山口組 三代目組長 田岡一雄

田岡一雄

大正2年(1913年)3月28日、徳島県三好郡三庄村に生まれる。
1人の兄と3人の姉がいた。

父親は田岡が生まれる前に死去し、母親は小学生の頃死去した。

その後、叔父に引き取られ、神戸市兵庫区に転居し、
小学校4年から新聞配達を始めた。

昭和元年(1925年)、浜山小学校を卒業し、尋常高等小学校に
進学した。同級生に二代目山口組・山口登組長の弟・秀雄がいた。

昭和2年(1927年)3月、尋常高等小学校を卒業し、
川崎造船所に旋盤見習工として入社したが、
現場主任を殴打し退社した。

ゴンゾウ部屋からの出発

山口組二代目組長山口登の弟秀雄の誘いで、二代目山口組の
ゴンゾウ部屋の世話になり、夜警の仕事に従事した。

このころに吉川勇次(後の三代目山口組若頭補佐)と知り合う。

昭和5年(1930年)10月、新開地本通りの剣劇小屋「湊座」で、
小屋主の態度に腹を立て、湊座の舞台に上がって大暴れした。
山口組が湊座の用心棒を務めていた事からこれが縁になり、
田岡一雄は二代目山口組で行儀見習いをすることになった。

同年、田岡は神戸の賭場で岡精義
(後の三代目山口組七人衆)と知り合った。

昭和7年(1932年)、山口登が後援会長を努める大関・玉錦が
前頭の宝川と揉め事を起こし、田岡は日本刀で宝川を襲撃し、
指2本を切断した上、額を割る事件を起こす。

昭和9年(1934年)、海員組合の労働争議に介入した山口登の
舎弟・西田幸一が組合員たちに殺害されたことへの報復で
争議本部を襲撃し、組合長に斬りつけて一時九州に逃亡。

昭和11年(1936年)、山口登から盃を受け、正式に若衆となった。

同年、深山フミ子と、同棲生活を始めた。

同年、山口登に口答えをし、怒りを買った。
山口登の怒りが収まるまで、東京の玉錦の元に身を寄せた。
その後、玉錦のとりなしで山口登から許しを得て神戸に戻る。

昭和12年(1937年)2月25日、素行が悪く山口組を破門になった
大長政吉を福原遊廓で襲撃し、鉄瓶で殴打して頭を割る。
それに怒った大長八郎(政吉の弟)が、山口組事務所に
殴り込んできた。これを田岡が日本刀で刺殺。
このため殺人罪で懲役8年の実刑判決を受けた。

昭和15年(1940年)、山口登は吉本興業の代理として広沢虎造の
移籍問題のトラブルについて、籠寅組と東京の浅草で話し合いの
場を持ったが、話し合いはこじれボディーガードの中島武雄は
日本刀で刺殺され、山口登も全身に18ヶ所の傷を受けた。
この傷がもとで昭和17年(1942年)10月4日、山口登は、
死亡したとされている。

山口組は三代目を作らず、舎弟会が運営することになった。

山口組三代目襲名へ

昭和18年(1943年)7月13日、田岡一雄は恩赦で2年減刑され、
高知刑務所を出所した。

昭和20年(1945年)終戦後、田岡は神戸で吉川勇次と再会した。

田岡組を結成し、戦後の混乱で弱体化していた警察力に代わり
田岡は、街や闇市の警備のために、神戸市新開地に「自警団」を
結成し、
闇市への不良在日外国人の干渉を排除した。

昭和21年(1946年)、山口組舎弟会が田岡一雄を三代目に推挙。
これにより、田岡一雄は山口組三代目に内定した。
同年10月、田岡一雄の山口組三代目襲名式が、須磨の割烹
「延命軒」で行われた。参加者は33人だった。

三代目山口組の初代若頭には、山田久一が就任した。
岡精義は田岡一雄の若衆(後に舎弟)となった。
田岡一雄からの最初の盃を、吉川勇次が受けた。
このとき、組員は、先代の舎弟6人、先代の若衆14人、田岡一雄の
直系若衆13人の総勢33人だった。
田岡は三代目襲名に当たって組員に正業を持たせること。
信賞必罰による体制を確立すること。田岡自身が幡随院長兵衛を
手本とし、幡随院長兵衛を目指すこと、の3つの誓いを立てた。

港湾荷役と神戸芸能社

昭和22年(1947年)、民間貿易の再開が許可されたのを期に、
岡精義の提案を受け、港湾事業に積極的に参入する。

戦前からある浪曲興行からその他の演芸興行全般にも手を広げ、
芸能プロダクション神戸芸能社は、美空ひばり、田端義夫など
トップ・スターの興行を手がけた。

港湾荷役と神戸芸能社は組の二大収入源となり、
山口組のその後の全国的な活動を支えた。

昭和28年(1953年)、山本健一らによる鶴田浩二襲撃事件で
鶴田襲撃を命じた張本人とされて全国指名手配を受け、
天王寺署に出頭し逮捕される。
その後、処分保留で釈放され不起訴処分となる。

この事件後、山口組の機嫌を損ねると、とんでもない事が起こると
恐れられ、興行界での影響力も増していった。

これらと同じく当時はプロ野球の試合も、地回りの興行組織に
挨拶を欠く事はできなかった。しかし野球ファンであった田岡は、
野球は国民的娯楽だからと山口組の全国進出以後はそのような
慣習なしで開催できるよう取り計らいをしたという。

昭和29年(1954年)谷崎組との間に抗争事件が勃発した。

昭和30年(1955年)、安原武夫に安原運輸を設立させる。

同年、三代目山口組初の大規模抗争、小松島抗争が勃発。

昭和35年(1960年)、明友会事件が勃発。

昭和37年(1962年)、夜桜銀次事件が勃発。

同年、横浜でブルースカイ事件が勃発。

同年 、田岡は、広島の打越会・打越信夫会長を舎弟とした。
これにより、第二次広島抗争に介入していく。

同年、後に山口組四代目に就く竹中正久をボディガード役に据えた。

昭和38年(1963年)、紫川事件が勃発。

第一次頂上作戦

警視庁の号令で、昭和39年(1964年)2月から
昭和44年(1969年)4月まで行った暴力団壊滅作戦。

昭和39年(1964年)、第1次松山抗争が勃発。

昭和39年(1964年)、山口組を壊滅する為の「第一次頂上作戦」に
おいて、資金源の要であった神戸港の港湾事業に司直のメスが
入り、港湾業務から撤退した。

晩年

昭和40年(1965年)5月
田岡は東京で倒れ、渋谷区セントラル病院に入院した。

昭和41年(1966年)、自らが経営する甲陽運輸の脱税容疑で
神戸地検に起訴される。

昭和43年(1968年)、吉本興業の 林正之助が、
「レコード会社乗っ取り容疑」で兵庫県警に逮捕される。
田岡もこれに連座すると見られたが、
結局入院中の田岡に類は及ばなかった。

昭和44年(1969年)、恐喝と威力業務妨害で神戸地検が起訴。

昭和50年(1975年)、大阪戦争の発端になるジュテーム事件勃発。

昭和51年(1976年)、廃業状態の神戸芸能社の健康保険を使い、
その保険で不正医療給付を受けたとして、田岡が入院する
関西労災病院や自宅が捜索を受けた。

昭和52年(1977年)、三国事件が勃発、菅谷政雄を絶縁した。

昭和53年(1978年) 、京都のクラブ「ベラミ」で、
傘下の佐々木組と対立していた二代目松田組系大日本正義団の
鳴海清に撃たれ負傷。

昭和55年(1980年)、姫路事件。

昭和56年(1981年)、神戸地検は、第1次頂上作戦での
さんちかタウン建設をめぐる恐喝で、田岡一雄に
懲役4年を求刑した。

同年、急性心不全により68歳で死去、
戒名は永照院仁徳一道義範大居士。

関連書籍

田岡一雄組長については、田岡自らが記した唯一の書「田岡一雄自伝」がある。多くのヤクザがバイブルとして手にした書物で今だその評価は高い。田岡が何を考え何を実行してきたのか、本人が語った山口組。

また、田岡一雄を知るには実の娘である田岡由伎さんが書いた「お父さんの石けん箱」がある。娘として接してきた生身の田岡一雄が生き生きと描かれている。もちろん田岡が京都のベラミで狙撃された日の事も書かれており、家族としての視点が他のヤクザ本とは一線を画す。