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太平洋戦争期の米中関係における

「太平洋戦争期の米中関係におけるスティルウェル事件」『大阪外国語大学アジア太平洋論叢』

第6号(1996年)113-130項。

太平洋戦争期の米中関係におけるスティルウェル事件 
 

杉 田 米 行 

はじめに 

      太平洋戦争が西洋帝国主義からのアジアの解放、という日本の大義名分を打ち砕き、「白人対アジア人」という人種戦争に転嫁されるのを防ぐために、中国を連合国側に留めておくことは重要だった。国務省極東局局長ハミルトンによると、中国が連合国側について戦争に加わっていることが「現在の戦争を人種戦争にさせない最良の保証」であった。(1) 当初、ヨーロッパ戦線がアメリカの主要な関心事だったので、中国戦線に十分な物資を割り当てることができなかった。さらに、日本がビルマ路を封鎖したために、陸路による中国への物資輸送ルートが断たれ、中国は深刻な物資不足に悩まされた。蒋介石はこのような状況を打開するために、アメリカに対して様々な要求をした。ローズベルト大統領は、中国を戦線に留めなければならないという政治的考慮によって、蒋介石の要求をできるだけ聞き入れようとし、様々な援助の約束をするが、なかなか実行に移すことができなかった。中国のアメリカに対する不満は高まっていった。更に、ローズベルトは対中政策において軍事的考慮よりも政治的考慮を優先させ、1944年春に日本軍の大攻勢にさらされる惨めな軍事的失敗を犯した為に、統合参謀本部から強硬な批判を受けた。ローズベルトは蒋介石の参謀長官として中国に派遣したジョセフ・スティルウェルをうまく利用することによって、対中国限定援助に対する蒋介石の批判の鉾先をワシントンから逸らす事ができ、更に戦術的誤算の責任を蒋介石に転嫁することができたのである。194410月、スティルウェルが罷免された。(スティルウェル事件)彼は中国を戦線に留めておき、しかもワシントンにおけるローズベルトの指導力を回復するためにスケープゴートして利用されたのである。 

1 中国への限定援助 

      中国は日中戦争初期に日本軍によって外国からの物資供給をほとんど断たれた。蒋介石は最初は敵国との貿易を禁止したが、国内での物資が不足するといかなる国とも貿易する事を許可し奨励した。その結果、日本が最大の貿易相手国になった。アメリカはこのような状況を改善し、中国経済を安定させるためにも、中国への物資供給策を考慮した。中国は戦争中も国営企業によるアメリカ、イギリス、ソ連への輸出を伸ばしたが、その大半は戦前のローンの支払いであり、それによって輸入のための外貨を稼ぐ事はできなかった。対日戦争の遂行、四億の人口などを考慮すると中国には莫大な需要があるにもかかわらず、製品を購入するのに必要な外貨が不足していたのである。中国に対して194156日から適用されたレンド・リースはこのドル・ギャップ問題を解決するための手段であった。(2) アメリカ政府は当初からレンド・リースを管理するための使節を派遣していた。アメリカはこのレンド・リースの管理権を手中に収めることにより、それをテコにして中国に政治的経済的圧力をかけようとした。194262日に調印されたマスター・レンド・リース協定第七条には「・・・ [協定の] 条件は・・・適切な国際的および国内的手段によって全世界の人々の自由と福利の物質的基礎である生産、雇用、品物の交換と消費を拡大し、国際交易においてあらゆる形式の差別待遇を除去し、関税と他の通商障壁を消滅し、概して [米英間で合意した] 1941814日に発表された合同宣言 [筆者注:大西洋憲章のこと] で定められたものと同一の経済的目的を達成する・・・」事だと記されている。つまりレンド・リースを利用して中国経済を自由貿易の方向に発展させようとしたのである。(3)

      太平洋戦争の初期に、日本は非常に有利に戦争を進めた。1941年末には、ビルマに多数の増援隊を送らなければ、日本軍が五週間でラングーンに進撃するだろうと予想された。(4) 中国外交部長宋子文はビルマ路の封鎖を想定して、ローズベルト大統領に対して、ヒマラヤ越えの空輸によるレンド・リース物資供給の確約を求めた。宋はDC3100機を利用すれば毎月12,000トンの物資が中国に運びこまれるだろうと述べた。ローズベルトは宋の見解を承認し、「ラングーンにおいてさらに退却するような事があっても、インド経由での中国への物資供給ルートを航空機によって維持できる」と蒋介石に確約した。(5) ところが、この約束も英ソの輸送機要求、アッサムにおける航空基地建設の遅れ、予備部品と整備用具の不足などが原因となって、計画通りには実施できなかった。(6)

      194112月から19421月に開催されたワシントン軍事会議において、蒋介石が中国戦区における連合国軍最高司令官に任命された時、彼はアメリカ人の参謀長官を要請した。この要請を受けて、アメリカは1942年初期にジョセフ・スティルウェルを中国へ派遣した。(7) スティルウェルの任務は複雑なものであり、矛盾する可能性のある任務を兼任していた。1つ、蒋介石総統に対する参謀長。2つ、中国・ビルマ・インド戦区のアメリカ軍司令官で、中国以外について責任を持つ。3つ、合衆国の政策を代表し、擁護する軍事評議会のアメリカ代表。4つ、レンド・リースの一切の管理権を握る大統領代理。5つ、合衆国の利益を守ることを宣誓したアメリカ軍人。以上はスティルウェルが蒋介石夫人に語った自らの地位である。(8) 戦術面でアメリカと中国の利益が一致する時は、スティルウェルの任務は矛盾するものではなかった。しかし、蒋介石総統に対する参謀長として考慮する中国の利益と合衆国の利益が一致しない時には、彼の任務は矛盾するものとなった。ワシントンはスティルウェルの複数任務をうまく利用しながら、蒋介石政権に圧力をかける事も、中国の対米批判の鉾先をワシントンから免らせて、スティルウェルに向けさせる事もできた。蒋介石はこの事を煩わしく思い、スティルウェルの複数任務を分離するようにローズベルトに要求したが、ローズベルトはスティルウェルが多機能を持つ事の重要性を認識していたので、この要求を拒否した。(9)

      1942年晩春までに中国はアメリカに149,000トン、インドに45,000トンのレンド・リース物資を貯蔵していた。ビルマ路喪失後、中国への輸送のメドも立たず、ヨーロッパ戦線にありとあらゆる武器および物資が必要だったために、アメリカの武器割当局は中国の猛反対にもかかわらず、貯蔵物資の回収および中国への割当削減を積極的に考慮した。そこで、大統領補佐官ロークリン・カーリーは37日に対中レンド・リース削減に関してスティルウェルに意見を求めた。スティルウェルはレンド・リース物資を30個師団用の武器、中国空軍用の航空機、ビルマ路建設用の機械だけに削減する事に同意した。5月にはアメリカにあった149,000トンの貯蔵物資が回収された。58日に中国防衛供給局はホワイトハウスとの協議の結果として、武器割当委員会に緊急空輸計画を提出した。中国は毎月7,500トンの物資割当を要求した。武器割当委員会の要請を受けた武器割当局はとりあえず、5月と6月は3,500トンの物資割当を確約し、7月から10月までは中国の要求を考慮しながら計画を立てることになった。同時に、武器割当局は緊急空輸計画の期間中、スティルウェルをインドにおける対中レンド・リース物資受け取りおよび中国への輸送の時間と場所を決定する代理人に任命した。(10)

      対中物資割当計画は立ったものの、物資をインドから中国へ空輸する輸送機を調達する事ができなかった。428日の米英合同参謀会議で中国へ75機の輸送機を送ることが決定されたが、一週間後の同じ会議で57機に削減された。ローズベルトの要請を受けた陸軍航空部隊指揮官アーノルドはB2450機をインドに送れるかどうか陸軍省作戦局に打診したが、作戦局は中国へ航空機を運ぶことが名目的なことおよびヨーロッパでの作戦に支障がでる事を理由に拒否した。6月にアーノルドはスティルウェルと共同で8月までに輸送機75機の割当を要求した。再度陸軍省作戦局はヨーロッパ戦線の重要性に言及し、19433月まで輸送機を供給できない旨伝えた。(11)

      アメリカの参戦後、国民政府はアメリカはじめ連合国から大量の援助を期待した。中国政府指導者の間には、中国が長年単独で日本軍と戦ってきたのだから、援助を受けて当然だという考えも多分にあった事だろう。しかしながら、この期待と上述のような現実の間には大きなギャップがあった。このギャップを認識した時、中国政府は大きなショックを受けた事であろう。1942519日に軍事状況に対して中国政府は初めて公式に不安を表明した。これを受けて、駐中アメリカ大使ガウスは、空輸による中国への物資供給の増加を支持した。(12) 一方、レンド・リースの管理権を握っていたスティルウェルはビルマ路再開を重視した。彼は次のような考え方をしていたのである。空輸だけでは必要物資を中国に運び込むことはできない→中国の軍隊を適切に訓練すれば強力な軍隊になり、中国、アメリカ、イギリスの三国が協力すればビルマを奪回することができる。→中国軍強化の最大の障害は指揮官の無能、軍隊内の腐敗、食料や武器の不足→スティルウェルが中国軍の総司令官となって軍隊の改革が必要→アメリカは援助をテコにして蒋介石に圧力をかけ、スティルウェルの要求を承認させる。空輸だけでは供給物資が十分ではないという点では、陸軍省作戦局も同意していた。陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルもスティルウェル同様中国軍の改革を主張した。(13)

      期待と現実とのギャップによって、中国政府はショックを受けたのみならず怒りをも覚えたことであろう。宋子文は遂に620日にワシントン訪問中のイギリス首相チャーチルとローズベルトに対して、中国はインドでの物資貯蔵にかかわらず毎月3,500トンの割当物資が必要なこと、およびアメリカが緊急空輸の計画を放棄するようであれば、中国が戦線から離脱することも有り得る、と脅しをかけた。(14) ちょうどこの頃中東における連合国の戦況が悪化していた。エジプトとスエズ運河を防衛するために、623日にインドにおける第十空軍指揮官およびインド―中国間の供給路の管理責任者であったルイス・ブレレトン少将は、B17型重爆撃機、輸送機および中国へ送られる途中にあったA29型軽爆撃機をエジプトに転送した。怒った蒋介石は629日にスティルウェルに三つの要求を突きつけた。一つ、中国軍と協力してビルマ路を回復するために、アメリカ軍三個師団を8月から9月の間にインドに到着させる事。二つ、8月から中国戦区の空軍力を500機にして、その力を持続する事。三つ、8月から毎月の空輸物資を5,000トンにする事であった。(15) ローズベルトは状況打開のため、720日に再度カーリーを特使として中国へ派遣した。カーリーと蒋介石の会談によって、中国、アメリカ、イギリスの三国が協力してビルマ奪回作戦を実施するという点で合意点を見出した。(16) ローズベルトはスティルウェルを通じて1013日に蒋介石にメッセージを送った。その内容は一つ、アメリカ軍は派遣できない。二つ、中国の戦線用に500機の空軍部隊を維持する事。三つ、1943年初期にヒマラヤ越え輸送機100機を用意する事、であった。(17) また、さきのカーリーと蒋介石の会談で、蒋介石はスティルウェルの解任を求めたらしく、カーリーはその要求をローズベルトに提出していた。(18) しかしながら、この要求はマーシャルの反対などがあり、聞き入れられなかった。

      輸送機・爆撃機転送の決定は統合参謀本部で下されたものだった。スティルウェルは、たんにその決定を忠実に実施していただけであったが、蒋介石は怒りをスティルウェルに集中させていた。(19) 戦後もアメリカの援助に依存しなければ復興できない事を認識していた蒋介石政権はワシントンを直接批判の対象にすることはできなかった。スティルウェルはちょうどよい格好の不満発散対象であった。(20) ローズベルトやカーリーの態度は蒋介石政権の不満の対象をスティルウェルに向けさせながら、蒋介石のワシントンへの依存関係を深めさせていったのである。

      あわや解任かという危機の真っ最中でも、スティルウェルは蒋介石の参謀としての役割を果たそうとした。72日にスティルウェルは蒋介石に覚書を提出し、日本軍の次の攻撃目標を昆明と予想し、防衛の強化を要請した。5日後スティルウェルは再度覚書を提出し、昆明に軍隊を駐留させるべきだと勧告すると共に中国戦線において空軍が補助的な役割しか果たし得ない事、および中国陸軍の改革が必要な事を主張した。(21)

      6月のミッドウェー海戦後アメリカは太平洋戦線で反撃に出た。8月にはガダルカナル島に上陸した。海軍はアメリカの太平洋戦線を補助するために、連合国軍のビルマにおける積極的な攻撃を要請した。これを受けた大統領付幕僚長ウィリアム・リーヒーは統合参謀本部に対してビルマ路再開の明確な公約をすべきだと主張した。マーシャルも同意し、統合参謀本部と陸軍省作戦局に対してビルマ奪回を提案した。(22) 宋もビルマ奪回が中国にとって特別な重要性を持っている事を指摘した。1013日のローズベルトのメッセージに満足した蒋介石は、ビルマ奪回作戦に関してもスティルウェルに協力的であった。(23) 中国財政部のアメリカ人顧問アーサー・ヤングも、ビルマ路再開が中国におけるインフレーション抑制にとって最も大きな心理的効果を発揮するだろうと報告していた。(24)

      スティルウェルの陸軍を重視する戦略は、アメリカ第十四空軍司令官シェノールトの好むところではなかった。彼は空軍を重視し、105機の戦闘機、30機の中型爆撃機、12機の重爆撃機があれば日本軍を破る事ができると主張した。このシェノールトの主張はその後の蒋介石の政策に決定的な影響を与えた。蒋介石はアメリカ空軍を利用する事によって中国におけるライバルの軍閥が台頭するのを予防できるのみならず、直系の陸軍を戦後の内戦のために温存できると考えたのである。(25) 194210月にウェンデル・ウィルキがローズベルトの特使として中国を訪問した際、シェノールトはローズベルト宛の手紙を彼に授けた。その手紙の中でシェノールトは上記の計画を提案したのである。ローズベルトはこの計画に大変興味を示し、119日にシェノールトから直接話を聞きたい旨を、ちょうど中国を訪問しようとしていたジャーナリストのジョセフ・オールソップに書き送った。11月末には蒋介石夫人宋美齢が訪米し、中国政府がシェノールトに対して最大限の敬意を払っている事を表明した。ローズベルトの側近ハリー・ホプキンズも熱心なシェノールトの支持者であった。(26)

      113日の蒋介石の約束にもかかわらず、12月になっても中国はビルマ奪回作戦の準備を開始しなかった。125日にスティルウェルは宋に次のように警告した。「中国政府が [ビルマ奪回] 作戦を実行するかしないかを決定しなければならない時期がきた。今日に至るまでこの問題 [ビルマ奪回問題] を真剣に考慮した形跡はほとんどない。犠牲を払わなければならない。困難を克服しなければならない。」シェノールト計画に傾倒していた中国政府は、ビルマ奪回作戦の延期を考慮しており、その旨をスティルウェルに伝えたが、スティルウェルは1227日に口頭でこの要請を拒否した。そこで、蒋介石は翌日ローズベルトに電報を送った。イギリス海軍がベンガル湾を支配する準備がなければ、中国軍はビルマ奪回作戦に参加できないという内容であった。ローズベルトは194312日にビルマ路再開の重要性を指摘した電報をスティルウェルを通じて蒋介石に送った。17日ローズベルトは蒋介石からの伝言の内容をチャーチルに伝え、中国が3月から始まる予定のビルマ戦に全力を投入できるような保証を与える事ができないかどうか打診した。チャーチルからはビルマ作戦の延期を主張する電報が届いたが、その前に既に、蒋介石はローズベルトに電報を送っており、イギリス海軍がベンガル湾を支配しない限り、ビルマ路再開のための戦いに参加できないと通告した。(27)

      1943年にはスティルウェルとシェノールトの対立が、ワシントンにおけるローズベルトとマーシャルの対立へと発展していった。(28) ローズベルトがシェノールト計画を支持するのは194212月頃から明白になり、12月末にはシェノールトに100機の機動部隊を与え、スティルウェルから独立させる提案を行なった。軍事的視点からシェノールトの任務はビルマ戦役を援助する事という理由で、マーシャルはローズベルトの提案に反対した。(29) 116日のローズベルトと統合参謀本部の会合で、ローズベルトは政治的配慮からもっと多くの戦闘機を中国に送る事が「非常に賢明である」と主張した。アーノルドは基本的にローズベルトに同意したが、中国における空軍を増強しても必要物資を供給できるかどうかを疑問に思った。ローズベルトはより多くの輸送機を中国に送る事も「望ましい」と述べた。これに対して、マーシャルは、現在中国には十分輸送機を割当ており、これ以上の割当てをすることに関しては非常に慎重にならなければならないと言明した。(30) マーシャルは心理的要因というよりはむしろ中国への空軍援助をするためにも、ビルマ路を回復することを重要視していたのである。(31)

      イギリスはビルマ路回復に積極的であり、米英合同参謀会議ではビルマ全域を奪回する作戦は見送られ、ビルマ北部だけを奪回する妥協案(アナキム)で合意に達した。ローズベルトは親シェノールト派のアーノルドを中国へ派遣してこの合意を報告させた。この決定に失望した蒋介石は26日にアーノルドに対して、アナキム承諾の代償として以下の三つの要求をした。一つ、中国戦線のための独立空軍を増設する事。二つ、毎月10,000トンのヒマラヤ越え空輸を行なう事。三つ、194311月までに中国に500機の航空機を与える事。ローズベルトはそのすべての要求に同意したのである。アーノルドは物資の供給問題やシェノールトの管理・実施能力から判断して、独立空軍の創設は非現実的だとマーシャルに報告した。蒋介石の要求は以下のスティルウェルの手紙と共にワシントンへ届けられた。スティルウェルは29日付けマーシャル宛の報告において、強く見返り政策を主張した。「彼 [蒋介石] のためにしてやるすべての事の見返りに彼から [ビルマ作戦遂行の] 約束を厳しく取り立てるべきである。」マーシャルはこのスティルウェルの報告を218日にローズベルトに提示した。ローズベルトは38日に出したマーシャルへの回答で、明確に蒋介石に対する見返り政策を拒否した。「・・・スティルウェルは蒋介石大元帥に対処する上で全く間違ったアプローチを取っている。・・・大元帥は困難を乗り越えて四億の人口の明白な指導者になったという事を我々は皆覚えておかなければならない。・・・大元帥は彼の優越した地位を維持する事が必要だとわかっている。・・・彼は総司令官であると共に行政長官でもあり、そのような人に対して遠慮なくしゃべってはいけない。」ローズベルトはスティルウェルの見返り政策に反対しただけではなく、スティルウェルの軍事戦略にも反対であった。「ビルマ作戦にも希望をもってはいるが、1943年にはシェノールトの空軍を重視する作戦の戦略的価値に重点を置くべきだと思う。・・・シェノールトに彼ができると信じている事をする機会を与えてやって欲しい。」軍事的視点からマーシャルはローズベルトのシェノールト支持に真っ向から対立した。「問題は・・・我々が使う中国の空路および空港を地上から保護する事である。我々は今そのために計画をたてなければならない。ここが最も重要な事である。(強調はマーシャルによる)我々の空軍が日本人を痛めつけるや否や、日本軍は空軍だけでなく陸軍も反撃にでるだろう。空軍の反撃に関してはシェノールトの戦闘機で対抗できる。しかし、我々の基地に対する陸軍の反撃には陸軍で対抗しなければならない。・・・中国にある我々の空軍基地を保護するためにビルマを通る陸上物資供給ルートと信頼できる軍隊があれば、我々は日本人に対する空軍の攻撃を増加する事ができ、本当に日本人に打撃を与える事ができる。この事はつまり、ビルマを奪回しなければならないという事である。」現地においてもワシントンにおいても対中国政策に関する対立は激化していった。(32)

      ローズベルトの約束後も中国への物資供給はあまり増加しなかった。いらだった蒋介石は中国へのレンド・リース物資の輸送を最優先する事、およびシェノールトをワシントンに召喚して、彼に空軍計画を説明させる事をアメリカ政府に要求した。マーシャルの勧告もあって、スティルウェルも一緒にワシントンへ召喚された。スティルウェルは空軍が日本を爆撃しようとすれば日本陸軍の猛烈な反撃を招くので、それを迎え撃つためにも中国軍の装備・改革が必要だと主張した。このようなスティルウェルの主張を蒋介石は予想していたのであろうか。彼は先手を打ち日本陸軍が反撃に出れば中国軍が阻止するので、全物資を即座に空軍に与えて欲しいと要求した。ローズベルトは全物資を空軍に与えるのは無理だと回答したが、シェノールトに通常の軍事チャンネルを外して、直接ローズベルトと連絡を取れるという特権を与えた。この特権によってシェノールトは対中見返り政策を主張するスティルウェルとマーシャルに報告せずに、軍事的事項をローズベルトに告げる事ができるようになった。ローズベルトは政治的考慮によってシェノールトを支援したのである。こうする事によって蒋介石の自尊心を高めると共に蒋介石のローズベルトに対する依存度を深めさせていったのである。(33)

      スティルウェルはローズベルトの決定に満足せず再度アナキムの重要性を強調した。マーシャルは、ローズベルトが政治的理由により蒋介石を支持しなければならない事をスティルウェルに告げた。ローズベルトは即効性を重視し、シェノールトの計画を支援したのである。イギリスもアナキムを中止させるために、中国におけるアメリカの空軍を重視する政策を支持した。統合参謀本部は空軍による攻撃で日本を刺激し、中国とインドにある基地が日本陸軍によって破壊される事を最も恐れたが、ローズベルトは政治的・心理的考慮により、マーシャルやスティルウェルの勧告を受け入れず、蒋介石-シェノールト路線を支持した。(34) ローズベルトはこの路線を支持する事によって戦況が好転するとは考えなかったであろう。むしろ、著しく悪化しなければ良いという程度に考えていたに違いない。ところが、1944年春、日本軍の一号作戦によって中国戦区における戦況は大きく変化したのである。 

2 一号作戦と中国軍の指揮権委譲問題 

      19444月に日本軍は一号作戦を開始した。中国軍は大敗し、国民政府は大打撃を被った。政府軍の弱体ぶりを目の前にした農民は日頃の不満をぶちまけ、河南などでは日本軍に味方して中国軍を攻撃したほどであった。また、国民政府の権力伸長を懸念する地方軍閥も、この機会を利用して政府の権威を落とそうと積極的な活動を繰り広げた。中国東南部では独立政府樹立の動きすらあらわれた。(35)

      一号作戦は中国国内の混乱のみならず、アメリカ政府のトップレベルでの混乱をも引き起こした。5月末に蒋介石はアメリカに援助を求めた。第十四空軍強化と同空軍への供給を毎月10,000トンに増加する事、および成都に貯蔵しているB29用の物資を即座に第十四空軍に転送する事などを要求した。統合参謀本部は最初の要求は承諾したが、二番目の要求は拒否した。(36) この頃は在中大使館から中国指揮官の無能さや軍隊内の腐敗などに関する報告が多数送られた。(37) 524日、スティルウェルはマーシャルに全中国軍の指揮権の獲得を要求した。628日、中国に特使として派遣されていた副大統領ヘンリー・ウォーラスが、現在の中国軍の状況は絶望的ではなく、むしろ中国軍の改革を手助けすることによってアメリカの権威を高めるチャンスであり、この問題に賢明に対処すれば中国の政治構造を改革することもできるだろう、とローズベルト大統領に報告していた。(38) 換言すれば、一号作戦による中国の混乱という悪条件を逆に利用して、中国政府に改革を迫ろうとしたのである。73日にスティルウェルは再度全中国軍の指揮権の把握をマーシャルに要求した。この要求を受けて74日に統合参謀本部は、空軍を重視してきた従来のローズベルトの戦術上の誤りを指摘した厳しい内容の覚書を提出し、陸軍を重視するスティルウェルの計画を支持すべきだとローズベルトに詰め寄った。(39) ローズベルトが統合参謀本部とスティルウェルの勧告を無視して、政治的配慮から強引にシェノールトの計画を支持したことが惨めな軍事的失敗を引き起こしたのである。ローズベルトは中国における軍事的失敗、政治的混乱、およびアメリカにおいては統合参謀本部からの強硬な要求に直面し、しかるべき対処に迫られたのである。(40)

      76日、ローズベルトは中国全軍(中国共産党の軍隊も含む)の指揮権をスティルウェルに委譲するように蒋介石に要求した。(41) 蒋介石がこの要求を受け入れるかどうか、ローズベルトは半信半疑であったが、蒋介石の回答にかかわらず、ローズベルトにとってはプラスになる要求であった。ローズベルトは蒋介石に強硬な要求を出すことによって統合参謀本部との協調関係を回復し、アメリカ政府のトップレベルでの混乱を解消しようとした。もし蒋介石がこの要求を受け入れなければ(ローズベルトはこの可能性のほうが高いと考えていた)、ローズベルトは中国における政治的考慮の重要性をテコにして統合参謀本部を説得できると考えた。少なくとも、統合参謀本部のローズベルト批判を抑制できると思った。逆に、もし蒋介石がこの要求を受け入れたならば、スティルウェルが中国共産党軍をも含めた中国全軍の改革を断行し、それをきっかけに中国政府機構の改革もできるだろうと考えていた。また、中国共産党軍もスティルウェルの指揮下に置くことによって、まず軍事部門における国共合作が可能だと考えていた。ホプキンズは国共両軍の指揮を取れるのは外国人であるスティルウェルのような人であろう、と述べていた。(42) いずれにしても、ローズベルトは逆境を逆手に取って大きな機会に変えたのである。

      78日に、蒋介石はローズベルトに回答を送った。彼はローズベルトの要求を原則的に承認はしたものの、曖昧な返事をし、問題解決のため、個人特使の派遣を要請した。(43) 蒋介石の日記によれば、スティルウェルへの指揮権付与問題に関して引き延ばし策をとる事にしたのである。(44) ローズベルトはこの要請を受けて大統領特使としてパトリック・ハーレーを派遣した。中国の軍隊は政治勢力でもあったので、スティルウェルの要求を受け入れれば、中国国内の政治勢力の均衡が蒋介石の不利な方向に崩れる可能性が大きかった。(45) 723日に、蒋介石はスティルウェルの全軍指揮権を認める代償に三つの条件を出した。一つ、中国共産党は国民政府の行政的軍事的命令に従う事に同意しない限り、スティルウェルの指揮下に置く事はできない。二つ、複雑で矛盾するスティルウェルの機能、権限、地位、蒋介石に対する関係を明確にする事。三つ、レンド・リースによる軍事物資の分配および処理に関する管轄権を中国政府が握る事。これらの条件に対して、ローズベルトは823日に回答した。「スティルウェル将軍任命の件については、非常に強力に貴殿の行動を促したい。これ以上引き延ばしを行なえば時期を失し、中国にとっても、日本の即時打倒という連合国の計画にとっても悲劇的な、軍事的破局が不可避になるかもしれないからである。・・・」と蒋介石の引き延ばし作戦を批判した。続いて「スティルウェル将軍の指揮下に入るべき軍隊については、中国の防衛と対日戦争に使用可能なものである限り、これを制限すべきではないと考える。敵のために我々が崩壊に追いやられる可能性がある時、誰の援助であろうと、日本人を殺し得るものの援助を拒否する事は妥当ではないように思える」と中国共産党軍もスティルウェル指揮下におくべきだとし、蒋介石の第一番目の要求を拒否したのである。レンド・リース管理権要求も聞き入れられなかった。国民政府に友好的なハーレーすら、レンド・リースの管理権はアメリカが握るべきだと主張した。しかしながら、ローズベルトは蒋介石のために逃げ道を作っておく事も忘れなかった。「スティルウェル将軍に指揮権行使と、これにからむ政治的諸問題に関する彼の理解を助け、関係を好転させていく上において、ハーレーが非常に役に立つことは間違いない・・・」と政治的問題に関して大統領特使のハーレーを利用するように示唆していた。(46)

      蒋介石は9月になっても明確な回答を示しておらず、ローズベルトはその引き延ばし作戦に対して強い不満を表明した強硬なメッセージをスティルウェルに送付していた。(47) ローズベルトの支援を背景にスティルウェルも916日には中国が劇的な政策をとらなければ、アメリカは中国から撤退してソ連に基地を築くと強硬な態度を取り、迅速な指揮権委譲を要求した。919日にスティルウェルはローズベルトの強硬メッセージを蒋介石に手渡した。ハーレーは柔らかい表現に書換えるように助言したが、スティルウェルは無視し、強硬な表現のまま蒋介石に突きつけた。(48) 923日には、スティルウェルが直接延安へ行って中国共産党軍を装備する意向である事を蒋介石に伝えた。同日、蒋介石はハーレーに対して中国共産党軍を利用する事を拒否し、さらにスティルウェルの罷免を正式に要求した。(49) 925日に蒋介石は、アメリカ人の総司令官を受け入れる用意はあるが、スティルウェルは適任ではないと主張した。(50) スティルウェルは926日に「蒋介石はこれ以上戦争遂行に努力する意思はない。・・・彼には、本当に民主的な制度をうちたてるとか、共産主義者と共同戦線を張るとかいう意思はない。中国の統一と真の抗日への協力に対する主たる障害物は、実に彼自身である・・・今や私は以上の理由によって、彼が権力の座にある限り、アメリカは中国から真の協力は得られないと確信している」というメッセージをマーシャルに送り、蒋介石打倒を主張したのである。(51)

      アメリカ政府は蒋介石かスティルウェルかの二者択一を迫られたのである。101日、ホプキンズは中国側に、蒋介石の要求を承認する旨を非公式に伝えた。(52) 105日、ローズベルトはアメリカ人を中国戦区における総司令官にしない事、スティルウェルから蒋介石の参謀長官およびレンド・リースの管理という任務を剥奪する事、しかしながら、ビルマ戦でのスティルウェルの活躍を考慮して、スティルウェルをビルマと雲南の指揮官にする事、といった妥協案を蒋介石に提出した。蒋介石もこの妥協案で満足した。(53) しかしながら、蒋介石は既に秘密政府評議会において、スティルウェル罷免の意図を報告していた。106日、ハーレーは蒋介石がスティルウェル問題で妥協できない状態にあるとローズベルトに報告した。蒋介石は国民政府の意図を支持するハーレーへの依存を益々強めていった。ハーレーは国共合作という重要な任務を達成するためには蒋介石の大きな譲歩が必要であり、譲歩を引き出すためには蒋介石がハーレーに依存するような形で信頼を深めさせていく事が重要だと確信していた。そこでハーレーは自分の勧告によってスティルウェルを罷免させれば、蒋介石の依存度を更に高める事ができると考えたのである。1010日、ハーレーはスティルウェル問題以外では蒋介石とローズベルトとの間に問題はないと報告し、スティルウェルの解任を暗に迫った。三日後に、中国における成果をあげるためにはスティルウェルを解任せねばならないとローズベルトに強硬に勧告した。翌日、スティルウェルは正式に罷免通知を受けた。(54) 

むすび 

      スティルウェルはあらゆる意味でスケープゴートになった。彼はアメリカが中国に十分援助をできない事に対する蒋介石の不満発散の対象になった。ローズベルトは蒋介石に寛大な援助の約束をしたり、蒋介石が嫌っているスティルウェルに批判的な態度をとる事によって、即ち、蒋介石に対して「軟」の対応をする事によって彼を安心させた。ローズベルトは同時に、1944年春にアメリカが装備した雲南軍をビルマ戦役に投入しなければ援助を中止すると脅したり、スティルウェルに中国軍全軍(中国共産党軍も含む)の指揮権を与えようというような「硬」の対応をする事によって、蒋介石を不安にさせる事もあった。しかしながら、ローズベルトが「硬」の対応をする時はスティルウェルの要求をローズベルトが受け入れたという形をとった。要するに、ローズベルトは硬軟両方の手段を用いながら蒋介石に対処したのである。蒋介石にとってみればまさにスティルウェルこそが諸悪の根源だった。ローズベルトはスティルウェルの存在のおかげで対中国限定援助に対する蒋介石の批判の鉾先をワシントンから逸らす事ができたのである。

      スティルウェルはまた、ローズベルトの空軍を重視する作戦が惨めな失敗をした時に、マーシャルをはじめとした統合参謀本部のローズベルト批判をかわす為にスケープゴートとしても利用された。ローズベルトは統合参謀本部の強硬な批判を受け、蒋介石に対してスティルウェルに中国全軍を指揮する権限を委譲するように強く迫った。最終的に、蒋介石がこの要求を拒否する事によってローズベルトは自分の戦術的誤算の責任を蒋介石に転嫁したのである。日本軍の一号作戦によって噴出したアメリカ軍部のローズベルト批判もスティルウェルの罷免によって終わった。1945年に入るとビルマ路も再開し、中国へ物資が運びこまれるようになった。中国戦線においても太平洋戦線においても戦争の最終段階にはいっていた。このような状況の中でスティルウェルの罷免をきっかけにワシントンにおけるローズベルトの指導力も回復していった。 

 

 

 

杉田米行:大阪外国語大学 地域文化学科アメリカ講座専任講師、アメリカ史。

 Yoneyuki SUGITA is Assistant Professor of American history, Osaka University of Foreign Studies.

(1) United States Department of State, Foreign Relations of the United States (以下FRと略記), 1943: China (Washington D.C.: U.S. Government Printing Office, 1957), p. 14.

(2) Charles Romanus and Riley Sunderland, Stilwell’s Mission to China (Washington D.C.: U.S. Government Printing Office, 1953), p. 13.

(3) United States Department of State, United States Relations with China: With Special Reference to the Period 1944-1949 (Washington D.C.: U.S. Government Printing Office, 1949), p. 468.

(4) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, p. 70.

(5) Ibid., pp. 77-78.

(6) D.C. Gupta, United States Attitude Towards China (New Delhi: S. Chand & Co., 1969), p. 50.

(7) Russell D. Buhite, Patrick J. Hurley and American Foreign Policy (Ithaca: Cornnell University Press, 1973), pp. 139-40.

(8) ジョセフ・スティルウェル『中国日記』(みすず書房、1966年)115ページ。

(9) Margaret B. Denning, The Sino-American Alliance in World War (Berne: Peter Lang Publishers Ltd., 1986), p. 142; ローズベルト大統領はスティルウェルに複数任務を与えたのみならず、中国政府とアメリカ政府の伝達経路を複数にした。Peter T. De Groot, “Myth and Reality in American Policy Toward China,” (Ph.D. dissertation, Kent State University, 1974), p. 142. 確かに、そうすることによってディグルード氏が指摘するように、アメリカの対中政策が混乱したことも事実であろう。しかしながら、ローズベルトはこのような方法をとることによって、限定援助しか受けることができず、高まっている蒋介石政権の不満を懐柔しようとしたのではなかろうか。ローズベルトは伝達経路を複数にするだけではなく、海軍経路や宋-ホプキンズ経路などによって、蒋介石および彼の側近とホワイトハウスとの結び付きを強固なものにしていった。アメリカは援助を与える側であり、中国は援助を受ける側であった。この両者が強固に結び付けば結び付くほど、中国のアメリカに対する依存度は深まっていったのである。

(10) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, pp. 159-60.

(11) Ibid., pp. 164-65.

(12) FR, 1942: China (Washington D.C.: U.S. Government Printing Office, 1956), p. 48.

(13) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, p. 152.

(14) Ibid., p. 158.

(15) Ibid., pp. 169-72.

(16) Gupta, United States Attitude, p. 52.

(17) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, pp. 222-25.

(18) Ibid., p. 186.

(19) Ibid., p. 174.

(20) Michael Schaller, The U.S. Crusade in China, 1938-1945 (New York: Columbia University Press, 1979), p. 108.

(21) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, pp. 175-77.

(22) Ibid., pp. 222-23.

(23) Ibid., p. 231.

(24) FR, 1942: China, p. 546.

(25) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, p. 251; スティルウェル『前掲書』251ページ。Robert Smith, “Alone in China,” (Ph.D. dissertation, University of Oklahoma, 1966), p. 39.

(26) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, pp. 252-54.

(27) Ibid., pp. 254-60; FR, 1943, Washington and Casablanca (Washington D.C.: U.S. Government Printing Office, 1957), p. 515.

(28) 山極晃「大戦中の米華関係」英修道・入江啓四郎監修『朝鮮・中国の民族運動と国際環境』所収、(巌南堂、1967年)265ページ。

(29) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, p. 277.

(30) FR, Washington and Casablanca, p. 597.

(31) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, p. 270.

(32) Ibid., pp. 271-81; タン・ツォウ『アメリカの失敗』(毎日新聞社、1967年)101-102ページ。

(33) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, pp. 317-23.

(34) Ibid., pp. 323-31; スティルウェル『前掲書』307ページ。John Davies, Dragon by the Tail (New York: W.W. Norton & Co., Inc., 1972), p. 266; Tong-chin Rhee, “Sino-American Relations from 1942 through 1949” (Ph.D. dissertation, Clark University, 1967), p. 54.

(35) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, p. 402.

(36) Gupta, United States Attitude, p. 61.

(37) FR, 1944, China (Washington D.C.: U.S. Government Printing Office, 1967), pp. 95, 453.

(38) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, p. 377.

(39) Ibid., pp. 380-82.

(40) Paul Varg, The Closing of the Door (Michigan: Michigan State University Press, 1973), pp. 139-40.

(41) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, pp. 383-84.

(42) Davies, Dragon, p. 317.

(43) Ibid., pp. 385-86.

(44) サンケイ新聞社『蒋介石秘録』下巻(サンケイ出版社、1985年)396ページ。

(45) タン・ツォウ『前掲書』74-75ページ。

(46) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, pp. 414-17; アメリカ国務省『中国白書』(朝日新聞社、1949年)92ページ。

(47) アメリカ国務省『前掲書』93ページ。

(48) Buhite, Patrick J. Hurley, p. 155.

(49) Davies, Dragon, pp. 334-35; スティルウェルは既に194396日に中国共産党軍の利用を提案していた。Schaller, Crusade, p. 143.

(50) Buhite, Patrick J. Hurley, p. 157.

(51) アメリカ国務省『前掲書』93ページ。

(52) Romanus and Sunderland, Stilwell’s Mission, p. 456.

(53) William Head, “America’s China Sojourn”, (Ph. D. dissertation, Florida State University, 1980), pp. 157-58.

(54) Buhite, Patrick J. Hurley, pp. 158-59; Gary May, China Scapegoat (Prospect Heights: Waveland Press, Inc., 1979), p. 113. 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

STILWELL  INCIDENT 

Yoneyuki SUGITA 
 

     President Franklin . Roosevelt recalled General Joseph Stilwell, American Commander in China, in 1944. The “Stilwell Incident” has two significant points:

(1)China did not have to criticize Washington, blaming Stilwell for U.S. limited aid to China during the Pacific War; and

(2)President Roosevelt re-established his leadership in Washington by passing responsibility of a tactical failure in the China theater to Chiang Kai Shek.

1. Introduction

2. U.S. Limited Aid to China

3. Ichigo Campaign and Command Issues

4. Concluding Observations