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蝦夷の首長「アテルイの首塚」  by リワキーノ   2011.09.17

アテルイの墓が枚方市の牧野にある、という話を顧客から聞いたのは9月9日でした。
蝦夷の軍事的指導者で坂上田村麻呂の率いる朝廷軍に敗れて降伏し、遷都なったばかりの平安京
まで連れてこられ、田村麻呂の助命嘆願の甲斐もなく、処刑されたという話は知っていたのですが、
まさか枚方市にその墓があるとは思いもしませんでした。
京阪牧野駅は香里園駅から各停で15分の距離なのです。
「小さな墓石だが故郷から遠い地で殺されたアテルイを哀れに思ったのか地域の人たちが花などを供
えて墓を守っている」という顧客の話を聞いた私は是非ともアテルイの墓詣でに行きたくなりました。
そして機会はすぐにやってきたのです。

私の顧客であるピアノ教師の娘さんが牧野の公共施設で音楽会を開くのでその調律をして欲しいと依
頼してきたのです。
調律の期日は9月11日。何と、アテルイの話を聞いてから二日後のことでした。
早速、アテルイの墓のある牧野公園をインターネット地図で調べると仕事で行く公共施設のすぐそばに
あることが判明。
当日は9時から調律をはじめ、10時半からリハーサルが始まった後に私は会館を抜け出して目の前の
公園に行ってみましたが、そこには墓、もしくは墳墓らしきものがないので、道路隔てた向こう側の公
園に行ってみたところ、そこにアテルイの墳墓らしきもがあるのを発見したのです。


アテルイの墓と言われる首塚。



鮮度のある花が供えてあることから、近所の人たちが花が絶えないよう心がけておられるのが推察
されます。

アテルイは「続日本紀」(しょくにほん"ぎ")と「日本紀略」(にほん"ぎ"りゃく)の二つの史書にその実
在の記録が載っています。
「続日本紀」ではみちのくに攻め込んできた朝廷軍を衣川から巣伏にかけての戦いで完膚無きまでに
打ち破り、「この戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、これほど鮮やかな例は日本古代
史に類を見ない」とウイキペディアに記述されています。
後に坂上田村麻呂率いる朝廷軍がみちのくに侵攻してきたとき、アテルイはどのような戦いをしたのか
は史料には記録されていないのですが結果的にはアテルイと仲間のモレが500の兵と共に降伏します。
二人は田村麻呂に連れられて平安京まで行くのですが、田村麻呂の助命嘆願もむなしく、処刑され
ます。
日本武尊のころから蛮族として敵視してきた蝦夷の、しかも巣伏の戦いで示したような武将としての
有能さをもつ指導者アテルイを生かしておくのは危険と桓武天皇の朝廷は思ったのでしょう。
助命嘆願した田村麻呂は同じ武将ゆえ、敵対したとはいえ、いや、敵対して戦ったからこそ、武将ア
テルイの器量をよく知り、彼の命を惜しんだのでしょうね。

伝 阿弖利爲・母礼之塚(アテルイとモレの塚・現代に建立された記念碑)


この記念碑の後ろに建立に協賛した人たちの名前が列記された碑があります。


その拡大写真が下記の画像です。※画像をクリックしてください。

私は拝殿前で賽銭を投げ、アテルイとモレの冥福を祈願しました。
その寄付者名簿の後ろの方に下記の名前群があります。

・関西岩手県人会
・関西アテルイ・モレの会
・メディセオ蝦夷を讃える会
・アテルイを顕彰する会
・阿弖利爲・母礼を慰霊する会
・奥州市 羽黒山 出羽神社
・奥州市 及川洵
・奥州市 伊藤栄志郎
・胆江日日新聞社
・北上市 千葉康彦


「関西アテルイ・モレの会」は関西在住の岩手県人で組織された会であり、この名前群は東北の団体、
個人が占めるものです。
寄付者名簿の末尾に記されていることからこの東北の団体及び個人の人たちが中心となってこの塚
は建立されたものと思われます。

関西アテルイ・モレの会」は坂上田村麻呂が建立した京都の清水寺の境内にも阿弖利爲・母礼の顕
彰碑を建立しています。
画像は清水寺貫首による法事。



私がアテルイの首塚および、そばに建つ片埜神社を訪れた後、昼食を取るために入った近くの喫茶
店のママさんに聞いた話ですが、アテルイの首塚を遠方から訪ねて来る人は多いそうで、一度、リュ
ックサックを背負った男性が岩手県からやってきたことを話し、市役所で墓の所在を尋ねたところ、
誰も知らないので探し当てるのに苦労したことを語り、枚方市のアテルイの墓への冷淡さにひどく失
望したとのこと。
平安時代では蝦夷は蛮族で日本人扱いをされていなかったのでしょうが、東北の人たちにとっては
アテルイは郷土の英雄。
今でも我らが郷土の英雄は異邦人扱いをされているのか、という悲哀感を感じられたのでしょうね。
でも建立碑文には枚方市教育委員会の名前も入っておりますから今は、枚方市役所もアテルイの
首塚のことはちゃんと把握していることと思います。
毎年、アテルイの命日の9月17日は首塚の前で慰霊祭が行われるそうです。

すぐ側にある片埜神社を訪ねました。こちらは裏側。


正面はこのように。


拝殿です。


片埜神社は何と!垂仁天皇の時代に野見宿禰が建てた神社で二千年の歴史を持つのです。
※画像をクリックしてください。
私は拝殿前で賽銭を投げ、アテルイとモレの冥福を祈願しました。

境内にはアテルイのことを顕彰する掲示板が。


ただ、牧野のアテルイの首塚と言われる墳墓は発掘調査の結果、200年も前のものであることが
判明しているとのこと。
アテルイのものではないのかも知れないが、こうして多くの人がアテルイの墓と思って遠隔の地か
らも弔いにくる対象物があることは結構なことと思います。
あの世のアテルイ自身、自分の埋葬されたところではない別の場所で自分のことをしのんで、弔い
してくれることを喜びこそすれ、苦情など言わないと思います。

アテルイについては下記のサイトを見つけました。
http://www.jomon.com/~emisi/semi/14semi/material/yamaki.htm

アテルイに対する素晴らしい挽歌ですが、難しい漢字にふりがなをふっているため、いささか、読みにく
い記述のように思われましたので、私が下記のように編修し直しました。
アテルイの墓と思われるようになったきっかけを作った老婦人の話に心を打たれました。

「北のまほろば・蝦夷の矜恃 」

東日本大震災で難儀されるみちのくの人たちに、アテルイのご加護がありますように。