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中世後期の修道女の生活(続)~修道院の堕落と女子修道院長~ | 中世史の保管庫(テーマ別を使うと見やすいです)
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中世後期の修道女の生活(続)~修道院の堕落と女子修道院長~

『中世に生きる人々』A・パウアから[5]


(4)修道院の堕落をもたらしたもの

 A.とりわけ修道院が盛んだった中世初期、そこには「神の御召を受けた男女=修道院の生活に本当に向いた人」だけが入ってきた。その上彼らは、精神修業のみならず激しい肉体労働・頭脳労働にも従事した(修道生活とは、勤労と責任からの単なる逃避の場では全く有り得ない!)。だから1日の仕事には変化があり、彼らは毎日を忙しくも楽しく過ごしていた
 B.しかし中世後期になると、若い人々は「職業として」修道院生活に入るようになった。確かに、本当に信仰を持っている人々もまだたくさん誓願を立てていたのだが、そのような男女に混じって、修道院生活にあまり向かない人々も入ってきたのだ
 C.そうして入ってきた人々は「修道院での生活が辛くて自分たちの感覚に合わない」という理由で、修道生活のスタンダードを引き下げた
〈例〉エグランティーンのように、良家に育った婦人が結婚しない場合には、修道女になるのがほとんど唯一の生きる道だった
 D.さらにこの頃になると、修道士・修道女ともに手を使って働くことがほとんどなくなり、頭を使うことはさらに珍しかった。とりわけ女子修道院でそれがひどく、初めの頃にはあった学問の伝統は全く消滅してしまったので、たいていの修道女は日課祈祷のラテン語も理解できなくなっていた。こうなると一連の日課祈祷は単調な日課になり、規則正しさは退屈へとつながっていった
 E.このような退廃が大部分の修道院で起こったわけではない。しかしそうした所では「祈祷は空虚な形式と化し、信仰心は薄らぎ、時には恥ずかしいほど冒涜的な態度で済まされた」のだった

【課業の途中で】
 F.中世後期の修道院で、課業の時間をきちんと守らないのはごく普通のことであり、彼らは時々祈祷をサボった(この点は修道士の方が修道女よりもひどかった)
 G.軽薄に振る舞う修道士も多かった。あるエクセターの司教座聖堂参事会員は、祈祷の間に「クスクスわらい、ふざけ、喧嘩をし、下の席で歌っている人の頭の上(もちろん剃髪)に上の席から熱いロウソクの蝋を落とした」(1330年)
 H.修道女たちは終課の後で、規則通りすぐに寝床に入らずに「こっそり飲み物を飲む,噂話をする」のが好きだった。このせいで彼女たちは、朝課のために午前1~2時に起きるのが苦手だった。ひどい例では、最後の鐘が鳴り終わってから課業が始まるまでに30分もかかっている場所もあり(ステインフィールドの女子修道院:1519年)、夜更かしのせいで居眠りしている者がいることを司教に気付かれた
 I.課業の途中でも、正当な理由(正餐や客舎の世話,菜園の草取り,気分が悪い場合)があれば退出できたのだが、そんなこともお構い無しに途中でコッソリ逃げ出す傾向があった(これは修道士・修道女どちらも)
 J.しかし課業を早く終わらせるためには「早口でペラペラと済ませてしまう」という罪が最も一般的だった。それはあまりにひどく、古くから教会で歌われてきた単旋律聖歌は全く台無しにされた


(5)女子修道院長の仕事ぶり

 A.修道女たちは聖者などではなく、それどころかかんしゃく持ちが少なくなかった。女子修道院長でも「課業の最中に修道女のヴェールを掴んで『嘘つき!』『売女!』とか叫びながら修道女席を引きずり回す」(15世紀)者がいたし、さらには「修道女を蹴り、殴り、足枷をはめる」(16世紀)のは珍しくなかった。意地悪やちょっとした口喧嘩をきっかけに修道院生活の平和はしばしば乱されたのだった

【院長になるまで】
 B.エグランティーンは10~12年間を1修道女として過ごした。彼女は「課業をたいへん可愛らしく歌い、気立てが優しく、身だしなみも綺麗」なので、大変人気があった。そもそも生まれが良かったので、食卓作法も美しかった
 C.女子修道院には貴婦人や裕福な市民の娘が集まっていた(貧乏な少女は決して入らなかった)ので、修道院生活には気取ったところがあった。それゆえ、エグランティーンの外見、振る舞いや身分から、修道女たちは「今の修道院長が死んだら彼女を院長に選ぶのが良い」と、互いに話し合っていたと思われる

【管理者として】
 D.院長となったエグランティーンは「自分より年上の修道女から『院長さま』と呼ばれる」「私室を貰ってその中に座る」「訪ねてくる人全てをもてなせる」のが嬉しかった。しかし彼女には、修道院長としてやらねばならない仕事がたくさんあったのだ
〈重要な役割〉
1.修道院内部の規律の監督
2.金銭の管理
3.領地管理人に命令し『地代をきちんと収納できているか,修道院に所属する教会に1/10ぜいが入ったか,修道院長が所有する羊から刈り取った羊毛の買い取り価格(イタリア商人が買い取る)は適正か』などに、気を配らねばならない
 E.彼女はこれら全てについて、女子修道院会議(修道院内のあらゆる事務はこの会議で処理された)に集まる修道女と相談することになっていた。しかしエグランティーンは、気立ては優しいものの独裁的でしかも面倒臭がりだったため、修道女と相談せずに書類に修道院の印を押すことも多かった
 F.どうやら彼女は、毎年の収入・支出の明細書を司教に報告すべきところを、報告せずに済まそうとした、という。もちろん修道女たちはこれに抗議し、そして最初に司教が巡回してきた時にそのことを訴えた。さらに「エグランティーンが実務的でない」「負債を背負っている」ことを述べた
〈修道女たちの大袈裟な主張〉
1.「財政に窮迫すると、修道院所有の林を売る」「現金で支払いを受けないで、年払いでの受け取りを約束してしまう」「小作地を低料金で長期間貸し出しする」など、彼女の行動は修道院の損失になっている
2.彼女は教会の屋根を満足に修理しない
3.修道女たちに穴のあいた着物を着させているので、新しいのを与えるように注意してほしい
 G.女子修道院長の中には、自分のために使うお金を手に入れるために「修道院の紋入りの金銀器や宝石類を質に入れる」ような者もいた。しかしエグランティーンは単に数字に弱いだけで、決して悪いこと・不正直なことをしなかった。彼女は「とても潔癖なので、修道女にボロボロの衣服を決して着させなかった」し、さらに屋根についても「瓦を載せるのに必要なお金を蓄えていた」だけだった

【司教の命令】
 H.実際のところ、中世の女子修道院で収支を合わせるのは非常に難しかった。両者の訴えを聞いた司教にはそれが理解できており、さらに畑の様子などをチェックしたであろう。そこでエグランティーンに対して以下のように命令した:
「修道女と相談せずに仕事をしてはならない」
「普段使う印を、3種類の違った鍵をかけた箱に入れる。3つの鍵をエグランティーンと2人の年長修道女が持つので、エグランティーン1人では開けられない。したがって他の修道女の同意が無ければ、どんなに事務的な契約にも印を押せなくなる」
「帳簿をつけ、それを毎年修道女たちに公開する」
 I.ついに司教は、彼女の日常の相談相手として隣の教区司祭に頼み(=めったに相手になれない司教の代理役)、事務管理を手伝わせた。その後は順調にはかどった


(6)女子修道院長の私生活

 A.エグランティーンは、自分の時間内で「院内の監督,訪問者の接待,領地の様子を見るための時折の外出」をするのが非常に楽しかったようだ。何よりも、修道院長は修道女よりずっと華やかな生活ができたのだった
 B.修道女と違うのは「みんなと一緒に大部屋で寝る,食事する」必要がなく、私室を貰えたこと(時には専用の台所付きの、小さな家屋を貰えた)
〈例〉ウィンチェスターのある大修道院長(16世紀)は、彼女の世話をする職員(料理人,料理人の下働き,小間使い,侍女を各1名)を持ち、世俗の立派な貴婦人と同じようだった
 C.女子修道院長にはたいてい、いつも彼女のお供をする修道女(御付き修道女:チャップレン)が1人ついていた。依怙贔屓のないように、担当は毎年替えられたようだ。ちなみに「どんな修道女でも単独での外出は決して許されない」ので、エグランティーンが巡礼に出かけた際には、司祭3人とこの御付き修道女が1人同行している

【訪問者】
 D.エグランティーンは、持ち前の宮廷チックな快活さで大勢の訪問者をもてなしたと想像される。「それぞれ夫や領地を持つ立派な貴婦人となっていた彼女の姉たち,年老いた父親,州の高官」といった人は皆、まず最初は彼女に祝詞を述べにやって来た。それから後になり、彼らは旅の途中で通りかかるといつも立ち寄っては「鶏肉,葡萄酒,最上等の白パン」のご馳走にあずかり、時には1泊していった
[※別にたかっている訳ではなく、中世ではそうした歓待は当然であることに注意]
 E.貴婦人たちの中には「夫が出征中orローマへの巡礼中に、修道院へ寄宿人として来る」者がいて、彼女たちは年中そこに住んでいた。田舎の紳士や金持ちの市民は「自分の家の婦人が女子修道院に寄宿するのを何よりも喜んだ」という(※理由は不明)
 F.こうした訪問者は全て、修道女たちの平和・平静をひどく乱した(とりわけ寄宿人)。彼女たちは「派手な衣服をまとう,犬を飼う,客を引き寄せる」ので、修道女にとっては極めて不真面目な手本になってしまったようだ