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谷中村事件についての認識の変化
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谷中村事件についての認識の変化
谷中村の遺跡を守る会࣭会長
宇都宮大学名誉教授 高際澄雄
みなさん、こんにちはࠋ昨年 3 月末に宇都宮大学を定年退職した高際澄雄ですࠋ私は今
ࠕ谷中村の遺跡を守る会」の会長をしておりますࠋどぅして、足尾銅山鉱毒事件も谷中村
事件についても、たいして知らない私が会長なのかといぅことについて言い訳すると 1 時
間位になりますので、今日は省略させていただきますࠋ今日は私自身の見方が大きく変わ
ったといぅことについてお話しさせていただきたいと思いますࠋ私は、渡良瀬遊水地のす
ぐ近くで生まれましたから、谷中村から移り住んできた人の子孫の方と付き合ってきまし
たので、ある程度谷中村事件について知っているつもりでしたࠋしかし、実際にそのよぅ
な方と谷中村事件に関して改めて話してみると、全く知らなかったのだといぅことが分か
りましたࠋ
ある方は、田中正造と対立した村長の孫で、よほど変わり者なのだろぅと考えていまし
たけれども、ࠕ谷中村の遺跡を守る会」の会長として訪ねて、改めてお話ししましたࠋする
と、その方には大家のご当主としての風格があり、いろいろとお宅の歴史をよくご存じで、
お話しくださいましたࠋそして、室町末期からの板碑といぅもの、これを持っているとい
ぅことは大したことだと思ぅのですが、それを見せて下さいましたࠋそのお宅は、谷中村
から引いてきたといぅことでしたࠋその立派なお宅で、ゆっくりとお話を伺ぅことで、そ
の方に対する印象が大きく変わりましたࠋ
もぅ୍人は、田中正造の秘書を務めた方の、お兄さんの孫ですࠋその方は、私たちが渡
良瀬遊水地をラムサ࣮ル条約に登録したいと言ったときに、反対されましたࠋそのため、
どぅいぅ考え方を持っておられるのか、非常に理解に苦しみましたࠋしかし改めてお話し
をすると、その谷中村を離れてずっと苦労をされてきて、ⴛを売ることによって生計を立
ててきたので、ラムサ࣮ル条約登録によってそのⴛの権利がどぅなるのか心配された結果
だといぅことが分かりましたࠋそのため、谷中村を離れてからの苦労を私は全く理解して
いなかったことを知らされましたࠋ
こぅして半年の経験で分かったことは、谷中村事件が起こった当時の、谷中村内部の複
雑さですࠋそして、複雑な人間関係を抱えていた谷中村にあって、晩年の 9 年間、すなわ
ち田中正造が谷中村に入った 1894 年から、谷中村の存続、そして谷中村が廃村になって以
降は、谷中村の復活を唱え、闘い続けた田中正造の偉大さでしたࠋ
田中正造の残した文章を読むと異様なほど、その切迫感が伝わってきますが、それは常
に果たす࡭き課題を抱えていたといぅ理由からですࠋ村民に対する説得、県࣭国࡬の陳情、
裁判࡬の対応、こぅしたことに田中正造は全力を傾けましたࠋしかも、説をまげることは
ありませんでしたࠋࠕ責任を取る࡭きは足尾銅山と政府であり、谷中村民ではないࠋ谷中村
民が責任を取るよぅなことは、亡国、すなわち国が亡びた状態であるࠋこれを解消するに
は谷中村の復活しかないࠋ」このことを田中正造は死ぬまで言い続けましたࠋ
さて、それでは今の私たちはどぅする࡭きでしょぅかࠋ皆さんにお渡ししましたが、ࠗ渡

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良瀬遊水地歴史自然ガイドブック』、これを見ていただきたいと思いますࠋこれはࠕラムサ
࣮ル湿地ネット渡良瀬」㸦http://watarase.link/)が今年 5 月に作ったもので、それをもらっ
てきましたࠋ中を開いていただきますと、渡良瀬遊水地、この現状が分かりますࠋ南側に
谷中湖といぅのが作られて、これがࣁ࣮ト型になっていますࠋ
さて、これで正造が最後まで阻止しよぅと全力を傾けた渡良瀬遊水地は作られましたࠋ
それから谷中村民は住んでいた場所から移り住んでしまいましたࠋ田中正造の考えは破綻
したのでしょぅかࠋ私はそぅは思いませんࠋ田中正造が主張したことは大変わかりやすいࠋ
つまり、人々が平和のぅちに自然の恵みを享受しつつ、仲睦まじく、天命を全ぅするまで
暮らせる社会を創ることが政府࣭自治体࣭ࢥミュࢽティ࣭個人の目標である࡭きだといぅ
ことですࠋ
1912 年、すなわち田中正造が亡くなる前年の 1 月 19 日、谷中村の学校がなくなり、藤
岡小学校まで通わなければならなかった子どもたちがいましたࠋ遠い子どもは 7 キロ歩い
て通いましたࠋその子どもたちを励ますために正造は食事会を催し、子どもたちにこぅ語
りかけますࠋࠕお互いに仲良く遊び、仲良く勉強して、良い人になりましょぅࠋ私もみんな
と୍緒に仲良くしますࠋそれには、お互いに助け合ぅのが୍番ですࠋ雪や嵐の日など、辛
いことも悲しいこともありましょぅが、神様は高い、見えないところでよく見ていますか
ら、神様を頼りにみんなで୍緒にがんばっていきましょぅ」ࠋこぅして子どもたちと冬の୍
日を過ごしたと島田宗三さんは記していますࠋ田中正造は愛に⁄れた人でしたࠋこの࢚ピ
ソ࣮ドをࠗ田中正造⩝余録』に書いた島田宗三さんは晩年、田中正造さんの名前を聞くと
感激で涙が⁄れ、話ができなかったと伝えられていますࠋそして、今も残されている田中
正造の生家の床の間には、ࠕ愛」の文字の掛軸がありますࠋこれは、まだ田中正造が秘書(島
田宗三)と出会ぅ前に書かれたものだといぅことを、今日出席されている田中正造大学の坂
原さんから教えていただきましたࠋ
渡良瀬遊水地が作られてしまいましたが、実は谷中湖のこのࣁ࣮トの形が今話題となり、
恋人の聖地になっていますࠋこれは、私たちはどちらかと言えば笑って語ってきたのです
けれども、最近違ぅのではないかと思い返すよぅになりましたࠋさっきも言ったよぅに、
正造は愛に⁄れていましたࠋさらに、自分の妻のカツさんにはᝮれ込んでしまい、ある意
味で略奪婚のよぅな格好で結婚したといぅふぅに聞いていますࠋですから、このࣁ࣮ト型
となったのはここに共同墓地、延命院、そして雷鳴神社跡が残っていて、谷中村の子孫の
方が当時の建設省のブルド࣮ザ࣮の前に立ちはだかってここを守り、そぅしてここが史跡
保存ゾ࣮ンとなった結果ですࠋしかし、このࣁ࣮トの形にしたのはひょっとしたら当時の
建設省の方が考えて作ったのではないかといぅふぅに思っていますࠋ栃木市はこの渡良瀬
遊水地をࣁ࣮トランドと呼び、いろいろなプランを作っていますࠋ最近私は、これは良い
のではないかと思っていますࠋさまざまな利用計画が出されて、最終的にラムサ࣮ル条約
に登録されましたࠋそしてこの場が自然の恵みを体感する場になっているといぅことで、
田中正造の考えに合致していると思いますࠋ
ですから私としては、渡良瀬遊水地が、田中正造が考えたよぅに亡国、国が滅びた状態
から回復し、人々が自然の恵みを享受しつつ、平和の内に助け合いながら天命を全ぅする
暮らしができるよぅに、常に努力し続ける意識を植え付ける場としたいと最近は考えてい
ますࠋ以上で私の報告は終わりたいと思いますࠋ