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韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議年報2015
Page 1
(1)
1965 年6月 22 日に日本と韓国が「日韓基本条約の関
係諸協定、文化財及び文化協力に関する日本国と大韓
民国との間の協定」に調印し ( 発効は同年 12 月 18 日 )、
考古品、図書等 359 件、1,321 点が韓国に「引渡されて」
からちょうど 50 年が経過します。
この間、1991 年4月には「故李方子女史 ( 英親王妃 )
に由来する服飾等の譲渡に関する日本国政府と大韓民
国政府との間の協定」が調印されて、故李方子女史(英
親王妃)に由来する服飾等 227 点が「特別措置」として「譲
渡され」ました。
「 併合 100 年 」 を機に出された 2010 年8月 10 日の菅
総理談話 ( 閣議決定 ) に基づき、同年 11 月 14 日に「図
書に関する日本国政府と大韓民国政府との間の協定」
が調印され、1,205 点の図書が「引き渡」されました ( 発
効は 2011 年6月 10 日、引き渡しは同年 12 月 16 日 )。
「北関大捷碑
のレプリカ
他方、民間では、1996 年に山口県立山口女子大学が「寺
内文庫」の所蔵品の一部を韓国の慶南大学に引き渡し、
2005 年に靖国神社が「北関大捷碑」を韓国政府に引き
渡し、その後、韓国から北朝鮮に移送、2006 年に東京
大学が 「 朝鮮王朝実録 」 をソウル大学に引き渡しまし
た。数が多いとはいえませんが、日本側民間の篤志家
が自発的に返還・寄贈したものもあります。
しかし、近年数万点におよぶ朝鮮半島由来の文化財
が日本に散在することが明らかになり、一部が韓国 ・ 朝
鮮への返還を求められています。これらの韓国・朝鮮
側の要求をめぐって紛争も起き、日韓の深刻な不協和
音となって、外交関係にまでダメージを与えています。
文化財が両国の歴史リスクの一因となり、ナショナリズ
ムを刺激し、互いに「反韓」「反日」を煽る結果となっ
てきている現状は大変に残念で、放置しておくことが許
されない事態に至っています。
そこで、過去半世紀の反省に立ち、文化財をめぐる
紛争や対立を抑制・回避し、むしろ一層の文化交流を
促進するために、日韓国交正常化 50 年を機に、以下の
ような趣旨で、「 文化財及び文化協力に関する日本と韓
国との間の新協定 ( 追加協定 )」( 仮称 ) を提案し、働
きかけることを提言したいと考えます。皆様からのご意
見やご提案もお寄せください。
1.「 寄贈 」「 引き渡し 」 でなく 、「 返還 」 に用語の統一を
従来、日本側は 「 寄贈 」「引き渡し」と述べ、韓国
側は「返還」と説明していますが、誤解と齟齬を避
けるために、元の場所や所有者に戻す際は、「返還」
に用語を統一すべきではないでしょうか。
2.返還・協力は「勧奨」でなく、「責務」「積極的関与」へ
1965 年協定には「日本国民がその所有するこれら
の文化財を自発的に韓国側に寄贈することは日韓両
国間の文化協力の増進に寄与することにもなるので、
政府としてはこれを勧奨する」ことが合意議事録に
明記されていますが、実際には民間の文化財返還は
ほとんど進んでいません。そこで、新協定では、民
間レベルでの文化財の調査・交流・返還が促進され
るための政府側の責務と積極的な関与を明記するこ
とが必要ではないでしょうか。
3.総合的な調査を共同で
日本にある朝鮮半島由来の文化財および朝鮮半島
にある日本由来の文化財についての全体的な調査を
両国の専門家が参加し、共同して行うことが不可欠
です。新協定には「日韓共同文化財総合調査機関」( 仮
称 ) の設置を明記すべきではないでしょうか。
4.民間任せにせず、国が関与し、紛争拡大予防へ
従来、民間所有の文化財の取り扱いは民間に委ねら
れてきましたが、文化財返還をめぐる問題が紛争化、
深刻化してきている事態を受け、両国政府が積極的に
関与 ・ 介入し、紛争の調停 ・ 裁定機能と権限を持つ独
立的な委員会を設置し、合理的な解決を主導すること
を新協定に明記すべきではないでしょうか。
5.返還の法的手続きの明確化と簡素化
上記の機構 / 委員会が 「 返還 」 を命じた場合、国
が所有するものも、そのつど特別に協定を結ぶことな
く、速やかに返還できるよう、国内法との関係も整理
して、返還のルール・手順についても明記し、スムー
ズな返還を促すべきではないでしょうか。
6.国際的なルールと水準の尊重
UNESCO が主導し、確立されてきた国際的なルール
を尊重し、それらに準拠することを明記すべきではな
いでしょうか。共同の研究や文化財の活用も。
【1965 年日韓文化財 ・ 文化協定から 50 年= 2015 年の課題】
文化財返還めぐる不毛な混乱と不信に歯止めをかけ 、 新しいスタートを切るために
研究者 ・ 市民の側から 21 世紀にふさわしい新協定提案を
韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議年報2015
The Liaison Committee on Lost Korean Cultural Properties in Japan 한국/조선 문화재 반환문제 연락회의
編集・発行:韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議
2015年6月1日 No.4
〒102-0074 東京都千代田区九段南2-2-7-601 ☎03-3237-0217 Fax03-3237-0287
頒価=100円(送料90円)
E-mail:kcultural_property@yahoo.co.jp
http://www.asahi-net.or.jp/~vi6k-mrmt/culture/korea/index.html
郵便振替:00140-9-607811「韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議」(年会費=個人3000円・団体5000円・賛助会費=10,000円)

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(2)
■内外の新聞報道などから
2014.7.29. 中央日報日本語版
日本の韓国搬出文化財隠ぺい疑惑
…韓国政府「事実関係を確認中」
 韓国政府は、日本政府が韓日国交正常化交渉の過程
で韓国から搬出した文化財の目録と内訳等を隠してい
たという情況が、日本裁判所の判決文等を通して最近
明らかになった報道に関連して「事実関係を確認中」
と 29 日、明らかにした。
 韓国の外交部報道官は同日の定例ブリーフィングで
「今回の判決については韓国政府も注目している」と
しながら「文化財返還問題は不法不当に搬出されたか
どうかについての搬出経路の調査、両者・多者条約な
ど国際法的な検討が必要な事案」と述べた。また「韓
国政府は不法不当に搬出された我々の文化財還収のた
めに外交的な努力を尽くしていく」と強調した。
2014.8.11. 新華ニュース
中国民間団体、初めて日本皇室に文物の返還要求
 中国の民間団体である中国民間対日賠償請求連合会
は在中国日本国大使館の木寺昌人大使を通じ、日本の
明仁天皇と日本政府に対し、旧日本軍に奪われた中国
の文物「中華唐鴻臚井碑」を返還するよう要求した。
中国の民間団体が日本皇室に文物の返還を要求したの
は今回が初めてだ。
 唐鴻臚井碑は本来重さが約9トンで、単体が約 10 立
方メートルのラクダの形をした天然巨石だ。1908 年に
旧日本軍が鴻臚井碑と護衛碑亭を日露戦争の戦利品と
して日本に持ち去り、日本の皇宮に収蔵している。
 中国民間対日賠償請求連合会の童増会長によると、
まずは正式に在中国日本国大使館に書簡を渡し、文物
の返還を要求している。次のステップとして、在中国
日本国大使館に転送に関することを問い詰める。これ
から、中国民間対日賠償請求連合会は日本へ訴訟を提
出し、文物の取り戻しに成功した韓国団体と協力する。
また、「文物の取り戻しに成功するかどうかは日本皇
室の良心次第だとしている。これまでに韓国は文物の
取り戻しに成功したことがある」と強調した。
 華東政法大学国際法系の管建強教授は「文物が旧日
本軍に奪われた後、日本の公権力に所有されている。
従って、文物の取り戻し方式について、通常は外交の
手段で文物の取り戻しを実現する」と指摘した。
2014.11.25. 共同通信
対馬で韓国人が仏像窃盗容疑 男4人逮捕
 長崎県警対馬南署は 24 日、同県対馬市の寺から仏
像を盗んだとして、窃盗の疑いで韓国人の男4人を逮
捕した。うち2人は容疑を否認しているという。
 対馬南署によると、逮捕されたのは住職の金相鎬
(70)、農業の金溶晃(54)、警備員の安承チョル(53)、
会社員の李哲佑(47)の4容疑者(職業はいずれも自
称)。
 4人の逮捕容疑は 24 日午前 10 時~午後1時 50 分
ごろ、対馬市美津島町の寺から銅製の仏像を盗んだ疑
い。仏像のほか複数の経典も持っており、対馬南署は
関連を調べる。
 対馬南署によると、仏像は高さ約 11 センチの「誕
生仏」で、対馬市指定の有形文化財。
2014.11.30. 聯合ニュース
韓国 日本に文化財返還協力機関創設を提案
 韓国文化体育観光部の金鍾徳(キム・ジョンドク)
長官は 29 日、横浜で行われた下村博文文部科学相との
会談で、日本にある韓国文化財の返還問題などを議論
する協力機関の創設を提案した。金長官が聯合ニュー
スとのインタビューで明らかにした。
 金長官は「日本側は対馬の寺から韓国人に盗難され
た仏像について言及し、われわれはその問題だけでな
く、日本側が韓国から不法に持ち出した文化財も議論
しなければならないとした」と説明し、「この問題を協
議する両国共同の協力機関を設置するよう提案した」
と伝えた。
 これに対し、下村文科相は特別な反応を示さなかっ
たという。
 金長官は「海外の韓国文化財のうち、43%に達する
6万 7000 点以上が日本にあるだけに、そのリストや
取得経緯などをユネスコ条約(文化財の不法な輸出入・
所有権移転禁止条約)に基づいて明らかにする必要が
あることを強調した」と述べた。
 近年、両国の間では文化財と関連した問題が相次い
でいる。今年7月、日本政府が韓日国交正常化交渉
で韓国から持ち出した文化財に関する情報を隠蔽(い
んぺい)したことが東京高裁の判決文などで明らかに
なった。これを受け、韓国政府は日本内の韓国文化
財のリストや関連した非公開文書を公開するよう日
本政府に公式に要求した。また、日本は韓国人窃盗団
が 2012 年 10 月、対馬の寺から盗み出し、韓国に持ち
込んだ仏像2体の返還を求め、韓国の裁判所は寺の仏
像の取得経緯が確認されるまで返還を見送ることを決
め、両国間の外交摩擦が高まった。
 一方、金長官と下村文科相は来年の国交正常化 50
周年を記念するため、両国のオーケストラの共演など、
文化交流プログラムについても意見を交換した。
 下村文科相は 13 世紀の元寇(げんこう)の沈没船
の一部が長崎沖で見つかったとして、共同発掘を提案
したという。
2015.2.11. 長崎新聞
対馬、仏像盗難防止で新博物館 19 年度開館へ
 長崎県は 11 日、対馬市で貴重な仏像の盗難事件が
続いたことを受け、文化財を市内の寺社や個人から預
かり、展示・保管する博物館を 2019 年度にもオープ
ンさせる方針を固めた。県の 15 年度当初予算案に関
連費用を盛り込む。
 ことしは日韓国交正常化 50 周年に当たる。韓国と
文化的な交流を深める施設として位置付け、韓国人観
光客にも楽しんでもらう施設にする。
 新博物館は、市の中心部にある県立対馬歴史民俗資
料館の敷地に整備。対馬市も予算を計上し、県と市で
15 年度中に施設の展示内容や外観の詳細を決める。

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(3)
* 2014 年 12 月 18 日ソウル・古宮博物館講堂で国外所
在文化財財団と連絡会議の共催で開催されたの『略奪
文化財は誰のものか―日帝文化財搬出と植民地主義清
算の道』(荒井信一著、李泰鎮・金ウンシュ訳、大学社刊、
岩波新書『コロニアリズムと文化財』の韓国語版)出
版記念フォーラムで行われた記念講演の全文を収録し
ました。    ( 編集部 )
 今日は私の著書の韓国語版の刊行を記念する会を開
いていただき、李泰鎮(イー・テジン)先生をはじめ
関係された皆様に心からの感謝を申しあげます。
 このような席で私的なことを申し上げるのは心苦し
いのですが、日本で『コロニアリズムと文化財』が出
版された直後に、それを待っていたかのように妻が亡
くなりました。60 年以上前に同じ学問をめざすもの
として結婚して以来、妻は歴史研究の仲間としていつ
も私を支えてくれました。それだけに韓国の皆さんが
この本を高く評価して、立派な韓国語版を作ってくだ
さったことに亡き妻とともに厚くお礼を申し上げま
す。
 この本の内容を紹介しなければいけないのですが、
執筆者として紹介するとどうしても細かくなりがちで
す。そこでいわば客観的な評価として友人の手紙で述
べられた感想や新聞等での紹介など、その一部をお伝
えしてそれに替えようと思います。
 同じ現代史研究専攻の友人は、次のような感想を寄
せてくれました。
 「江華島事件当時の文化財の略奪から「学術調査」
の名の下の文化財の収集・持ち出しなどの事例のほと
んどは初めて知ることばかりで、その徹底ぶりには驚
くばかりでした。私は早稲田大学の出身ですので、現
在もしばしば利用する図書館の裏の入口の左右に、羊
の石造一対が並んでいることを思い出しました。朝鮮
王朝時代の王陵の守護として置かれていたということ
で、G婦人が「収集」して早稲田大学に寄贈したそう
です。図書館の館報などには寄贈の経緯などについて
は触れられていますが、「収集」の経緯は説明されて
いませんし、これまでコロニアリズムの観点から議論
の対象にもなっていないようです」。
 新聞は全国紙のほとんどが書評・紹介を掲載しまし
た。その一部の抜粋です。
 「現在、世界中に未決の文化財返還問題が無数に存
在するが、この問題に対処するとき、私たち日本人の
求められるのは、まさに本書の副題にある「近代日本
と朝鮮から考える」ことである。このことから目を背
けることはできない」( 日本経済薪聞 2012.8.12 付 )。
 「長く戦争責任問題を研究してきた筆者だけあっ
て、植民地主義の政治や軍事が文化財問題といかに深
く連動しているかについての分析も鋭い」( 読売新聞
2012.9.2 付 )。
 「文化財を人類全体の遺産として位置づけ、近代日
本と朝鮮を軸に、植民地主義の歴史的清算という観点
から考える」( 東京新聞 2012.9.16 付 )。
全体として好意的なものでした。
 本書の執筆を思い立ったのは、韓国併合一〇〇年に
ついての菅直人首相の談話 (2010 年8月 10 日 ) です。
首相は、併合条約の無効理由となる強制性について間
接的な表現ですが「その意に反して行われた植民地支
配」として認めました。そして日本にある「『王室儀軌』
等朝鮮半島由来の貴重な図書」の問題を取り上げ、近
くこれを「お渡し」したいと約束しました。
 21 世紀に入る頃から、韓国では植民地時代に日本に
搬出された文化財の返還問題の速やかな解決が重要課
題として浮上してきました。韓国の市民団体が還収 委
員会をつくり貴重図書の返還などを要求するようにな
り、その結果、2006 年には東京大学が所蔵する『朝鮮
王朝実録』がソウル大学に寄贈されました。民間でも
韓国の利川(イチョン)市民の大倉集古館所蔵の石塔
の返還要求が本格化しました。1965 年日韓条約締結の
際にも文化財問題の解決が問題となりましたが、植民
地 支配の有効、無効をめぐる対立が障害となり根本
的な解決はできませんでした。そのことは改めて植民
地主義の克服と文化財問題の解決とが密接に関連する
ことを示唆したと思います。
 すでに 1970 年代には、ギリシャ、エジプト、イラ
クなどがヨーロッパに持ち去られた文化財の返還を要
求し、ユネスコもコロニアリズムの清算とかかわらせ
てとりあげ、新しい動きを見せました。韓国でも李亀
烈(イー・グヨル)の日本の文化財略奪に関する新聞
連載が大きな反応をひきおこすなどがあり、文化財問
題が市民運動のひとつの目標となったかに思えまし
た。2008 年にはユネスコが文化財に関する専門家会議
をソウルで開き、文化財返還間題はグローバル化して
きました。とくに今世紀に入りアメリカの大学、美術
館からの原産国への文化財返還が大きな話題となりま
した。
 日本では、70 年代から民間における私有文化財返還
の動きが個別におこるようになりましたが、コロニア
リズム清算と関連する問題として政治的にも強く意識
されるのはここ数年のことといえます。そのため韓国
文化財返還と植民地主義の清算
荒井 信一   
(特別講演・ソウル 2014.12.18.)

Page 4
(4)
からの文化財搬出問題について、日本には本格的な研
究は極めて少ないといってよい状況でした。個々の文
化財の搬出経過についての調査報告が大部分であると
いっても良い状態でした。特に植民地主義の清算の重
要な一環として、文化財返還問題を取り上げたものは
皆無といってよい状況でした。『王朝儀軌』にしても、
2001 年に情報公開法が施行されて初めて、韓国の海外
典籍研究会の調査が可能となり、日本の宮内庁に所蔵
されていることがわかりました。韓国で儀軌返還運動
が本格化し、2010 年 2 月には韓国国会が返還要求決議
を採択しました。過去の歴史の反省と未 来志向的な
両国関係のために返還を要求したものです。
 私と一緒にこの出版記念会に参加している皆さんと
相談して「韓国・朝鮮文化財返還問題を考える」公開
シンポジュウムを開いたのは、この年の6月です。わ
たくしは基調報告をすることになり、恥ずかしい話で
すが、ほとんどにわか勉強で何とか日本近代における
文化財問題の経緯をまとめて報告しました。このシン
ポジュームを機会に在日の人々とともに「韓国・朝鮮
文化財返還問題連絡会議」を結成し持続的に運動を展
開することになりました。
 報告の作成を通じて私が痛感したのは、文化財の略
奪・搬出問題の背景を日韓関係史のそのときどきの構
造のなかで明らかにし、文化財問題の解決の方途を客
観的に考える手がかりにしたいということでした。文
化財問題の歴史というよりも、コロニアリズムという
世界史的枠組みの中で文化財返還問題をとらえてみた
いという思いにかられたといってもよいのです。
 管首相談話が出たのはちょうどのような時です。そ
れにもとづき「お渡し」のための日韓図書協定の原案
が確定したのは、同年 11 月のことでした。政府間協定
による文化財返還には先例がありました。1992 年の「李
方子(英親王妃)服飾譲渡協定」がそれです。また同
じ 11 月には、韓国とフランスの間にも「図書貸出協定」
が成立し、翌年には外奎章閣図書が事実上返還されま
した。しかし日韓図書協定については 2011 年 4 月に
なってようやく国会の審議が始まりました。私は衆議
院での審議の際、外務委員会に参考人として呼ばれて
意見を述べました。次はこの時の意見陳述の一部です
が、本書執筆の直接の契機になりました。
 『王室儀軌』は、文字と絵画で記した宮廷資料として
世界でも稀なもので、歴史的にも文化的にも優れた朝
鮮王朝文化を視覚的にも体感できる宮廷記録です。私
は儀軌が日本の宮内庁に秘蔵されるまでの経過を述べ
「その返還は、植民地支配の清算に通じるものとして、
韓国との和解と友好関係を一層増進させることになり
ます」と返還の歴史的正当性を主張し、さらに次のよ
うに述べました。
 「歴史資料の返還一般として考えてみますと、王室
儀軌は五百年以上続いた朝鮮王朝研究の基本的資料で
あります。その史跡や歴史遺物は朝鮮半島の全域に存
在して、大事にされています。そして、朝鮮の人々の
国や地域への誇りや帰属意識、そういうもののよりど
ころになっておるわけであります。つまり、歴史資料
などの文化財は、その成立した環境、背景に置くこと
によってその真価が理解できるので、原産国に置くこ
とが望ましいということであります」。
 「現在、文化財について、国際的な動き、非常にい
ろいろな動きがあります。簡単に言えば、文化財とい
うのは艮族または地域に固有のものでありますが、同
時に、それが国際的に認知されることによって普遍的
な価値を持つことができます。つまり、グローバル化
の中で普遍的な価値を有する文化財、これは、観光資
源としての国際性、それから経済的にも非常に重要な
ものに現在なりつつあります、世界的に。そのために
は、基本的に公開して、観客とそれから研究者、これ
が自由にアクセスできる、自由な研究ができるという
ふうにしないといけない。所有権の移動にもかかわら
ず、返還された遺物等を、例えば、共同で巡回展示を
やるとか、博物館を共同で管理することが必要です」。
 「あるいは、最近のアメリカの例でいいますと、イン
カ帝国の秘宝をイエール大学が一九一二年に取得して
おります。これが、今年、協定ができてイエール大 学
がペルーのクスコ大学に返還したわけですけれども、
これは、イエール大学とクスコ大学との協定で、例
えばイエールの学生がクスコへ行ってフィールドワー
クをやるとか、あるいはクスコの、ベルーの研究者が
イエール大学に来て研究をするとか、あるいは大事な
ものは複製をつくってイエール大学に置くとか、いろ
いろな工夫をやっているわけであります。そういう意
味で、王室儀軌の返還というものが、歴史資料の公開、
それからアクセス、研究の自由の保障、こういうこと
に積極的に役立っていく、これは絶好の機会だという
ふうに私は考えております」。
 この意見陳述が本書執筆の直接の契機となりまし
た。日記を調べてみると2カ月後の6月には企画書が
でき出版のための交渉を始めています。私の本のでき
るまでの経過と問題点の紹介は以上のとおりです。
 最後にお渡しした「朝鮮鐘の資料について説明しま
す。最近、対馬での仏像盗難事件が話題を呼んでいま
す。私が扱ったのは近代以降の問題ですが、近代的な
国際社会、国際法の成立は、通説では 17 世紀です。日
本や韓国が国際社会の一員となり、当局者が国際法を
意識するようになるのは 19 世紀後半といえましょう。
したがってそれ以前の歴史時代に直接、近代の国際法
や法理を適用することには困難があります。
 そこで重要になるのは、文化財の移動に関する歴史
的経緯の解明です。その基礎となるのは、文化財の政
策や移動に関する歴史的事実の確定であります。私は
その点について「朝鮮鐘」が多くを語ってくれると思っ
ています。無記銘の鐘も少なくありませんが、多くの
鐘には制作の時点や、かけられていた仏寺の名前を刻
んだ原銘があります。また日本へ渡来後につけられた
追銘によって年台や所有者を確認できる鐘もたくさん
あります。金属に刻まれた文字資料として第1級の資
料であり、数も多いのでそれをもとに朝鮮原産の文化
財の日本への搬出、日本での移動などを系統的に理解
できます。資料では一覧表の次にそれぞれの歴史時 代
における趨勢を書いておきましたので、前近代の文化
財問題をどう考えたらよいのか、皆さんと一緒に考え
る材料にしていただければと思っております。
 ご清聴ありがとうございました。

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(5)
声は広がってくると予想されます。不幸なことに、そ
れに応じて、それに反発し、返還を阻止しようとする
動きも日本側で強まってくると思われます。いかに混
乱を制御し、スムーズに返還を実現することができる
のか? 私たちも知恵を絞らなければなりません。た
だ、「返せ」「返せ」と叫ぶだけでは、却って関係が悪
化し、こじれるばかりで、返還は遠のく一方です。
 私たちは、まず先達の仕事に学ぼうと、2010 年結成
直後に、1972 年にガリ版刷でわずか 200 部だけ刊行さ
れた、韓日会談で文化財返還問題を担当された黄永壽
先生の「日帝文化財被害資料」を、会員たちの手によっ
て翻訳し、復刻しました。同書は、当時の先達の苦労
とその努力が報われなかった無念さ、怒りのこもった
告発の書です。近く韓国でもこの書が復刻・刊行され
ることになり、作業が続けられていますが、黄永壽先
生らの無念と提起された課題を、40 年を経て、受け止
め、大変遅まきながら、もっと韓国、朝鮮、日本の研
究者・市民、そして政府も連携・共同して、1965 年で
止まったままになっていた調査と返還の事業を進めな
ければいけないと強く感じるようになりました。
 ちょうど来年は 1965 年の文化協定から 50 年です。
同協定には、請求権協定とは異なり、「完全かつ最終的
に解決した」との文言は入っていません。その後、李
方子女史の衣服を返還したり、朝鮮王室儀軌を返還し
た事例もあります。ただし、そのために一々政府間で
協定を結び、批准を受けるプロセスが必要でした。今
後、多くの文化財を返還するに当たり、一々同様の協
定を結ぶことは過剰な負担を強いることになり、障害
となります。
 連絡会議結成直後から私たちは、<朝鮮半島由来の
文化財の総合的な調査と包括的な返還促進のための立
法措置>を提言しています。無用な葛藤を極力制御し、
スムーズな返還を実現するための知恵と仕組みと法的
措置が必要です。ポイントは、日韓の専門家による共
同の調査、データの集積・共同管理、文化財返還に関
わる紛争が起きた場合の調停・裁定機能を持った紛争
処理委員会の設置、返還のルール作りなどになると考
えますが、韓国側の皆様とも十分意見交換して、内容
を検討していきたいと希望します。
 文化財を調査し、返還に向けて働きかける活動が、
韓国でも日本でも、専門家だけでなく、教師や学生、
地域の郷土史家や古老なども広く参加できるムーブメ
ントに広がっていくことを強く願っています。また、
日韓、日朝という枠を超えて、ユネスコなどで論議さ
れている世界の文化財返還の動きにも学びながら、世
界史的な視点から、植民地支配と文化財の問題を考察
し、返還の道筋を提起していきたいと願っています。
 文化財を考え、行動することで、東アジアにナショ
ナリズムを超えた文化的なインターナショナリズムが
醸成されることを、文化財をめぐる争いから平和と交
流のための文化財返還運動に発展・進化することを願
い、呼びかけて、私の話を終わらせていただきます。
* 以下は、2014 年 10 月 29 日ソウル ・ 古宮博物館講堂
で開催された 「 文化財探し韓民族ネットワーク 」 の
創立大会に招かれ、「韓国 ・ 朝鮮文化財返還問題連絡
会議」を代表して行われた記念講演の要旨です。( 編
集部 )
 私どもは、日本に持ち去られた文化財の返還を求め
る韓国の皆様の活動に触発されて、2010 年6月に、韓
国・朝鮮文化財返還問題を正面から取り上げる連絡会
議を東京で結成しました。長年にわたり朝鮮 ・ 韓国と
日本の歴史問題に取り組んできた荒井信一茨城大学名
誉教授を代表に、東京だけでなく、愛知、京都、大阪
など在住する会員や協力者に支えられて、活動を続け
ています。在日の方々と日本人がメンバーで、会員・
賛同団体は併せて 40 ほどで、それほど大きな団体で
はありません。
 情報交換や研究、調査、啓発活動を中心に行なって
きましたが、いくつかの韓国側の市民運動のお手伝い
もさせていただきました。地味なテーマですので、さ
さやかに取り組むつもりでしたが、実際には、文化財
返還を求める韓国・朝鮮側の運動が、しばしば大きな
政治問題、社会問題となり、日韓の間で緊張と葛藤を
生んできました。
 ご承知のとおりの日本の右傾化 ・ 保守化の流れの中
で、2011 年に「朝鮮王室儀軌」を返還する際にも、「日
韓図書協定」の批准を求められた日本の国会では、現
在政権与党で当時は野党だった自由民主党は強く反対
し、執拗に返還に異を唱えました。(公明党は協定に
賛成でした。)そして 2012 年 10 月に対馬の仏像2体
が盗まれて韓国に持ち去られた事件が判明し、2013 年
2月に韓国の裁判所が盗難仏像の移転禁止仮処分を出
すと、日本社会全体がこれに憤慨し、一気に「反韓」「嫌
韓」の世論が広がってしまいました。文化財返還問題
を冷静に議論、研究できない環境に陥ってしまい、そ
の深刻な後遺症が今も続いています。
 文化財は、信仰や鑑賞の対象であり、それらを通じ
て歴史に触れ、先人の営みを知ることのできる貴重な
資産です。それらがビジネスの対象にされる場合も多
くありますが、倉庫の中に閉じ込められたり、裁判所
に保管されることは、本来のありようではありません。
研究者だけでなく、広く老若男女がさまざまな思いを
抱きながら接し、触れることができるように公開され、
配置されるべきです。
 また、朝鮮半島由来の文化財のたどった歴史を調べ
ることは、その時代、それに関わった人物や組織の歴
史を知り、学ぶことにほかなりません。極めてクリエ
イティブで、刺激的な作業です。文化財を利用して、
相手をバッシングするだけのネガティブな運動は、日
韓双方において強くいましめられなければなりませ
ん。
 調べれば調べるほど、研究すればするほど、日本に
ある朝鮮半島由来の文化財は増え、その返還を求める
文化財をめぐる争いから平和と交流のための文化財返還運動に
有光 健   

Page 6
(6)
実態は「世界の笑い者」である。
 こういうことを日本のマスコミは報道しない。それ
ゆえ必然的に「イン・カメラ」という単語自体、一般
にはほとんど知られていない。
 二次訴訟の敗訴もあり、弁護団も会の執行部もこれ
以上、最高裁で争っても良い結果は得られないと予測
して、上告を望む人は誰もいなかった。これで 10 年
にわたる当会の裁判は終結した。
 この判決に対する韓国のマスコミ報道はひどかっ
た。記者会見に臨んだ原告の李容洙慰安婦おばあさん
を「弁護士」と紹介したのだ。あまりに初歩的なミス
なので、今はインターネットから削除されている。
 もっといけないのは、一部控訴と全面控訴を勘違い
して報道したことだ。ほとんどの文書は、一審の勝訴
判決によって開示されている。一旦開示されたものを、
もう一度隠すのは不可能だ。
 訴訟費用から見ると判り易い。一審で勝訴したと
いっても、訴訟費用の3分の1は原告である市民団体
側の負担で、3分の2が国の負担だった。でもこちら
からしかけた裁判なので、3分の2の勝利ではなく、
もっと比重が高いと評価できる。
 控訴審判決ではそれが2分の1まで下げられたの
で、66.6% の勝利が 50% に落ちた。つまり 16.6% 負け
たのであって、決して 100% ひっくり返ったのではない。
 日韓間で色々な摩擦が起きている昨今、恣意的な報
道管制や自粛が歴史の歪曲を生み、軋轢をどんどん深
めている現実に、深く憂慮するものである。
2.‌高裁で不開示が支持された文化財関係の諸目録類
 勿論、既に開示されている文書番号 385「河合文庫」
は、裁判の対象から外された。
 しかし文書番号 589「韓国関係重要文化財・美術品
一覧」1957.2.28 は「指定年月日、品目、員数、所有者、
備考」がすべて墨塗りで、不開示が妥当とされた。
 文書番号 567「韓国文化財の提供について」から 12
~ 21 頁の別紙一「東京国立博物館所蔵韓国関係文化財
一覧」1957.2.28文化財保護委員会 (一)歴史部、(二)
美術部、( 三 ) 美術工芸部、( 四 ) 美術品部の「受理年
月日、受理区分、備考」も墨塗り。別紙二「東京国立
博物館保管の朝鮮古墳出土美術品のリスト」1958.2.6、
22 頁全部墨塗りで次頁以下 3 頁不開示。
 文書番号 588「東京国立博物館所蔵韓国所出品」
1963.3.18 の 2 ~ 30 頁も同じ内容。
 文書番号 591「韓国文化財の現状等に関する調書」
1962.12.24「1、朝鮮総督府により搬出されたもの」の
うち、(1) 慶南梁山夫婦塚出土品、(2) 慶州路西里 215
番地古墳出土品、(3) 慶州皇吾里第 16 号古墳出土品に
続く、3頁後半と次頁以下2頁不開示だが、高裁の判
決文 61 頁に「出土した品について南北鮮の別、国有
民有の別、現在の所蔵場所、所蔵に至った由来等の現
状に係る情報」とある。「現在の所蔵場所、所蔵に至っ
た由来」を隠さなければならないのは、「不当に取得
1.‌東京高裁で3次訴訟の判決が出て、原告、被告と
も控訴せず、裁判は終止符
 日韓会談における日本側 348 文書の開示を求めて
( 当初は 369 文書 )、2008 年 10 月 14 日東京地裁に提
訴した三次訴訟は、量も膨大だったこともあり、2012
年 10 月 11 日になってやっと判決が出た 1)。しかしそ
の内容は、約8割近い 268 文書について「不開示処分
の全部又は一部を取り消す」という画期的なものだっ
た。国を相手にする情報公開の行政訴訟で、原告側が
勝訴すること等、考えられない程稀有な出来事だ。こ
れは市民団体側の要求が余りに正当なものというより
も、外務省側の隠匿があまりに幼稚で杜撰だったこと
を証明するものであろう。
 また、30 年以上経過した文書について国に「法的保
護に値する蓋然性をもって存在することを推認するに
足りる事情をも、主張立証する必要があると解するの
が相当である」と明確な基準を示したのみならず、「裁
判所の審理の制約を超えて、・・・更にその全部又は一
部を開示する余地のあるものもあり得る」と、日本の
法制度の未備(イン・カメラがないこと)にまで言及
した。司法府がここまで立法府を批判したことは、特
筆できるのではないか。
 面子を潰された外務省は 2012 年 10 月 24 日(当時は
民主党政権だったが・・・)、東京高裁に 47 文書に対
して開示決定不服申立ての一部控訴した。1916 のファ
イル、6万頁もある文書のうち、「これなら勝てる筈」
と厳選した 47 文書が争点だったので、被告のわれわれ
市民団体側の方が、不利なことは当然予測されていた。
 外務省の一部控訴に対抗して、今度は被告側の立場
に回った市民団体の弁護団は附帯控訴で対抗した。附
帯控訴と控訴との違いは、訴訟費用をこちら側は負担
せずに済むという利点がある。
 公判が結審した 2014 年 3 月 13 日の証人尋問で、外
務省北東アジア課の小野啓一課長が「文書番号 385「河
合文庫中官府記録」が開示されると、・・・我が国が交
渉上不利益を被るおそれが生じることが十分想定され
る」と開示を拒否したのだが、その直後の同月 24 日
にこの文書が開示されたことまでは、去年の年報で報
告した。これでは、今まで2年間の控訴審が何だった
のか、裁判という形式すら整っていないようだった。
 高裁は同年7月 25 日、外務省の一部控訴 47 文書の
不開示を容認する判決を下した 2)。
 30 年公開原則についても「このような取扱いが国際
的慣習であると認めるに足りる証拠はなく」という後
退したものだった。
 前記、判決内容が如何に無駄で根拠のないことか羅
列したが、そもそも外務省に公私立の博物館や大学、
文庫が所蔵する文化財の目録を隠蔽したり、墨塗りす
る権限があるのだろうか。
 「イン・カメラ制度」すらない日本の立ち遅れた裁
判制度の中で、墨塗りの中身も見ないで裁判官が無条
件に、政府、外務省の隠蔽を支持・黙認して容認する
報 告  文化財関係の日本側外交資料公開状況について
―日韓会談の文書公開を求めた 10 年にわたる裁判を終えて-
李洋秀(イー・ヤンス)  

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(7)
したり強奪、盗掘した証拠」と自ら認めている証拠か ?
 文書番号 584「韓国関係文化財調査に関する打合」
1953.5.20-7.4 の 15 頁、別添リスト (2)「京都大学文
学部陳列館所蔵韓国出土遺物」のうち先史時代の「品
名、数量、出土地、受入年、入手経路、購入時代価」
がすべて墨塗りで「次頁以下 4 頁」は不開示。
 しかし京都帝国大学 ( 当時 ) 文学部陳列館の 1930 年
3 月「考古図録」は国立国会図書館の「近代デジタル
ライブラリー」で世界中に公開されていて、閲覧も複
写も自由にできる。3)
 文書番号 592「東洋文庫田川博士との懇談記録」
1963.3.18 の 6 ~ 7 頁には「宮内庁図書尞の蔵書目録
は印刷されたものがあるが、現在頒布禁止になり外部
では全く見られない。」の後、約半頁墨塗り。しかし文
書番号 379「韓国国宝古書籍目録日本各文庫所蔵」の
27 ~ 35 頁 ( 右 ) には目録がある。田川なる人物の嘘
つきたる面目躍如か ! ?
 同 7 頁には他に記述のない 2011 年に返還された「儀
軌」に対する言及がある。「浅見倫太郎博士が宮内省
の依頼を受けて皇室の儀式の参考にするため、景福宮
にあった多種の儀軌 ( 儀式の記録 ) の写本を行ったこ
とがあるが、この儀軌は曽根本とは別に宮内庁に保存
されている筈である。」
 文書番号 386「宮内庁書陵部所蔵の書籍に関する件」
1960.9.20 北東アジア課の文書 1 頁には、随分詳しい
解説がある。「宮内庁書陵部所蔵の書籍には、皇室費で
購入したものと、一般行政費で購入したものとの2種
類がある」・・・2~3頁「宮内庁書陵部には朝鮮本
74 冊が所蔵されている。これら朝鮮本は徳川文庫楓山
文庫、旧多紀家、旧徳山毛利家のものを継承したもの
で、その渡来の時期はすべて日韓併合前とされている。
宮内庁で所蔵している朝鮮本は上記、書陵部のものの
ほかに内閣文庫(現在は国立国会図書館支部内閣文庫
となっている = 筆者注、文書 379 の 2 ~ 26 頁に目録
あり)所蔵の約 190 冊がある。これらの書籍は紅葉山
文庫、昌平坂学問所の所蔵本のほか、明治 20 年代に
民間から購入又は献納を受けたもので、渡来の時期は
すべて明治 23 年 (1890) 以前である。」
 同4頁には「針谷参事官の宮内庁書陵部往訪の件、
1963.3.11 北東アジア課、股野記」には「冒頭、宮内
庁側より別添 2. の曽根本及び統監本の目録が手交さ
れ、同目録には曽根本 152 部 762 冊、統監府本 11 部
90 冊、合計 663 部 852 冊がある旨説明があった。」と
ある。前記「頒布禁止になり外部では全く見られない。」
状況と全く一致しない。
 これらが所蔵された経緯についても、6~7頁に「曽
根本は明治 43 年 (1910) 東宮職に献上された。当時曽
根氏は統監を辞した後であるので、同図書は曽根個人
として献上されたものであると思われる。統監府本は
伊藤公が日本に持参されたものを伊藤公の死後、皇室
側と統監府(北東アジア課注。当時は総督府になって
いた)との間の話合いで、明治 44 年 (1911) に皇室に
献上されたものである。」と詳しい。
 文書番号 387「宮内庁書陵部所蔵目録」1963.4.11 は
「外部では全く見られない」はずの目録である。統監府
蔵書 11 部 90 冊と曽根荒助献上本 (43.12.3)152 部 762
冊(部数は前記、文書番号 386 と合致)。ただ「評価」
が全 20 頁で墨塗りだ。
 その他、文書番号 583「文化財保護委員会本間氏と
の会見報告」1952.2.18 では、25 頁 1952.8.21 市立米
澤図書館岡博館長の「韓国書籍の調査報告」「次頁不
開示」。しかし文書番号 380「韓国国宝古書籍目録 ( 第
二次分 )1953.10.15 韓国側より受領」156 ~ 157 頁で
は目録が開示されている。頭隠して尻隠さずの類か。
 同 27 頁 1952.8.21 国立国会図書館阪谷俊作一般考
査部長「韓国書籍の調査」では 1 行墨塗りの後「次頁
以下 11 頁不開示」だが、2012 年 4 月国立国会図書館
東京本館古典籍資料室から受け取った通知には、1910
年以前に朝鮮で刊行・書写された「朝鮮本」約 550 タ
イトル 2,800 点を所蔵、大半が『国立国会図書館所蔵
朝鮮資料目録 4 朝鮮本篇』(1975 年刊)に掲載され
ている。つまり完全に外部に公開されているのである。
 同 28 頁 1952.8.23 名古屋市蓬左文庫織茂三郎主事
の文部省大学学術局情報室宛の報告「次頁以下 11 頁
不開示」の内容は、目録と思われる。ただ次の 29 ~
30 頁に「2、学術的価値の概要、3、入手経路、4、韓
国より日本に到来した経路」に関する解説は開示され
ている。また前出、文書番号 584 の 16 頁「名古屋市
蓬左文庫所蔵韓国図書に関する調査報告」でも、次頁
以下 10 頁不開示。ところが文書番号 379「韓国国宝古
書籍目録日本各文庫所蔵」74 ~ 87 頁では「原 ( 旧 )
蔵者および入手経路」を除き、目録が開示されている。
やはり、頭隠して何とかか。
 前出、文書番号 584 の 31、32 頁、東京都世田谷区岡
本にある「静嘉堂文庫」の墨塗り二ヵ所は、「岩崎彌之
助の 17 回忌に当たり、大正 13 年 (1924) 小彌太が文
庫を建て図書を収蔵した。」と静嘉堂文庫美術館のホー
ムページ 4) で公開されているので、墨塗りの中身は「岩
崎小彌太」と判明。外務省が隠ぺいすべき対象でない
ことは明らか。
 また文書番号 586 千代田区神田駿河台石川武美記念
図書館(旧称、お茶の水図書館)にある「成簣堂文庫
について」1963.6.5 の 2、3 頁にある墨塗りは「徳富
猪一郎」であることが、26、29 頁の記載から証明される。
 文書番号 586 東京目黒区駒場にある第五代加賀藩主
綱紀の「尊経閣蔵書について」1953.6.10 アジア二課、
6 頁の下「次頁以下 10 頁不開示」だが、文書番号 379
「韓国国宝古書籍目録日本各文庫所蔵」88~106頁では、
目録が開示されている。
3.日韓文化財協定から 50 年、今後の見通しは
 「文化財」という概念の定義もなしに締結された
1965 年の協定に関しては、双方で正反対の意見が出た
まま、宙ぶらりんの状態である。
 1965 年の日韓文化財協定が締結された当時、専門家
でない門外漢の外務省担当者が進めた文化財問題小委
員会等、対等な外交交渉でもなかった。また「合意議
事録」にある「日本は日本国民の私有文化財を自発的
に韓国に寄贈するということが、韓日両国間の文化協
力の増進に寄与するようになるから、これを勧奨する」
という文言には、何の強制力も、また後日、その実行
を点検すべき義務すらなかった。
 その後、世界的な基準となる 1970 年のユネスコ条約
に加入するまで日本は 33 年間も要したし 5)、1995 年

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(8)
を要求した。しかし4万点の遺物が返還される協定が
結ばれたのは 2011 年 2 月のことだった。2009 年 11 月
ルーヴル美術館は国王の墓の壁画をエジプトにもどし
た。2010 年 1 月にはスペインが 139 件の文化財をニカ
ラグアに返還した。同じ月、イラクの古遺物がドイツ
から返還された。2010 年 3 月ロンドン大学は 2 万 5 千
点の遺物をエジプトに返還を決めた。9)
 靖国神社にあった「北関大捷碑」は 2005 年 10 月、
韓国を経由して北朝鮮に返された。東大に 47 冊残っ
ていた『朝鮮王朝実録』五台山史庫本は 2006 年 7 月
ソウル大奎章に渡された。2010 年菅談話による宮内庁
の「儀軌」引渡しの例もある。
 世界遺産がふたつの国にまたがって登録された前例
はなかったが、2004 年 7 月高句麗古墳群がユネスコの
世界遺産に登録された。『血で結ばれた親善関係』を標
榜する朝中両国だが、白頭山(長白山)や間島等、領
土問題になると穏やかではない。そこで大きな役割を
果たしたのが日本の画伯、故平山郁夫芸大学長だった。
 文化財返還問題は二国が衝突する紛争の原因ではな
く、友好親善の潤滑油に変えて行く発想の転換が必要
であろう。偏狭な国粋主義に振り回されず、人類共通
の財産という認識が重要だ。
1)  「平成 20 年 ( 行ウ ) 第 599 号 文書一部不開示決
定処分取消等請求事件」( 川神裕裁判長 )
2)  「平成 24 年 ( 行ウ ) 第 412 号、平成 24 年 ( 行ウ )
第 231 号文書一部不開示決定処分取消等請求控訴事
件、同附帯控訴事件」( 高世三郎裁判長 )
3)  第三版、1930 年 3 月 http://kindai.ndl.go.jp/
info: ndljp/pid/1041209 と『朝鮮発見遺物』続編、
1935 年 3 月 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/
pid/ 1232654
4)  http://www.seikado.or.jp/about/index.html
5)  「文化財の不法な輸入、輸出及び所有権移転を禁
止し及び防止する手段に関する条約」
6)  2014 年 7 月 22 日「米国移民関税庁間、文化財保護、
回収及び原状回復の協力に関する了解覚書」
7)  1952 年 2 月 4 日「第 1 次韓日会談第 29 次在日韓
人法的地位委員会」、日韓会談韓国側文書 81 の 390
8)  「韓国文化財返還及び交流増進のための新たな
認識と代案」アンドリュー・ホバット (Andrew
Horvat) 日本経済大教授、2007 年 4 月 17 日ソウル「韓
日不法文化財返還促進政策フォーラム」109 頁
9)  2012 年 7 月、荒井信一『コロニアリズムと文化財』
149 ~ 150、175 頁
の「盗難及び不法輸出された文化財に関するユニドロ
ワ協約」には日韓両国ともまだ加入していない。この
ように盗難文化財の返還、もしくは原産国へ移管、ま
たは永久貸与等の世界的潮流に日本は乗り遅れている
し、韓国もこれまでの努力が決して充分ではない。
 文化財に関して門外漢である外務省が「文化財協定」
を主導する愚については前で触れたが、当時「文化財」
とは何かという定義すらされなかった。これに関して
はユネスコ条約第1条でハッキリと定義されており、
これを受けて昨年交された韓米間の覚書でも第1条で
定義されている。6)
 「請求権協定」で文化財問題まで、「完全かつ最終的
に解決した」という日本側の拡大解釈は詭弁に過ぎな
い。それなら初めから「文化財協定」を締結する必要
すらなかったことになる。「文化財協定」には「完全か
つ最終的に解決」などという文言は一切なく、民間の
ものについては「寄贈することを勧奨する」とあると、
上で触れた。在日の「法的地位協定」は最初から 3 世
以降については 25 年後に先送りされ、1991 年 11 月「特
別永住」制度の新設で、65 年からの「協定永住」制度
は消え去った。つまり協定が「永遠に有効」どころか、
たった 25 年で消滅したのである。「漁業協定」も 1999
年 1 月に新協定が発効した。
 つまり 65 年の協定は日韓が国交を結んだだけで、問
題解決をほとんど棚上げにしてまま先送りしたのであ
る。日本軍慰安婦問題、在韓 ( 北朝鮮も ) 被爆者問題、
サハリン残留韓国人問題、シベリア抑留者問題は会談
でふれられることすらなかった。BC 級戦犯問題は「別
個の問題だから別途研究する」とされ、以後今まで放
置されたままだ。7)
 そもそも「基本関係条約」で 1910 年の日韓併合、
韓国から見たら半島全体に対する日本による植民地化
が合法だったかどうかについて、「already null and
void(もはや無効)」などという訳のわからない用語
で誤魔化し、日韓双方が解釈を異にしたまま協定が結
ばれ、その解決のための努力を 50 年間も怠って来た
ツケが今、噴出しているのである。新たな協定の締結
に対する提言は、この年報で別途発表されているので、
それに対しては全面的に賛同したい。
 日本はユネスコ協約によって盗難美術品という証拠
があれば、それを法的所有者に返還する義務が生じた。
しかし遡及できる時効は 30 年に過ぎない。ユニドロ
ワ協約でも 50 年である。
 第2次大戦中にソ連軍がハンガリーの大学から持ち
出した 15 世紀の宗教書が、ロシアのニジニノブゴロ
ド図書館で見つかった。これが 2006 年返還されたが、
ハンガリーは 60 年間の保管料として 44 万 3 千ドル支
払わなければならなかったという。8)
 日韓会談当時、植民地時代に略奪された文化財の返
還問題が討議されたが、16 世紀末の豊臣秀吉軍によ
る二度の侵略や倭寇が持ち去ったと言われる高麗仏画
等、400 年も 600 年も遡ったら、その間の保管料がど
うなるのか、天文学的な数字になることも心配だが、
現実に返還される可能性も薄いし、その返還の正当性
に対しても異論が多い。
 マチュピチュ遺跡の遺物をトラック数百台アメリカ
のエール大が持ち去り、ペルー政府は 1917 年から返還
■連絡会議の会員を募集しています■
 文化財の専門家や研究者だけでなく、市民がま
わりの文化財を調査し、文化財をとおして歴史を
学び、考える新しい市民運動です。会費は年会費
(個人)3,000 円 、(団体)5,000 円 、(賛助会費)
10,000 円。規約や申込書は WEB で入手できます。
会費は、郵便振替 00140-9-607811 韓国 ・ 朝鮮文化
財返還問題連絡会議あてお送り下さい。

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(9)
 「疑わしい由来:盗まれた遺物を返すように博物館
に対して高まる圧力(Dubious Provenance: Pressure
Grows for Museums to Return Stolen Objects)」
と題する記事が、ドイツ・シュピーゲル誌の国際
電子版に掲載され配信された(2014 年 12 月 10 日
付、http:// www.spiegel.de/international/world/
pressure-grows-for-museums-to-return-stolen-
objects-a-1007523.html)。以下は、その概要である。
    ドイツでは 2007 年に制定された不法遺物の取
引を取り締まる法令を更に厳格なものにしようと
している。議会に提出された政府の報告書では、
現法令の修正が「緊急に必要」と答申された。ド
イツ考古学協会前会長で現在はプロイセン文化遺
産財団の代表であるヘルマン・パツィンガーはベ
ルリン博物館所蔵のあらゆる考古遺物の由来を確
認する作業を指示し、「非合法的な由来が証明さ
れるならば、いつでも返還する準備はできている」
と述べる。2003 年のアメリカによるイラク侵攻後
あるいは現在のイラク・シリアでの文化財・考古
遺物の破壊と略奪行為は、世界に文化財・考古遺
物を保護する必要性を呼び起こした。しかしこう
した混乱に乗じてなされた非合法的な取引の規模
と内容について、信頼性のあるデータがほとんど
存在していない。アメリカFBIの報告によれば、
非合法遺物の取引総額は 20 億ドル(約 2,400 億円)
に達するという。これは薬物や武器取引に匹敵す
る規模である。博物館国際協議会(ICM)は、イラク・
シリア地域で生じている事態に対処するためにパ
リで対策会議を開いたが、「あの辺りはブラック・
ホールだ」というのが参加者の感想である。隣国
のトルコに流出した接収遺物で、すでに幾つかの
倉庫は古美術品で満杯になったという。
    イギリスの考古学者チッペンデールとギルの両
氏は国際的な7つの博物館の所蔵品カタログに記
載された資料の由来について、その信頼性を体系
的に評価する調査研究を行なった。その結果は衝
撃的であった。1,396 点の遺物のうち 75% はその
由来が記録されておらず、500 点以上の遺物は盗
掘に由来するという。「実態は予想よりも常にひ
どい」というのが、「チッペンデールの法則」と
称されるものである。
    一方で多くの古美術商たちは、そうしたものは
単に保証書を伴わないだけなのだと言う。骨董商
国際協会代表のヴィンセント・ゲーリングは、「あ
なたは両親からの相続品である家具の保証書を全
て保管していますか?」と言う。明らかなのは、
由来が証明できる「白色」のモノがある一方で、
盗まれた「黒色」のモノがあるということである。
しかし大半は、出所不明な「灰色」のモノである。
古美術品を商う業者は「灰色は白だ。なぜなら黒
でないから」と言う。しかし考古学者は「灰色は
黒だ。なぜなら白でないから」と言う。
    1970 年にユネスコが文化財の不法取引に関する
条約を成立させたが、ドイツでは国内法として発
効させるのに 37 年を要し、現在は更に厳しい規
制を伴う新たな法律を 2016 年に発効させようと
努めている。この法令によって、係争中の文化財
を返還させる傾向が更に促進されるだろう。
    ドイツ博物館協会会長のエッカート・ケーネは
「博物館学芸員の収集に対する情熱が、不法な取
引の共犯性をもたらしている」とまで言う。ドイ
ツ首相府の文化監査官グリュッターは、「各博物
館が所有するコレクションの透明性を明らかにす
るためにも由来調査が欠かせず、各組織に調査状
況を報告するように要請している」と言う。
 以上である。この記事に寄せられた読者のコメント
も興味深い。ロシアがドイツから奪った美術品の返還
を期待するのは、第二次大戦後にロシア領となった東
プロイセン(ケーニヒスベルク)の返還を期待するよ
うなものだといったシニカルなものから、現在もドイ
ツに所在するトルコ由来の様々な文化財「ペルガモン
の祭壇」や「ベイハキム・モスクの祈り」といった事
例を挙げ、こうした作品は元あった場所にあってこそ
意味があるという意見や、それに対する「ペルガモン
の祭壇」の搬出時にはトルコ政府も合意しており、ト
ルコはギリシャ・アクロポリス占領時になされた破壊
について責任を負っているので世界的な遺産保護者と
しての資格を有していないといったよく目にするコメ
ントも寄せられている。
 こうした状況が、現在のドイツである。そして恐ら
く他のヨーロッパ諸国も同じような状況であろう。か
つての植民地時代とは、物事に対する価値観、何が不
法で何が許されるのか、倫理観が変わってきているの
である。翻って日本では、どうだろうか。
 ある日の新聞で「優しさ」まとう金の指輪」「人・
自然に配慮した原材料使用」と題して、小規模な金採
掘現場での労働や環境汚染の改善を目指して生産され
た商品に認証を与える「認証ゴールド」の記事が出て
いた(朝日新聞:2015 年3月 18 日付け夕刊)。ある基
準に従って認証を与えることで、その商品が生産地で
の自然環境や労働者に配慮したものであることを購買
者・消費者が判断できるようにしたものである。こう
時 評  
ドイツ・シュピーゲル誌記事から文化財返還問題について考える
五十嵐 彰  

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(10)
した試みは貴金属を対象にしたものだけでなくファッ
ション業界全体に広がっており、「エシカル・ファッ
ション」という新たなムーブメントとなっている。
 「エシカル」とは「倫理的」という意味で、近年は
環境保全や社会貢献という意味合いが強くなっている
(『ウィキペディア』による)。「エシカル・ファッション」
では、素材の選定(オーガニックやリサイクル)、購
入(発展途上国産)、商品の製造(天然染料)、流通(フェ
アトレード)といった商品経済のあらゆるレベルで「環
境や社会に配慮した素材・商品を選択し、そうでない
ものを選択しない」という特定の生産・消費活動を志
向している。
 こうした潮流は当然のことながら、商品経済活動だ
けに留まらず、文化的な領域にも及ぶべきであろう。
ところが、現実はどうだろうか。
 先の新聞記事の4ページ前では、「美博ピックアッ
プ わたしの好きなシロカネ・アート」と題して東京
都港区の「松岡美術館」の所蔵品が紹介されている。
 「菩薩半跏思惟像(ぼさつはんかしいぞう)(灰色片
岩、3世紀ごろ) 右足を左ひざに乗せ、物思いにふ
ける「半跏思惟」のポーズを取る菩薩像。古代東洋彫
刻の部門で一番人気に。」この仏像は3世紀ごろガン
ダーラ地方で製作されたと記されているが、いったい
どのようにして日本にもたらされて現在ある場所に収
蔵されたのか、その経緯・由来については全く述べら
れていない。ただ「憂いを帯びた「イケメン仏像」」と
して喜んでいるだけでいいのだろうか。博物館や美術
館の収蔵品についても、ただ素晴らしいとか貴重だと
か荘厳であるといった評価だけではなく、「エシカル」
な観点から収蔵施設を認証していくシステムの構築が
必要なのではないか。
 駅の壁には、「大英博物館展」なるポスターがベタ
ベタ貼ってある。同館を舞台とした「ナイトミュージ
アム」という映画も大人気のようである。
 シュピーゲル誌に登場していたイギリスのデビッ
ド・ギル氏には、「略奪されたモノたち 古物収集
を巡る考古倫理に関する議論」(Looting Matters
-Discussion of the archaeological ethics
surrounding the collecting of antiquities.) と題
するブログがあり、さまざまな情報を発信している
(http://lootingmatters.blogspot.jp/)。
 何を「良し」とし、何を「良し」としないか、私た
ちの心に関わる問題である。
向きに仕立てられているからだろうか。アメリカでの興行成
績は良かったものの、映画としての評価はさほど好評では
なかったようである。
 日本で劇場公開は中止となったが、この映画の日本語字
幕付き、日本語吹き替え版の Blu-ray(UK、イギリス版)
が入手可能である。関心のある方は、Amazon などで注文し
て見ていただきたい。
 さて昨年2014年をふり返ってみると、世界的に話題となっ
た文化財問題とは、ナチ略奪美術品の発見と、中東におけ
るイスラム過激派による文化財破壊であったと言えるだろう。
両者は、ともに戦争にからんだ問題だった。奇しくも映画『ミ
ケランジェロ・プロジェクト』の公開された年に、あらため
て戦争と文化財が注目されたのである。2つの話題のうち、
モニュメント・マンに関連するナチ略奪美術品の発見につい
て、少し見てみよう。この事件は、第2次世界大戦の戦後
処理が、70 年たった今日でもいまだ十分に解決されていな
いことをしめしている。
略奪美術品の発見
 事の発端は、バイエルン州当局がミュンヘンのアパートを
捜索して約 1,500 点の作品(10 億ユーロ:1,300 億円相当)
を押収していたと、2013 年 11月4日にドイツの雑誌『フォー
カス』がスクープしたことによる。持ち主はコルネリウス・グ
ルリット氏(Cornelius Gurlitt、当時 80 才)で、その中
にマチス、ピカソ、シャガールなどの作品がふくまれ、ナチ
スが「頽廃」と烙印したり、ユダヤ人から強奪した美術品
 昨年の年報(2014 年、No.3)で、ジョージ・クルーニー
監督・脚本・製作・出演の映画『ミケランジェロ・プロジェ
クト(原題 The Monuments Men)』を紹介した。これは、
第2次世界大戦の時に、ヨーロッパ戦線で文化財保護と略
奪文化財の捜索に活躍した小部隊をテーマにした作品であ
る。主演クルーニーの扮した実在するモデル、ヨーロッパ
戦線で活躍した文化財修復専門家のジョージ・スタウトは、
志願して敗戦直後の日本にもやって来た。彼はGHQ民間
情報局の初代文化財課長になり、日本とも縁のある人物
だった。
 アメリカ公開は2014年2月で、オバマ大統領はクルーニー
や他の出演者、関係者、原作者らをホワイト・ハウスに招いて、
上映会を開いた。公式上映会の開催は、クルーニーが大
統領再選キャンペーン基金に協力したことにもよるのだが、
ホワイト・ハウスは、文化遺産保護は重要な外交政策であり、
両国関係の強化につながると述べていた。単なる映画鑑賞
ではなく、政策的な観点も上映会にふくまれていたのだろう。
その後、戦場で活躍したモニュメント・マンたちへ、アメリ
カで最高位の賞である議会名誉黄金勲章が贈られることに
なった。
 日本では秋に公開と予告され、前売券も販売された。し
かし突如6月ごろに、日本での公開中止が発表された。こ
の映画の公開で、第2次世界大戦とホロコースト・文化財
問題、東アジアにおける文化財の略奪などが日本でも話題
になるかと期待したのだが、公開中止となってがっかりした。
アメリカ軍の活躍を中心にストーリーが展開し、アメリカ人
新たに発見されたナチ略奪美術品
   森本 和男    

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(11)
があるとみなされた。家宅捜索は 2012 年2月28日に行な
われ、つまり当局は押収を公表せず、秘密にしていたので
ある。この一報は、失われた美術品の大発見として瞬く間
に世界中に広がり、数多くの解説や続報が続いた。
 押収のきっかけとなったのは、2010 年9月22日にグルリッ
ト氏がスイスからドイツに向かう列車の中で、9,000 ユーロ
を 500 ユーロ札で所持していたのを、バイエルン州の税関
職員が発見。一人暮らしの 80 才近い高齢者が大金を所持
していたのを不審に思い、脱税容疑の捜査令状を得て、警
察官と税関職員が17ヶ月後にミュンヘンのアパートを捜索し
たのである。そこで見つかったのは、額装のない作品 1,258
点、121 点以上の額入りの作品だった。驚いた当局は、3
日間かけて作品を特別な収蔵庫へ運びだし、コレクション
の評価、検討を始めたのだった。
孤独な老人グルリット氏のインタビューを載せたシュピーゲル誌
 コルネリウス・グルリット氏の父、ヒルデブランド・グル
リット(Hildebrand Gurlitt)は、1938 年3月にナチス没
収委員会(the Commission for the Exploitation of
Degenerate Art)に任命された4人の美術商の一人だった。
この委員会は、「頽廃芸術」を売って外貨を獲得するため、
ヒトラーとヘルマン・ゲーリングの命令で設置された機関だっ
た。4人の美術商はベルリンのすぐ外側に店をかまえ、ド
イツの美術館から、1937 年から 38 年にかけて取り除かれ
た16,000 点近い絵画や彫刻の隠匿物を販売した。けれど
も販売はさほど好調ではなかった。というのは、「がらくた」
とレッテルの張られた美術品に、目を向ける人が少なかっ
たからである。
 そこで美術商たちは 1939 年3月20 日に、1,004 点の絵
画と彫刻、3,825 点の水彩画、デッサン、版画をベルリン
消防局の中庭で焼いた。このショッキングなデモンストレー
ションで、期待したとおりの注目が集まった。スイスのバー
ゼル博物館は 50,000 スイス・フランを持って駆け付け、ま
た驚いた美術愛好家たちが買いに来たのである。この販売
以後、グルリットら美術商がどのくらいの絵画を保持したの
か、あるいは、スイスやリスボン経由(ポルトガルは中立国だっ
た)のアメリカへと、どれほどの数量が売られて個人所有
となったのか不明である。
 ドイツ占領下のフランスで、グルリットは 1941年から 45
年までパリに住んで、美術品を集めた。美術品収集はヒト
ラーの総統美術館建設のため、そしてその一部は、貪欲な
ゲーリングのコレクションにもなったと考えられている。収
集には2つの方法があった。1つは、無人となったユダヤ人
の家に行って、美術品を持ち出すのである。ナチの法律に
よると、逃亡したフランス国民はフランス市民権を失うと宣
言されていた。もう1つは、困窮した投げ売りで盛り上がっ
ていたパリのドルオー・オークションで、ライヒマルクを費
やすことだった。グルリットは巨額な買い手で、4点の印象
派絵画に100 万フラン以上を支払ったり、セザンヌの絵画を
500 万フランで購入した。それは、ナチの購買力を誇示す
るものだった。
 ドイツ敗戦後、1945 年にハンブルグで絵画 115 点、デッ
サン19点、その他6箱がヒルデブランド・グルリットの名義
で見つかった。アメリカおよびドイツの文化財専門官(モニュ
メント・マン)に対して、これらの作品は自分のものだとグ
ルリットは主張した。そして、ナチスのために収集した他の
作品は、取引記録とともに1945 年のドレスデン空襲の時に
破壊されたと語った。彼の弁明は認められ、押収された作
品は 1950 年に返還された。その後グルリットは、1956 年
に交通事故で死亡した。
本人の死亡と法的問題
 ミュンヘンのアパートで見つかった美術品はヒルデブラン
ド・グルリットのコレクションだったもので、息子のグルリッ
ト氏が相続したと見られている。その中で元の所有者が確
実視される作品があった。それは、ヘンリ・マチスの描い
た婦人のポートレート「座る婦人」である。元の所有者と
は、フランスの有名な画商ポール・ローゼンベルク(Paul
Rosenberg)で、彼はパリに画廊をかまえて、ピカソ、ブラック、
マチスらと親交を深めていた。戦雲の垂れこむなか、彼は
集めた作品をロンドン、アメリカ、オーストラリア、南アフリ
カへと分散させていた。それでもドイツがフランスに侵入し
た時に、まだ 2,000 点以上がフランスに残っていた。ロー
ゼンベルク自身は、1940 年に家族とともにリスボン経由で
アメリカへ渡った。
 絵画発見のスクープが世界を駆け巡り、内外から批判を
受けたドイツ政府は、遅ればせながら2013 年 11月11日
に、出所を明らかにする作業部会(タスク・フォース)の設
置と、公式ホームページでの美術品リスト公表を明らかに
した。公開された絵画リストは当初 25 点だった。現在の
時点で(2015 年4月13日)、合計 500 点近い物件がホーム
ページで紹介されている。出所判明した物件は、マックス・
リーバーマンの「海辺の二人の騎手」、ヘンリ・マチスの「座
る婦人」、カール・シュピッツヴェークの「ピアノ演奏」の
3件である(http://www.lostart.de/Webs/EN/Datenbank/
KunstfundMuenchen.html)。

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(12)
有者および遺族へ返却を容易にする規定である。基本的に
は公共の施設や団体に適用され、個人の物は対象外であ
る。したがって当初、ミュンヘンで見つかった美術品に、
ワシントン宣言の適用は困難ではないかと懸念された。結
局、公共施設の美術館が取得する事態となったので、ワシ
ントン宣言を適用せざるをえなくなったのだろう。
 その他にも懸念される課題がいくつも指摘されている。
グルリットたちの活動根拠となった「頽廃芸術」を没収する
ナチの法律は、1945 年を過ぎても廃止されたわけではない。
オーストリアと違って、法的に取得されたと証明される限り、
ナチ略奪美術品の返還を有効にする法律がない。ドイツの
法律では、遺族たちの返還請求を30年に制限している等々、
複雑な法律的問題があるようだ。
 2015 年春に『Woman in Gold』という映画が公開された。
この映画はヘレン・ミレン主演で、ナチスに略奪されてオー
ストリアにあった有名な絵画を、アメリカ在住の遺族が長い
裁判闘争をへて取り戻すという実話をもとに製作された。有
名な絵画とは、裕福なユダヤ系実業家の妻をモデルにして、
グスタフ・クリムトが 1907年に描いた「アデーレ・ブロッホ・
バウアーの肖像I」である。金地を背景に描かれた婦人の
ポートレートで、ウィーン分離派の華美な絵として、日本で
も多くの人に親しまれている絵である。
クリムト「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像I」
 映画公開にちなんで、イギリスの the Guardian 紙が、
オークション会社クリスティーズの関係者の話を伝えている。
オーストリアとドイツのギャラリー、美術館に対して返還請
求が毎年増加する傾向にあり、奪われた第1世代ではなく、
祖父母の生活や趣向を垣間見ようと、第2、第3世代が要
求しているとのことである(http://www.theguardian.com/
artanddesign/2015/mar/29/helen-mirren-woman-in-
gold-nazi-art-theft)。
 第2次世界大戦で生じた文化財略奪の問題は、決して解
消・忘却されることなく、これからも絶えず世間を騒がす
話題となるにちがいない。
マチス「座る婦人」
 さらに 2014 年2月、オーストリアのザルツブルクにあるグ
ルリット氏の自宅から、印象派の絵画を中心に 238 点もの
作品が新たに見つかった。しかしながら自宅で発見された
絵画に関して、オーストリア当局は事件性を関知せず、捜
査令状も出されなかった。ドイツのタスク・フォースも、ザ
ルツブルクの絵画についてまったくノータッチである。
 2014 年4月7日に、ドイツ政府とコルネリウス・グルリッ
ト氏との合意が発表された。グルリット氏は出所調査の継
続に同意し、そして嫌疑のない作品はグルリット氏に戻され
ることになった。その1ヵ月後の5月6日にグルリット氏は心
臓病で死亡した(享年 81 才)。問題は、残された多数の美
術品の行方である。彼の遺言で、スイスのベルン美術館が
単独の遺産相続人に指名された。この小さな美術館とグル
リット氏との間には、以前まったく縁がなく、美術館として
は驚きと戸惑いを隠せなかった。グルリット・コレクション
は美術館の評議委員会で検討されることになり、その結果、
2014 年 11月24 日にベルン美術館はグルリット氏の遺産を
受け入れることを表明した。
 ナチスによって略奪された美術品は正当な所有者に返還
し、美術館に入れるわけにいかないと美術館側は言明した。
美術館とドイツ政府、バイエルン州政府との合意によると、
略奪と判断された作品はドイツ政府の出費で所有者の遺族
に返還される、もしも所有者が判明しなかったならば、可
能性のある該当者が観れるように略奪された作品をドイツ
で公開展示する、残された作品をベルンの美術館に収める
となっている。そして1998 年のワシントン宣言が順守され、
きわめて透明性のある出所調査が行なわれるとしている。
 この合意で、略奪問題がスムーズに解決するだろうか。
ワシントン宣言は、ナチスによって略奪された作品を元所

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(13)
本の紹介 『民族文化財を探し求めて』を訳し終えて
李一満(リ・イルマン)  
 本書は、民族文化財還収運動でつとに名高いソウルの僧
侶、ヘムン ( 慧門 ) スニムの3作目で、原題は 「빼앗긴 문
화재를 말하다(奪われた文化財を語る)」 です。
 朝鮮が日本の植民地支配から解放されて 70 年、韓日条
約締結から 50 年にあたる節目の年をひかえた昨秋、影書
房から出版され全国の大手書店で販売されています。
 第一章 「還国の影、取り戻した文化財の虚と実」 は、朝
鮮王朝実録、朝鮮王室儀軌の返還に至るいきさつが述べら
れています。読めば、文化財を取り戻す道が決して平坦で
はなく遠く険しい道であったことが分かり、慧門師の信念
と情熱が伝わってきます。
 第二章 「奪われた文化財の夢、元に戻すべき文化財」 は、
大倉財閥の創立者・大倉喜八郎が開設した日本初の私立博
物館 (1909 年 )・大倉集古館の庭にある平壌と利川 ( 京畿道 )
から持ち出された五重の石塔を含む、まさに取り戻すべき
文化財の話です。
 第三章「忘却の歴史、失われた記憶」は日本が朝鮮を支
配したあと起こった話で、1895 年、日本の朝鮮駐在公使
館員らが明成皇后を殺害した時 ( 乙未事変 ) に使用した肥
前刀が福岡市の櫛田神社に、伊藤博文を暗殺した安重根(ア
ン・ジュングン)烈士の銃弾が憲政記念館に保管されてい
ることが紹介されています。
 因みに、表紙は写真ではなく絵です。朝鮮帝王の甲冑は
現在、東京国立博物館が所蔵しています。代々継承された
権力の最高シンボルは寄贈も売買もありえません。植民地
時代、朝鮮全土を掘りつくし 「盗掘王」 の名をほしいまま
にした、小倉武之助 (1870 ~ 1964) が持ち出し、死後、遺
族が東博に寄贈したものです。
 Nさんは 「実践・歴史・思想」 が込められた本だとして
「歴史は、時間とともに人々の記憶から消え去って行くが、
空間とモノの中に凝縮され残って行く。その意味で民族の
文化財は、貴重な民族の歴史であり、本来存在した空間に
戻すべきである。本書を読むと日本とアメリカの文化財返
還の対応で、著しい違いがあることに気が付く」 と感想を
寄せられました。
 Pさんは 「慧門師は『文化財回復は、単に文化財を元の
場所に戻せばすむということではない。それはわが祖先が
末裔たちに引き渡してくれた精神を探し求める過程であり、
われわれ自らが主人であることに目覚める過程である』と
端的に語っている。本書を貫くのは、朝鮮の大地と歴史の
主人である朝鮮民族の結集した知恵と力と勇気によっての
み、略奪された文化財は取り戻せるという自明の理である。
その高潔な志と岩をも貫く執念に心から拍手を送りたい」
と指摘しました。
 Cさんは 「慧門師が説くように、実録と儀軌還収の成功
は単に『われらがモノ』が証明されたからではなく、民族
魂が込められた文化財だったから可能だったのである。民
族魂がこもった文化財は、学問的研究で見えるのではなく、
対象に言葉をかけて意味を付与するとき、初めて見える。
いいかえれば単なる文化財ではなく、生きている魂が込め
られた民族的神物だけが回復の可能性が開けるのである。
興味深いエピソードが多く、翻訳も平易で読みやすい」 と
書き、Aさんは 「以前、著者から『魂のこもった卵は岩を
も砕く』という言葉を胸に秘めて活動してきたと直接、聞
いて感動した。暗く不幸な時代が続いてきた日本と朝鮮半
島の関係も、尊厳の回復をめざす動きの中からこそ新たな
関係の構築が展望できる」 と綴ってきました。
 民族性で重要なのは民族の精神と魂、心理です。民族性
の喪失は民族の滅亡をもたらします。朝鮮が蘇ったのは、
国破れても民族の精神と魂が生きていたからです。
 文化と文化財は、民族の伝統 ( 精神と魂 ) を後世に伝え
る精華です。日本は朝鮮植民地時代に 200 基余の王陵と 1
万 1 千基余の古墳を体系的かつ組織的に破壊し、貴重な文
化財を手当たりしだい持ち去りました。今日それらは臆面
もなく日本の 「国宝」、「重要文化財」 とされています。
 略奪された文化財の返還・還収は、いまや世界的な趨勢
です。日本にも素晴らしい伝統と文化 ( 財 ) があります。
日本は自らのものを愛し、不当不法に略奪してきた文化財
はもともとあった所 ( 故国・故郷 ) に早く還すべきです。
    (東京朝鮮人強制連行真相調査団 事務局長)
慧門著・李一満訳『民族文化財を探し求めて』

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*写真の説明「翼善冠」は間違いで、正しくは「兜」です。(編集部)

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守られた塔
破壊されるモスル博物館
 もちろん、イスラム過激派による文化財への蛮行に対して
世界中から非難の声が上がっている。ユネスコでは 2012 年
3月30 日から2015 年4月27日までの間に、破壊中止、平
和と保存に向けての事務局長声明が 16 通も出された。ま
た国連安保理では2回、2014 年2月22日(第 2139 号)と
2015 年2月12 日(第 2199 号)に文化遺産保護をふくむ
決議が出された。その他にEU議会でも文化遺産保護の
決議が採択されている(https://en.unesco.org/syrian-
observatory/official-statements)。けれども、一向に効
果が現れていないのが現状である。    (森本和男)
爆破されたニムルド遺跡
 イラク戦争の開始以来、混迷を増す中東で、イスラム過
激派による文化財の破壊・盗掘・違法輸出が続いている。
昨年の 2014 年6月29日にイスラム過激派がカリフ制の「国
家」を宣言し、シリア・イラクでの文化財破壊の度合いは、
一段と拡大したように見える。
アレッポの惨状
炎につつまれるバザール(市場)
 2012 年夏ごろにシリアのアレッポで戦闘が激化。9月末
には、世界遺産である歴史的なアレッポのバザールが火の
海となった。2014 年までに、シリアにある6つの世界遺産
のうち4つが軍事目的に使用されたり、もしくは戦場となっ
た。有名なパルミラ遺跡も例外でない。これらの遺跡は戦
闘による破壊だけでなく、盗掘や違法な輸出による被害
についても深刻化している。2014 年 12 月 23 日に、衛星
分析によるシリアの遺跡破壊に関するレポートが国連の関
連機関から公表された。それによると、空からの観察で
290 ヶ所のうち24 ヶ所が破壊され、104 ヶ所に甚大な損害、
85 ヶ所に中程度の損害、77ヶ所に損害の可能性があると
指摘された(http://www.unitar.org/unosat/chs-syria)。
パルミラ遺跡
持ち出される石像
 一方、イラクでは 2014 年6月10 日にイラク第2の都市と
いわれるモスルを、イスラム過激派が占領した。占領とほ
ぼ同時に、キリスト教徒、非スンニ派、アッシリア人への迫
害、建物や文化財への破壊がはじまった。6月27日にはモ
スルの西、タル・アファルにある聖廟とモスク、7月24日
には預言者ヨナのナビ・ユヌスのモスク、24日には13 世紀
建造のイマム・アル=ディン・マシャドの聖廟、セスの墓と
モスクが破壊された。28日には、イラクの紙幣にも描かれ
ている有名なミナレット(塔)も破壊されそうになった。し
かし住民たちの抗議によって、この塔はかろうじて破壊をま
ぬがれた。
 2015 年2月25日には、モスル博物館に展示されている
彫像を破壊する動画がインターネットで公開された。これら
の石像はハトラ遺跡などから出土したものだった。3月5日
には過激派がニムルド遺跡を重機で破壊していると伝えら
れ、4月11日にはニムルド遺跡を爆破する動画がインター
ネットで公開された。
イスラム過激派による文化財の破壊・盗掘・違法輸出
韓国 ・ 朝鮮文化財返還問題連絡会議の歩み
2014 ~ 2015
2014 年 5月3日 連絡会議
5月 17 日 年報3号発行
6月3日 連絡会議
6月 14 日 第5回総会 ・ 記念講演会
7月5日 連絡会議
8月9日 連絡会議
9月 13 日 連絡会議
10 月 29 日 「文化財探し韓民族ネットワーク」
創立大会参加(ソウル)
11 月 15 日 連絡会議
12 月 13 日 連絡会議
12 月 18 日 荒井信一先生出版記念会
(ソウル)
12 月 20 日 安敏錫議員 ・ 利川還収委
と交流
2015 年 1月 31 日 連絡会議
3月 14 日 連絡会議
4月 25 日 連絡会議
5月 23 日 年報4号発行 ・ 連絡会議

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化財の収集と所蔵の実態を明らかにする。小倉武之助
の収集および流出背景と文明商店(李禧燮)の足跡に
ついても詳しい。
『わが文化財の受難史』
『流浪の文化財』
③『危機の文化財―終わらない文化財の受難史―』
(2009 年刊、同、499 頁)は、上記の2冊に触れられなかっ
た朝鮮半島の遺跡地や古刹および解放直後の文財の流
出情況に加えて、朝鮮戦争中の文化財保護、解放以降
の文化財に関連した様々な出来事や流出情況をついて
触れている。
『危機の文化財』
『わが文化財搬出史』
④『わが文化財搬出史』(2012 年刊、同、734 頁)は、
タイトルどおりに日本の植民地期に朝鮮総督府によっ
て朝鮮半島で行われた古蹟調査とこれらの調査によっ
て日本に流出された文化財の実態について詳細に書か
れている。部分的ではあるが上記の3冊との重複箇所
も。裏付けがきちんとされていない箇所もみえるが、
これからの文化財の研究に大きな一石を投じたことは
称賛すべきであろう。          【陳大哲】
本の紹介
ユ ホンジュン
弘濬さんの文化財踏査記:日本編
 韓国の前文化財庁長官で現明智(ミョンジ)大美術
史学科兪弘濬教授の『私の文化遺産踏査記』韓国編は
1993 年から今まで7冊出版され、韓国で 330 万冊の大
ベストセラーとなった。そして日本編が4冊出版され、
これも 20 万冊と「異例な売れ行き」をみせた。
 韓国編は日本でも、大野郁彦と宋連玉の訳で法政大
学出版局から刊行された。『私の文化遺産踏査記』Ⅰ
~Ⅲの3冊で、それぞれ「南道踏査一番地」、「山は川
を越えず」、「語らないものとの対話」という副題が付
されている。
飛鳥・奈良編
九州編
 日本編は橋本繁の訳で、『日本の中の朝鮮をゆく』飛
鳥・奈良編(本体 2,600 円+税)と九州編(本体 2,800
円+税)が 2015 年の1月と2月に岩波書店から刊行
された。京都編2冊の刊行は未定。
 早稲田大学李成市教授が「日本の古代文化はみんな
私たちが作ってあげたと思っていたけど、来てみた
らそうではないですね―修学旅行で九州を訪れた韓国
の高校生のこの言葉に応えるべく書かれた九州歴史紀
行。吉野ヶ里、有田、唐津、美山、南郷村(宮崎)な
ど朝鮮ゆかりの地 10 か所を訪ね歩き、朝鮮半島と日
本の関係を考える。」と解説を書いている。
 飛鳥・奈良編では「東大寺など飛鳥・奈良の古刹を
経めぐり、寺や大仏など文物の中に、朝鮮半島と似て
いながらも異なる日本文化独自のものを見いだし、あ
りのままの日本を知ることが朝鮮半島の歴史を理解す
ることにつながる」と説く。朝日新聞は1月6日の夕
刊で「互いに相手の文化を知り、尊重しようとの思い
で作られた本が海を渡る」と紹介した。  【李洋秀】
チョン
ギュ
ホン
さんの『わが文化財の搬出史』
 丁圭洪さんは韓国で中学校の教師を務める傍ら丹念
に資料を集めて朝鮮半島由来の文化財の行方を明らか
にしようとしている。広範囲におよぶ資料を集めた力
作 ( 4冊 ) への評価は高い。
①『わが文化財の受難史―日帝期の文化財の略奪と蹂
躙』(2005 年刊、学研文化社、544 頁)は、日本による
植民地期に日本の研究者および朝鮮総督府の嘱託(朝
鮮古蹟調査)によって発掘された朝鮮半島由来の文化
財とその流出背景に視点をあてる。
②『流浪の文化財―本来の場所を離れた文化財に対す
る報告書―』(2009 年刊、同、438 頁)は、朝鮮半島で
の文化財の盗掘状況や古美術商、骨董品商の実態、京
城美術倶楽部のあり方と個人および民間による朝鮮文
「 韓国 ・朝鮮文化財返還問題連絡会議年報 」4号目次
● 2014-15 年の動きと今後の課題
編集部
1
●関連報道
2
●文化財返還と植民地主義の清算
荒井 信一
3-4
●文化財をめぐる争いから平和と交流の
 ための文化財返還運動に
有光 健
5
●文化財関係の日本側外交資料公開状況
李 洋秀
6-8
●ドイツ ・ シュピーゲル誌記事から
五十嵐 彰 9-10
●新たに発見されたナチ略奪美術品
森本 和男 10-12
●『民族文化財を探し求めて』を訳し終えて
李 一満
13
● 「 不都合な真実 」 に再照射を(東京新聞 2.25.)
慧 門
14
●イスラム過激派による文化財の
       破壊・盗掘・違法輸出
15
●(本の紹介)兪弘濬・丁圭洪さんの著書紹介
16
●連絡会議の歩み
16
【編集部から】皆様からも情報、論文、ご提案、ご意見を
お寄せ下さい。国交正常化 ・ 文化協定 50 年ですが、今年は「朝
鮮鐘」の調査 ・ 研究にも力を入れる予定です。   (森本)