧〔類
史〕。7.1東西市を新京に遷し、廛舎を造
り市人を遷す〔紀略〕。
延暦12年(793)
6.23諸国に命
じて新宮の諸門
を造らせる〔紀
略〕。    
       
この頃宮城門と
大垣完成か?
この頃大極殿営始まるか?
この頃内裏完成
か?
794
延暦14年(795)1.29旧長岡京の地
を勅旨の藍圃、近衛府の蓮池に充て
る〔類格〕。5.14文室波多麻呂ら
に長岡旧京を守らせる〔紀略〕。
延暦13年(794)10.22天皇
が新京に車駕を遷す〔紀
略〕。10.28遷都詔発す
〔紀略〕。(平安宮遷都)
延暦13年(794)11.8山背國を山城国とし
、新京を「平安京」と号す〔紀略〕。造宮
司が造京式を貢奏。         
延暦14年(795)閏7.11大風で京中の官舎
・家屋が多く破壊〔紀略〕。 
延暦14年(795)1.1大極殿未完成の
ため朝賀を廃し、前殿で宴す〔紀
略〕。8.19天皇、朝堂院の作事を観
る〔紀略〕。
中央部造営
(新造)
796
延暦15年(796)7.24造宮
職の官位を中宮識に准す
〔後紀〕。(造宮使から造
宮職)
延暦16年(797)3.17造宮
役として遠江などから
雇夫24000人を進上〔後
紀〕。
延暦15年(796)7.9天皇南院に御幸〔後
紀〕。同年頃からに東寺・西寺を造営
〔東宝記〕。            
  
延暦16年(797)8.14地震・暴風により左
右京坊門・百姓家屋多く倒壊〔類史〕。
延暦15年(796)1.1天皇大極殿に御
して朝賀を受ける〔紀略〕。3.25天
皇が朝堂及び諸院を巡覧し、近東院
に御す〔紀略〕。        
延暦16年(797)1.1大極殿で朝賀、
1.17朝堂院で弓射を観る〔紀略〕。
        
延暦15年(796)
8 . 5 天皇大蔵
省に御幸〔後
紀〕。
豊楽院など
造営
806
平城
延暦24年(805)12.7徳政
相論あり、12.10造宮職を
廃止〔後紀〕。    
       
大同元年(806)2.3造宮
職を木工寮に併合〔後
紀〕。
延暦19年(800)4.9東西二寺の造営のた
め巨樹直木の伐採を許す〔類史〕。7.19
天皇が神泉苑に御幸〔紀略〕。    
延暦23年(804)8.10暴風のため神泉苑左
右閣倒壊〔後紀〕。
大同3年(808)
4.16若犬養門に
て鳥が死ぬ。
延暦18年(799)1.7豊楽殿未完成の
ため、大極殿前龍尾道上に仮殿を構
えて宴す〔後紀〕。    
大同3年(808)11.15朝堂院にて大嘗
之事を行う。豊楽殿で宴す。
延暦23年(804)
8.10暴雨大風、
中院西楼倒れる
〔後紀〕。
延暦24年(805)
2 . 6 宮中春宮坊
で大般若経転読
〔後紀〕。
延暦18年(799)
3 . 1 民部省の
廩に落雷〔後
紀〕。
豊楽院完成
宮域完成
807
809
嵯峨
弘仁10年(819)7.8に修理
左右坊城使を停止、修理職
を置く〔類史〕。
弘仁7年(816)8.16大風により羅城門倒
壊〔紀略〕。8.24天皇が冷然院へ行幸
〔類史〕。
弘仁9年(818)
4.27殿閣及び諸
門の号を改め、
皆この額を題す
〔小右記〕。
弘仁6年(815)1.21朝堂院修理のた
め尾張などの役夫19800人徴発〔後
紀〕。            弘
仁8年(817)2に弁官曹司に遷御。禁
中の修造のため。
大同4年(809)
3.24内裏修造の
企画あり。
大同4年(809)
5.27大炊寮の蔵
焼亡〔紀略〕。
弘仁2年(811)
6.25主殿領釜殿
自壊する〔後
紀〕。
大同年間の
官衙統廃合
朝堂院など
修理
823
淳和
  
833
仁明
天長2年(825)に修理識を
木工寮に併合〔類格〕。
承和元年(834)1木工寮
から造瓦使造瓦長上を置
く。
承和3年(836)5.23朱雀院造営のため平
城京の建物移築〔続紀〕。
弘仁14年(823)
10.7内裏延政門
北掖で出火〔類
史〕。 
天長3年(826)
1 . 3 左兵衛府
厨院失火〔紀
略〕。
天長7年(830)
10.25御井の
半町を中務省
厨屋地とする
〔類史〕。 
弘仁14年(823)
11.22大蔵省焼
亡〔類史〕。 
850
文徳
858
清和
貞観18年(876)4.10夜大極殿焼亡、
小安殿・蒼龍・白虎楼・延久堂・北門北
東西三面廊百余間に延焼〔三実〕。
仁寿3年(853)
2.20天皇梨本院
へ移る〔文徳実
録〕。
第1次大極
殿焼亡
877 中
876
陽成
元慶元年(877)4.9大極殿造営の工
を始める〔三実〕。
表1 平安時代前期の平安宮及び関連略年表
凡例 続紀:続日本紀 、 後紀:日本後紀 、 続後紀:続日本後紀 、 三実:日本三代実録 、 類格:類聚三代格 、 類史:類聚国史 、 紀略:日本紀略
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資料7

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図1 朝堂院昌福堂の調査
〔『京都市内遺跡発掘調査報告 平成19年度』京都市文化市民局、2008年〕
図2 大極殿の調査
〔『京都市内遺跡発掘調査報告 平成22年度』京都市文化市民局、2011年〕
図3 豊楽院豊楽殿・北廊・清暑堂の調査
〔『京都市内遺跡発掘調査報告 平成19年度』京都市文化市民局、2008年〕
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資料7

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図4 平安時代遺構検出地点分布図
〔『平安宮? 京都市埋蔵文化財研究所調査報告第13冊』同研究所、1995年〕
図5 平安時代前期遺構検出地点分布図
〔『平安宮? 京都市埋蔵文化財研究所調査報告第13冊』同研究所、1995年を一部改編〕
図6 平安時代前期遺構による平安宮復元図
図7 平安宮地区区分図
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資料7

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図8 九条家本宮城図
〔『陽明叢書 宮城図』思文閣出版、1996年を一部改編〕
図9 陽明文庫本宮城図
〔『陽明叢書 宮城図』思文閣出版、1996年を一部改編〕
図10 南都所伝宮城図残欠
〔裏松固禅『大内裏図考證』を一部改編〕
図11 平安宮復元図及び造営計画線
〔網 伸也『平安京造営と古代律令国家』塙書房、2011年を一部改編〕
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資料7