ヘルプ

<< 伊藤博文 のページ検索結果にもどる

このページでは http://www.kvision.ne.jp/~momorx/nen-p.htmのキャッシュを表示しています。

キャッシュとは、提携する検索エンジンが、検索結果表示用の索引を作る際に各ページの内容を保存したものです。
→ キャッシュとは?
元のページは変更されている可能性があります。現在のページ内容はこちらから確認できます。

※HTMLバージョンとして表示する際、レイアウトが崩れたり、文字が読めなくなる場合があります。ご了承ください。

Yahoo! JAPANはページ内のコンテンツとの関連はありません。

伊藤博文とは?



 伊藤博文は、天保12(1841)年9月2日、林十蔵・琴子夫妻の子・利助として生まれ、9歳までを山口県光市大字束荷(旧・熊毛郡大和町)で過ごしました。
 その後萩に移り住み、父十蔵が長州藩士・伊藤家の養子となったため伊藤姓を名乗り、吉田松陰の松下村塾に学んだ後は、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、井上馨、山県有朋らと倒幕運動に奔走しました。
 明治維新後は新政府の要職を歴任し、明治18(1885)年には初代内閣総理大臣となり、また、同22(1889)年に発布された大日本帝国憲法制定の中心人物として活躍するなど、明治を代表する政治家となりました。
 明治42(1909)年、博文は遠祖・林淡路守通起の没後300年の法要を行うための別邸を大和町に建設するように命じ、同年10月14日に満州(現在の中華人民共和国東北地区)へと出発しました。しかし、同年10月26日にハルビン駅で暗殺され、完成した別邸を見ることはできませんでした。
 その別邸は後に「旧伊藤博文邸(伊藤公記念館)」となり、現在も大切に保存されています。


明治元年頃の伊藤さん

     
    ●改名および変名一覧
         (時期的に、ダブって使われていた時もあったようです)

       ○林(伊藤)利助(利介・利輔)…幼名
       ○伊藤俊輔(舜輔)…文久2年から同2年ごろまで使用
       ○越智斧太郎…文久2年、彦根藩偵察の際の変名
       ○伊藤春輔…文久2年から慶応元年ごろまで使用
       ○花山春輔…元治元年帰国直後の変名
       ○デポナー…元治元年帰国上陸の際の変名
       ○花山春太郎…慶応元年、岩国へ向かう際の変名
       ○吉村荘蔵…慶応元年、長崎滞在の際の変名
       ○林宇一…慶応2年から3年ごろまで使用
       ○伊藤俊介…明治元年から2年ごろまで使用
       ○伊藤博文…明治元年9月ごろから使用
       ○春畝…雅号



【伊藤博文さん年表(不定期的に増補中!)】


 天保12(1841)年 
   
    9月2日、熊毛郡束荷村(現・山口県光市)の林十蔵・琴子夫妻の子として生まれる
    曾祖父・半六の幼名「利八郎」と祖父・助左衛門の両頭字を取って「利助」と名づけられた
 弘化 3(1846)年    
    12月20日、父・十蔵が萩に移住するため、所有の田畑や住宅、父祖の位牌等一切を
    本家に委託し、琴子と利助は実家・秋山家へ
 嘉永 2(1849)年    
    1月11日、三隅勘三郎の寺子屋で、読書習字を始める
    3月7日、母とともに萩に出る
 嘉永 3(1850)年
    束荷村の生家、暴風雨により倒壊
 嘉永 4(1851)年    
    萩の法光院(現在の円政寺)に預けられ、約1年半、雑用の傍ら習字等を学ぶ
 嘉永 5(1852)年
    福原・児玉・井原の各家に雇われる
 嘉永 6(1853)年
    1月1日、久保五郎左衛門の家塾に通う
    1月12日、毛利家に始めて召し出される
 安政 1(1854)年
    父が伊藤家の養子となり、伊藤姓を名乗る
 安政 3(1856)年
    9月、長州藩の相州(神奈川)警備に出仕
 安政 4(1857)年
    2月1日、作事吟味役・来原良蔵の配下となる
    9月、来原良蔵の紹介で松下村塾に入り、吉田松陰の教えを受ける
 安政 5(1858)年
    7月26日、山縣小助(有朋)らと情勢視察のため京都へ
    10月15日、長崎で洋式銃陣法を伝習する
 安政 6(1859)年
    9月15日、桂小五郎(木戸孝允)とともに江戸へ
    10月27日、吉田松陰が刑死
    10月29日、同士とともに吉田松陰の遺骸を小塚原回向院に埋葬
 文久 2(1862)年
    5月3日、桂小五郎とともに京都へ
    7月1日、久坂玄瑞らと長州藩重臣・長井雅楽の襲撃を計画するが失敗
    8月29日、来原良蔵が自刃
    閏8月10日、来原良蔵の遺髪を持って萩に戻る
    12月12日、高杉晋作らと英国公使館を焼討ち
    12月21日、山尾庸三とともに、国学者・塙次郎を斬殺する
 文久 3(1863)年
    3月20日、士分にとりたてられる
    5月12日、井上聞多(井上馨)、野村弥吉、遠藤謹助、山尾庸三と英国へ密留学
 元治 1(1864)年
    6月24日、英国より帰国し、外国艦隊との講和に奔走
    12月15日、力士隊を率いて高杉晋作の挙兵に従う
 慶応 1(1865)年    
    5月16日、束荷村へ生涯最後の帰郷
 慶応 2(1866)年    
    4月、梅子と結婚
    12月、長女・貞子が生まれる
 慶応 3(1867)年    
    4月13日、京都の薩摩藩邸で土佐の中岡慎太郎、薩摩の大久保一蔵(利通)、
    村田新八らと時事について話し合う   
    9月15日、大久保一蔵らを案内して長州へ戻る
    9月20日、坂本竜馬と下関で出会い、討幕方針について話し合う
 慶応 4(1868)年
    1月13日、外国事務掛となる
 明治 1(1868)年
    5月23日、兵庫県知事となる
    8月、次女・生子が生まれる
 明治 2(1869)年
    7月18日、大蔵少輔となる
    長女・貞子が夭折
 明治 3(1870)年
    10月3日、財政制度調査のために米国へ
 明治 4(1871)年
    10月8日、岩倉使節団に副使として参加し、欧米諸国を訪問
 明治 5(1872)年
    3月、全権委任状受け取りのため、大久保利通とともに一時帰国
    5月、再度渡米
    7月、ヨーロッパへ到着
 明治 6(1873)年
    9月13日、帰国
    10月25日、参議兼工部卿となる
 明治 9(1876)年
    2月、3女・朝子が生まれる
 明治11(1878)年
    5月15日、内務卿となる
    6月、井上馨の兄の子供・勇吉(後の伊藤博邦)を養子にする
 明治15(1882)年
    2月25日、憲法調査のため欧州へ留学
 明治17(1884)年
    7月7日、伯爵となる
 明治18(1885)年
    12月22日、初代内閣総理大臣となる
    文吉(梅子の甥)が生まれる
 明治21(1888)年
    4月30日、枢密院議長となる
 明治23(1890)年
    10月24日、貴族院議長となる
    7月、真一が生まれる
 明治24(1891)年
    6月1日、枢密院議長となる
 明治25(1892)年
    8月8日、第二次伊藤内閣を組閣
 明治28(1895)年
    8月5日、侯爵となる
 明治29(1896)年
    3月19日、父・十蔵死去
 明治31(1898)年
    1月12日、第三次伊藤内閣を組閣
 明治32(1899)年
    6月9日、山口県熊毛郡の岩田駅を通過、盛大な歓迎を受ける
 明治33(1900)年
    10月19日、第四次伊藤内閣を組閣
 明治36(1903)年
    10月、母・琴子死去
 明治38(1905)年
    12月21日、韓国統監となる
 明治40(1907)年
    9月21日、公爵となる
 明治42(1909)年
    3月1日、伊藤公記念館着工、総工費21,291円
    10月26日、ハルビン駅で暗殺される(69歳)
    11月4日、日比谷公園で国葬が行われ、東京都大井町の墓地に埋葬される
 明治43(1910)年
    5月、故郷束荷村に伊藤公記念館落成
 大正12(1923)年
    9月2日、関東大震災のため、東京虎の門の維新史資料編纂局で調査中だった
    博文の遺物や書籍1万数千巻が灰になる…残念
 大正14(1925)年    
    4月15日、梅子夫人77歳で死去