「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』とどうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
(マタイによる福音書七章1節〜5節)

 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる。押し入れ揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」 
(ルカによる福音書六章37節、38節)

「あなたがたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
(ルカによる福音書六章41節、42節)

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 隣人を裁く資格など誰にもありません。隣人のためにもむしろ自分を裁くことが先決問題という戒めです。
 ここでも兄弟という言葉がでてきますので、先の「兄弟を怒るもの……」と同様に本来は神様の前に兄弟である筈のものに対して、その小さな欠点をあげつらうことを意味しています。私たちは、この世に生きていることにおいて直接、間接、神様に負ってもらっています。私たちは負い目なしには神様の前に出ることはできません。負い目を負うてしかも生かされているということは、恵みを受けていることです。これを自覚するとき、その負い目は隣人よりも自分の方が大きいことに気付きます。そのことを、
「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」
(マルコ福音書四章24節)
と付け加えて語られます。キリスト教徒が神様の恵みによってというときには、このことの自覚がその根底をなしているのです。その自覚がこちらにあるならば、隣人もまた自分の負い目に気付くでしょう。
 単に人間社会のことと考えれば、このような戒めないし格言は浅薄な道徳訓になってしまいます。


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お祈りいたします。

 愛してやまない、ご在天の父なる神様、尊い主の御名を賛美いたします。
日々の糧をいただき、また心砕けた時も守りめぐみをいつも下さってありがとうございます。感謝いたします。
 私たちは、自分の秤で人を量りいつの間にか、裁いてしまっています。すべては、自己中心さの現れと自覚し、この罪をあなたの前で懺悔し、悔い改めの祈りを捧げます。どうぞお赦し下さい。兄弟姉妹を愛し、共に支え合う者にして下さい。導いて下さい。
 この感謝と願いの祈りを、尊き主イエス様の御名を通して御前にお捧げいたします。
    アーメン