したり強奪、盗掘した証拠」と自ら認めている証拠か ?
文書番号 584「韓国関係文化財調査に関する打合」
1953.5.20-7.4 の 15 頁、別添リスト (2)「京都大学文
学部陳列館所蔵韓国出土遺物」のうち先史時代の「品
名、数量、出土地、受入年、入手経路、購入時代価」
がすべて墨塗りで「次頁以下 4 頁」は不開示。
しかし京都帝国大学 ( 当時 ) 文学部陳列館の 1930 年
3 月「考古図録」は国立国会図書館の「近代デジタル
ライブラリー」で世界中に公開されていて、閲覧も複
写も自由にできる。3)
文書番号 592「東洋文庫田川博士との懇談記録」
1963.3.18 の 6 ~ 7 頁には「宮内庁図書尞の蔵書目録
は印刷されたものがあるが、現在頒布禁止になり外部
では全く見られない。」の後、約半頁墨塗り。しかし文
書番号 379「韓国国宝古書籍目録日本各文庫所蔵」の
27 ~ 35 頁 ( 右 ) には目録がある。田川なる人物の嘘
つきたる面目躍如か ! ?
同 7 頁には他に記述のない 2011 年に返還された「儀
軌」に対する言及がある。「浅見倫太郎博士が宮内省
の依頼を受けて皇室の儀式の参考にするため、景福宮
にあった多種の儀軌 ( 儀式の記録 ) の写本を行ったこ
とがあるが、この儀軌は曽根本とは別に宮内庁に保存
されている筈である。」
文書番号 386「宮内庁書陵部所蔵の書籍に関する件」
1960.9.20 北東アジア課の文書 1 頁には、随分詳しい
解説がある。「宮内庁書陵部所蔵の書籍には、皇室費で
購入したものと、一般行政費で購入したものとの2種
類がある」・・・2~3頁「宮内庁書陵部には朝鮮本
74 冊が所蔵されている。これら朝鮮本は徳川文庫楓山
文庫、旧多紀家、旧徳山毛利家のものを継承したもの
で、その渡来の時期はすべて日韓併合前とされている。
宮内庁で所蔵している朝鮮本は上記、書陵部のものの
ほかに内閣文庫(現在は国立国会図書館支部内閣文庫
となっている = 筆者注、文書 379 の 2 ~ 26 頁に目録
あり)所蔵の約 190 冊がある。これらの書籍は紅葉山
文庫、昌平坂学問所の所蔵本のほか、明治 20 年代に
民間から購入又は献納を受けたもので、渡来の時期は
すべて明治 23 年 (1890) 以前である。」
同4頁には「針谷参事官の宮内庁書陵部往訪の件、
1963.3.11 北東アジア課、股野記」には「冒頭、宮内
庁側より別添 2. の曽根本及び統監本の目録が手交さ
れ、同目録には曽根本 152 部 762 冊、統監府本 11 部
90 冊、合計 663 部 852 冊がある旨説明があった。」と
ある。前記「頒布禁止になり外部では全く見られない。」
状況と全く一致しない。
これらが所蔵された経緯についても、6~7頁に「曽
根本は明治 43 年 (1910) 東宮職に献上された。当時曽
根氏は統監を辞した後であるので、同図書は曽根個人
として献上されたものであると思われる。統監府本は
伊藤公が日本に持参されたものを伊藤公の死後、皇室
側と統監府(北東アジア課注。当時は総督府になって
いた)との間の話合いで、明治 44 年 (1911) に皇室に
献上されたものである。」と詳しい。
文書番号 387「宮内庁書陵部所蔵目録」1963.4.11 は
「外部では全く見られない」はずの目録である。統監府
蔵書 11 部 90 冊と曽根荒助献上本 (43.12.3)152 部 762
冊(部数は前記、文書番号 386 と合致)。ただ「評価」
が全 20 頁で墨塗りだ。
その他、文書番号 583「文化財保護委員会本間氏と
の会見報告」1952.2.18 では、25 頁 1952.8.21 市立米
澤図書館岡博館長の「韓国書籍の調査報告」「次頁不
開示」。しかし文書番号 380「韓国国宝古書籍目録 ( 第
二次分 )1953.10.15 韓国側より受領」156 ~ 157 頁で
は目録が開示されている。頭隠して尻隠さずの類か。
同 27 頁 1952.8.21 国立国会図書館阪谷俊作一般考
査部長「韓国書籍の調査」では 1 行墨塗りの後「次頁
以下 11 頁不開示」だが、2012 年 4 月国立国会図書館
東京本館古典籍資料室から受け取った通知には、1910
年以前に朝鮮で刊行・書写された「朝鮮本」約 550 タ
イトル 2,800 点を所蔵、大半が『国立国会図書館所蔵
朝鮮資料目録 4 朝鮮本篇』(1975 年刊)に掲載され
ている。つまり完全に外部に公開されているのである。
同 28 頁 1952.8.23 名古屋市蓬左文庫織茂三郎主事
の文部省大学学術局情報室宛の報告「次頁以下 11 頁
不開示」の内容は、目録と思われる。ただ次の 29 ~
30 頁に「2、学術的価値の概要、3、入手経路、4、韓
国より日本に到来した経路」に関する解説は開示され
ている。また前出、文書番号 584 の 16 頁「名古屋市
蓬左文庫所蔵韓国図書に関する調査報告」でも、次頁
以下 10 頁不開示。ところが文書番号 379「韓国国宝古
書籍目録日本各文庫所蔵」74 ~ 87 頁では「原 ( 旧 )
蔵者および入手経路」を除き、目録が開示されている。
やはり、頭隠して何とかか。
前出、文書番号 584 の 31、32 頁、東京都世田谷区岡
本にある「静嘉堂文庫」の墨塗り二ヵ所は、「岩崎彌之
助の 17 回忌に当たり、大正 13 年 (1924) 小彌太が文
庫を建て図書を収蔵した。」と静嘉堂文庫美術館のホー
ムページ 4) で公開されているので、墨塗りの中身は「岩
崎小彌太」と判明。外務省が隠ぺいすべき対象でない
ことは明らか。
また文書番号 586 千代田区神田駿河台石川武美記念
図書館(旧称、お茶の水図書館)にある「成簣堂文庫
について」1963.6.5 の 2、3 頁にある墨塗りは「徳富
猪一郎」であることが、26、29 頁の記載から証明される。
文書番号 586 東京目黒区駒場にある第五代加賀藩主
綱紀の「尊経閣蔵書について」1953.6.10 アジア二課、
6 頁の下「次頁以下 10 頁不開示」だが、文書番号 379
「韓国国宝古書籍目録日本各文庫所蔵」88~106頁では、
目録が開示されている。
3.日韓文化財協定から 50 年、今後の見通しは
「文化財」という概念の定義もなしに締結された
1965 年の協定に関しては、双方で正反対の意見が出た
まま、宙ぶらりんの状態である。
1965 年の日韓文化財協定が締結された当時、専門家
でない門外漢の外務省担当者が進めた文化財問題小委
員会等、対等な外交交渉でもなかった。また「合意議
事録」にある「日本は日本国民の私有文化財を自発的
に韓国に寄贈するということが、韓日両国間の文化協
力の増進に寄与するようになるから、これを勧奨する」
という文言には、何の強制力も、また後日、その実行
を点検すべき義務すらなかった。
その後、世界的な基準となる 1970 年のユネスコ条約
に加入するまで日本は 33 年間も要したし 5)、1995 年