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人種差別の壁を崩した日本



第6話 人種差別の壁を崩した日本

 戦後の徹底した、情報操作によって、我々自身が、日本は最もひどい差別をした国だと思っているのではないか。しかし、皆さんは、本当に当時の状況をバランス良く、公平に理解されているだろうか?今まで我々の目に触れ無いように隠されていた事実にも光を当て、考えていただくのがこの項の目的である。

1)人が人をつないだ鉄の鎖(ワシントンの博物館で見たもの)

 筆者は以前、ワシントンの国立自然博物館において、かつてアフリカの奴隷をアメリカにつれてくる際に使われた、鉄の鎖を見た。人が人を犬のようにつないだ鉄の鎖である。1441年、ポルトガルは、航海王ヘンリーの時代から、盛んにアフリカ西海岸を、探検し、多数の黒人を捕らえて奴隷として連れ帰る事を始めた。これ以来、スペインなど他のヨーロッパ諸国も追従し、黒人は、「黒い象牙」と呼ばれ、「商品」として売買された。スペインは、無敵艦隊の威力を背景に、盛んに中南米にも進出し、激しい植民地支配を行った。黒人奴隷達は、ヨーロッパ本国についで、キューバ、ハイチ、ブラジルなどの砂糖のプランテーションで働く労働者として盛んに連行された。イギリスは、後に奴隷貿易の独占的支配権を持つようになり、ヨーロッパの安価な品物を、ギニアの海岸で奴隷と交換し、大西洋を超えて西インド諸島に運んで、砂糖や鉱物と交換し、本国へ持ち帰ると言う、「三角貿易」を盛んに行うようになる。当時の支払い例によると、男一人あたりラム酒100ガロン、女一人あたり85ガロンであったと言う。奴隷となった黒人は、会社の印のついた「焼きごて」を胸に当てられ、狭い奴隷船にほとんど身動きできないほど詰め込まれて航海した。あまりの不衛生のため、奴隷船は3回も航海すれば捨てられたが、それでも莫大な利益が上がったという。航海の途中、多くの奴隷が発病し、それに加えて反乱を起こした者も、容赦無く海に投げ捨てられた。

 アメリカと言う国は、今でこそ、自由と民主主義の国、あるいは人権の擁護者のように振舞っているが、その根底は、人種差別と奴隷制度によって支えられて来た国である。人が人を犬のように鎖につなぎ、あるいは、家畜のように市場で品定めをして売買する。ヨーロッパ人が言う、キリスト教的な博愛とは、「同じ宗教を信ずる白人同士に限られた話」であって、異教徒や有色人種は、当時、博愛の対象ではなかったことを記憶されたい。(もしこの博愛が、全人類的博愛であれば、宗教戦争も、世界の植民地化もありえない事である。)

 国立アメリカ歴史博物館では、第2次大戦中の「日系人」に対する差別の展示もあった。法の下の平等とは言っても、それは言葉の上の事で、程度の差はあるものの、ほとんどの白人は、心のどこかに有色人種に対する優越感を持っている。第2次大戦中、米国民であるはずの日系人12万人が、家や財産を没収され、強制収用所に送られている。しかし、同じ敵性国民であった、ドイツ系、イタリア系アメリカ人が、強制収用所に送られる事は無かった。その理由はなぜだろうか?

 アメリカと言う国は、歴史的に調和を欠いた国である。白人と黒人、白人とインデアン、キリスト教徒とユダヤ教徒、黒人と韓国人、韓国人と日本人、さまざまな対立と闘争が、ずっと繰り広げられてきた。また、アメリカの歴史とは、開拓の歴史であり、開拓の歴史とは、すなわち侵略の歴史とほぼ等しい。

This land is mine, God gave it to me.と言う歌があるが、白人の勝手な言い分に聞こえるのは私だけだろうか。今でこそ、「人種差別はいけないこと」と言うけれど、人類の歴史には、いずこにおいても人種差別の概念があり、特に白人が、躊躇なくアフリカ、中南米、北米、そしてアジアを次々と侵略し、植民地としてきた歴史の裏側に、「根強い人種差別意識」がある事を忘れてはならないだろう。

 「人種差別の壁」によって近代の世界は形成され、白人の利益を基準にコントロールされてきたことを、我々は、もしかすると忘れてしまったのではないだろうか。

2)日本の提出した人種差別撤廃法案

 第一次大戦後、戦後処理を行った「パリ講和会議」(1919年1月18日開会)において、アメリカ全権であったウイルソン大統領は、世界秩序回復の為の、14か条を提唱した。しかし、この会議には、実は日本の代表団が提出した、「15番目の提案」があった。それは、「国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべき事」と言う提案であった。法案提出の事情には、当時、唯一有色人種の国家として、先進国の仲間入りをしつつあった日本が、人種的偏見によって不当に扱われるのを避ける狙いもあったであろう。しかし、1919年当時としては、「人種差別を撤廃する」と言うのは非常に画期的な主張であったと思われる。事実、当時アメリカで人種差別と闘っていた、「全米黒人新聞協会」は、「我々黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」、「全米1200万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」とコメントしている。

 アメリカのウイルソン大統領は、理想的人道主義者のように言われているが、自分の国内の事情もあり(注)、この法案の投票結果が17対11で賛成多数となると、突如、このような重要法案は、「全会一致でなければならない」として、「不採決」を宣言し、日本の提出した「人種差別撤廃法案」を葬り去ってしまった。

 当時、日本が取った行動と、アメリカがそれを葬り去った現実を比べてみると、一概に「日本が人種差別主義で、アメリカが人権の擁護者」と決め付けて良いのだろうか?

(注)当時のアメリカの状況について

 我々日本人が、アメリカの歴史の中で、如何に白人が黒人を差別し、黒人が差別撤廃のために闘って来たかを想像するのは容易な事ではない。アメリカでは、1857年に最高裁判決で、「差別をしても憲法違反にならない」、「黒人は市民ではなく、奴隷であり、憲法は白人のためのみにあるものであり、黒人は、白人より劣等な人種である」とはっきりと宣言している。その後の歴史はまさに、リンチと暴動と、暗殺の歴史である。特に、武器が民間人にも容易に手に入るアメリカにおいては、白人が集団で黒人をリンチし、むちで叩くとか、家を壊す、火をつける、ひどい場合には、電柱につるして銃で蜂の巣にするような事が公然と行われた。1908年(スプリングフィールド)の暴動では、黒人、白人あわせて2百人が拘留されたが、「白人で処罰された者は、一人もいなかった」。なぜだと思われるか?
 パリ講和会議が行われたのと同じ1919年には、シカゴで大規模な暴動が起きている。原因は、ミシガン湖畔で、「白人しか遊泳が許されていない水泳場に、無断で泳いで行った黒人青年が溺死した」事が発端であった。暴動によって街は無法地帯と化し、双方に多数の犠牲者が出た。家を焼かれたり壊されたりした黒人の数は、1000人を超え、同じ年に、アーカンソー、ネブラスカ、テネシー、テキサス、コロンビア特別区でも同様の暴動が起きている。ややさかのぼるが、1905年には、カリフォルニアで「日本人排斥運動」が起きている。
 これが、日本が「人種差別撤廃」を打ち出した当時、これを否定したアメリカ国内の偽らざる状況である。

3)世界が誤解している、日本のユダヤ人の保護政策
       (杉原千畝は、日本のシンドラーか?)

 日本とドイツを比較して、どちらもホロコーストを行った国だと言われることが少なくない。しかし、実は、日本人自身が良く分っていないのだが、日本が取った対ユダヤ政策と言うのは、当時、世界では画期的であった事が、近年、ユダヤ人研究者らによって次第に明らかになってきている。

 もっとも有名なのは、命のビザを発給して、ユダヤ系住民を国外に逃がした、当時リトアニア領事代理、杉原千畝である。筆者は、杉原氏についても、ワシントンのホロコーストミューゼアムにその功績が記されているのをこの目で見た。しかし、杉原氏の功績は、当時、ドイツと同盟関係にあった日本政府の意向を、独断で無視した、いわば個人的な人道行為であったとされてきた。しかし、当時の日本政府が、同盟国ドイツからの強い抗議を無視して、半ば公然とユダヤ人の救出にあたったと言う事実が、次第に明らかになってきている。

 ボストン大学教授・ヒレル・レビン氏、日本イスラエル商工会議所会頭・藤原宣夫氏、そして実際に杉原氏によって救出されたユダヤ人の生き残りであり、時代の生き証人であるシカゴ・マーカンタイル取引所名誉会長・レオ・メラメッド氏らの証言をもとに、当時の状況を再現してみよう。

 まずは、レオ・メラメッド氏の体験から。1939年、ヒットラーの軍隊によるポーランド侵攻で、多くのユダヤ系ポーランド人は生活を根底から破壊され、リトアニアへ逃げ込んだ。すでにソ連軍の掌握下にあった、リトアニアの森の中で避難生活をする間に、「もし通過ビザを入手する事ができれば、日本経由でどこか別の国へ移住できる」と言ううわさを聞いた。その為、数千人のユダヤ人が、通過ビザを求めてリトアニアの日本領事館を取り囲んでいた。メラメッド氏は、当時、リトアニア領事代理であった杉原氏のご子息の弘樹さんと友達になり、何十年も後、東京で再会した折に、弘樹さんから当時の状況を聞かされた。それによると杉原氏は、家族全員を集めて、「これだけの人達が避難ルートを求め、通過ビザを望んでいるのに、それを拒否したら、彼らに残された道は死しかない。ビザの発給を拒否するのは良心に反する」と家族の意見を求めた。弘樹さんも「あれだけ大勢の子供たちが、毎日領事館を取り囲んでいるのです。ユダヤ人の子供を助けてください」と言ったとのことである。

 よく人は、オスカー・シンドラーと杉原氏を比較するが、シンドラーは、ユダヤ人を自分の経営する工場で、奴隷労働させるために助け、後に同情的になっただけだと言う。杉原氏は、人道的な見地からユダヤ人を救ったわけで、もし杉原氏がいなかったら、間違いなく大勢のユダヤ人が殺されていた。

 ビザを手にした人々は、リトアニアからシベリア鉄道で2週間かけてウラジオストクに向かった。ウラジオストクにつく少し前に、「ピロビジャンの検閲所」があり、ロシア軍が政治犯だと称して、ユダヤの智識人たちを連行していった。

 ウラジオストクから、船で3日かかって、日本の「敦賀」に着いた。メラメッド少年らが見た日本は、美しい山々に囲まれ、そこに住む日本人は、礼儀正しく親切でフレンドリーだった。家もなく、無一文で行く宛てのない、私たち難民に親身で接してくれた。そこから神戸に着くと、しっかりしたユダヤ人コミュニティーがあり、ユダヤ難民の為に義援金を集めたり生活を助けてくれた。メラメッド少年らは、日本に4ヶ月滞在し、その間、着物と風景の彩り、青い空と木でできた家々の記憶に加えて、「日本人の並外れたホスピタリティー、言葉が通じないのに、見知らぬ私達に差し伸べてくれた親切心を忘れる事ができない」と述べている。その後、アメリカ渡航の許可を得て、避難民達はアメリカへ向かった。

 1939年と言えば、大東亜戦争の直前であり、また悪魔のような日本人が、南京で大虐殺を行ったと言われる、1937年からわずか2年も経っていない頃のことである。

 メラメッド氏の証言からは、当時一人のユダヤ人少年の目を通してではあるが、美しい日本の風景と、そこに住む心やさしき日本人の美風を垣間見る事ができる。ところが、近年の研究によって、杉原氏の行為は、一外交官の良心の問題にとどまらず、もっと大きなバックグラウンドがあった事が明らかになりつつある。杉原氏は1930年代にハルピンの満州国外交部におり、その後、彼の後ろ盾となったのが、山脇正隆大将だったと言われる。杉原氏がたんに個人的な思いつきでビザを発給したわけではなく、すなわち日本が、領事とか公使館レベルではなく、陸軍省とか外務省のレベルでユダヤ人の救出作業を始めた事が、レビン教授の綿密な調査によりわかってきたと言う。教授によれば、杉原氏がビザを発給することによって救われたユダヤ人の数は、1万人前後に達する。じつは、スイス人やフランス人が、個人のレベルでユダヤ人をかくまったりした事例はあるが、杉原氏ほどの規模でユダヤ人を救ったケースは他に世界に例がないと言うのである。しかも、近年、日本の外務省外交資料館で発見された資料の中には、杉原氏のほかにも、ウイーン、ハンブルグ、ストックホルムなど欧州12箇所の日本領事館で、ユダヤ避難民へ、数百件のビザが発行された記録が見つかっている。これら記録は、たんに杉原氏だけが思いつきでビザを発給したわけではないことを裏付けている。レビン教授は、「杉原氏はユダヤ人救出の為の何らかのネットワークを持っていたと確信する」と言う。

 さらに、教授によれば、当時欧州各国の日本領事館から、ユダヤ人ビザ申請者を不平等に扱うべきか否かを問い合わせた通信文書が見つかっている。結果的に、これら日本領事館は、ユダヤ人申請者に対しても平等に対応した。さらに驚いた事に、これらユダヤ人難民達が日本にたどり着いたとき、日本政府はすんなりと彼らを受け入れた。「日本の入国官吏官は、通過ビザのチェックに意外なほど寛大だった」(生存者の一人、杉原ビザのリスト17番、イサック・レビン)と複数のユダヤ人が証言している。それだけではない、最終目的地のビザも旅費もなく、途方にくれていたユダヤ人難民が、ごく普通の日本人によって手厚く遇された記録も次第に明らかになってきつつある。
日本側の当時の対応は、逆に多くのユダヤ人がいたはずのアメリカが取った非協力的な対応に比べ、天と地の差があるという。

 杉原氏以外にも、実はもっと大規模にユダヤ人の救済に奔走した人物があると言われる。1938年(昭和13年)当時、関東軍ハルビン特務機関長であった、「樋口季一郎少将(後に中将)」である。1938年3月、ドイツからシベリア鉄道経由で約2万人のユダヤ人難民が、ソ連と満州の国境の駅、オトポールに集まった。国境を挟んで満州側には、満州里の駅がある。ユダヤ人たちは、満州経由で上海へ向かいたかったのであるが、満州国外交部は、友好国ドイツへの配慮から、ユダヤ人の入国を拒否した。このため、ユダヤ人避難民達は、満州国境まで来て足止めを食らい、オトポールの駅で野営生活を強いられたのだった。満州国境の3月は、寒さが厳しく食料もなく彼らは凍死寸前だった。そこで、ハルビン在住の極東ユダヤ人協会会長、アブラハム・カウフマン氏の要請により、樋口少将が満州国外交部の責任者と会って説得した。一方で、樋口少将は、南満州鉄道の松岡洋右総裁に救援列車を要請し、12両編成の列車13本が、行き場を失ったユダヤ人救出のため出動したと言われる。

 この救出劇は、当然のように、ドイツ外務省より厳重な抗議を受けた。このため、当時の参謀長、東条英機中将が、樋口少将を参謀本部へ呼びつけた。そこで樋口少将は、東条参謀長に持論の正当性を熱心に説明したところ、なんとそれは東条参謀長に受け入れられ、樋口少将の行為は不問に付されることとなったと言う。

 樋口少将が、後にこの人道的行動に出た背景には、もともと少将がヨーロッパ駐在武官をしていた頃、当時のヨーロッパでは日本人に対する差別が相当あり、ドイツなどでは普通の家庭に泊めてもらえなかった。そんなとき温かく迎えてくれたのがユダヤ人の家庭だった為、「昔の恩を返すのが当たり前と言う気持ちだった」と自ら語ったと言う。

 ところが、さらにさらに、これらユダヤ人救済に活躍した人々の行為が、再度強調しなければならないが、同盟国ドイツの反発を買うにもかかわらず、日本政府や軍部によって許されてきた、大きな背景が存在する事が明らかになった。日本には、国家なきユダヤ人に国家を与える為、5万人のユダヤ人を満州へ受け入れる移住計画があった。これは、一方では、アメリカとの関係を良好に維持する政策の現われでもあった。1938年12月、日本政府の最高方針を決める五相会議において、「ユダヤ人を排斥する事は、我が国が多年に渡り主張してきた人種平等の原則に反する」、「日本は満州、中国に居住するユダヤ人を排撃することなく、他の外国人と同等に扱う」などを宣言し、日本政府として、満州や日本国内にいるユダヤ人を擁護する事を正式に決めていたのである。日本国内や満州に、ユダヤ人避難民を救援するユダヤ人組織がすでにできていたのはその為である。日本の保護のもとで、一人のユダヤ人も殺害されていない事は明記すべき事実である。当時、神戸で難民生活を送ったユダヤ人女性によれば、「当時あらゆる国が官僚的にユダヤ人に門戸を閉ざしていた時代に、日本政府が、ほとんど有効期限のないビザを受け入れ、長期間延長を認めた事が忘れられない。この日本政府の行為は、神戸での人道的体験とあいまって全く独特なものだった」と述べている。

 そう遠くない将来、レビン教授が、杉原千畝を主人公に書いた本が、ハリウッドで映画化されると言う。戦後長く日本人を苦しめてきた大きな理由の一つに、日本がドイツの同盟国であったが故に、日本のユダヤ人政策が誤解され、偏見をもって見られていた不幸があったように思う。現在、ユダヤ人から受けている誤解と偏見が解かれるとき、日本の置かれている立場に劇的な変化が訪れる事は、疑いを入れない。

4)戦時中から始まった、アジア諸国の独立
  (欧米諸国から独立のため、日本に支援を求めたアジア諸国)

 日本の敗戦後、植民地を取り返しに来た欧米諸国、敗戦後も原住民義勇軍といっしょに、彼らの独立のため戦った日本軍人たち
アジア諸国は、死をも恐れぬ「日本精神」で連合国と戦いぬき、白人はついにアジア人を支配する事をあきらめた
(ヨーロッパ人に、日本を裁く権利がはたしてあるのか?)
世界じゅうで始まったドミノ倒し、白人はその瞬間、神ではなくなった
最初のドミノは日本が倒した
(日本が、アジア諸国の独立に火をつけ、それはやがてアフリカに広がった)
大東亜戦争前の世界地図、大東亜戦争後の世界地図の比較

(要旨)

 大東亜戦争で、日本はアジア諸国を侵略し、耐えがたい悲しみと苦痛を与え、アジアの人々から憎まれている。このため、政治家が繰り返し謝罪し、歴史教科書を通じて罪悪感だけを植え付ける教育が行われている。しかし、この歴史観は、大東亜戦争のほんの一面しか表していない。事実、アジア諸国には、親日的な人々、あるいは、日本に感謝する人々が大勢いる。我々が目にすることのできる情報と言うのは、やはりマスコミによって一度ふるいに掛けられ、「操作されている」と言わざるをえない。

5)基本的な認識として

1、日本が戦ったのは、アジアの国々の住民ではなく、そこを200年も支配してきた、白人(ヨーロッパ人)である。

2、日本の植民地支配がひどく、欧米のそれは緩やかであったような認識は、誤りである。日本は、住民に学校を作って教育を与え、病院を建てたり、子供たちに予防接種をすることを始め、道路港湾、鉄道など社会資本を整備した。(「日本が現地人に現地語を禁止し日本語を強制した」と言うのは間違いである。日本語はあくまでアジア共栄圏の中で、アジア人が意思の疎通を図るための言語であり、例えばインドネシアでは、それまで250もあった島々の言語を「バハサインドネシア」に統一し、学校教育で普及させた。「言語の統一」は、インドネシア人の「感情、行動、民族」の統一に驚くべき力を発揮した。)また、議会を開設し、現地人にも政治参加の機会を与えた。また日本は、アジア諸国の独立を助けるため、現地人に軍事教育を与え、軍事的な能力を与えた。これが決定的な欧米支配との違いである。それに反して、欧米人は武器を持たせるどころか、現地人には、「人間としての価値を認めなかった」。共に泳ぐ事も許されず、青年の団体行動は(反乱に結びつくとして)禁止され、教育どころか徹底的な「愚民政策」により、識字率はわずか数パーセントであった。土地は奪われ、住民は農場で強制労働に借り出され、オランダ統治時代のインドネシア人の平均寿命は35歳だったと言う。もちろん、独立運動の指導者は投獄されたり、処刑されたりした。イギリスやオランダ経済の三分の一以上が、植民地からの収奪でまかなわれ、現地人はただの奴隷であった。当時、多くのアジア人にとって、白人は抵抗しがたい「神のような存在だった」。

3、インド、インドネシア、マレーシア、ビルマを始めとするアジア諸国では、「日本軍が独立の為に戦ってくれた」ことを忘れていない人も多い。インパール作戦など、まさにインド独立の為に、日本がインド国民軍と共にイギリスと戦ったのであり、「我々インド人は、我々のために死んでくれた日本人戦死者に子々孫々まで感謝したい」と言う。インドやビルマの人達は、自分たちの独立の為に日本の青年20万人が死んでくれたと言う事を未だに忘れていない。

4、日本が、アジア諸国の人々に与えた衝撃とは、今まで神のように犯しがたい存在であった「白人が、同じアジア人の軍隊に破れて白旗を掲げた」のを見た瞬間であった。これが、アジアの人々の潜在意識に革命的な転換をもたらした。

5、日本が連合国に敗れた後、今でこそ、日本の植民地支配を非難する連合国は、どのような行動をアジア諸国に対して起こしたのか。日本の教科書がこういうことをきちんと教えていないのは、「自国に対する正しい歴史観が欠落している」からである。連合国は、日本によって追い出されたアジア植民地を「再び取り返しに来た」のである。インドネシアは、3万人のイギリス軍と15万人のオランダ軍による連合軍と、4年間に渡る死闘を繰り広げている。その結果、住民80万人以上が犠牲となった。しかし、生き残った人々の証言によると、彼らが連合国と戦い抜く事ができた理由は、日本統治時代に、日本軍が軍事的能力を自分たちに与え、また四万丁にも及ぶ小銃や弾薬を、日本敗戦後渡してくれたからだと言う。そうでなければ、誰が彼らに武器を与え独立を支援してくれただろう。また、敗戦後も日本へ帰る道を選ばず、「インドネシア人と共に戦った日本兵が約2000人もおり」、この半数以上がインドネシア独立の為に戦死している。何より、彼らインドネシア人が独立を勝ち得たのは、死をも恐れぬ頑強な精神力、すなわち日本人が教えた「日本精神」であったと言う。この精神があったおかげで、武力では圧倒的に優位であったイギリスでさえ、最後には、とうとうインドネシア人を支配する事を「あきらめた」。

6、「大和魂」、これは、今の日本では必要無いように思われているかもしれない。しかし連合国から独立を目指す我々(当時の独立運動の指導者)には、独立のために不可欠な精神だった。民族として正しい意志を持つこと、これなしに独立を勝ち得ることはできなかっただろうと言う。

7、1955年バンドンで行われたアジア・アフリカ会議において「民族の自決」と「反植民地主義」が掲げられ、アジアで起こったドミノ倒しは、アフリカ諸国へ波及して行った。アジア独立運動に関わった人々は、「大東亜戦争が無ければ、アジア・アフリカ会議は無かった。日本はアジアの国々の独立を助け自由をもたらした」と言っている。

 以上の事が、アジアの国々で、当時の事を「本当に知っている」人々によって守られている。それが正しく伝えられず、後にさまざまな政治的意図で歪められて子供たちに伝えられるのは、自らの悪事を認められない「勝った」連合国の情報操作によるものである。日本の行った戦争には、はっきりとした「思想」があったと、独立運動の指導者が言う。日本は、敗れはしたが、結果としてアジアは、数百年に渡るヨーロッパ人の支配から解放された。日本がやらなければ誰にできたであろう。当時、日本の人々の心の中に「アジアの共栄」があった事は紛れも無い事実であり、それが作り事であったと物知り顔で言うことこそ、後の作りごとである。

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