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第6の根拠、架空の捕虜大量殺害説

事実無根の捕虜、大量殺害説


(1)捕虜の釈放

 南京事件で一番問題になるのは、捕虜の殺害である。
 戦友がバタバタやられる苛烈な戦闘の最中、形勢不利とみるや、白兵戦のさなか、銃を捨てて手をあげ、「オレを捕虜として取り扱え」といっても、それは許されることではあるまい。
 
 「ヤッチマエ!」といって、「激昴せる兵は、片はしより殺戮す」と佐々木少将や島田中隊長の回想録に出てくるが、これは当然の戦闘行為で、逃亡する敗残兵を掃射するのと同様の行為とみてよい。
 戦闘中の捕虜は、これを「とる」「とらぬ」はその時の部隊長の意志によるというのが陸戦法規の考え方で、違法ではない。
 
 ともあれ、生か死かの戦場の極限状態にあって、敗残兵か、捕虜か、国際法に違反するか、否か、そんな思考をめぐらして、殺す、殺さないを決めるというような事が出来ようはずがない。
 それが戦争というものである。
 
 陸軍歩兵学校の「対支那軍戦闘法ノ研究」(1933年1月)の中の「捕虜ノ処置」について、藤原彰氏は前掲の『南京大虐殺』の中で、この研究は「ロシア兵やドイツ兵と違って中国兵の場合は殺してもかまわないという研究」(28~9ページ)と決めつけているが、原文は次の通り。
 
 「捕虜は他列国人に対する如く必ずしも之を後送監禁して戦局を待つを要せず、特別の場合の外之れを現地又は地方に移送し釈放して可なり。
 どこにも殺してかまわないなどとは言っていないのである。
 
 「特別の場合」とは便衣兵を意味するものと思われる。
 なにしろ中国兵はドイツやロシア兵と違い、たとえ本隊が降伏しても、一部はゲリラ化し、民間人に化けてテロをやるのが当時一般化していたのである。
 
 「便衣兵」の処刑は、国際法に照らしても決して不法でないことは当時一般化していたのである。「便衣兵」の処刑は、国際法に照らしても不法でないことは前項で詳論した通りである。(便衣兵は戦時国際法の違反へ
 平時ならともかく、武器を秘匿して潜伏している便衣兵を裁判にかけることなく処刑したと虐殺派は非難するが、それは机上論である。
 
 現にちょっとした油断で便衣兵に秘匿武器で殺された例はいくらでもある。
 いずれにせよ、先の「資料」は、そのような「場合ノ外」は釈放してもかまわないといっているのである。
 
 たしかに当時の日本軍は、全般的に国際法に関する研究不足というか、指揮官にその観念が薄く、その為南京において、意外に多数の捕虜に遭遇してその処置に窮し、その取り扱いに若干問題があったことも事実であろう。
 しかし、戦争というものが、いかに過酷なものであるか、ヨーロッパ戦線の例を一つ上げよう。
 
 ドイツが全面降伏したのは1945年5月7日であるが、この直後、つまり終戦になってからユーゴスラビアにいた17万5000のドイツ軍が捕虜になり、アルプス越えの途中、8万余名が集団虐殺されるという事件が起きているのである。
 捕虜収容所に収容されたのは約半数に過ぎなかったという。
 
 西ドイツ発行の『第二次世界大戦史』(著者パウル・カレル)によれば、このような例はその他にもたくさんある。
 戦争というものがいかに苛烈・非情なものであるかを知る一例である。
 
 洞氏は『南京大虐殺の証明』の中で、第16師団長中島今朝吾中将の日誌に、「大体捕虜はせぬ方針なれば」とあるのを、捕虜の集団処刑が軍命令、師団命令によってなされていたのではないかと推測している(前掲書304ページ)。
 洞氏にかぎらず虐殺派はおしなべてこの中島中将の「捕虜はせぬ方針」というのを一般に誤解して、南京の捕虜はかたっぱしから殺害したかのごとく主張するが、決してそうではない。
 
 これについて大西一上海派遣軍参謀はこう述べている。
 
 「それは銃器を取り上げ釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」(阿羅健一著「聞き書 南京事件」)。
 さらに大西参謀は軍命令、師団命令で、捕虜殺害命令など絶対に出ていないと断言している。
 
 集団捕虜約1万が南京城内の2つの監獄と、江東門の模範囚収容の小監獄および2つの収容所に収容された。
 捕虜取り扱い専任の榊原参謀によると、「中央監獄の4000人のうち、半分の2000人は、命令により上海の捕虜収容所に移した。
 その分類は私がした。」と言う。
 
 さらに同氏は東京裁判で、「また幾人かは各部隊が労務に使用し、逃亡する者も相当多数いたが、これはそのまま放置した」(極東国際軍事裁判速記録第310号22・11・7)。と証言している。
 また、一部は釈放されて、昭和13年に創立された維新政府――のちの汪兆銘政府――の軍隊に起用された。
 
 維新政府創立の立役者であり、行政院長に就任した梁鴻志氏は、のちに漢奸裁判にかけられて処刑されるが、その裁判の席上こう述べている。
 「綏靖軍(すいせいぐん・維新政府の軍隊)の成立は民国28年(昭和14年)春で、兵士の大部分は投降兵から成り、応募者は僅少であった。4個師に分けたが、1個師は僅か2、3千人であった」(益井康一著『漢奸裁判史』110ページ)。
 
 つまり、約1万人の綏靖軍は主として南京戦、武漢作戦における捕虜を起用したというのである。
 のちに北京新民会首都指導部で活躍した劉啓雄少将も南京戦における捕虜の一人である。
 
 「現地釈放」の例を2つ上げる。
 第16師団の歩兵第20連隊(福知山・大野宣明大佐)第1大隊に所属する衣川武一氏(京都府夜久野町在住)は筆者への手記の中でこう述べている。

 「われわれの取り扱った捕虜約2000人のうち、帰順を申し出る者は、若干の米麦と白旗を持たせて帰郷させた。年末頃までに約半数が帰順し、半数は使役として働かせた。腕章をつけて食糧の運搬や炊飯などさせた。
 中山門の内側の土嚢の中に玄米の麻袋があり、我が部隊は大助かりであった。が、水と燃料には苦労した。これらは捕虜の使役で補うことができた。かれらは一日中食糧の準備に終始した。私はその指揮に当たったが、「衣川先生(イーセンセンション)」と呼ばれ、捕虜とわれわれとの間に自然に親近感が芽生え、捕虜殺害などとんでもない話である。これらの捕虜は、転進する際全部帰郷させた。」
 
 次の例は、歩兵第45連隊の第2大隊は、14日早朝、下関で白旗をかかげた捕虜約5000と、砲30門、重機、小銃、弾薬多数及び軍馬10数頭をろかくした。
 この捕虜釈放を本多勝一氏は「南京への道」で次のように述べている。
 
 「劉二等兵を含むたくさんの国民党軍将兵が、帽子を逆にかぶって(ひさしを後ろにして)投降した。その数は1万人より少ないが、たぶん「数千人」の単位であった。一ヶ所に集められたところへ、日本軍のリーダー格らしい人物が馬に乗って現れた。ヒゲが両耳からアゴの下3~4センチまで下がっていた。日本語で何か訓話したが、こまかいことはわからず、通訳によれば要点は「お前らは百姓だ。釈放する。まっすぐ家に帰れ」と言っているらしかった。一同は白旗を作らされた。それぞれありあわせの白布を使った。劉二等兵は自分のハンカチを使い、30センチほどの木の枝にそれを結びつけた。川岸には住民の捨てた荷や衣類がたくさん散乱していたので、軍服を脱ぎ捨ててそれを着た。数千人の捕虜たちは、釈放されると白旗をかかげ、それぞれの故郷にばらばらに出発した。」(「南京への道」41~2ページ)。

(2)幕府山の1万4千の捕虜

 南京で最も多く捕虜を捕らえたのは、第13師団の山田支隊(山田栴二少将)麾下の歩兵第65連隊(会津若松市・両角業作大佐)である。
 同連隊が揚子江岸に沿って進撃した14日、幕府山付近でとらえた捕虜は1万4700人にも及ぶ大量のものであった。
 
 この捕虜の処置について、その真相を明らかにするため、鈴木明氏は、昭和47年、わざわざ仙台に山田少将はじめ、この時の関係者数名を訪ねて『「南京大虐殺」のまぼろし』にその真相をレポートしている。
 その真相というのは、山田少将はこの大量の捕虜の処置に窮し、ついに意を決して揚子江の中洲に釈放することにし、護送して目的地近くについたとき、暴動が起き、捕虜約1000が射殺され、日本側将兵も死傷したというのである。
 
 地元紙の福島民友新聞社も多数参戦者の証言を集めて『郷土部隊戦記』を発刊。その中で暴動――射殺説を明確にした。そして、これはそのまま防衛省防衛研究所戦史資料センター史料室の『支那事変陸軍作戦(1)』にも掲載されている。
 ところが、59年8月7日「毎日新聞」は「元陸軍伍長、スケッチで証言、南京捕虜1万余人虐殺」という大見出しで、第65連隊の伍長であったK氏が多数の捕虜を揚子江岸に連行して1万3千5百人を皆殺しにしたという証言を発表した。それは従来の説をくつがえす計画的・組織的な虐殺説であった。
 
 続いて本多勝一氏がK氏を訪問してその記事を「朝日ジャーナル(21)」(59・9・14)に連載し、さらに詳しく1万3500人の虐殺の模様と、これは軍司令部からの命令だと報道した。
 K氏というのは、小金井市在住の栗原利一氏のことであるが、栗原氏は自分の意志とは全く逆な報道をされたことに対して、「毎日」に抗議を申し入れた。すなわち栗原氏は、中国側の公式資料集『証言・南京大虐殺』の30万・40万の虐殺に腹を立て、これに反論するため記者に話したのだが、都合のよい部分だけをつまみ食いされ、あのような記事になり、匿名の中傷や悪罵をあびて困っていると抗議したのである。
 
 毎日は、9月27日「記者の目」と題し、「匿名の中傷、卑劣だ」という記事の中で、栗原氏の「大虐殺否定」の真意を小さく報じたが、しかしその大げさな記事の力点は、K氏に対する非難は怪しからんというのであって、記者の誤った報道に対する反省も謝罪のカケラも見られなかった。
 
 実は筆者も電話で栗原氏に真意を聞いてみた。
 氏は電話口で、「毎日新聞にも本多氏にも、言いもしないことを書かれた。自分の本当に言いたいことは書かないで、結果的には逆なことになってしまった。悔やんでいる」としきりに嘆いていた。
 
 2度電話したがアポイントがとれないので、私は福島にとび、この捕虜事件に関係した第65連隊の連隊砲小隊長平林貞治氏(当時少尉)にお目にかかり事件の真相を聴取した。
 平林氏は鈴木明氏のインタビューにも応じており、その内容は「「南京大虐殺」のまぼろし」にあるので、ここでは詳細は省略し、慨要のみにとどめる。

 (1) わが方の兵力は、上海の激戦で死傷者続出し、出発時の約3分の1の1500足らずとなり、その上に、へとへとに疲れ切っていた。しかるに自分たちの10倍近い1万4000の捕虜をいかに食わせるか、その食器さがしにまず苦労した。

 (2) 上元門の校舎のような建物に簡単な竹矢来をつくり収容したが、捕虜は無統制で服装もまちまち、指揮官もおらず、やはり疲れていた。山田旅団長命令で非戦闘員と思われる者約半数をその場で釈放した。

 (3) 2日目の夕刻火事があり、混乱に乗じてさらに半数が逃亡し、内心ホットした。その間逆襲の恐怖はつねに持っていた。

 (4) 彼らをしばったのは彼らのはいている黒い巻き脚絆(ゲートル)。ほとんど縛ったが縛ったにはならない。捕虜は約4千、監視兵は千人たらず、しかも私の部隊は砲兵で、小銃がなくゴボウ剣(銃剣の事)のみ。出発したのは正午すぎ、列の長さ約4キロ、私は最後尾にいた。

 (5) 騒動が起きたのは薄暮れ、左は揚子江支流、右は崖で、道は険岨となり、不吉な予感があった。突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引き金に、前方で叫喚とも喊声ともつかぬ異様な声が聞こえた。

 (6) 最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱し、私は軍刀で、兵はゴボウ剣
(※銃剣の事の意)を片手に振り回し、逃げるのが精一杯であった。

 (7) 静寂にかえった5時半ころ、軽いスコールがあり、雲間から煌々たる月が顔を出し“鬼哭愁々”の形容詞のままの凄惨な光景はいまなお眼底にほうふつたるものがある。

 (8) 翌朝私は将校集会所で、先頭付近にいた1人の将校(特に名は秘す)が捕虜に帯刀を奪われ、刺殺され、兵6名が死亡、10数名が重軽傷を負った旨を知らされた。

 (9) その翌日全員また使役に駆り出され、死体の始末をさせられた。作業は半日で終わったと記憶する。中国側の死者1000~3000人ぐらいと言われ、(注(1))葦の中に身を隠す者を多く見たが、だれ1人これをとがめたり撃つ者はいなかった。
 我が軍の被害が少なかったのは、彼らが逃亡が目的だったからと思う。
 
 以上が平林氏の証言である。

 「ゼンボー」(60年3月号)によると、阿羅健一氏は栗原氏と会い、栗原氏の証言を記述している。それによると、内容はほとんど平林氏の証言と一致していた。
 栗原氏は阿羅氏にこういったと言う。

 「毎日新聞の記事を見てびっくりした。言っていないことが記事に出ており、30万虐殺説に抗議して喋ったのが、一転して私自身が大虐殺の証人に仕立て上げられてしまった」と。
 また、本多記者に対しては、「本多という人は中国人の言うウソばかり書いている。気がどうかしているのではないかと思う。私はこの人にも裏切られた思いだ。私の言わなかった事まで書いてあり、全体は私の言おうとしていることとは別のことになっている。のせられたのです・・・・・」と。
 
 「毎日」の記者にも、本多記者にも、栗原氏は「
完全にのせられた」をくり返して憤慨していたそうである。
 例えば「対岸で釈放」ということで捕虜を護送したのに、私が虐殺の張本人になっている。
 
 マスコミは第4の権力と言われる。
 ひとたび大新聞の見出しに大々的に出されてしまったら、それは違う、間違っている、と言ってもあとの祭りである。

 虐殺をしていないのに、1万3千人もの大虐殺の犯人(注(2))に仕立て上げられたことは、栗原さんにとって不名誉な誹謗であるばかりでなく、このような社会的影響力甚大な言論の暴力は、日本の歴史に対し、日本と日本民族に対する悪質な中傷であり、蔑視であり、冒涜であると言わねばならぬ。彼らがそれほどまでにして、南京に大虐殺があったとし、ありもせぬ日本の恥辱を内外にプロパガンダし、中国側の誇大宣伝に迎合しなければならない理由は一体何なのか?

〈注〉中国側捕虜の死者については、
(注1) 5千~6千(栗原)、2千(星俊蔵軍曹)、千~3千(平林少尉)とまちまちである。人間の眼や記憶がいかに不確かなものかその例証と言えよう。
(注2) (2)捕虜の脱走又は反乱は「即時射殺」これは戦時国際法の認めるところである。

※この文章は、謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著を引用させて頂いてます。


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