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武家家伝_浪岡氏
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浪岡北畠氏
●笹竜胆/丸の内に割菱
●村上源氏北畠氏流
北畠顕家を祀る霊山神社は「笹竜胆」を神紋としており、ご子孫の北畠誠悟様からも「笹竜胆」との情報をいただいた。また、『応仁武鑑』では行岳(浪岡)氏の家紋は「笹竜胆車」となっている。一方、『姓氏録』には「北畠氏、幕紋は割菱也」とあり、伊勢の北畠氏は割菱を用いていた。そして、浪岡氏の子孫では「丸の内に割菱」を用いる家が多いという。
 


 中世の津軽郡浪岡に拠って「浪岡御所」と称された浪岡北畠氏は、南北朝時代初期に奥羽南朝方の中心人物として活躍した北畠顕家の後裔と伝えられている。いわゆる村上源氏ということになる。
 鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、元弘三年(1333)、東国武士の勢力基盤である奥州・出羽を鎮撫する任に義良親王を任じ、北畠親房・顕家父子にこれを補佐させた。顕家は従三位・陸奥守に叙任され、元弘三年十月、義良親王を奉じて陸奥へ下向した。一方、京では後醍醐天皇の親政による建武の新政が発足した。
 奥州に入った北畠顕家は多賀城を国府とし、結城宗広らの協力を得て行政組織をつくると、新政の実現にあたった。しかし、新政の打ち出す政策は多くの人に不満を与え、恩賞沙汰は何の手柄もない公卿や社寺が優先されるなど、倒幕に活躍した武士たちは次第に新政への失望を募らせていった。

新政の崩壊と顕家の戦死

 武士たちの輿望は足利尊氏に集まるようになり、天皇も尊氏の存在を警戒するようになった。そのような建武二年(1335)、北条氏残党による中先代の乱が起り、鎌倉が反乱軍に制圧された。反乱軍の鎮圧を命じられた、尊氏は天皇に征夷大将軍の宣下を請うたがそれは許されなかった。そのため、尊氏は宣下を得ないまま、東国に下ると反乱軍を撃破して鎌倉に入った。以後、尊氏は鎌倉に居座り、天皇の召還命令も無視して、みずからに味方した武士たちに論功行賞を行った。
 天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を下したが、箱根竹ノ下の合戦において、討伐軍は大敗を喫した。尊氏は逃げる新田軍を追って上洛すると、たちまち京都を制圧した。かくして、新政は崩壊し、時代は南北朝の争乱へと移行していくことになる。
 奥州の北畠顕家は西上する足利尊氏を追撃すべく義良親王を奉じて出陣、顕家軍には結城・伊達・南部氏らが参加して、連戦のすえに京都に入り足利尊氏を九州へ追いやったのである。その後、鎮守府将軍に任じられた顕家は陸奥に帰ったが、尊氏の任じた奥州管領斯波家長らの活躍もあって、奥州では尊氏方に寝返る者が出て分裂状態をきたしていた。ついに顕家は多賀国府を維持することが困難となり、伊達郡の霊山に移り尊氏方と対峙した。
 一方、九州に下った尊氏は、九州官軍と多々良浜に戦い大勝利をえると太宰府に入って九州の経略にあたった。体制を整えた尊氏は、九州武家方の諸将を率いて海陸から京都を目指した。尊氏は湊川の合戦に楠木正成を討ち取り、新田義貞を撃破してふたたび京都を制圧した。後醍醐天皇は吉野に逃れて朝廷を開き、尊氏は光明天皇を立てて足利幕府を開いた。
 後醍醐天皇から京の回復を命じられた北畠顕家は、ふたたび義良親王を奉じ、結城宗広・二階堂行朝・伊達行朝・葛西清貞・南部師行らを従えて京を目指した。北畠軍は行く手をはばむ斯波家長を鎌倉で撃破すると、そのまま西上を続け、美濃青野原で幕府軍と戦いこれを撃ち破った。まさに、破竹の勢いであったが、幕府軍の巻き返しを懸念した顕家は、軍を伊勢に転進した。ついで大和に移動して奈良般若坂で高師直軍と戦って敗戦、河内へ逃れた。そして、延元三年(1338)五月、高・細川軍と摂津阿倍野で戦い、和泉国石津で壮烈な戦死を遂げた。このとき、南部師行らも顕家とともに討死し、奥州軍は壊滅した。

南北朝の動乱

 顕家は戦死したとき、いまだ二十一歳の若武者であった。わずか十六歳で奥羽経営の重責を担い、一貫して後醍醐天皇への忠義を貫き、政戦に非凡な才を見せた。
 ところで、顕家は戦死する七日前に後醍醐天皇に諌奏文を出していた。その諌奏文の中で顕家は、建武新政の重税を批判し、天皇の恣意的な政治姿勢や側近や女官らの専横を諌めている。さらに、みずからの陸奥での経験を踏まえて、地方に将軍府(小幕府)的機構を整備することを進言している。顕家は現実を的確に捉え、将来への展望を有していたことがうかがえる。その死は、まことに早すぎるものであったといえよう。
 奥羽の経営にあたった北畠顕家は、北条氏に関わる所領をすべて没収し、奥州所領を奥州武士のものとして保証した。また陸奥守・鎮守府将軍として、蝦夷沙汰や出羽および北関東諸国にまで関与する文書を発給している。そして、発給文書は陸奥国宣という形式ではなく、鎮守府将軍御教書を多く用いていた。顕家が上洛したときの職権も鎮守府将軍を前面に出しており、顕家に従った奥州の武士たちも将軍府機構を受け入れていたとみて間違いないだろう。いまも、北畠顕家が発給した文書を大切に保存している家が存在し、奥州武士の子孫たちが顕家の存在を重くみていたことが知られる。
 この将軍府機構は、その後、征西将軍宮として九州に下された懐良親王が踏襲している。懐良親王は、菊池氏の協力を得て九州武家方を制圧すると、太宰府に入って征西将軍府を立てると、九州南朝方の全盛時代を現出した。一方、幕府も奥州管領制を整備しようとしたが、観応の擾乱などがあって迷走した。
 さて、北畠顕家が戦死したのち、弟の顕信が陸奥介・鎮守府将軍に補され、父親房とともに義良親王を奉じて伊勢より東国に向けて船出した。ところが、一行は大風にあって散り散りとなり、義良親王は伊勢に漂着した。その後、陸奥に入った顕信は南朝方の中心として、南部氏、伊達氏、田村庄司らの支援を得て宇津峰城に入り北朝方に対峙した。しかし、興国四年(1343)常陸国の南朝方が壊滅すると、正平二年(1347)宇津峰城も北朝方の総攻撃を受け落城し、北畠顕信は北奥に奔った。
 やがて、尊氏と直義兄弟の不和が嵩じて、正平六年(観応二年=1351)に「観応の擾乱」が起こると、顕信は多賀国府奪還作戦を開始した。多賀城攻略に成功した顕信であったが、翌七年(1352)には吉良貞家の率いる北朝勢に奪還されてしまった。顕信はふたたび宇津峰城に立てこもり、一年余にわたって北朝方の攻撃に耐えたが、ついに正平八年五月宇津峰城は落城した。宇津峰城は徹底的に破却され、顕信は出羽藤島城に撤退し、奥州南朝方の勢力は大きく後退した。

浪岡北畠氏の系譜─考察

 さて、先述のように浪岡北畠氏は、北畠顕家の子孫とするのが通説である。しかし、浪岡北畠氏の系図に関しては、いずれも近世以後に作成されたもので、それぞれ真偽のほどは判然としないものばかりである。
 『尊卑分脈』の北畠氏系図を見ると、北畠顕家の系として顕成─親成が記されている。そして、『津軽郡中名字』など浪岡天文記をはじめ、近世に記述された『東日流記』『新羅之記録』、幕末期に水戸で編纂された『応仁武鑑』らはいずれも北畠顕家の子孫説を採っている。いずれも親房から顕家─顕成─親成は一致しているが、それ以後、天正六年(1578)に浪岡御所が滅亡するまでの人名や系譜はばらばらで、その出典も不明というものばかりである。
 浪岡北畠氏の系譜に関しては、山科言継が著わした『歴名土代(れきめいどだい)』に、具永・具統・具運の三名が記されている。山科言継は戦国時代を生きた公卿であり、言継は浪岡北畠氏の叙爵任官のために奔走したことが知られる。その関係から、浪岡北畠氏の戦国時代における三代の当主の名が記録に残されたのである。
 これらのことから、『尊卑分脈』に見える顕家─顕成─親成の三代と、戦国時代の具永─具統─具運の三代は実在の人物とみていいのではないか。とはいえ、顕家の流れが、そのまま具永に続いたと断定する史料があるわけではない。
 一方、浪岡北畠氏の系譜を顕家の弟顕信の子孫とする説もある。水戸藩が編纂した『大日本史』の「親房伝」に「守親為陸奥国司、子親能、其子孫在陸奥出羽者称波岡氏、襲国司号」とみえ、顕信子孫説に大きな影響を与えている。守親は顕信の子であり、『尊卑分脈』には顕信─守親─親能の系譜が記されている。その他、諸説がなされており、浪岡北畠氏の系譜をたどることは、いまとなっては不可能というしかない。

北畠氏の浪岡入部

 北畠氏が浪岡に入部したのは、一説に霊山城が落ちたとき、北畠顕家の嫡子顕成は叔父の顕信とともに北奥羽に逃れたときだという。一方、顕家の死後、顕家の子顕成・孫顕元は南部氏に庇護されて稗貫の船越に住み、のちに浪岡に移ったともいう。また、『応仁武鑑』の「浪岡記」によれば、鎮守府将軍藤原秀衡の末子頼衡が津軽の外ケ浜に逃れて行岡(浪岡)に住み、行岡氏を称した。その曾孫行岡右兵衛大夫秀種は顕家に仕え、娘が顕成を生んだ。顕家の死後、顕成は外祖父右兵衛大夫を頼り、のちに所領を譲られたことが浪岡北畠氏の始まりとする説もある。
 ついで、北畠氏が浪岡に移った時期については、建徳年間(1370~71)の守親入部説、文中年間(1372~74)の顕成入部説、元中年間(1384~1392)の親統入部説、応永年間(1394~1427)の顕実説などがある。さらには、戦国時代の大永年間(1521~27)に天龍丸が入部したとする説まであり明確ではない。
 浪岡北畠氏の初代になったという顕成の娘は、十三湊安東太郎貞季の妻になったといわれる。また、糠部南部氏は一貫して南朝方として行動し、北畠氏を庇護してきたが、その後南部氏は幕府に帰順した。そのため、公然と北畠氏を庇護することができなくなり、浪岡へ一行を移したのだという。このとき、浪岡(行岡)で顕成父子を迎えたのが顕家の娘を妻にしていた安東貞季であったという。
 明徳三年(1392)、南北朝が合一なったのち、北奥羽で勢力を築いたのは、糠部南部氏と下国安東氏であった。糠部南部氏は三戸・七戸などの南部一族の惣領的立場にあって、北奥から出羽国仙北まで勢力を拡大しつつあった。一方、下国安東氏は、十三湊を本拠として津軽、出羽国河北・小鹿島・秋田にまで勢力を及ぼそうとしていた。
 幕府はこの北奥羽の二大勢力に対して、奥州探題斯波氏をもってあたらせたが、加えて、両家と深い関係を有する浪岡御所北畠氏を利用して、北畠氏を軸とする一定の秩序を作り上げようとしたとも考えられる。さらに、北畠氏は官途推挙権を持っていたようで、武将というより公家的な側面を有する「御所」として認識されていたようだ。このような立場をもって浪岡北畠氏は乱世を生き抜いたが、その初代が誰であったのかは杳として分からないのである。

津軽郡に勢力を築く

 浪岡に入部した北畠氏は、はじめ東山根にある城館にいたと考えられている。やがて、十五世紀後半(応仁のころ)の顕義の代にいたって浪岡城を築き、そこを本拠として勢力の拡大につとめた。
 浪岡北畠氏で特筆されるのは、その叙爵のありかたである。武家の場合、将軍や守護の官途推挙を経て叙爵するのが例であったが、浪岡北畠氏の場合、公家の山科言継を介して叙爵を受けている。しかも、初爵とともに侍従任官されているのである。このことは、浪岡家が奥羽の有力武将として認識されながら、貴族社会の一員として扱われていたことを示している。浪岡家の居館が御所と敬称され、「大御所」「北の御所」「浪岡御所」とよばれた所以である。
 一方、浪岡北畠氏は伊勢北畠氏との関係も注目される。伊勢北畠氏は伊勢国司に任じ、また幕府からは守護職に補任され、伊勢にありながら貴族身分として遇され、武家としても重視されていた。『歴名土代』にも、伊勢北畠氏と一族の叙爵に関する記事が目立ち、浪岡北畠氏との関係を感じさせている。
 また、浪岡と伊勢の北畠氏の実名を見ると、それぞれ初期は「顕」を名乗りに用いている。幕府に帰順したのちの伊勢北畠氏は将軍の偏諱を受けたが、晴具以後「具」を名乗りに用いるようになった。一方、浪岡北畠氏をみると顕具のときから代々の当主は「具」を名乗りに用いている。「歴名土代」にみえる北畠晴具と浪岡具永は同世代の人物であり、浪岡具永は北畠晴具から偏諱を受けたものと思われる。浪岡北畠氏の出自に関しては不明点が多いが、伊勢北畠氏との関係から北畠親房の子孫であることは間違いないようだ。そして、伊勢北畠氏とのつながりを背景にみずからの立場を強化していたと考えられるのである。
 具永─具統─具運の三代は、文字通り戦国時代であり、浪岡氏も津軽地方の支配を強化することに尽力した。当時の浪岡氏の勢力を知るものとして、天文年間(1532~54)に北畠具信によって作成された『津軽郡中名字』がある。それによれば、「都遐流(ツカル)の大名は、鼻和郡は大浦の屋形南部信州盛信と申すなり。平賀郡は大光寺南部遠州政行と申すなり。田舎郡・奥法郡には伊勢国司浪岡御所源具永卿なり。」と記されている。
 南部信州盛信は大浦氏二代信濃守盛信、南部遠州政行は三戸南部氏通継の弟経行で大光寺城主遠江守政行、そして、浪岡御所源具永は北畠氏六代の具永である。永享四年(1432)に安東氏を駆逐した三戸南部氏の津軽支配は十六世紀の初頭には確固たるものとなり、浪岡御所北畠氏は津軽の北部と東部・南部の山沿いにかけて郡中のおよそ半分を支配していたことがわかる。
 『永禄日記』には、文亀年間(1501~04)以降、津軽地方の政務はすべて北畠氏が執ったといい、それは北畠氏の五代顕具・六代具永の時代であった。とくに、左中将の官位をもつ具永は、浪岡北畠氏歴代のなかでもっとも威を振るい、勢力があったと伝えられている。

川原御所の変

 具永は朝廷から官位を受けることに執着し、それを勢力保持に利用して一門の発展につとめ、弘治元年(1555)に没した。北畠氏は津軽地方に一定の勢力を有したとはいえ、北奥の大勢力である南部氏に対しては無力な存在であった。とはいえ、具永のあとを継いだ具運は油川の熊野権現宮や今別の八幡宮、猿賀の権現堂、浪岡の京徳寺など寺社の修築に尽力し、京都の文化を津軽にもたらし、浪岡周辺の寺社や年中行事などに少なからぬ影響を残した。しかし、具永の寺社修築事業は浪岡北畠氏の財政を逼迫させる一因ともなったようだ。やがて、永禄五年(1562)「川原御所の変」が起こった。
 川原御所は、顕家の甥にあたる守親が宗家四代顕義が幼少であったため、その後見役として浪岡に入り川原に御所を構えたことに始まるという。しかし、既述のように守親の動静に関しては不明な点が多く、その系譜も守親の子親能以後は不明となっている。浪岡北畠氏の菩提寺である京徳寺の過去帳によれば、六代具永の次男具信が川原にはいって、川原御所を復活したとある。
 川原御所具信は、永禄五年正月、子顕重をともなって新年の挨拶と称して浪岡御所を訪ね、突然具運に斬り掛かりこれを殺害した。同時に具信・顕重父子も、駆け付けた顕範・顕忠父子に討ちとられ川原御所は滅亡した。
 この事件の原因となったのは、具運が弟顕範を滝井の地に分封したが、同地は川原御所の領と境を接していたことから川原御所北畠具信との間で領地争いになったのだという。この騒動により、浪岡北畠氏に仕える有能な武士たちが主家に見切りをつけ、浪人したり他家に仕える者が続出したという。川原御所の変によって、浪岡北畠氏の衰退は決定づけられた。
 浪岡北畠氏の衰運を立て直そうとしたのが、具運の弟で滝井に分封された顕範とその一族であった。具運が川原御所父子に殺害されたとき、ただちに駆け付けた顕範父子は川原父子を討ち取って騒動を鎮圧した。騒動後、諸士が主家を去って行くなか浪岡北畠氏に最期まで忠節を尽くした。
 事件のとき、御所の子三郎兵衛、川原御所の子虎五郎ともに幼少であったために、顕範は二人を引き取って兄弟同様にして養育したという。両人成長のあと、三郎兵衛は顕村と名乗り、顕範はこれに娘を嫁がせて大御所を継がせた。一方、虎五郎には顕信(利顕とも)と名乗らせ、水木館主とするなど浪岡の衰運回復に努めた。
 顕村は一名に具愛ともいった。戦国時代に身をおきながら、家柄を誇り公家の風を好むという人物で、時世を見る目に欠けていた。このような顕村であってみれば、衰運にある浪岡北畠氏が時代を乗り切ることは至難のことであったといえよう。

津軽争乱と浪岡御所の滅亡

 ところで、顕村が浪岡御所の家督を継いだころの津軽地方は、南部氏が郡代南部高信を石川大仏ケ鼻城において支配していた。それを大浦城の南部信州為則、大光寺城の南部左衛門尉、浅瀬石城の千徳隠岐守らが補佐するという体制で、南部氏の津軽支配は磐石であった。
 ところが、大浦為則のあとを継いだ為信は、南部氏から独立して津軽地方を掌握しようとの野望を抱くようになった。為信は浅瀬石城の千徳氏と同盟を結び、元亀二年(1571)、為信は突如石川大仏ケ鼻城を襲撃し郡代高信を自害に追い込んだ。ついで、天正二年(1574)には大光寺城を攻略、為信は津軽平定を企図して一方的な活動を開始した。
 かくして、津軽地方はにわかに騒がしくなってきた。浪岡御所では顕村をよく補佐してきた顕範が死去し、子の顕忠が父のあと継いで浪岡の政務をとっていた。しかし、その顕忠も天正六年(1578)に没し、そのあとを顕則が継いだ。同年七月、顕則が所用で外ケ浜に赴いた留守を突いて、津軽為信が浪岡に侵攻してきた。急報を受けた顕則は若干の手兵を率いて津軽勢に斬り込もうとしたが諌められて果たせず、入内山に隠れていた顕村の妻と二人の子を助け出し、再起を期して野辺地へ落ちていった。
 こうして、津軽為信に攻められた浪岡城は一挙に壊滅、顕村は西根の禅寺に連行され自害させられた。享年、二十一歳の若さであった。このとき、水木館主の利顕は、一族の多くが戦死するなかで、ようやく危地を脱し大浦為則に救われた。その後、津軽氏に仕えた利顕は、翌天正七年(1579)に六羽川の戦いで戦死したと伝えられる。

大浦為信の津軽略奪

 ところで、浪岡御所の落城と北畠氏の没落に関して、南部側の記録では天正十八年となっている。南部側の史料では、高信は天正九年(1581)まで存命し、石川城で病没したと為信の石川城奇襲を否定している。高信の嫡子信直は三戸南部氏宗家の晴継の娘を娶ってその養子となり、津軽郡代は次男の政信が継いだ。
 津軽郡代となった政信は石川城から浪岡城に移って政務を執ったといい、浪岡御所北畠氏は内紛がつづいて天正六年に自滅したのだという。そして、残された浪岡城や領地は南部氏の管理下にあったとしている。郡代政信の下には、大光寺・千徳・大浦為信の三氏が補佐役として存在し、まもなく千徳氏が死去すると、野望を逞しくした大浦為信は讒言して大光寺を追放し、ついで食中毒にみせかけて政信を毒殺したのだという。
 一方、『南部根元記』の「津軽騒動の事」には南部氏の津軽掌握を安信の時代とし、弟高信を津軽郡代として石川城に置き、高信は南部晴政のころまでその職にあって、よく津軽全域を支配したとある。
 このように、浪岡氏の滅亡を含む津軽地方の戦国後期に関する記録は、南部側と津軽側とでは著しい食い違いを見せている。南部系の史料が語るように、為信が浪岡城を攻撃し北畠氏が滅亡したのが天正十八年であったとするなら、この年は豊臣秀吉が小田原北条氏を攻め、為信は小田原に参陣して津軽一円の支配を認められた。一方、南部信直も秀吉のもとに参陣したが、すでに為信は謁見をすませたあとで、信直は為信を謀叛人と申し立てたが、津軽領を回復することはできなかった。
 津軽地方を略奪されたカタチとなった南部氏にしてみれば、津軽氏に対していい感情をもてるはずもなく、津軽氏の主張を否定しつくしたとも考えれられる。さらに当時の情勢からみて、為信が天正十八年に浪岡御所を滅ぼし、そのすぐあとに小田原に参陣したとは考えにくく、南部側の記録には疑問が残るといえよう。やはり、浪岡北畠氏の滅亡は、天正六年のことであったと考えるのが自然なようだ。
 余談ながら、江戸時代を通じて両家は犬猿の仲であったが、為信の津軽略奪がその原因であった。

その後の北畠一族

 いずれにしても、名族北畠氏は大浦為信によって滅亡させられたことは間違いのないところだ。
 その後、難を逃れた顕則は南部氏に仕えて岡氏を名乗った。その弟慶好は、安東(秋田)氏に仕え、家老職としてこれも浪岡氏を名乗った。そしてもう一人の弟顕佐が、顕村の娘と結婚し浪岡北畠氏宗家当主となり、館野越に隠棲し江戸時代山崎氏を称して子孫は相続いた。明治十五年北畠氏に復姓して、今日に至っている。・2005年07月07日
・家紋=「丸の内に割菱」/「笹竜胆車」

参考資料:浪岡町史/津軽浪岡由来記/青森県史/岩手県史 など】   →ダイジェストページ

■参考略系図


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