産業の空洞化は何が問題か?

中村 吉明
研究員

最近、我が国の産業空洞化に関する懸念が急速に高まっている。我が国の生産拠点の海外移転に伴う国内生産量の減少のみならず、我が国の研究開発拠点も海外への進出が続いているという現状を憂いてのことである。

我が国において最初に産業の空洞化問題が論じられたのは1980年代後半である。1985年のプラザ合意以降の急速な円高の進展等を背景に、我が国の製造業の生産拠点が急速に海外に移転した。このため、国内の雇用が減少し、技術水準が低下するのではないかといった恐れから、産業の空洞化問題が取り上げられた。その後、一時は沈静化したものの、1993年初頭以降の円高に伴い産業の空洞化の議論が再燃した(その当時の議論を整理したものとして拙著「空洞化現象とは何か」を参照のこと)。

さらに、ここへ来て中国経済の台頭や相次ぐ生産拠点の海外移転等を受け、3度目の産業の空洞化に関する議論が顕在化してきた。そもそも産業の空洞化の問題の本質はどこにあるのだろうか。本稿では、それらを明らかにするとともに、その処方箋を考える。

産業の空洞化問題とは何か?

産業の空洞化に関するこれまでの議論を整理すると、製造業の生産拠点の海外移転により国内の雇用や技術水準等に影響を与えるとの議論、それに伴い国内にサービス業のみが残り、我が国経済が弱体化してしまうとの議論、高付加価値化製品の生産拠点の海外移転や研究開発拠点の海外進出を背景に、本来、我が国の経済成長の基軸となる産業が海外へ流出してしまうのではないかとの議論等がある。一方、こうした変化は我が国の構造改革の一過程であり若干の痛みを伴っても避けられないとの議論、企業は比較優位の観点から適切な資源配分をしており、仮に上記のような負の現象が現れたとしても致し方ないという議論もある。

企業が生産拠点等を海外に移転する理由には、比較優位に基づく利潤最大化行動が背景にあり、これを防止することは一般に経済厚生を低下させる可能性がある。しかしながら、当該生産拠点等の国内での存在自体が国内経済にある種の外部経済効果を及ぼしている場合、生産拠点等が海外移転すると、一国の経済厚生が低下する可能性があると考えられる。産業の空洞化の問題の本質は、こうした企業の私的便益と社会的便益とが乖離するところにあると思われる。

産業の空洞化は問題か?

では、どのような場合に私的便益と社会的便益との乖離が起きるのであろうか。例えば、我が国の生産拠点で行われた技術革新はさまざまな技術連鎖や技術のスピルオーバーを通じて、他産業の技術革新や新規産業の発展をもたらすという意味での社会的便益を有しており、企業が私的便益を求めて生産拠点を海外に移転した結果、私的便益と公的便益の乖離が起きる可能性がある。ただ、現在の現象を見ると、中国を始め海外へは生産拠点中心に移転されている。確かに、従来と比較して単純な低付加価値化製品の生産ではなく、デジタルカメラ、DVDプレーヤーを含む高付加価値化製品も生産するようになったが、量産品中心には変わりなく、そこで使用されている最先端の技術は日本からの部品輸入及び技術供与で成り立っている場合も多い。一方、生産拠点のみならず、研究開発拠点が海外に進出する例もあるが、それは当該地域の市場を目指し、当該地域の特性に合う製品開発を行うため、当該地域の優秀な研究者を活用した研究開発拠点であり、我が国の研究開発拠点を代替するものではなく補完するものである。また、我が国の企業は比較優位を失って、ほとんどの量産を海外に委ねた製品であっても、少なくとも1つの生産拠点をマザー・ファクトリーとして国内に残すように努力している。これは、国内の生産拠点が閉鎖されることにより、生産ノウハウが失われ、将来、市場や技術の条件が変わって生産が再開されるようになっても対応できるように、いわゆる経路依存性の問題を回避するために、企業が自発的に行っている行動である。更に、企業はさらなる高付加価値化製品を作ることで比較優位の回復に努めている。これらのことを総合すると、技術に関する私的便益と社会的便益の乖離の問題はそれほど大きな問題でないように考える。

もちろん、生産拠点の海外移転に伴い雇用問題が惹起され、社会的な便益が低下することも否めない。特に、地方においては、労働市場の職種間ギャップが大きいため、社会的なコストが相当高くなる可能性もある。ただ、このために、自由経済体制を標榜する我が国において、企業の比較優位に基づく利潤最大化行動を制限することはできない。これらに対しては、政府は最低限のセーフティネットを構築し、対処すべきである。

産業の空洞化の処方箋は何か?

産業の空洞化の処方箋を考える際の重要な視点は、どこまでをガバメント・リーチとするかという点にある。従来、この種の経済問題が発生した場合、できるできないにかかわらず、ある程度、政府が処方箋を考える傾向にあった。現在は、未成熟の経済体制の時代と違い、我が国は成熟した自由主義経済の中にある。加えて、以前は官民の間に情報の非対称性が存在したが、現在はそれもなくなり、官はイニシアチブを取って政策を遂行するほどの知見を持ち得なくなった。さらに、財政の限界も顕在化してきており、政府が実施できる政策の範囲も限られている。すなわち、政府の役割は時代とともに変化してきており、限定的なものになりつつある。以上を考慮に入れ、政府は分相応の処方箋を考えるべきである。その際、政府は企業に対し、その企業行動やグローバル化を阻害するような対応は厳に慎むべきである。時に大リーグではイチロー、佐々木が活躍しているように、日本企業が海外で活躍していることを誇りに思うのはいけないことだろうか。産業の空洞化現象を我が国企業のグローバル化現象の一環として捉え、我が国企業が自己責任のもとで自由に経済活動を行うこと自体問題なのだろうか。

企業は時代の変遷とともにグローバル化しており、産業の空洞化の中で相変わらず、旧態依然とした対応をしているのは結局政府、議会、地方自治体なのではないのか。彼ら自身の海外移転は不可能なのだから。彼らこそ時代に応じて変わるべきである。彼らがすべきことは、企業が我が国に立地しやすくなるような魅力的な事業環境、投資環境の整備を行うことではないか。

2002年1月15日

2002年1月15日掲載

この著者の記事