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藤田篤訳『譯註 先哲叢談』(明44刊) 後編 巻三
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細井広沢南部南山中野き謙板倉復軒廬草拙荒川天散鷹見爽鳩益田鶴楼田中蘭陵岡島冠山曲直瀬雲夢

譯註先哲叢談(後編) 卷三

細井廣澤、名は知愼、字は公謹、廣澤と號す、思貽齋、蕉林菴、玉川、奇勝堂皆別號なり、通稱は次郎太夫、遠江の人、河越侯に仕へ、後幕府に給仕す

廣澤の系は源右府頼朝の庶弟八田四郎知家より出づ、知家小田知常に養はれて其氏を冒す、小田は所謂關東の藤氏八家の一にして、鎭守府將軍秀郷の後なり、知家武功を以て建久年間の武者所〔武人を支配する頭役〕たり、故に廣澤が用ふる所の圖章〔印章〕に、建久朝の武者所裔印といへるあり、數世の祖細井左衞門尉と稱する者あり、室町將軍に給仕して、嵯峨廣澤の邑を領せり、今洛外〔京都の郊外〕に細井小路と稱するものあり、蓋し其の先世の居る所なり、其子小左衞門織田右府に仕へ、明智光秀が麾下〔旗本〕の將たり、後之に黨し、遂に其徒と與に山崎に戰死す、豐太閤兵馬の權〔軍事の權〕を執るに及び、光秀の餘黨を捜索(*原文ルビ「さうさ」は一字脱。)する〔尋ねサガス〕こと尤も嚴なり、小左衞門の二子長僅に三歳、其臣某に依りて加茂に隱る、次は二歳母氏に頼(よ)り、竟に辻氏と改む、廣澤が父玄佐に至るまで、四世辻氏を稱す、玄佐懸川侯に仕へ、某氏を娶りて二子を生む、長は知順字は公從、芝山と號す、通稱は甚藏、始めて細井氏に復す、季は廣澤、萬治戊戌の歳を以て、懸川城舍に生る、後年侯封を播磨に移し、又下野の古河に遷る〔轉〕、玄佐之に從ふ、寛文八年戊申廣澤年十一にして、父に從ひ江戸に來り、阪井漸軒に從ひて書を學ぶ
廣澤年十五より二十まで、土州の人都筑道乙と與に漸軒翁に學ぶ、漸軒歿する後、北島雪山江戸に遊び、道乙と善し、甞て廣澤が書する所の歸去來辭〔陶淵明の作〕の行書を觀て、其筆才あるを知り、明の兪氏立徳より授かる所の撥■(足偏+登:とう:よろめく・踏む・登る:大漢和37854)(はつたう)法を廣澤に授く、立徳字は君成、南湖と號す、抗州の人なり、思宗の崇禎〔明の年號〕癸未、始めて長崎に遊ぶ、是より以降屡往來し、前後雪山が旅舍に客たる凡そ三次、其文衡山より四傳する所の筆法(ひつはふ)を以て、之を雪山に授くと云ふ、雪山始め書を西湖の戴曼公に學び、立徳が法を得て盡く舊習〔從來學ぶ所〕を棄つ、衡山の子嗣、字は休承、文水と號す、父の書法を以て之を其子嘉、字は啓美、號茂園に傳へ、嘉之を其門人北燕の余梁、字は棟材、號松舍に傳へ、梁之を立徳に傳へたるなり、故に廣澤の書法は原(も)と傳來(*原文「傅來」は誤植。)あること既に久し
廣澤甞て房州に遊び、諸名勝を觀る、或■(糸偏+兼:けん:かとり絹〈書画用の素絹〉・ふたこ絹・生絹:大漢和27750)素(けんそ)〔書畫用の白絹〕一百幅を持し、來りて字を書せんことを請ふ、蓋し其人貪欲にして長者を敬することを知らず、若し請に應ぜば、之を鬻賣(いくばい-ママ)〔賣却〕して其利を得るに在り、廣澤先づ之が意を試むれども、之を拒むの色なく、五十幅を書盡して之に與ふ
寶永中妙法院親王東江戸に行き、廣澤が書を愛す、廣澤甞て教に〔王命〕應じて「焚香聽雨」の四字を書す、王以て扁額となし、後之を仙洞(せんどう-ママ)御所〔上皇の宮居〕に奉ず、叡感の餘、又内旨あり、「惟南献壽」の四字を書せしが、大に旨に■(立心偏+匚+夾:きょう:快い・適う:大漢和10949)(かな)〔適〕ふ、院參桑原宰相執達(しつたつ)〔取扱ひ下さる〕の勘文(かんもん)〔公文〕を賜ふ、其牘(どく-ママ)中、「字樣奇勝叡感不斜(なゝめならず-ママ)」の語あり、是より後奇勝を以て其堂に名く
元禄中河越侯吉保儒術を崇尚し〔タツトブ〕、文學の徒を愛し、諸名士を招延す、時に侯閣老たり、權貴戚を傾け、勢ひ朝野に振ふ、是より先き廣澤新井白石、服霞洲と倶に、屡甲府〔六代家宣將軍の潜邸〕の徴(めし)に應じ、其邸に曳裾(えいきよ)す、侯廣澤が人となり、啻に經義に通ずるのみならず、又書法に精しきを聞き、其師阪井伯元をして之を招がしむ、廣澤辭するに、既に甲府の徴に應ずるを以てす、侯謂く甲府は宗室〔徳川家の親屬〕の貴を以て班(はん)〔位格〕親藩群諸侯の上に在りと雖も、固より海内の政柄を料理する所なし、吾不肖なりと雖も、大任を荷ひ、王事に勤勞し、躬閣老に在りて朝政を謀謨(ばうぼ)す、一士を得て得失を議するも、孤忠を盡さんが爲めなり、敢て吾が私用となさずと、遂に人をして固く廣澤を甲府に請ひ、以て儒官となし、禄二百石を與ふ、時に年三十六
廣澤河越に仕ふること二年、進んで鐵砲隊長〔物頭にて足輕組長〕となる、歩卒二十人、之を領下に屬す、兼ね(*1字衍。)て海内の神社佛閣の條制を勘合する事を掌らしむ、廣澤其舊貫班格〔格式〕、該管隷屬等の故を知り、甞て歎ずらく、保元以降六百年、累帝の諸陵屡兵燹(へいせん)〔戰爭の火災〕を經て、其所在を失ひ、既に那處(なしよ)なるかを知らざるもの二十五ありと、之を侯に告げ、建議して古史紀傳の録する所に據り、其知るべからざるものを捜索し、其皆所在を得たり、而して後其屋宇を修葺(しうしよ-ママ)〔修繕〕し、或は石垣を築(きつ-ママ)く、三年にして諸陵全く成れり、實に繼廢〔スタレたるを繼ぐ〕興絶〔亡びたるを起す〕と謂ふべし、當時諸臣に命じて歴代諸陵修垣(しゆえん-ママ)實記五十卷を修撰せしむ、其事皆廣澤の建議する所に本(もとつ-ママ)くと云ふ
廣澤始め菊叢と號し、通稱は辻辨菴、馬喰街に僑居し、講説して業となす、歳三十の後細井氏に改む、寶永丙戌の春、新井白石五十の賀あり、廣澤壽詩を贈る、白石其作に和し、「呉門姓ヲ變ズ身何ノ隱ゾ、燕布酣歌調自ラ同シ(*呉門變姓身何隱、燕布酣歌調自同)」の句あり、蓋し其氏を改むるの事實を記するなり
周興嗣が千字文に「律召陽ヲ調シ、閏餘歳ヲ成ス(*律召調陽、閏餘成歳)」とあるは對偶を以て言ふ、然るに知永誤りて律呂調陽と書してより、唐宋の諸家皆沿襲(えんそう-ママ)し〔繼續之に從ふ〕、原(も)と對偶なるを知らず、廣澤十九にして律呂閏餘の對せざるを疑ひ、之を雪山に問ふ、謂く呂當に召に作るべしと、雪山以て知言となす、後戯鴻堂法帖を閲するに、其中呂を召に作れるものあり、雪山益其暗合〔彼此相知らず偶然符合す〕を奇とす
正保年間平安の書賈始めて墨帖(ぼくてう-ママ)を刻す、然も所謂左版なるものにして、未だ正面版なるものあるを知らず、臨摸(*原文「摸」の異体字を使う。)雙鉤(りんぼさうかう-ママ)〔原書を寫取す〕より鏤刊打摺(ろうかんだしう)〔彫刻版を摺ること〕に至るまで、其法を得ざれば製造甚だ■(鹿三つ:そ:離れる・粗い・大きい:大漢和47714)(そ)〔粗〕なり、貞享中廣澤、榊原篁洲、今井順齋と相謀り、始めて其法を製して之を世人に教ゆ、蓋し皆海外墨池家〔書家〕が書論の説に從ふなり、而して後蝉(ぜん-ママ)翼烏金等の製盡く出づ、今世に至り、其製に精しき韓大年、源文龍の輩專ら能く之を爲す、其實皆廣澤より始まる
廣澤甞て觀蓮精舍(しやうしや-ママ)(三縁山中に在り)に於て、一僧の爲めに藥師堂の三大字を書す、後其僧工をして之を扁額に刻鏤し、諸を其寺門に掲ぐ、廣澤往いて之を觀るに、已に書すと雖も、甚だ意に滿たず、而して釘既に畢り〔既に額を打附けたること〕、之を如何ともする能はず、是より以降其前を過ぐる毎に、必ず目を閉ぢて見ず
廣澤平生蕎麥(きやうばく)麪(*原文「麥+面」に作る。)を嗜(たし-ママ)〔好〕む、一月三十日の中、二十日は必ず河漏(かろう)を喫す、書を需むる者之を知り、必ず蕎麥粉を以て、之が贈(ぞう)をなす
廣澤河越侯の邸中に在るの時、神田三河街失火す、侯の邸神田橋門内に在り、相去ること至つて近し、東風飄■(風+昜:よう:揚げる・揚がる:大漢和43909)(べうやう-ママ)し〔強く吹く〕、侯の邸將に炎焔(えんえん)延及せんとす、廣澤公署〔役所〕に在りて、其舍に還るに遑あらず、屬士四五人其家具を運出して、火を免れんと欲す、疾く至つて其書齋に入り、一の擔厨(たんちう)〔箪笥〕を荷ふ、廣濶三四尺ばかり、其重きこと數十百斤、皆謂く是れ金錢及び■(金偏+果:か:小粒・丁銀:大漢和40514)(くわ)子〔小粒の貨幣〕ならん、若かず他の器財を措きて、特に此物を以て免れんにはと、遂に負荷して去る、誤りて厨角を毀てば、抽斗(ちうと)〔引出〕の中皆大小鉛子(えんし)及び鐵落のみ
河越侯の異種同母の弟故あり薙髪して清巖法師と曰ふ、其人頗る明敏にして台宗の學に精し、侯加封萬石に至るに及び、其同胞たるの故を以て、清巖を濱街の別墅〔下屋敷〕に居らしめ、資養甚だ厚く、富諸公子〔侯の實子〕と■(人偏+牟:ぼう:等しい:大漢和597)(ひと)し、既に釋に歸すと雖も、又韜略に精く、演武の士を招延し、其藝を温習す、且つ廣澤が男知業(通稱源五右衞門)及び大内新助を愛す、新助は周防の人右京太夫義弘の裔、射術〔弓術〕を以て時に名あり、都下の士從ひて其技を學ぶ者衆し、群諸侯の邸に出入し、高貴に附和し、薦引〔推擧〕をなすと稱し、朝士を■(言偏+匡:きょう・ごう:偽言・欺く:大漢和35473)賺(きやうけん)〔欺騙〕して賄賂を収め、家千金を致し、其驕奢を極む、羶行〔汚行〕貪欲至らざる所なし、而も河越侯親昵〔熟懇〕の臣なるを以て、人之に依頼し、其便計の爲めに誘はるゝを知らず、且つ其性格高くて桀黠(けつかつ-ママ)〔ワルカシコキ〕の人に似ず、之に加ふるに著姓〔顯達の家柄〕名家の冑(ちう)なるを以てす、其崇尚せらるゝこと亦他に異なり、廣澤獨り能く其姦を知るも、殊に其君の寵遇厚きを以て、一言も發し難く、躊躇すること數年、或時窃に之を告ぐ、侯大に驚き、有司をして其罪を覆檢せ〔更に取調ぶ〕しめ、而後之を河越に護送し、囹圄に幽せんとす、廣澤侯の命を受けて其事を董督し、歩卒數十人と之を護して河越に來る、祇役〔公務公用〕既に畢り、將に江戸に歸らんとす、前日新助監卒が守備に倦怠せるを窺ひ、清室の木格を破毀して出づ、監卒將に之を拘収せんとす、其■(足偏+喬:きょう:足を高く上げる:大漢和37887)(*原文「矯」とあるのを頭注により改める。)■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)(きやうしやう)〔スバヤキこと〕■(手偏+爭:そう・しょう:取りひしぐ:大漢和12265)扎(さうさつ)〔抗爭〕、邀截(えうせつ)〔遮止〕すべからず、新助竟に監卒が佩ぶる所の刀を奪ひ、死力を盡して數人と鬪ふ、疵傷を被る者多し、廣澤喫飯半にして清室の騒擾を聞き、直に側に在る算盤を持し、遽に其所に入る、新助白刄(はくじゆん-ママ)を振ひて之を逆(むか)ふ、廣澤算盤を以て新助が眉梢〔眉端〕を撃つ、血流れて眼澁る、監卒左右より其手足を牽き、遂に之を繋縛するを得たり、是時廣澤微〔無〕りせば殆ど之を得べからず
廣澤故ありて禄を辭す、河越侯謂つて曰く、子が我を知りてより殆ど十年、我の子を遇する薄しとせず、而して不幸此の如きに至る、國に典刑〔法度〕あり、以て公儀を破るべからず、然りと雖も、我豈に子を捨てんやと、毎歳金五十兩を贈りて其費に給す、佐倉侯正通(稻葉丹後守)又廣澤と善し、毎歳竊に米二十苞、醤油十樽、金四十兩を贈る、其厚遇せらるゝこと此の如し
廣澤河越に仕ふる時、權家(けんか)の臣たるを以て、諸侯及び在朝の士人、玉帛皮幣〔贈物〕、家に絶えず、而して其禄を辭するに及び、家財を以て族人に付與し、僅に恩賜の紗綾(しやりやう)二卷、■(糸偏+芻:しゅう・しゅ・すう・そう:縮み・縮んだ綾:大漢和27747)緬(ちりめん)二卷を綵帛舗(さいはくほ)〔呉服屋〕に賣り、金八両を得て深川八幡の鳥居前に僑居す
廣澤藩を去るの時に當り、兄知順既に歿し、其嫂(さう)廣澤が家に寄寓す、甞て仕を諸侯の夫人〔奥方、所謂奥勤〕に求む、將に仙臺の宮中に官せんとす、其調度〔衣服其他の支度〕資給する所、四十金にあらざれば、其費を辨ずる能はず、廣澤曰く、窮乏の中、四十金は殆ど辨ずべからざるに似たり、而も仙臺は當今の大藩なり、再び官せんとするも、其機會〔好き折〕を得るにあらざれば、復た得べからずと、遂に書を善き所の友人數家に移(しつ-ママ)して、金若干(じやくかん-ママ)を借り、又書數百卷を典却し〔質に入る〕、遂に四十金を得て嫂の宿志〔年來の希望〕を成す
廣澤致仕してより後、官途に意なく、諸侯之を聘すれども辭して應ぜず、教授の暇墨池〔揮毫〕を以て樂(たのしみ)となす、世人是より目するに書家を以てす、故に其經義詞藻、皆書名に掩はる〔隱れる、蔭になる〕、而して廣澤之を較(*原文ルビ「たくら」は誤植。)べず〔頓着せざること〕、當時有名の士平林静齋、關鳳岡、三井龍湖、飯田百川、葛烏石の輩、皆廣澤に從ひて書を學ぶ、能書〔書に巧なること〕の聲、特に今に至るまで海内に喧傳すと云ふ
享保中廣澤の聲價一時に高し、姦商の輩其印を贋造し、其名を僞書し、之を市中に鬻ぎて暴(にわか-ママ)〔急〕に富を致すに至る、廣澤の筆蹟既に當時に在りても、僞物極めて多し、其貴重せらるゝの盛なる、實に我邦に未だ曾て有らざる所なり
雪山甞て浮屠某の需に應じて、阿彌陀經を書す、半にして事故あり、俄に西に歸る、某其餘を以て之を補書せ〔書足す〕んことを請ふ、廣澤諾して之を續書す、其聯繼する所〔ツギ目〕、人之を辨識する能はず、後雪山復た江戸に來る、廣澤之を示す、雪山之を觀て歎じて曰く、吾趙魏公たる能はずして、子は已に仲穆たりと
葛烏石書を廣澤に學び、青藍〔師に勝る〕の名あり、甞て文衡山が七絶詩數首を模書し〔眞似る〕、僞りて衡山が眞蹟と稱し、其裝■(三水+黄:こう・おう:紙を染める:大漢和18251)(さうくわう)〔表裝〕を古色にし、之を一諸侯に賣る、侯鑒定を廣澤に求む、廣澤之を閲するに、墨彩勁搖、裝表絹紙(けんし)の古雅なる、衡山に髣髴(はうほつ-ママ)たる〔似通へる〕を以て、認めて眞となす、侯甚だ之を珍重す、其後數十日、烏石故を告ぐ、廣澤僞巧を以て人を欺くを戒めず、又鑒識〔眞僞を見分ける〕の至らざるを恥ぢず、自若として曰く、蕭誠己が書を以て古帖となし、李北海を欺く、北海其眞贋を識別する能はず、今猶古の如くなるかと、笑つて止まず
享保中參政〔若年寄〕烏山侯常春(大久保佐渡守)廣澤に謂つて曰く、青山百人隊騎士〔與力〕に闕班(けつは-ママ)〔缺員〕あり、吾爾を以て之に補せんとす、爾之を欲するや否やと、廣澤曰く、敢て請はざるのみ、若し命あらば卒伍と雖も、辭すべからず、臣より之を請ふは二千石と雖も、臣が志にあらずと、常春其言に感じ、之を幕府に奏し、擢んでゝ百人隊の騎士となし、特に命じて城門の宿直を免じ、日に參政府署に詣(いた)り、慶長以來條制〔法規〕の事を編修せしむ、又旨を奉じて奇文不載酒四十三卷を著述して之を上る、旨あり之を紅葉山の秘府〔書物倉〕に藏むと云ふ
享保乙亥の冬特命朝鮮國の返翰を書し、御印を篆刻〔彫刻〕せしめらる、賞して白銀二十枚を賜ふ、時に河原半右衞門といふ者あり、金裝の短刀一把を持し來りて曰く、此刀は某侯の藏する所、其臣某之を拜賜〔拜戴〕す、今貧窮に因りて之を賣らんと欲す、先生之を買はんかと、廣澤之を觀るに、其龜文漫理〔燒刄のミダレ〕、眞に名刀なり、遂に賜(*原文ルビ「また」は誤植。)ふ所の銀を出して之を購得〔買収〕す、後半右衞門廣澤が不在を窺ひ、來りて室〔妻〕某氏に謂つて曰く、請ふ一日之を借らんと、持去りて數日返さず、某氏自ら名器を人に假して再び返らざるを悔ゐ、半右衞門を面折し〔直接面會して詰責す〕て之を責めんと請ふ、廣澤曰く、名器は再び得べし、交誼は再び得べからずと、竟に之を吝む色なし
廣澤資性篤實温厚にして嶄絶(ざんぜつ)〔高く抽出でたる貌〕峭特(せうとく)〔ケワ(*ママ)シクスルドキ〕の行をなさず、而して其強識敏疾は平生に似ず、衆技を博綜す、書畫は其尤も好む所にして、既に世の知る所なり、和歌は清水谷實業(さねなり)卿に學び、兵學は越後派杢源右衞門、撃剱は堀内源太左衞門、拳法(けんはふ)〔柔術〕は澁川伴五郎、槍術は南部寶藏院、射藝は石堂竹林齋、騎法は大坪道雲、天官測量は金子立雲、皆數家に従ひて其奥秘を極む、就中射藝測量、尤も自ら以て得意となす
諸州の府尹〔代官〕が地境を按部〔巡廻■(手偏+僉:れん・けん:巡察する:大漢和12779)察〕し、山河を巡計するの法は廣澤が創剏(さう\/)する〔始める〕所なりと云ふ、寛永中幕府勘官に命じて、上總下總を按部し、其収税の額を審覈(しんかく)〔取調〕せしむ、三年にして卒(おは)らず、遂に之を罷む、享保新政の時、再び命あり、上總下總安房三州の府尹小宮山昌世、上野下野常陸三州の府尹石川政倫をして佐倉小金二曠野を檢視し、兼ねて六州の廣狭及び土地の肥■(石偏+角:かく:硬い石・痩せ地:大漢和24232)(ひかく)〔地味の好不好〕を計らしむ、二人皆廣澤の執友(*父の友、親友)たり、廣澤に請ひ、倶に其州に至り、地境を按部し、山河を巡計し、幅員を周廻し、二十七日にして監檢全く畢る、乃ち圖を作り二人に依りて之を官に上る、白銀二十枚を賞賜して之を勞せらる〔勞を慰めらる〕、檢地の法今に至るまで各州の府尹之を便とし、皆相襲用すと云ふ
廣澤撃剱を堀源太左衞門に學ぶを以て、赤穗の士堀部武庸(たけつね)と同門たり、情交尤も密なり、武庸は復讐を雜司谷に扶助するの故を以て、其名世に高し〔所謂高田馬場の助太刀〕、其吉良氏の邸を襲ふの先夜に當り、赤穗の遺臣大石良雄等四十六人、皆源太左衞門の家に會す、廣澤武庸の爲めに其奴僕(*原文ルビ「どばく」は誤植。)を避け、獨り離筵〔離別の宴〕に赴き、鷄卵數十箇を齎す、良雄は樓上に在り、武庸及び其他の士五人廣澤と盃を傾けて酣暢(かんちやう)す〔愉快を極む〕、武庸廣澤が贈る所の鷄卵を取りて、之を破碎して曰く、明夜敵讐(てきしう)を破碎すること、亦此の如くならん(*と)、廣澤其言を壯なりとす、武庸往事を追思〔懷起〕し、慷慨激昂し、傍に人なきが如し、廣澤一絶を口吟して曰く

結髪奇士爲リ(*原文「奇爲リ士」)、千金那ゾ言フニ足ラン、離別情盡ル無シ、膽心一劍存ス(*結髪爲奇士、千金那足言、離別情無盡、膽心一劍存)
武庸涙(なんだ)下る數行(すかう-ママ)〔幾條なり〕、交誼の厚きを謝す、廣澤も亦涙を揮〔拂〕ひ、互に慇懃を致して別る
廣澤既に武庸と別れ、竊に其志を獲ざるを恐る、懸念(けんねん-ママ)〔心配〕して止まず、明夜に至り、四鼓より八鼓に至るまで、自ら屋上に登ること幾囘、奴婢門生皆寢に就き〔床に入りて眠る〕、之を知る者なし、時に十二月十四日なり、月輝凄涼〔スゴイ〕、寒威殊に甚だし、獨り妻某氏睡覺め、訝り問うて曰く、良人何を以て深夜屡高きに登るやと、廣澤曰く、天象を窺ひ星纏(せいてん)を瞻る〔見上ぐ〕のみと、猶燈下に坐して書を讀み、鷄鳴に向ひ、始めて寢に就く、蓋し是より先き武庸廣澤に告ぐるに報讐若し志を獲ざれば、吉良氏の邸を焚き、四十六人均(*原文ルビ「ひとし」は衍字あり。)しく焔煙の中に自殺するを以てするが故なり、東方既に白きに及び、門を叩く者あり、廣澤遽かに〔周章急になり〕起ちて之を迎ふ、武庸全身血に染まり、高く呼んで曰く、宿志既に遂げ了る、同志の士今將に高輪菩提院に之かんとす、平生の交誼を辱(かたじけな)くす〔蒙るの意を強めたる辭〕、誠に生別此に限ると、又一言を發せずして疾走し去る、廣澤刀を佩び、袴を着くるに遑あらず〔する間もなくとなり〕、跣(はだし)にして追ひ、永代橋に及ぶ、四十六士橋を過ぐる半なり、僅に武庸及び面識する所の士五人と永訣〔生死の訣別〕して歸る
廣澤享保二十年乙卯十二月二十三日を以て歿す、享年七十八、武の荏原郡等力村滿願寺に葬る、著す所篆體異同歌、紫微字樣各三卷、字林長歌、君臣歌、碑字考證、撥■(足偏+登:とう:よろめく・踏む・登る:大漢和37854)眞詮、地域圓法大全四卷、觀鵞百譚五卷、蕉林漫録鈔、奇勝堂筆餘各十卷あり


南南山、名は景衡、字は思聰、南山と號し、又環翠園と號す、南部氏自ら修めて南となす、通稱は昌輔、長崎の人、富山侯に仕ふ

南山の先は豐後大友氏の庶族なり、世々州の小野城を守る、因りて地を以て氏となす、天正中兵庫助宗豐といふ者あり、毛利氏の爲めに殺され、其采地〔領地〕を失ふ、子孫下りて庶人となり、後長崎に移る、父は昌碩と曰ひ、醫術を以て聞ゆ、昌碩早く死し、其妻も亦改■(酉+焦:しょう:杯を受け、酒を飲み干して返さない・嫁ぐ:大漢和40031)(かいしやう)し〔再び他家へ嫁す〕、南山幼にして怙恃(こし-ママ)〔頼り〕を失ふ、父の執友〔父の友〕小林謙貞之を憐み、其家に養ひて、授くるに四書五經の句讀(くどう-ママ)を以てす、又邑醫(いうい)角長有に從ひて、軒岐の書を學ばしむ、南山此に從事するを屑しとせず、好んで經史を讀み、■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)人黄公溥(*こうふ)、杭人■(木偏+射:しゃ・じゃ:屋根のある台・うてな・内室のない殿舎・道場:大漢和15272)叔且に從ひ、詩文を學ぶ、二子は皆明季の亂を避くる者なり、大に南山の聰(*原文「聽」とする。)慧(さうけい)を奇とすと云ふ
寛文十二年壬子京師の南部艸壽、鎭臺牛込蔭鎭(かげしげ)(時に長崎奉行たり)の徴に應じ、長崎に遊ぶ、此時に當り邑中〔村にあらず長崎市内〕大に學に嚮ふ、始めて先聖の祠(し)〔孔子の廟〕を邑の立山に建て、郷學を設け塾師を立つ、艸壽學政を料理し、其事を董督す〔監理す〕、嘗て南山を見て深く之を器(き)とす、因りて鎭臺に請ひ、之をして弟子員たらしむ、時に南山小野昌八郎と稱す、名始めて邑中に顯はる、是れ延寶丁巳の春にして年二十なり
艸壽字は子壽、陸沈軒と號す、山城の人、其先は越後長尾氏の族なり、平安に講説し、學博く行修まり、醇儒(じゆんじ-ママ)を以て後進〔先輩より云ふ語にて後生に同じ〕に山斗たり、長崎に遊ぶに及び、此に教授すること殆ど八年、某氏を娶りて、新八郎を生む、早く歿す、是に於て南山を養ひて嗣たらしめんとし、之に遇ふこと甚だ渥し、南山其鞠養〔養育〕の厚きに感じ、遂に其姓を冐す
延寶の末艸(*原文「廾」の一の両肩を上げた形の字を用いる。)壽富山侯の聘に應じ、越中に之き、田禄百五十石を受けて儒員となる、猶南山をして長崎に留まらしめ、筑後の安東省菴に從學せしむ、後江戸に來り、木下順菴に師事す〔先生(*「失生」は誤植。)として教を仰ぐ〕、蓋し順菴は省菴と同じく松永昌三に學ぶが故なり、遂に其門に於て十才子の稱あり、南山を以て之が巨擘〔魁〕となす、艸壽歿して南山其禄を襲ひ、富山藩に仕ふ
南紀の祇南海諸友の詩を纂め、題して鍾秀集と曰ふ、卷首に南山を載せて曰く、予諸友に於て最も景慕する所、南々山思聰に若くはなし、卷首に之を冠する〔一番先に置く〕所以なりと、以て南海の宏識絶才にして其景慕の深きを見るべし
南山は博覽洽聞にして最も史學に長ず、世徒に其詞藻に富むを知りて〔詩文の字句華麗なるを知れどの意にて下の學術に對す〕、其學術を知らず、甞て環翠園史論三十卷を著し、諸家の史を評論す、其書未だ全く編を成さずと雖も、蒐羅〔採集にて多くアツメルこと〕詳博、考證精核〔事實の詮索が確實なること〕、亦我邦人が言及ぶべき所にあらず、近世太田錦城加賀に在る時、甞て之を一見すと云ふ
南山年五十一、自ら多病にして生の長(*原文ルビ「な」は一字脱。)からざるを知り、自ら其詩文を刪定し、詩六百九十四首、文四十四篇を選し、題して喚起漫草と曰ひ、世に刊行す、幾くならずして鏤版災に罹り些(しこし-ママ)も留めず
南山正徳二年壬辰(*原文「午辰」は誤植。)三月を以て、富山に之かんとし、途にして驛舍〔旅舍〕に歿す、享年五十五、祇南海が南山を哭する詩に曰く

山川秀ヲ鍾メ崎陽ニ出ツ(*ママ)、天壽僅ニ多シ五十強、人物王ニ非ズバ即チ是レ謝、詩篇宋ヲ超ヘテ獨リ之レ唐、家ニ遺草ヲ藏シテ封禅ヲ愧ツ(*ママ)、名先賢ニ附ク老醉郷、但タ(*ママ)慰ム鳳雛羽翼ヲ成スヲ、英風千載流芳ヲ■(手偏+邑:ゆう:拱く・敬礼する:大漢和12105)ム(*山川鍾秀出崎陽、天壽僅多五十強、人物非王即是謝、詩篇超宋獨之唐、家藏遺草愧封禅、名附先賢老醉郷、但慰鳳雛成羽翼、英風千載■流芳)
南山の男景春、字は國華、幼にして頴悟〔サトクカシコイ〕、詩及び書畫を善くす、年十三父に從ひて江戸に來り、甞て東天臺に登る五言古風二百句を賦す、其詩世に傳播し〔弘まる〕、人口に膾炙す、年十八にして父を喪ひ、其禄を襲ふ、寵遇優渥にして秩〔秩禄と熟し知行俸給〕を加へ、二百石に至る、後數年母を喪ひ、幾もなく次弟も亦歿す、憂艱〔悲哀〕に堪へず、享保二年丁酉四月を以て歿す、年僅に二十三、人皆焉を惜む


中野■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙、名は繼善、字は完翁、■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙と號す、通稱は善助、長崎の人、關宿侯に仕ふ

■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙の母は大原氏、林道榮の妻と兄弟たり、■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙幼にして父を喪ひ、母と同じく道榮が家に寓す、道榮の之を視る從子〔養子〕の如し、自ら之に句讀を授け、又之に書法を教ゆ、必ず躬ら之に先(さきだ)つ、■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙も亦善く之に師事す、七八歳にして誦讀既に遍く〔行渡るの意〕、時々道榮に代りて四書小學等を講ず、其談論殆ど老成の人の如し、聞く者之を奇とす
■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙十二三歳にして尤も書を善くす、而して草隸〔草書と隷書〕(*原文頭注「隸」の「木」を「匕」に作る。)に巧なり、人其書を求むる者頗る多く、林氏の神童と呼んで敢て名いはず
■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙十九にして始めて江戸に遊び、廣く諸名士に交はる、經術を好み、程朱の學を修む、時に篠山侯典信(松平駿河守)引見して其才を奇とし、之に月俸を給して衣食に供(きう-ママ)し、益其業を修めしむ、是に於て神田雉子街に僑居〔寄寓〕し、教授して業となす、後關宿侯成貞(牧野備後守)執政〔閣老〕たり、辟(め)して書記を掌(つかさど)らしむ、時に天和四年丁卯三月なり
元禄中常憲大君屡關宿侯の邸に臨み、■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙を召見し、命じて經を進講せしめらる、人皆之を榮とす、是より諸侯及び貴人の子弟從學する者益衆し、是時下野の安藤東壁、信濃の太宰徳夫皆其門に遊び誨督〔訓導教授〕を受く
■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙が太宰春臺を遇すること甚だ渥し、嘗て言ふ吾敢て人を識るの明ありと謂はず、但太宰生を知るは則ち人に讓らずと、春臺亦曰く、若し完翁をして國家を得せしめ〔國政を執らしむの意〕ば、必ず我に六尺の孤〔國を有する者死に臨み其嗣たる幼兒〕を托し、百里の命〔遠方に使節たること〕を寄せんとす、骨肉と雖も、以て之に尚(く-ママ)ふるなしと、終身其人となりに敬服すと云ふ
■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙程朱を墨守し、其説を確信し、山鹿素行が宋儒を辨駁(へんはく-ママ)するを指して、以て異端〔孔孟の教に反するもの(、)外道〕の巨魁〔カシラ〕となし、一たび其門に入る者は來りて教を請ふと雖も、峻拒して相容れず、復た貴紳と庶人とを避けず
元禄乙亥關宿侯致仕し、既に老いて大夢と號す、世子封を襲ふ、寛文乙酉封を三河の吉田に移す〔國替〕、時に■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙病と稱して禄を辭し、妻子を携へて平安に移り、生徒に教授す、居る僅に一歳、吉田侯舘舍を捐て〔身分ある人の死をいふ指斥を避くるなり〕世子立つ、尚幼なり、老君大夢菟裘(ときう)〔隱居の故事〕に在りて尚藩政を聽く、再び■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙を聘して優遇し、禄百五十石を與へて火器隊長となし、歩卒三十人を掌らしめ、責むるに職事(しよくじ-ママ)を以てせず、故に又江戸に來りて濱街の邸中に居る
■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙四世の君に歴仕す〔代々相續き仕ふること〕、凡そ二十有餘年、享保五年庚子七月二十二日を以て歿す、享年五十四、其遺言を以て深川六軒堀要津寺域内の先君大夢の塋側〔墳墓の傍〕に葬る


板復軒、名は九、字は惇叔、復軒と號す、通稱は九右衞門、江戸の人、幕府に仕ふ

復軒の高祖は板倉甲斐守と曰ひ、鎌倉の上杉憲政に仕へて、總州帆邱城主となり、佐渡守清治を生む、是時に當り鎌倉瓦解し〔倒れて離散す〕、憲政越後に奔り、長尾景虎に寄寓す、清治北條氏康に屬し、屡武功あり、豐太閤小田原城を攻むるに及び、其慘毒を恐れ、城を捨てゝ出亡〔遁走〕し、州の大網(*原文「大綱」)の里に隱れ、治眞を生み、治眞三子を生む、時に海内始めて干戈を歛(おさ)め〔平和となること〕、神祖北條氏の諸臣の諸州に流落する〔流浪(、)サマヨフ〕者を招ぐ、三子出で、宗室親藩に仕ふ、其季子正信は則ち復軒の父なり、復軒は正信の第四子なり
復軒年三十にして文昭大君〔六代將軍〕潜邸〔未だ統を繼がず藩邸に在ること〕の時に奉仕す、當時之を甲府殿と稱し、其邸を櫻田御殿と曰ふ、復軒幼より學を好み、業を木下順菴に受け、始めて其薦(すゝめ)を以て侍史〔祐筆〕(*原文頭注「侍毛」は誤植。)となる、後公が宗藩より西城に入るに及び、擢んでられて納府司計〔御勘定方〕となり、幾くもなくして司計曹長〔其組頭〕となり、正徳中三城の宿直長〔御留守番〕となる
復軒嘗て論語を經筵に講じ、季文子三思して而後行ふの章に至り、極めて集註引く所程子圏外〔集註の欄外〕の説を辯ず、一寵臣あり、朱説を回護〔辯護〕(*原文頭注「囘護」とする。)し大に難詰し、意氣を加へて之を屈せんと欲す、復軒色を正しくして(*正して、か。)之に辯對す、其言辭絮々として〔懇切丁寧〕寵臣再び言を發する能はず
復軒業を木門に受くと雖も、室鳩巣、雨芳洲等が程朱に於て、毫も疑(うたがひ)を容れざるが如きにあらず、物徂徠と交はる、一貴紳あり、尤も徂徠を忌諱(きき)す〔イミキラフ〕、時々復軒を諷し〔間接に忠告す〕、之と交はることなからしむ、對へて曰く、人心は面の如し〔同じからざるをいふ〕、己が欲せざるを以て、人をして亦欲せざらしめんと欲するかと、益々之と交はり、其子をして業を門下に受けしむ、徂徠も亦之を禮貌する〔尊敬して待遇す〕こと他に逾ゆ、貴紳是より復軒と善からず、復軒が官途之が爲に進むに至らずと云ふ
復軒日に官署に在り、其曹長〔局の長官即ち頭役〕甚だ復軒が謇諤〔剛正にして直言すること〕廉直を疾(にく)み、幹事〔取扱〕する所の紛冗なる〔複雜にして處分し難き意〕もの、推して才器ありとし、之を委屬(ゐぞく)す、實は過失あらば間隙〔スキヒマ〕(*原文頭注「スキリマ」とする。あるいは「スキマ」か。)を伺ひて之に中て〔過失を擧げて罪に當つる〕んと欲す、然も隙(げき)の乘ずべきなし、復軒亦能く其意を知り、愈益獨任して之を終始す、前後八九年にして一の過失なし
復軒司計曹長たる後數日にして、府署故なく三千金を亡(うしな)〔失〕ふ、同僚の士倉皇措を失ひ、爲す所を知らず、相倶に謀議し、將に債を出して之を秘せん〔掩ひて漏さぬ〕とす、復軒然りとなさず、獨り抗言し〔反對を述ぶ〕て曰く、此れ盜あるなり、諸公其缺を掩うて之を償(つくな-ママ)ふも盜後顯露せば、自ら之を晦(くら)〔蔽〕まさんとするも、及ぶなけん、宜く之を政府に啓し〔申立つる〕て其事を明白にし、府署故なく亡ふ所以を吐露し、而後其罪を按驗(*原文ルビ「あんけい」は誤植。)〔取調〕し、法に坐して以て我職を免ずべし、公等欲せずんば我獨り之を告げんと、衆恚(いか)り〔立腹〕て曰く、新曹長は衆に違ひ、事を破らんと欲すと、群議決せず、然りと雖も、竟に復軒の言に從ふ、後數十日にして果して盜を小吏の中に獲たり、是に由りて衆皆其先識の明なるに歎服(*原文ルビ「なんふく」は誤植。)〔感服〕す
享保の初め新に命じて改制と稱し、先朝〔先代〕の舊典〔從來の法規〕を變革(*原文ルビ「へんか」は一字脱。)す、司計罪に坐する者多し、是より先き既に他の職に遷る〔轉任〕者も、其状を追責し、爲めに罪を獲たる者數十人、復軒獨り汚濁〔ゲガレにて財を私す〕なきを以て全きを得たり、蓋し司計の職たる、財賄の聚まる所、人動もすれば汚れ易し、縦ひ能く自ら潔清を守り、貪欲なからしむるも、或は相連坐し〔同僚の卷添に遇ふ〕、或は相牽引し、其堅確特立して衆の爲に推戴せらるゝに非ざれば、前後間幹(かん)〔取扱〕する所過なき能はず、而して復軒謇直を以て、特に清白の聲を得たりと云ふ
復軒人の奇書〔珍籍〕を藏するを聞けば、百方之を求めて、必ず自ら寫す、得る所凡そ二百餘種、五百八十卷、曰く此れ獨り我が好む所なるのみならず、顧ふに家貧にして子孫書に乏し、縦ひ贏金(えいきん)〔餘剩の財貨〕に當らざるも、寧ろ田宅を業として後に遺すの計に比すべからざらんやと
復軒享保十二年(*二年か。)の夏を以て胸痛を患(うれ)ふ、而して猶病を扶けて朝に出づ〔出勤〕、其明年に至り益劇し、家人謂ふ、君の微官〔低き官即ち小役人〕にして、何ぞ自ら苦むことをせん、宜く家居して以て痾〔宿病〕を養ふべし、復軒曰く苟も公の禄を食む者は亦其任を盡すべきのみ、然らずして其多寡を算し、己が職とする所に報ずるは、殆ど市井〔町の中〕商賈の私に近しと、可かず、遂に歿するに及ぶまで病を家に養(*原文ルビ「やすな」は誤植。)はず、苦を忍んで公に奉ず、甞て三城直署〔當直室〕に在り、病劇し、輿して〔駕籠に載せて〕家に歸り、未だ席を安んずるに及ばずして卒す、實に享保十年戊申四月二十三日なり、時に年六十四、雜司谷法明寺に葬る、著す所復軒雜記及び文集等あり
復軒齋藤氏を娶り、三男二女を生む、伯は惇行、字は敬徳、蘭溪と號す、通稱は助三郎職を襲ふ、仲は安世字は美仲、帆邱と稱す、通稱は安右衞門、叔(しく-ママ)は經世、字は美叔、龍川と號す、通稱は徳之丞、皆物徂徠に從ひて學び、文章を善くす、就中(なかにつき)美仲特(こと)に藝苑〔文藝界〕に著稱せらると云ふ


廬草拙(*原文「慮草拙」は誤字。)、名は草拙、字は元敏、清素と號す、後草拙を以て號となす、通稱は元右衞門、長崎の人

草拙の先は廬氏にして姜齋とす、其後裔(末孫)采地を廬に食む、因りて氏とす、世々范陽に居る、唐宋の間范陽の廬氏は皆其族なり、曾祖君玉に至り、萬暦中海に航して長崎に來り、流寓多年、崇禎四年明に還りて歿す、君玉崎に在る時、妾某氏男を生み、二孫と名く、時に元和八年なり、二孫十歳にして君玉郷に歸り、病んで再び至らず、遂に歿するに至る、幼にして母に鞠育せらる、長じて庄左衞門と稱す、其華音を善くするを以て、擢んでられて譯士となる、貞享三年に歿す、庄左衞門玄琢を生む、醫術を以て聞ゆ、元禄元年を以て歿す、草拙は乃ち其男なり
草拙早く父母を喪ひ、唯祖母に是れ依る、資性柔弱(じうじやく)にして恒に病多く、生冷〔ナマ物と冷えたるもの〕腥羶〔ナマグサにて魚類肉類〕を食(くら)はず、好んで書を讀むと雖も、學を勉むる能はず、自ら退落を甘んず、十七八歳に至るに及んで、沈痾〔多年の宿病〕漸く愈(い)ゆ、將に文學を以て世に振はんと欲す、始めて皐比(かうひ)〔虎皮〕に坐して經義を講説し、邑中に教授すと云ふ
正徳中鎭臺石河政卿擧げて掌書監〔書記頭〕となし、兼ねて清館の譯士〔唐人屋敷通司〕を領〔擔任〕せしむ、其華音に精しきを以てなり、享保年中江戸に召され、屡關東に來り、世々長崎來舶書籍の事を掌る
草拙文學を以て家を起すと雖も、其家二世譯士たり、故に當時の儒流皆之を視ること甚だ卑(ひく)し〔輕んず〕、特(こと)に岡島冠山と友とし善し、冠山草拙を以て譯士中の第一となす、蓋し俗語に精しきを以ての故なり
草拙平生素樸〔質素儉約〕に甘んじ、清淨を尚ぶ、晩年道教〔老莊の教義〕を好み、三教の要を辨じ、論説數萬言を著し、題して天地一指編と云ふ、又■(口偏+合+廾:がん・ごん:鼾:大漢和3889)囈録を著し、當時學者の偏見〔カタヨリたる意見〕多く理に悖〔戻〕るを指斥す
草拙甞て謂ふ、長崎は小邑と雖も、元龜より以降百五十年、忠臣孝子文學技能の士多からずとせず、想ふに其姓名字號、及び功績事業、今にして記載せずんば、恐くは泯滅(みんめつ)に歸せん、吾掌書記を辱くす、蒐輯し〔アツメル〕て以て諸を世に傳へんと欲す、未だ果さずと、輙ち男驥字は千里に命じ、將に其書を輯録せ〔アツメテ記録す〕んとす、享保十四年己酉五月病んで歿す、享年五十九、後三年にして其書始て成る、長崎先民傳と曰ふ、蓋し草拙の遺意〔遺言〕に從ふなり、近世南總の原公道■(手偏+交:こう・きょう:〈=校〉:大漢和12050)刊し〔校正して刊布す〕(*原文頭注「校刊」とする。)て世に行ふ、寥々たる短簡なりと雖も、亦以て長崎一邑の人物の盛なるを知るに足れり


荒川天散、名は秀、字は敬元、蘭臺と號す、後天散生と號す、通稱は善吾、山城の人、紀侯に仕ふ

天散幼にして伊藤仁齋に學び、古義塾中千里の駒〔駿足にて逸材〕の稱あり、其人となり明敏〔眼サトク手ハシコイこと〕豁達〔胸ヒロク小事に拘はらぬ〕にして經史に精通す、十四歳の時より仁齋が事故あるに當りては、之に代りて經義を講説し、諸生を訓督す、先輩老生ありと雖も、之と抗する〔對立して爭ふこと〕能はず、塾中推して都講〔塾長〕となす、塾に往來する者敬服せざるはなし、十六歳の時紀藩の上卿三浦某見て其才を奇とし、之を藩に薦む、徴されて記室となる、時に寛文九年己酉の冬十月なり
天散八歳より業を仁齋の門に受け、紀藩の聘に應ずるまで、堀河塾に寓する此に八年なり、其師弟の間に於ける信愛尤も厚し、仁齋其門に入ること群弟子〔多数の門生〕に先つを以て、之を遇すること他に異なり、然りと雖も天散は終身專ら師説を主とせず、以爲く吾が洙泗の道は大に唐宋の間に備はり、程朱二公之を集成す、其大意は往聖〔古代の聖人〕に繼ぎて來學を啓き〔開導〕、老佛の空妙(くめう-ママ)を排し、管商〔管仲商鞅〕の功利を擯〔排斥〕するに在り、若し世儒(*原文ルビ「せつじ」は誤植。)道義を以て己が任となし、能く此意を續(つ)く(*ママ)者あらば、是れ眞の儒者(じしや-ママ)なり、何ぞ必ずしも字々句々其師説を守りて、而後能く其學を奉ずるものとなさんや、蓋し師説を墨守し〔固執して他を顧みず〕、其遺教を崇奉し、事々其意の若くならしめんと欲する者は、朋黨〔同臭味の組合〕の漸(*原文ルビ「せい」は誤植。)〔傾向下地〕なり、夫れ黨を結び徒を構へ、偏に一家を護するは、皆小人の私心なり、恐くは近時の中江藤樹、山崎闇齋の輩子弟を驅馳して、之を其■(艸冠+綿:::大漢和に無し)■(艸冠+最:さい・せつ:小さい・集まる:大漢和31977)(めんさい)に入れ、流派〔學統の黨派〕を區別し、之をして己に歸せしむ、其末學〔末世の學〕の弊必ず朋黨の病を免れざらんとすと
仁齋一家の言を成して、海内を風靡す、其語孟古義を著すや、卷首毎に最上至極宇宙第一の八字を置き、以て崇重の意を致す、當時弟子及び朋友に異議〔不同意の説〕あるなし、天散謂く語孟を推尊して特に崇重の意を致すは、恐くは六經を睥睨〔蔑視〕して、之を孔孟の外に置くに似たり、甚だ聴聞を駭かすと、則ち削去せんと請ふ、仁齋之に從ふ
天散資性豪邁にして苟容(こうよう)〔好い加減に他の説に合はす〕をなさず、素より談論に健〔達者〕なり、嘗て江戸に在る時、大高芝山と一士人の家に邂逅し〔偶然會す〕、當世の人物を指評す、晝より夜に至り、尚未だ其坐を去らず、士人固より好學の士にあらず、其談論■(女偏+尾:び・み:くどくどしい:大漢和6297)々(びゞ)〔喋々と同じく言多き貌〕盡きざるに苦み、又默して其傍に在るに堪へず、間(まゝ)睡眠を催(もや-ママ)うす、芝山之を見て辭して歸らんと請ふ、天散未だ嘗て去るを欲せず、將に三更〔夜半〕に至らんとし、四隣寂然として〔サビシキ〕人聲を聞かず、他事益漫して相省みず、笑謔〔ワラヒ滑稽(、)オドケをいふ〕怒罵、音挺鐘の如く、竟に鷄鳴に至り、其士人に謝して歸る
天散講業の暇、吾邦の地誌を研究し、城堡(じやうはう)砦塞(さい\/)〔トリデ要塞〕の所在を諳記す、謂く士若し此に精しからずんば、以て戰陣の用、攻守の法をなすに足らす(*ママ)と
天散の詩は多く世に傳はらず、近時紀藩の伊藤海■(山偏+喬:きょう・ぎょう:鋭く高い山・山道・嶺:大漢和8488)南紀風雅集を編し、其詩數首を載す、余除夜〔大晦日の夜〕の七絶一首を愛す、曰く

遠ク書劍ヲ將テ風塵ニ走ル、更ニ看ル年光ノ追電頻ナルヲ、今夜曉鐘聲動クノ後、也(また)三歳異郷人ト爲ル(*遠將書劍走風塵、更看年光追電頻、今夜曉鐘聲動後、也三歳爲異郷人)
天散享保二十年乙卯を以て卒す、享年八十二、弟善助が子某を養ひて禄を襲はしむ、其人行(おこなひ)なく〔無頼〕籍を除かる〔藩士の身分を取上げらる〕と云ふ、著述の書數種あり、未だ其目を詳にせず、余が見る所弊箒集二卷あるのみ


鷹見爽鳩、名は正長、字は子方、爽鳩子と號す、通稱は三郎兵衞、三河の人、田原侯に仕ふ

爽鳩本姓は石川氏、永禄中平太夫と稱する者、始めて田原侯の曩祖〔先祖〕に仕ふ、其子正時半兵衞と稱し、侯の家に勤勞〔盡力したること〕あるを以て、擢でられて太夫〔家老〕となる、其子正信三左衞門と稱し、其子正親亦半兵衞と稱し、禄三百石、世々其職を襲ふ、是時に至り、侯命じて兒島氏を賜ひ、之を寵遇す、蓋し兒島は三宅と族同じければなり、爽鳩は正親が第二子、幼にして才三郎と名く、同藩の太夫鷹見定重女あつて男なし、正親と數世(すせい-ママ)の通家(つうか)〔親戚〕なるを以て、爽鳩を請ひて嗣子となす、故に出でゝ鷹見氏を冒すと云ふ
鷹見氏本姓は金澤と云ふ、其先世は遠州の人、金澤某も亦始めて田原侯の曩祖に仕ふ、兜■(矛+攵+金:ぼう:甲〈かぶと〉:大漢和40640)(たうぼう)〔カブトにて戰亂の意〕の世、屡勳功あり、嘗て白鷹(しろたか)の鹿角(ろくかく)を啣(ふく)んで〔クワヘル〕諸を楓樹上(せう-ママ)に架し、以て巣を結ぶを見る、以て瑞〔吉兆〕となし、之を捕得して、神祖に奉ず、因りて姓を賜ひ、鷹見氏と曰ふ、當時の人皆焉〔之〕を榮とす
我邦中世以降の諸家、車服旗幟に各標記〔紋章〕あり、圖を以て文に代ふ、日月星辰より以て動植諸物に至るまで、其好む所に從ふ、各家の子孫奉じて相沿ふ〔襲踏〕、應仁以後車服の制屡改まり、標記の用率ね衣服に在り、貴賤通用し、帛褐(はくかつ)〔絹服も賤しき綿布もの意〕並施(へいし)す、通稱して紋と曰ふ、鷹見氏は楓葉鹿角一雙を併繪(へいくわい)して以て紋となす、其の之を得たるを表するなり、子孫相沿ひ、爽鳩の時に至るまで改めずと云ふ
爽鳩幼より學に志し、十四五歳にして既に定見〔一定の見識〕ありて、嘗て士大夫(*原文「士太夫」)の僧巫(そうふ)の言を喜び、淫祀〔不正のミダラナ神社〕を過信し、僻執〔固陋にして正經ならざること〕習をなすを歎じ、秉燭或問珍六卷を著し、痛く其非を斥す、殊に醒目〔警省するに足るもの〕となす、時に年十七、後江戸に至り、上梓を勸むる者あり之に從ふ、中年に至るに及び、其辯論の盡きざるを悔ゐ、之を廢棄して以て齒牙に掛くるに足らず〔取るに足らずの意〕となす
爽鳩詩才逸宕(いつたう)〔磊落〕にして人に超絶す、甞て侯の駕に赤羽根の濱(三州)に陪從し、一大龜を網し得るに會ふ、侯諸臣に命じて詩を賦せしむ、爽鳩七言古詩一篇を賦す、其詩に云く

周室ノ列侯漢ノ功臣、于旄新ニ淹ス赤羽ノ濱、赤羽濱海三千里、光輝忽チ添ヒテ五馬新ナリ、漁人喜ビ迎ヒテ大龜ヲ献ズ、云フ是レ聖世鳳鱗(*麟か)ニ伴フト、朝ニ崑崙ヲ出テ夕ニ碣石、飛梁ヲ負抵シテ朝汐ヲ度ル、蛟■(三水+勞:ろう:大波・長雨・洗う:大漢和18318)ヲ壓倒シテ鯢鯨ヲ掣ス、濤ニ乘リ■(虫偏+山+隹+冏:けい・え・い:海亀・土斑猫・星の名:大漢和33887)(*ヲ)吹キ蓬瀛ニ到ル、蓬瀛十二黄金臺、多少ノ鱗甲相坐シテ迎フ、三足之鼈六眸ノ龜、一時水物皆驚クニ堪タリ、況ンヤ亦藏ス六千年ノ壽、再ヒ(*ママ)至仁ノ餘生ヲ保ツニ逢ハン(*周室列侯漢功臣、于旄新淹赤羽濱、赤羽濱海三千里、光輝忽添五馬新、漁人喜迎献大龜、云是聖世伴鳳鱗、朝出崑崙夕碣石、負抵飛梁度朝汐、壓倒蛟■掣鯢鯨、乘濤吹■至蓬瀛、蓬瀛十二黄金臺、多少鱗甲相坐迎、三足之鼈六眸ノ龜、一時水物皆堪驚、況亦藏六千年壽、再逢至仁保餘生)
侯欣然として〔喜色あるなり〕嘉尚〔ヨミス〕に堪へず、大に海畔(かいはん)に宴し、其詩を龜背に朱書して放去らしむ
爽鳩平生故舊〔朋友故人〕に厚し、安藤東野が友人某嘗て人を殺し、將に仇を他州に避けんとす、逆旅〔旅行〕の費銀を東野に乞ふ、東野造次〔急場〕の間之を辨ずるに由なく、自ら田原侯の邸門に至り、書を爽鳩に通じ、其故を告ぐ、時に夜四鼓に向はんとす、邸門既に鎖す、爽鳩之を冒し、是非を問はず、金三圓を懐にし、■(門構+困:こん:門の閾・宮中の小門:大漢和41329)隙(こんげき)〔門の閾のスキマ〕より之を與へ、速に行を治せしむ
爽鳩重瞳(ちようだう)〔ヒトミの二つあること〕にして書を讀むに二行倶に下る、又右手筆を持ちて帳簿を記し、左手に算盤を把りて會計をなし、乘除を差(たが)〔違〕へず
爽鳩年十六にして始めて近侍となり、二十一にして江戸に至りて、物徂徠の門に入り、始めて詩歌を作る、三十五にして擢んでられて太夫となる、是より後詞藻を廢棄し、尤も志を經濟〔利用厚生〕の學に留め、其説を研尋す、傍法律、刑名、政書、儀制の類に及ぶまで、和漢を綜錯し〔博くスベル〕、宏通〔博渉〕せざるなし、其職に在るに當り、之を用ひて功を其奉ずる所に立つ、實に脚の實地に着く〔脚を着くは浮きて居らず確立の形容〕者と謂ふべし、田原封内の條令〔法度〕は多く爽鳩が建議に出づと云ふ
列國大小の諸侯動もすれば輙ち其不足を患(うれ)ひ、歳時職貢〔參勤交代〕、給を商賈に仰ぐ、或は民間に横取(わうし-ママ)し〔租税を誅求し用金を取立つ〕、或は士俸を減(*原文は二水を使う。)じ、僅に以て其費を支(さそ-ママ)ふるに足る、爽鳩藩政を執るに及び、此に見あり、儉勤用を節し〔經費を省く〕、各其職に供せしむ、九年にして封内整理し、用大に足り、復た窘迫〔困窮〕する者なし、遂に世人をして田原は小藩なりと雖も、誠に富饒なりと謂はしむるに至る、皆爽鳩の功なり
爽鳩が妻は父定重の女、名は冬野、柳緑女史と號す、頗る婦行あり〔人の婦たる道を行ふ〕、又書を讀み文を屬(ぞく)し、好んで和歌を詠ず、尤も草書に妙なりと云ふ、定重晩年に至り子あり、定興と名く、爽鳩に囑〔託〕し、弟として鞠育〔養育〕せしむ、後嗣子なきを以て定興をして其禄を襲はしめんと欲す、爽鳩歿する後、柳緑(*原文「緑柳」は誤植。)能く義方〔正義の道〕を以て之を訓(おし)へ、兄弟の間恰(あだか)も母子の如く、人皆其人となりを稱し、以て良偶〔善き配偶夫婦〕となす
一貴紳物徂徠に問うて曰く、弟子の經濟に長ずるもの誰となすか、と(、)徂徠對ふるに爽鳩及び三浦竹溪を以てし、稱して能く時務〔時代の要務〕に通曉〔熟知〕するものとなす
爽鳩享保二十年乙卯四月十二日を以て、病なくして暴(にわか)に卒す〔急に死す〕、享年四十六、淺草新堀松原寺に葬る、著す所詩筌、或問珍、爽鳩遺稿等あり


田鶴樓、名は助、字は伯隣、鶴樓と號す、通稱は助右衞門、江戸の人

鶴樓の高祖益田友嘉は相摸の人、天文中小田原の北條氏威を關東に振ひしより、友嘉之に服從し、財貨の交易估價〔價格〕の低昂、奸非を督察〔監督觀察〕し、賦役〔人夫の公役〕を催驅する事を掌る、永禄丙寅の春明舶あり、飄風に遭ひ、來りて相の三浦に泊す、蓋し呉賈ならん、北條氏有司に命じ、艱難を慰撫し、之をして友嘉が家に舘客たらしむ、留宿すること數十日、其船具を修造し、其行裝を修繕し、事訖〔終〕りて將に辭して歸らんとす、其賈の甲者謝して曰く、賤商〔自ら謙遜せる語〕數人萬里の外に生理〔營業〕し、以て主人に報(*原文ルビ「にう」は誤植。)ずるなし、鄙家傳ふる所、一金箆(きんひ)術〔製藥術〕あり、以て奉授せんと、友嘉其方〔處方調劑〕を受け、之を試むるに果して驗あり、蓋し五靈膏の方なり、後民間に施して病者を療し、遂に巨萬の財を致す、寛永の初相州の豪民を江戸に移す、友嘉時に年九十餘、其族を率ゐて來り、城東に居る、之を小田原街と呼ぶ、其藥を賣りて業となす、友嘉三男一女あり、第三子を助傳と云ふ、助傳助慶を生み、助慶玄春を生む、乃ち鶴樓の父なり
鶴樓始め確樓と號す、蓋し確乎(かくこ)として〔シツカリして動かぬこと〕拔くべからざるの語に取る、新井白石屡其家に過ぎ〔訪〕、壁上に鶴を畫くを見て、鶴樓と題せしむ、遂に亦以て自ら號す
鶴樓世々他の業をなさず、家に積聚(せきしゆ-ママ)〔資産の蓄積〕なきも、贄〔資〕は日に給を取り、産(*原文ルビ「きん」は誤植。)に奇窘〔甚しき窮苦〕なし、當時益田氏が製せる五靈膏と云へば、婦人小兒と雖も、良藥なるを知らざるなし
鶴樓少くして學を好み、白石に師事す、遂に詩歌を以て藝苑に著稱せらる、白石固より經世〔國を治むること〕に志し、詞藻を以て世に名あるを恥づ、且つ自ら視ること甚だ高く、人の弟子を以て稱するを欲せず、故に門人と稱する者至つて寡し、又妄に〔漫にてムヤミに〕人と交はらず、而して鶴樓獨り愛遇を得たり、其人となり想見すべし
鶴樓甚だ客を喜び、酒肉席に絶ゆるなし、來訪ふ者晝夜相繼ぎ、間斷あるなし、先に至る者或は偶之を過ぐれば、他期〔他に約束〕あるも即ち去るを得ず、後なる者既に又雜然たり、鶴樓其杯盤狼藉〔取り散したるさま〕の中に坐起し、常に深夜を極め、霑醉(てんすゐ)以て娯(たのしみ)となす
鶴樓常に假寐(かみ-ママ)を好み、酒席に在りても、醉へば則ち顛睡(てんすゐ)す〔倒れて眠る〕、少(しばら)くありて寤むれば酣暢〔愉快〕故の如し、必ずしも賓主の容(かたち)をなさず、坐するに迎へず、起つに送らず、意蓋し相忘るゝを以て適〔勝手〕となす、客も亦其眞率を喜び、至れば則ち己が家に在るが如く、袒■(衣偏+易:せき・しゃく:肩脱ぐ・肌脱ぐ:大漢和34379)(たんせき)〔肩ヌギ〕裸■(衣偏+呈:てい・ちょう:裸:大漢和34291)(らてい)〔ハダカ〕、箕股(きこ)〔足を投出す〕、蹲踞〔アグラ〕、忌憚(きだん-ママ)する所なく、習うて以て常となす
鶴樓客を喜ぶを以て、其家人能く來者の多少を熟察し、飮量を計知す、昏夜〔夜分〕と雖も、厨饌(ちうせん)〔肴料理〕速に辨ずること、恰も賣酒舗の如し
鶴樓詩を以て世に稱せらると雖も、葆光脱落し、屑々として〔拘泥の貌〕文藝の徒を以て自ら居るを欲せず、則ち曰く一賣藥翁、豈に沾々(てん\/)〔ウレシガル貌〕自ら喜び、人の聚慕を欲せんや、且つ韓伯林が名を好むの甚しきに傚ひ、刻苦(こくく)して名を逃るゝを之れなさんや、之をなすは醜なり、唯與に飮むべきのみと、朝なく暮なく、時として醉はざるなし
鶴臺三絃〔三味線〕の技(き-ママ)を善くし、世の所謂長唄なるものを好む、客を會する毎に、必ず其曲を奏す、或は一日客至らざれば、僮僕鶴樓が樂まざるを憂ひ、竊に相善き者に詣りて之を招ぐ、得ざれば則ち又他に適〔行〕き、略相識者を尋ね遍くす、而して尚得ざれば、則ち雜賓(ざつぴん)〔俗客下等なもの〕狎客(かうかく)〔幇間者流〕と雖も、必ず邀〔迎〕ふる所を致して止む、或は僮僕他家に赴く時に當り、途に其識る所の人に遇へば、苦(ねんごろ)に之を要して伴ひ歸る、鶴樓之を喜ぶ
白石享保十年五月十九日を以て卒す、鶴樓飮酒を以て適となすと雖も、其平生の恩遇を追感哀慕し〔カナシミシタフ〕、忌日に至る毎に、悴然として〔憂色あること〕素食し〔魚肉を避けて精進す〕、必ず禮服を著して來客を謝し、人に接せず、隣家の笑語を聞くも堪へざるが如く、戸を閉ぢ齋居して〔物イミすること〕以て夕を終ると云ふ
鶴樓遺編三卷は友人高惟馨輯め、山保定大基房校し、書肆嵩山房梓す、其刻(*原文ルビ「こと」は誤植。)は寶暦十二年の春に成り、服南郭が撰せる鶴樓傳を附載す、其傳に曰く、今年六月鶴樓少しく病む、數日ならずして歿すと、按ずるに今年とは何の謂なるを知らず、之を要するに南郭が輩徒に情を詞藻に留(と-ママ)めて、事實を考究する〔カンガヘ調べること〕を知らず、百歳の後、之を讀む者をして其故を得ざらしむ、則ち其傳ありと雖も、世に裨〔補〕なし、竟に其歿年月享歳の事實を知る能はず、眞に惜むべし
或は曰く、鶴樓寶暦元年辛未六月三日を以て歿す、享年を詳にせず、淺草田畝慶印寺域内に、鶴樓の墓ありと、余往いて之を捜れども得ず、之を寺僧に問へば則ち曰く、益田氏なるもの數世の墳墓皆此に在り、而して香火主なきこと〔參拜者なきこと〕既に久し、其族を詳にせずと、余寺僧に請ひ、院中藏する所の靈鬼册子〔過去帳〕を閲する〔見て檢する〕に、益田氏の姓名歴々として〔ハツキリ〕存す、其中に法閣院玄順日達、安永四年乙未十二月三日、俗名益田助右衞門といふ者あり、蓋し是ならんか、然りと雖も、南郭小傳を撰び、蘭亭遺詩を輯む、其歿年決して明和以後に在らず、蘭亭寶暦七年を以て歿し、南郭は同じく九年を以て歿す、二子の死皆寶暦中に在れば、其辛未六月三日と言ふもの信ずべきに似たり、然も未だ孰(いづれ)が是なるを知らず、姑く〔假りに〕之を書して後考(こうかう)〔今後の考究〕を竢つ


田蘭陵、名は良暢、字は子舒、蘭陵と號す、田中氏自ら修めて田となす、通稱は武助、江戸の人

蘭陵早く孤〔幼にして父母なき〕なり、叔父(しゆくふ)富春叟(名は省吾、字は宗魯、雪華通人と號す、甲斐侯に仕へ、致仕の後姓名を變じて富春山人と號す)に養はれ、其家に寄居す、歳十二三にして常に側に侍し、叔父が業とする所、默して記する所あり、未だ嘗て講習に就かず、則ち自ら章句〔讀方〕を受けず、然も四書五經は既に能く讀誦し、十六七にして大義を識了す、叔父時々討論〔倶に議論を上下す〕を好み、其の記する所を視るに、應對流るゝが如し、叔父之を喜び、其善き所の物徂徠に就き、業を門下に受けしむ、而して蘭陵は板帆丘(*板倉帆邱)、菅麟嶼、岡■(山偏+兼:けん・かん:山が高く険しいさま:大漢和8365)洲と倶に■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の妙年四傑〔四人の傑出せる人物〕と稱せらる、而して蘭陵其魁なりと云ふ
蘭陵■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社に寓すること六年、日夜奮勵して經義を研究す、其論著する所、必ず機軸〔新規の結構方案〕を出し、敢て先修〔先覺者〕の成説に依らず、人皆之を難(かたし)とす
徂徠諸侯の聘に應じ、其邸第(ていだい)に到り、經史を講説す、毎月六回、或は七八回、其到る能はざる時に當り、蘭陵をして之に代らしむ、徂徠嘗て人に謂つて曰く、吾死後我業を羽翼する〔輔成すること〕者は太宰生、服部生か、生前吾が胸腹を知る者は、三浦生、田中生に若くはなしと
蘭陵二十三歳にして■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社を辭し、駒籠白山に僑居し、講説して業となす、然りと雖も、甚だ師説を專主せ〔限局して主持する〕ず、平生著す所、文章結撰〔作方〕、將に大に人の耳目を驚かさんとす、務めて先修と異をなす、是より先き十年安藤東野、又帷を此に下す、東野は温厚の長者〔老成にして有徳の人〕を以て稱せらる、惜いかな短命にして死す、蘭陵は慷慨激烈にして國士の風あるを以て稱せらる、自ら■(人偏+周:てき・ちゃく:拘束されない:大漢和778)儻(てきたう)〔不覊磊落にして拘束されざる性格〕豪邁を以て居る、常に好んで酒を飮み、鯨吸斗を盡す、二子皆夭折〔若死〕す、郷隣の人之を惜み、語りて曰く、文史東野を勞し、豪飮蘭陵を病ましむと
蘭陵氣古く行高く、磨■(龍+石:ろう・る:磨く・研ぐ:大漢和24586)(まろう)鐫切、期するに海内の名を以てす、然も勇壯特奇にして一世を傲弄し〔高ぶりてモテアソブ〕、殆ど養生の術を缺き、遂に此を以て病を得、享保十九年甲寅二月二十五日に至つて起たず、歳三十六、娶らずして子なし、門人相議して山谷瑞泉寺に葬る、又其墓碣(ぼかつ-ママ)の文を服南郭に請ふ、南郭其終りに垂とする〔近くこと〕(*原文頭注「埀」字を使う。)時、作る所の詩を碑陰に書し、謂(おもひら-ママ)く庶(ちか)くは以て之を概(*原文は異体字を使う。)する〔大抵略知するの謂〕に足らんと、其詩に曰く

華陽洞裏幾時遊ブ、聞道ク神仙玉樓ヲ修ムト、此ヲ去リテ珠■(艸冠+澁:::大漢和に無し)(*蕋か。)樹ヲ攀ント欲ス、雲間ノ白鶴已ニ來ルヤ不ヤ(*華陽洞裏幾時遊、聞道神仙修玉樓、此去欲攀珠■樹、雲間白鶴已來不)
著す所楳野集刪考、修辭考、蘭陵遺稿等あり


岡島冠山、名は璞、字は玉成、冠山と號す、通稱は援之、後彌太夫と改む、長崎の人

冠山始め譯士〔通辭〕を以て萩侯に仕へ、其月俸を受く、自ら賤役(せんえき)〔イヤシキ職〕たるを慙ぢ、辭して家居し、專ら性理の學を修め、獨り之を以て西海に鳴る、甞て足利侯忠囿を(*誤植)(戸田大隅守)の聘に應じて江戸に來る、幾もなくして致仕し、浪華に至り、講説業となす、又江戸に來り、平安に赴く、前後其華音に精きを以て、從遊〔門弟〕頗る多し、首として稗官〔小説〕の學を世に唱ふ、是より先き之に從事する者ありと雖も、未だ甚だ精しからず、冠山起るに及び、始めて能く其説を詳明すと云ふ
冠山始めて羅貫中が水滸傳を■(手偏+交:こう・きょう:〈=校〉:大漢和12050)定し、國譯を施して〔翻譯して假名を附す〕世に刊布(かんふ)せんとす、未だ其刻の成るを見るに至らずして歿す、享保十三年其初版成る、第一囘より第十囘に至る、是れ我邦に稗史〔小説〕を刻する始となす、是より以降陸續〔引續き〕開雕(かいちよ-ママ)〔彫刻出版〕(*原文頭注「開彫」とする。)して百囘に至らんとす、後其鏤版火に罹り、全尾に及ばずして罷む、惜いかな
近世稗官の學を以て世に鳴る〔名の聞ゆる〕者、晁世美(字は徳濟、長門人)(、)陶冕(南濤と號す(、)土佐の人)(、)岡白駒(播磨の人)(、)秦熈載(山城の人)等となす、而して冠山之が先鞭〔先駈〕たり、物徂徠亦冠山と友とし善し、象胥(しようしよ)〔通譯の義(、)此處は支那音〕を冠山に受く、稗史を讀んで覺了せざるものある毎に、必ず之を冠山に問ふ
冠山經史を講説し、生徒を誨督する、其爲す所大に世儒に異(*原文ルビ「こか」は誤植。)なり、世の儒者は必ず仁義道徳治亂興廢(*原文ルビ「きはい」は誤植。)を以て辯論鄭重〔丁寧〕、間煩冗〔クドクドしき〕に渉り、欠伸(かんしん-ママ)〔アクビとノビ〕を生ぜざるもの少し、冠山は專ら時世目撃〔眼前に見る〕の事實を言ふ、唐山に於ては、則ち明末清初、我邦に於ては則ち慶元以降なり、自ら謂(おも)ふ(、)此の如くならざれば、甚だ人情に近からずと
富春叟某侯に仕へ、直諌して聽かれず、私に其藩を去りて奥州に奔(わし)らんとす、冠山藤東野、太宰純と相倶に謀りて曰く、侯必ず兵を遣りて之を追はん、恐くは免るゝを得ざらん、盍ぞ相與に死力を出して之を拒まざるや、危きを見て命を致すは此に在りと、乃ち各戎器〔兵器〕を擁〔抱〕して之を護送すること數十里、追兵遂に來らず、乃ち別を告げて還る
正徳元年韓使來聘す、冠山年三十七なり、是時江戸に在り、林整宇先生の門に學ぶ、弟子員たるを以て、韓使と會し、客館(かくくわん)に筆語す、其書記洪嚴冠山が口を極めて富嶽の奇觀を激賞する〔切にホメル〕を聞き、以て然らずとなし(、)曰く、其奇秀〔珍しくウツクシキ〕清淑〔キヨラカ〕なる、我邦の金剛山に及ばざること遠し、夫れ金剛山は白頭山の初落なり、一萬二千峯あり、皆白玉を以て削成す、東渤海に臨み、北は長白に接し、根盤〔山麓の周廻〕數千仭にして畔岸(はんがん)を見ず、山中には多く人跡の到らざる處あり、亦神異多し、故に中國の人願くは東國に生れて一たび金剛を見んとの語あり、宇宙の名山恐くは之と奇絶を爭ふ者なからんのみと、其言甚だ誇驕なり〔ホコリ自慢すること〕、冠山曰く、金剛若し果して此の如くならば、信(しん)に名山と謂ふべし、吾國尚若干(じやくかん)の名山あり、皆秀麗にして崢■(山偏+榮:こう・おう:険しい・さがしい:大漢和8548)(さうくわう)〔聳えてケワ(*ママ)シキ〕、良(や)や尋常の比すべき所にあらず、然も富嶽に若かず、富嶽は半空に聳えて八州に跨り、金光を放ち玉華を散ず、頂上に池あり、清水鏡の如し、腰間樹なくして白雲帶に似たり、寔に是れ金砌(せつ)玉築〔黄金と寶玉とにて築き成す〕なるもの、而して其状凡に非ず、山中唯山神の祠(し)あり、土地出沒して妖精〔化物〕怪物飛禽走獸の猶到らざる處あり、而るを況んや人に於てをや、古より唐山の人我を稱して蓬莱〔典故ある仙島〕となすもの、富嶽あるを以てなり、其の名山の奇特にして天下無雙(ぶさう-ママ)なる所以のもの、其れ分明(ぶんみやう)なるかな、今足下が言ふ所、富嶽の金剛に及ばざるの説、未だ全く信ずべからざるに似たり、且つ金剛は何書に載するか、既に是れ貴邦の名山にして、天下第一の奇觀ならば、則ち必ず圖畫(づぐわ)のあるあらん、願くは一たび借覽せん、又唐山の人未だ此に言及ばず、恐くは足下の言遼東の豕〔尋常の物を我のみ珍奇と考へること〕ならんか、二書記言なくして罷む
冠山曰く、洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)の諸儒(しよじ-ママ)天を知りて人を知らず、頗る老莊に類す、近時洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)を攻撃するの諸儒は人を知りて天を知らず、差(や)や〔稍や〕申韓に近しと、此に由りて之を觀れば、宋學を以て主となすと雖も、之を墨守する者には非ず
冠山享保十三年戊申正月二日を以て歿す、享年五十五、慧日山に葬る、著す所唐話纂要、唐譯便覽、雅俗類語、唐語使用、字海便覽、華音唐詩選、尺牘便覽、通俗水滸傳、通俗元明軍記、通俗明清軍談、小説讀法等あり


越雲夢(*原文「趙雲夢」は誤植。)、名は正珪、字は君瑞、雲夢と號す、又門叟と號す、曲直瀬氏、養安院と稱す、江戸の人、幕府に仕ふ

雲夢の先は伊藤越智の裔にして、一柳氏の族なり、故に自ら修めて越となす、曾祖正琳京師に生れ、始めて醫を業とし、曲直瀬氏と稱す、豐太閤に仕へて法印〔官職〕に叙す、後神祖に奉仕す、慶長中其職を男正圓字は三益に讓り、別に菟裘〔隱居所〕を營み、閑居して病を養ふ、又外孫沼津玄理を養ひ、同じく此に居らしめ、之に老後の栖託(せいた-ママ)〔老後の静養所〕を與へんとす、正圓早く卒するが故に、玄理を以て嗣となす、又其職を襲ひ、法印に叙せらる、玄理正球を生む、平菴と號す、乃ち雲夢の父(、)柘植氏を娶りて雲夢(*原文「雪夢」は誤植。)を生むと云ふ
文禄中朝鮮の役、浮田秀家將に發せんとし、豐太閤に謁する〔伺候すること〕時、正琳側に侍す、秀家曰く、吾命を海外に奉じ、諸軍事を監督す、其凱〔凱歌、勝ちて歸る時春(*ママ。奏か。)なり〕を奏し■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)(かち)を献ずるの時に當り、何を以て投與せん(*と)、正圓唯々し未だ答へず、太閤曰く、正琳方技〔醫術〕を以て仕ふ、宜く書籍を獲て以て之に贈るべしと、後果して秀家彼の都城に於て収獲する所の書數十笥(し)〔箱〕を以て、悉く之を正琳に與ふ、雲夢に至るまで其書具存す〔缺けずして存在す〕、加ふるに雲夢博く古を好むを以て、異編奇册一世に輻湊す〔アツマル〕、當時の人之を神門文庫と稱す、蓋し其邸の城東神田橋外に在るを以てなり
雲夢醫術を以て、家世々官に食むと雖も、平生甚だ方技の説を好まず、一たび■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の門に入りてより、頗る能く所謂古文辭なるものを修め、自ら詞藻を以て專務となす
雲夢平生服子遷、平子和と交驩し、鉛槧〔文筆〕に從事す、儒流文人を以て、謁〔面會〕を門に請へば、則ち貴賤を問はず、倒屐(たうげき)して〔逆に屐を穿つにて急になり〕迎ふ、疾病憂苦を以て、治(ぢ)を家に請へ〔治を請ふは治療を乞ふ〕ば、則ち状實を問うて然後其人を見る
雲夢質實謹厚にして、家人に對するも、未だ曾て聲色を■(勵の偏:れい・らい:厳か・厳めしい・厳しい・励ます:大漢和3041)(はげ)〔嚴〕しくせず、其從僕、奴婢(どひ)常に謂ふ、吾主公に於て見ざるもの三あり、慍顔(をんがん)〔立腹の顔〕を見ず、詰語を見ず、鄙吝(ひりん)〔シミタレ〕を見ずと
醫官の邸を都下に賜ふ者、郭の内外を論ぜず、雲夢の如く朝に近き者なし、蓋し旨あり、其常參に便(べん)するを以てなり、人皆之を榮とす
雲夢事故ありと雖も、未だ嘗て東首して〔東向即ち頭を東に置く〕寢に就かず、蓋し趾(し)〔足〕を城の方(かた)に向くるを欲せざるなり、其家適ま修造の事あり、正室便房(べんばう)〔居室〕の板障(はんしやう)■(衣偏+表:ひょう:領巾・袖口・表具・装こう:大漢和34353)隔(へうかく)(*「隔」は木偏か。)等(ら)全く具備せざるを以て、東首せざるを得ず、家婢床を東首に置いて曰く、今夜修造に因り、常寢便ならず、僅に一宵のみ、爲すこと此の如しと、雲夢曰く三十年東首して就寢する〔臥す〕を欲せざるは、君恩の大なるを忘れざるが爲めなりと、遂に聽かず
雲夢は祖の玄理より術の精を以て、朝〔幕府〕に優遇せられ、父正球に及び、累〔連〕りに増禄し、以て采地の入千九百石に至る、元禄中常憲大君〔五代將軍〕孜々として〔精勵の姿〕治を圖り、制を改め政を新にし、尤も嚴威明斷と稱す、在朝の士苟も謹まずして赫怒に觸るゝあれば、朝に豐華〔富貴〕を極むるも、暮に奇窘に陥る者あり、正球其時に在りて官署に出入すること三十年、過失あるなし、雲夢も亦家聲を墜さず、蔭補(いんほ)を以て、法印に叙せらると云ふ
雲夢延享三年丙寅三月二十五日を以て卒す、年六十一、麻布の天眞寺に葬る、著す所懷仙樓文集、神門餘事等あり


細井広沢南部南山中野き謙板倉復軒廬草拙荒川天散鷹見爽鳩益田鶴楼田中蘭陵岡島冠山曲直瀬雲夢

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