『1Q84』Book4の可能性について 1
「可能性」というより、小説家の責任として、村上春樹さんは続編を書かなくてはいけないと思います。
以前の長編でもそうだったように、そのまま放置されている謎(もしくは「伏線」)が多いんです(より正確に言うと「あまりにも多過ぎ」です)。
そのあたりに関して、『ねじまき鳥クロニクル』と同様の経過を辿っているような気がするんですよね。
(『ねじまき鳥クロニクル』もやはり、一巻二巻が同時刊行され、一年半後に最終巻が出版され、物議を醸したんですよね。理由も同じく、作者の責任放棄といった類の言説が主流でした)
もっとも、当時のボクは春樹さんを擁護することはできたんですけど(謎の放置に関してもです)、『1Q84』に関しては無理ですね。
やはり物語が続編を要求しているように思えるからです。
前々回にも語ったように、『1Q85』<1-3月>でも、『1984』Book0<1-3月>でもいいんです。とにかく、物語の必然性として続きが求められるんです。
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あるいは<1-3月>に特権的な意味を付加するためにも(そして、そもそも『1Q84』という物語を春樹さんが描くことになった発端である)『1Q95』<1-3月>にしてもいわけです。
そうしたら、天吾と青豆の子供がちょうど10歳になっていますから、ふたりの10歳時の啓示ともリンクさせることができるし、円環構造としても成立させられるんですよね(ユートピア的結末でも、ディストピア的結末でも、どちらでも可能です)。
とにかく、まだまだ展開させるべき課題がてんこ盛りの状況のまま、物語を閉じることに異議を唱えたいですね(もちろん、大いなる期待を携えてですけど)。
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※ 以下、ネタバレも含まれますので、未読の方はご注意ください。
ネタバレと言っても、いつもの春樹さんの作品らしく、単にストーリーだけを追いかける一回性の物語ではないので、別に問題ないとは思いますけどね。
(そこらへんが、数多のエンタメ系小説――とりわけ、トリックを多用する推理系小説――とは決定的に違うところです)
まず、男性主人公である「天吾」は、これまでと同様に春樹さん自身を投影したタイプです。
つまり、運命に抗ったり、逆に無批判に受容するというより、予め「ある種の諦念」を抱えている人物に思えます。
ただし、内省的で物静かであるものの、基本的に有能であり(てゆうか、うっかりしていると気づき難いのですが、殆どスーパーマンです、春樹さんの主人公って)、自ら動くことは稀だけど、自らに降りかかってきた「もの」「こと」に対しては、きちんと粘り強く対応し、それなりの解決に導くことができるんです。
これ、『1Q84』内の言葉を借りると「レシヴァ(受け入れる者)」に相当するでしょうね。少なくとも「パシヴァ(知覚する者)」ではないです。
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Book3が刊行されるまでに感じたこととして、この物語は入れ子構造になってるのとちゃうん? という疑問がありました。
それはまた『ねじまき鳥クロニクル』の三部において明らかになったように、別の人物(「シナモン」という青年です)が創作した物語の内部に知らず知らず取り込まれていたというシチュエーションなのでは? という疑念です。
簡単に言うと、『1Q84』ぜんたいが、天吾の創作なのではないか? ってことなんです。つまり、「天吾の章」も「青豆の章」も、すべてが天吾の物語世界での「こと」と捉えるだけで、整合性がとれるんです。
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えっと、例によって続きますが、「手を繋ぐこと」に関して、Book3のラスト近くで、20年ぶりに再会した天吾と青豆のシーンがありますので、それを引用して次回にバトンを渡すことにします。
気がついたとき、誰かが隣にいて彼の右手を握っていた。その手はぬくもりを求める小さな生き物のように、革ジャンパーのポケットに潜り込み、中にある天吾の大きな手を握りしめていた。(中略)
その誰かは、そこにあるものが《本当にある》ことを確認するために、彼の幅広い手をいっそう強く握りしめた。(中略)
《青豆》、と天吾は思った。しかし声には出さなかった。目も開けなかった。ただ相手の手を握り返しただけだ。彼はその手を記憶していた。二十年間一度としてその感触を忘れたことはなかった。それはもちろんもう十歳の少女の小さな手ではない。
この二十年のあいだにその手は様々なものに触れ、様々なものを取上げ、握りしめてきたに違いない。ありとあらゆる形をとったものを。そして込められた力も強くなっている。しかしそれが同じひとつの手であることが、天吾にはすぐにわかる。握り方も同じだし、伝えようとする気持ちも同じだ。(中略)
二人は凍てついた滑り台の上で無言のまま手を握り合った。彼らは十歳の少年と十歳の少女に戻っていた。孤独な一人の少年と孤独な一人の少女だ。
初冬の放課後の教室。何を相手に差し出せばいいのか、相手に何を求めればいいのか、二人は力を持たず知識を持たなかった。生まれてから誰かに本当に愛されたこともなく、誰かを本当に愛したこともなかった。誰かを抱きしめたこともなく、誰かに抱きしめられたこともなかった。(中略)
彼らがそのとき足を踏み入れたのは扉のない部屋だった。そこから出て行くことはできない。またそれ故にほかの誰もそこに入ってくることはできない。そのとき二人は知らなかったのだが、そこは世界にただひとつの完結した場所だった。どこまでも孤立しながら、それでいて孤独に染まることのない場所だ。
このシーンが堪らなく好きなんですよね。