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平成天皇の韓国ゆかり発言を検証しよう

平成天皇の韓国ゆかり発言を検証しよう。

宮内庁のページから拝借

会見日 平成13年12月18日

場所       皇居 石橋の間   

 日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。(以上)

桓武天皇の御生母とは高野皇后で、光仁天皇皇后で諱は新笠、本姓は和氏(やまとうじ)・乙継の娘。

和氏の先は百済武寧王の子、純陀太子より出るとある。(姓氏録より)

武寧王は百済第二十四世の王。日本書紀によると、武烈天皇七年夏四月、武寧王はその孫、斯我君(しがきし)をつかわし、

調を進める。その時の表に曰く、謹んで斯我を遣わすので、そちらの朝廷で奉公させてやって。と言ってきた。

その子に子供が出来て、法師君といい倭君の祖とした。これが和氏の始まりだ。その後實亀中に高野に改めたとある。

その武寧王とは誰だろう。ウイキペディアで見てみよう。

武寧王(ぶねいおう、462 - 523年)は百済の第25代の王(在位:502 - 523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆(余は百済王の姓)、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、末多王(東城王)の異母兄の混支王子の子、名を斯麻王、としながらも、「末多王(東城王)の異母兄というのは不詳であり、蓋鹵王の子であろう」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。

旧都漢城(ソウル特別市)を高句麗に奪われ混乱した百済の安定を回復した王とされる。

では、桓武天皇は、どうであろう。同じくウイキペディアから

桓武天皇は白壁王の第一皇子として天平9(737)に産まれた。初名は山部王。父の白壁王の即位後も母の高野新笠が身分の低い帰化系氏族和氏出身であったため、立太子は望まれておらず、当初は官僚としての出世を目指しており、侍従・大学頭・中務卿などを歴任していた。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争によって異母弟である前皇太子他戸親王とその母であった皇后井上内親王が突如廃されて宝亀4年(773年)に立太子。天応元年(781)415日、即位。平城京における奈良仏教各寺の影響力の肥大化を厭い、山城国への遷都を行った。

はじめに784年に長岡京を造営するが、794年に改めて平安京を造営した。

百済が滅んだのは660年、白村江は663年である。一般的に見てどうであろう。母国が亡びている和氏から皇后が出て、その子が天皇になれるののだろうか。その当時の朝廷は百済閥だったと見るのがふつうだとおもうのだが・・・・。

ところで、続日本紀にはもっと重要な事がある。

では続日本紀をみよう。たまには原文で読もう。

武藝啓。山河異域、國土不同。延聽風猷、但増傾仰。伏惟大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、

本枝百世。武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。但以天涯路阻、海漢悠悠、

音耗未通、吉凶絶問、親仁結援。庶叶前經、通使聘隣、始乎今日。謹遣寧遠將軍郎將高仁義・

游將軍果毅都尉將徳周・別將舍那婁等廿四人、賚状、并附貂皮三百張、奉送。

土宜雖賤用表獻芹之誠、皮幣非珍、還慚掩口之誚、主理有限、披膳未期。時嗣音徽、永敦隣好。

読み下すと、武藝(渤海国王・大武芸本人)啓す。山河域を異(こと)にして、国土同じからず。延(ほの)かに風猷(ふうしゅう)を聴きて、但(ただ)、傾仰(けいぎょう)を増す。伏して惟(おも)うに、大王の天朝、命を受け、日本の基(もとい)を開き、奕葉(えきよう)光重く本枝百世なり。武藝忝(かたじけ)なくも列国に当たり、濫(すべ)ての諸国を惣(す)べ、高麗(高句麗のこと)の旧居を復し、夫余の遺俗を有(たも)てり。但、天涯路(みち)阻(へだ)たり、海漢(ひろ)く悠々たるを以て、音耗(おんもう)未(いま)だ通ぜず、吉凶問うことも絶ゆ。親仁を結び援(あわ)せん。庶(ねが)わくば前経(ぜんけい)に叶(したが)い、使を通じて隣に聘(へい)すること今日に始めん。謹みて、寧遠將軍郎將高仁義・游將軍果毅都尉將徳周・別將舍那婁ら二十四人を遣(つか)わし、状(のり)を賚(たま)い、并(あわせ)て、貂皮(てんがわ)三百張(はり)を附け、送り奉(たてまつ)らん・・・。

早い話、昔の兄弟分ではないか。本枝関係だから仲良くしよう。と言って来た訳だ。

先日さる高名な中西某教授の続日本紀の解説本を買ってきたのだが、この件を見事に抜かしていた。そんな馬鹿な。こんな重要な事はない。

もっとも、渤海も日本と組んで新羅を挟み撃ちにしたかったこともあろう。日本としてもせっかく誼を結ぼうというのだから悪い話ではない。

しつこいけど渤海を調べよう。(相変わらずウイキペディアから)

『旧唐書』と『新唐書』では渤海のルーツに関する記述が大きく異なり、旧唐書では、渤海靺鞨大祚栄は本来高句麗の別種(渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也「渤海靺鞨の大祚榮、本は高麗の別種なり」)であり、風俗は高句麗、契丹と同じ(風俗與高麗及契丹同「風俗、高麗契丹と同じうす」)として高句麗から派生した種族として位置付けているが、『新唐書』では、渤海は本来粟末靺鞨であり高句麗に付いていた者で、姓は大氏である(渤海 本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏「渤海、それ粟末靺鞨にして高麗に附く者たり。姓は大氏」)とし、高句麗との種族的関係を曖昧にしている。・・・以上

どこから本枝百世なのかは全く見えてこないではないか。

学者たちは何を勉強してるんだ。こんなに重要な事をどうして研究しないのか。税金泥棒ではないのか。

重要な事は、渤海使は扶余を立て直したと言っている。つまり共通しているのは扶余だ。

引用ばかりで申し訳ないが、この聖武天皇の時点で天皇の出自は扶余だと記録された事は間違いない。そうでなければ、続日本紀の中で何か違っている事を書いているはずだろう。

私の意見はこうだ。馬韓はMAKAであり、靺鞨もMAKAで、渤海もMAKAなのであり、全て支配層はMAKAつまり、扶余の馬加だったのだ。

高句麗から百済が分かれ、遼西に移りその後旧馬韓のあった遼東へ東征しそこで栄え、倭と組んだが新羅と唐に滅ぼされ、加羅国に逃げ込みその後、加羅が日本を乗っ取りもしくは日本に改名し大宰府に上陸した。その後、新羅が日本まで追いかけてきた。壬申の乱で新羅に負けた。

私の考えでは光仁天皇以前は新羅政権のはずだ。つまり、新羅自体も高句麗の分かれであり、百済の分かれだった。ということなのだ。

この歴史捏造研究の目的は正にこの証明にある。今の時点では上の考え方は60%しか証明できていない。しかし、アウトラインは見えていないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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