1982年のこと、人民解放軍の空軍少佐が自らミグ19戦闘機を操縦して台湾に亡命したという。大陸から亡命してきた空軍少佐は当局から「先ず、誰に会いたいか?」と質問をされると、

「まず鄧麗君に会いたい」

と発言したという。

この鄧麗君とは、北京語で「デン・リーチュン」、広東語で「ダン・ライグァン」と読むそうで、我々日本人の知るテレサ・テンの事であった――。

うーん、そうか、そうであったか。これを考えると、2008年の芥川賞受賞作でもある楊逸(ヤン・イー)の小説『時が滲む朝』にも少し感慨が沸いてくる。確か、天安門事件を舞台にした中国人青年たちの挫折が題材になっており、そこにはカセットテープで聴くテレサ・テンや尾崎豊が登場するのだった。あの天安門広場で中国が民主化するらしいという民衆運動の高まる中、人民解放軍の戦車が無常にも民主化運動を武力で鎮圧してしまったという凄いニュース映像が蘇りますが、当時、中国国内の彼等はホントにカセットテープで、台湾や日本の音楽を聴いていたのかと思うと、いわゆる中国人のエピソードでありながら、その情感が伝わって来る。そうか、そうか、ノーベル平和賞を受賞した劉暁波あたりも、間違いなくテレサ・テンの歌を耳にしていたか。

【天安門事件】という呼び方は日本人が鄧麗君を「テレサ・テン」と呼ぶのと同じで、台湾では天安門事件を指して「六・四民運事件」とか「六・四大虐殺」なんて表現するのだそうな。ノーベル平和賞を受賞した劉暁波も、きっとテレサ・テンの歌を知っていたって事になるんですが、或る種、そういったカルチャーというか、音楽というか、音楽ですが、ホントに、それが、あの民主化運動のエネルギーになっていたって事なのかも。天安門事件以後のテレサ・テンが妙に露出が少なくなり、死亡説やスパイ説などの怪情報が流れた記憶は有るにいは有るんですが、おそらく日本人そのものは、天安門事件後のテレサ・テンを、きちんと情感として受け止められていなかっただろうと、痛感させられる。

台湾に生まれた一人の女の歌声は、香港、シンガポール、マレーシア、日本、そして中国大陸でも「カセットテープ」という懐かしい響きのツールで鳴り響いていたことになる。そこには日本戦略で得た日本の歌も紛れ込んでおり、千昌夫に谷村新司、更には尾崎豊の歌なんてものまでもが中国大陸に流れていたって事か。少なくともテレサ・テンが平尾昌晃作曲でアン・ルイスの楽曲として名高い「グッバイ・マイ・ラブ」をカヴァーしていたから、あの天安門事件を演じた人々とは、民主化や自由を標榜した、極めて当たり前の感覚を持った若者たちだったって事になる。昨年、中国で起こった反日デモで日本系のショッピングセンターが次から次へと襲撃されるなど、国際社会から無法者扱いされている現在の中国の狂暴化とは、隔世の感がありますが…。

BS-TBS「テレサ・テン生誕60年スペシャル」なるテレサ・テンの特別番組を視聴。

昨年、作曲家の三木たかしさんが逝去され、その際、実は三木たかしさんというのは、凄い作品を残したなぁ…と痛感させられたものでした。日本のソウルソング、いや、昭和のソウルソングを考えるなら、三木たかし作品は外せない。

森進一の「北の蛍」に、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」と「風の恋盆歌」。更には坂本冬実の「夜桜お七」と、気のせいか、紅白歌合戦のステージなどで印象深い曲が揃っている上に、「アンパンマンのマーチ」に「めだかの兄妹」に「もしも明日が…」なんていう子どもを含めて親しまれる曲も手掛けており、はてまた、ポップス系の歌謡曲にしても「これ、埋もれてしまってるけど名曲だったね」という曲が多いんですよね。伊藤咲子の「木枯らしの二人」なんて地味に名曲だし、あれこれと言い出してしまうとキリがない。

で、なんといってもテレサ・テンですよね。荒木とよひさ&三木たかしコンビがテレサ・テンに楽曲を提供した「つぐない」と「愛人」と「時の流れに身をまかせ」あたりは、どうしようもなく時代に刻まれてしまっている。生誕スペシャルでもナレーションされていましたが、もし、「空港」のスマッシュヒットだけであったなら、テレサ・テンって日本人の記憶に、さほど残らなかったでしょう。偽造パスポート事件を経て、五年ぶりに日本の歌謡シーンに舞い戻ってきて、そこで出したのが、「つぐない」、続けて「愛人」、続けて「時の流れに身をまかせ」という三打席連続ホームランは、ホントに奇跡的でしたよね。

「時の流れに身をまかせ」で日本レコード大賞受賞!」

とか

「前人未到の有線大賞の三連覇!」

それだけでもも、とんでもない偉業なのですが、それら字面で表記できる記録の話だけではなく、テレサ・テンが日本に残した曲のどれもこれもがカラオケのスタンダード・ナンバーになってしまい、時代を彩り、現在までも名曲として聴き継がれ、歌い継がれてしまっているという、当たり前の現実がある。

TBSの番組では、レコーディングディレクターをしていたという福住哲弥氏の回想がありました。「つぐない」のレコーディングは香港で行われたが、最初の一発でレコーディングが終わってしまったという。正確なコメントは忘れてしまいましたが、いわく「彼女は喉で歌っていないんです。胸のあたりから反響させて、鎖骨から首から、顔まで音を反響させて歌っているような感じでした。びっくりしました」というようなコメントでした。

この話はなんでしょう、あのテレサ・テンの独特の哀愁を帯びたビブラートの話だろか。そう言われれば、そんな気もするのですが、あんまり自信がない。三木たかしの盟友であった作詞家の荒木とよひさ氏によれば、甘くて哀愁を帯びたボーカルであり、そこから三木たかしとテレサ・テンに「つぐない」や「愛人」の世界をつくっていったという。つまり、あの有線大賞三連覇を果たしたテレサ・テンの世界とは、あの歌詞の通りで、日本語として解釈した場合の「愛人」であったり、また、つぐなう女を詠んだ世界だという。

窓に西陽が あたる部屋は

いつも あなたの 匂いがするわ

独り暮らせば 思い出すから

壁の傷も残したまま 置いていくわ

愛をつぐなえば 別れになるけど

こんな女でも 忘れないでね

やさしすぎたの あなた

子供みたいな あなた

明日は他人同士になるけれど


って、この歌詞の世界は凄いですよね。本物の作詞家の仕事だよなぁ…と痛感させられる。三木たかしさんのメロディーもそうだし、また、テレサ・テンの甘く哀愁を帯びた歌声というのもホントに見事に絡んで、そのテレサ・テンの世界が形成されている。

あのテレサ・テンの歌声というのは、確かに甘い歌声ですよね。そういう声質なんだろか。不思議だけれど、多分、多くの者が、同じように「甘い」という言葉で、あの歌声を表現することになると思うんですよね。より具体的に、何がどう甘く聴こえていたんだろう…

平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』(晶文社)を参考にして、テレサ・テンを回想してみる。

この「テレサ・テン」という名前は、鄧麗君の日本プロモーションをするにあたっての特別の芸名であるという。時代背景としては既に鄧麗君は中華圏であれば充分に成功をしていた歌手なのですが、同じ台湾出身の欧陽菲菲は日本の芸能界でスターになっていたし、日本の音楽界の方からアジアンポップスを模索する潮流があったという。欧陽菲菲の後に、香港出身のアグネス・チャンも成功しており、鄧麗君が成功する公算は高かったので、日本のレコード会社もあれこれと物色していて、当たり前のように鄧麗君に白羽の矢を立てたものであったという。

鄧麗君という名前も芸名なのですが、この鄧麗君よりも日本ウケするように「テレサ・テン」という芸名を名乗ることになる。しかし、当初のプロモーションは失敗する。デビュー曲は大惨敗し、ヒット曲といえば演歌調の「空港」のみで、しかも偽造パスポート事件を引き起こし、一時的に日本から撤退している。

テレサ・テンのプロモーションとしてアグネス・チャン※のようにひらひらとしたフリルのついた衣裳を着て、子供っぽさを残すアイドル歌手的なプロモーションをするが、鄧麗君にすれば若い割には哀愁のある歌を唄えるというのが取り得であったからミスマッチだったという。鄧麗君は華僑圏ではチャイナドレスだし、キャラクターとしては親近感のあるタイプで売っていたが、日本のプロモーション戦略は単純に名前をテレサ・テンに変えただけではなく、挨拶回りなどの慣習からして、また、衣裳や楽曲のプロモーション戦略そのものからして、まるで相場が違っていた。テレサ・テンも余りの違いに対応しきれず、かなりの重圧があったという。(※アグネス・チャンは香港出身で、陳美齢という名前だが「アグネス・チャン」の名前にして、少女チックな歌を少女らしいたどたどしさを残したまま歌って成功していた。)

偽造パスポート事件では強制送還の可能性も浮上し、強制送還になってしまえば今後も日本で芸能活動が出来なくなってしまう事を危惧し、半ば強引に米国へと逃れた。

それから実に五年の歳月を経て、テレサ・テンは日本歌謡界に再挑戦を開始する。荒木とよひさと三木たかしがテレサ・テンに歌わせようとしたのは、ずばり、「哀愁のある女」の世界だったようで、それが「つぐない」、「愛人」の世界であったという。TBSの特番の中で、荒木とよひさ氏が「愛人」の次には「ワインカラーの記憶」を用意していたと語っていましたが、歌詞を読む限り、その「つぐない」から「愛人」を継承しているのは、「ワインカラーの記憶」だそうな。

1971年頃の台湾の歌謡事情では欧陽菲菲がトップに君臨していたという。欧陽菲菲は欧米の音楽、ジャズやポップスを歌う本格派シンガー。日本でも後に本格派歌手として大成功しますが、日本でブレイクする以前は台湾や香港でブレイクしていたという。この欧陽菲菲と鄧麗君は共に一人の台湾の音楽プロデューサーに育てられているという。その音楽プロデューサーが姚厚笙(ヤオ・ホウシェン)であり、この姚厚笙氏の「シンガー鄧麗君評」が興味深い。

「彼女はいかにも、《可愛い女の子》といった感じの歌い方でした。テンポの早い曲が多かったせいか、『ンッ、ンッ』と語尾が上がる。それが甘ったれた歌い方に聞こえるのです。~略~徹底的に直したつもりでしたけれど、その後も無意識にでていましたね」

あ、そうなのか。どことなく甘い歌声であったのは、ビブラートだけではなく、クセで語尾が上がったりするから? この姚厚笙氏は欧陽菲菲を育てたプロデューサーだから、そういったクセを直そうとしていたようなのですが、言われてみると、そんな気がしないでもない。どこかでヒーリング的な歌い方になっているとか、愛らしく甘い歌い方になっているというか…。

この姚厚笙氏の証言は、気のせいか、物凄い説得力を感じます。あの甘い歌声のルーツは、どうやら、ここにあったっぽい。著者の平野久美子さんも、次のように綴られている。

声が小さいという短所はあまり改善できなかったが、姚厚笙はそれを逆に長所と捉え、マイクの使い方を中心にレッスンを試みた。その結果、鄧麗君は自分の音質をうまく生かした、優しく、囁くような、心に染み入るような歌唱法を身に着けることができた。

鄧麗君を日本へ送り出す側になった姚厚笙氏にして、当時の日本の音楽事情は豊かであったと証言している。台湾では楽器を四種類も集めるのが精一杯であった時代、日本の歌謡曲はオーケストラが演奏してしまうなど先進的であったから、日本行きは絶対に勉強になるハズだと思ったし、実際に日本へ行ったことで鄧麗君の感情の込め方が巧くなったと評している。

これが「生誕60年スペシャル」の中の福住哲也氏のコメントとも符合するような気がしてくる。福住氏はテレサ・テンのレコーディング風景を語って、「彼女は大きな声を出すときも、小さな声を出すときも、あまりマイクの距離などが関係ないんです」という具合のコメントをしている。単純に並べるとマイクを動かしていないのだから、マイクの使い方を特訓されたという話とは、全く正反対の話になってしまうんですが、やさしく囁くように感情を込めて歌うという歌唱法は、なんだかんだいって一定の音量をキープしながら、強いパートや声量が必要になるパートまでもを囁き声で歌えるという意味?!

中国歌謡に於ける女性歌手は、「雨に啼く猫の声」という意味の【毛毛雨】(マオマオユー)という独特の裏声歌唱法があったそうで、それは伝統的なもので、尚且つ、ジャズやクラシックが西洋からもたらされても伝統的に中国歌謡として残っていたという。独特の甘い歌声の正体は、やはり、この辺りが怪しい。

テレサ・テン急逝の後に発刊された台湾の月刊誌『光華』の追悼特集号で、南カリフォルニア大学の葉月瑜(イエ・ユエユ)文化理論学博士の言葉に従っても、そうなるっぽい。

「鄧麗君の歌唱は西洋の曲法に伝統的な中国歌謡の味わいが加えられ、基本的には1930~1940年代の上海の流行歌の風格を受け継いでいる。そのしっとりとした甘い歌声は往年の歌手、周璇の後期の味に似ている」

となる。ほんじゃ、その「周璇」って誰なんだねってなりますが、李香蘭(山口淑子)らと共に「五大歌后」に数えられた一人だそうな。人々が魅了されたのは、そういうものでしたか。

平野久美子著『テレサテンが見た夢』(晶文社)/参考価格1835円

テレサ・テン/生誕60年ダイヤモンドベスト(参考価格3000円)

テレサ・テン/愛のベスト~三木たかしを歌う~(参考価格2980円)