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吉本ばなな公式サイト | 日記 | 2013年1月
人生のこつあれこれ 2013年1月

宮本輝先生と対談をした。
心から嬉しいと思った。
彼は私にとってほんとうに不思議な人で、人生の節目節目に突然現れてきて神様の化身みたいにずばりと神託をくださるのである。
ふだんは輝先生のことを特に考えない。
しかし心の中のどこかに、遠い昔に訪ねた輝先生のおうちとご家族の姿が焼き付いていて、あんなふうになれたら、とずっと思っていたことをたまに再確認する。
輝先生のおうちに遊びに行って「作家の内面は基本的に地獄だし、それを受け入れていこうとも思う。でもこのように幸せを大切にする生活が叶うなら、少しでもそうあろうとしてよいのだ」と二十代の私は思った。
苦しくつらい病気の余韻を抱え、激しい人生経験を抱え、それでも人であるかぎり幸せであろうというごまかしのない愛情が家中にあふれていた。豊かでご家族も仲良く一見単に気楽でうらやましく見えるその家の中には、目に見えない大変さやそれを乗り越えて来た強い何かの気配があった。
私はそのとき結婚しようとしていた男の人といっしょに遊びに行かせてもらったんだけれど、輝先生にそれを告げたらびっくりなさって、
「お〜い、えらいこっちゃ、結婚やて」
とキッチンの奥さまを呼び、下にいたビーグル犬にも、
「おいマック、結婚するんやて」
とおっしゃった。
今もあの光景を思い出すとぷっと笑ってしまう。
新刊をお送りいただいて(ちなみに五木寛之先生と村上龍先生と瀬戸内寂聴先生と山田詠美先生と森博嗣先生と宮本輝先生は、私が拙著を勝手に送りつけているのに、かかさず新刊を送ってくださる。輝先生と五木先生に至っては二十五年間も。一流と呼ばれる人はやはり違う。小さいことに思えるけど、実はすごく大きいことのような気がする。あと、いっしょにしていいのかわからないけど『ポテン生活』の木下晋也先生も…ううむ!そして村上春樹先生は『こればななさん好きかと思って』と思った本だけそうおっしゃって送ってくださるが、それも春樹先生らしくて萌え)、読んでいるあいだの毎日が、なにかすてきなものに包まれているような幸せをいつも感じる。
川シリーズや流転の海シリーズの一人っ子ちゃん(輝先生の分身)の性格や育ち方がうちの子どもにあまりにも似ているから胸いっぱいだというのもあるけれど、もっと違う、温かい光みたいなものがずっとそばにあるのだ。
震災のときもそうだった。
気持ちが落ち着かなくて本をあまり読めなかったのに「三十光年の星たち」を少しずつ読む時間だけが温かいものに照らされているようだった。節電で暖房がない暗い寒い部屋でふとんに入って、ライトの光の真下だけが明るい中、小説の中の不器用で優しい若者が人生を学んでいく過程を見るだけで、気持ちが落ち着いたのを覚えている。
私の本もそのようにだれかに読まれるといいなと切に願ったことも。
よしもとばななにはよしもとばななの小説はないけど、よしもとばななには宮本輝の小説があるのだ(笑)。
私の子どもの育て方は特殊で、私の育った家庭と今の仕事と高齢になってからの子どもだというのが全部重なったもので、ほんと〜うによく批判される。近い人にも遠い人にもすれちがった人にさえも。
基本的にはどこにでも連れて行きながら育てるということで、親と離れてお手伝いさんに家に宿泊してもらってまでは仕事をしない、というスタンスでいる。
それで単に仕事をあんまりしなければ全然問題ないんだけれど、貧乏ひまなしでそうも言っておられず、いつもどたばたしている。あと十年、自立の歳になるまではある程度これを続けるしかない。
人生は一度しかない。
日本国民であることやみなと同じにすること以上に、他の人を害さない範囲で健康や愛を優先することにした。
それを言葉をつくして説明し、理解してもらった相手とだけ、これまでなんとかお仕事をしてきた。もちろん打ち合わせや打ち上げにはシッターさんがいればいさせないが、いなければ連れて行くし、出張はほぼ100%連れて行く。そしてそのことを学校にして学んでもらう。出入国のしかた、乗り継ぎのしかた、現地の言葉、礼儀、天候、ブックフェアや講演の雰囲気、クリエーターや裏方さんのすごさ。
ホームスクールと旅家族の中間くらいの方法で、世界中にこれを実践している仲間はたくさんいる。
その子たちならではのだめなところ、至らないところは必ず出てくると思うけれど、世の中にとっていいところも必ず出てくる、そう信じている。
「生意気なことを申し上げていることは承知ですが、可能なら対談を昼間にしていただけますか?子どもが小さいうちは、お母さんは夜いっしょにいると決めたのです」怒られてもしかたないといつもの決意を持って輝先生に言った私に、輝先生からそれは大切なことだと思う、だから自分から東京に足を運びます、という内容の、絵文字がついたとても優しいメールをいただいた。
その短いメールの文章全体から輝先生の小説から感じられるのと同じ強く明るい光がキラキラこぼれてきて、その文章のさりげないながらもあまりにすごい力に私はうなってしまった。
自分のしていることがよいかどうかは、自分が最後の責任を持つから気にしていない。
でも、愛をもって心底わかってもらえるということがこんなにも大きなことだとは思っていなかった。
輝先生の育ちもこれまでの道のりも、作家であるという業があるぶん、決して楽なものではなかったことは知っている。それでも良きことを描こうとする姿勢に私はいつもうたれる。
輝先生はきれいごとやサガン的なものを書いているのではなく、骸骨ビルのモデルのビルや泥の河のモデルの川付近の貧しい人々と混じっての暮らし、実業家としてのお父さんの失墜や病気や死、それらのむちゃくちゃドロドロした世界(まわりにもたくさんいるけれど、小商いではない商売人の息子が見てくるものは、ほんとうに地獄なのだ)を経たからこそ今のような作品を描けるのだろう。ご本人は繊細と大胆が入り交じっていて(そこは私との共通項)そんなに安定しているわけではないはず。しかしその場に輝先生がいるだけで、なぜかこの世でたったひとつの確かなものがある気がするのは、いろいろ見てきた大きな目を持っているからだと思う。
それが、作家というもののよさだ。
若い人ほど、読んでほしい作品がいっぱいある。
ものすごい先輩がいると、自分もがんばれるんだな、そう思った。


先月の日記で、父はあんなに仕事に人生を捧げたのに全集も出ないなんて、信じられなかった、でも、高知の松岡さんがこつこつまとめて出版してくださっているからもういいや…みたいなことをあまり実名を出さずに遠回しに(遠かったかな!?)記録しておこうと思って書いたけれど、全然違うルートからすばらしい手助けの話がやってきた。
これぞ男気!みたいな話だった。
先月の日記は出版を本気であきらめたからこそ書いたのであって、そんなことひとかけらも期待していなかった。
父がしてきたことが他の人を確かに励ましてきた、そのことが伝わってきて嬉しかった。口で業績を称えたり「文化をだいじにしていきたいです」「いい本にします」と言うのは無料の上簡単だし、だれにでもできる。自分もリスクをおって行動できるということは、ほんとうに父がその人をはげましてきたということだと思う。
丸尾アニキがよく「暇をかけなあかん」って言ってるけど、ほんとうにそうだ。
まいた種は必ずいつか芽を出す。信じてお水をあげるしかない。たとえその土の下で種が腐ってしまっても、もしかしたらひょんなことから近所の人が同じ種を持って来るかもしれないし、空を飛んでいる鳥がふんをしてそこにたまたまその種が入っているかもしれない。
これは絵空事でも非科学的なのでもない。
今回のことだって、もしもお母さんが死んだ次の日に対談なんてできないからやらない!と思ってやらなかったら、ご縁ができなかった(さすがにお葬式に丸まるかぶっていた三砂ちづるさんとの対談は延期にしてもらったけれど。三砂さんはほんとうに優しくて、後からゲラをほとんど書籍が完成するくらいきれいに直してくださって、そのことをちっとも恩着せがましく言わない。なによりもあの色っぽくてかわいらしい笑顔を見たら、いっぺんに疲れがなくなる。あんな先生がいたら一生大学に通いたい)。
それというのも「こんな泣いた顔で写真に写りたくないけど…昔、四十度熱が出て高橋源一郎兄さんとの対談を延期してもらおうと思ったら、お父さんが『相手が時間をあけてくれてるんだから、数時間くらいがんばって行け』と言ってくれたしなあ。がんばって行こう!」と思って決行した。先方は「延期にしましょう」と言ってくれたけれど、母が亡くなった翌日はちょうどぽっかりなにもなかったのだ。
学生のときにアイザック・シンガーを読み込んで「そうか現実を寓話にするスタイルを取れば言いたいことが言えるんだ」と勉強したあの時間がなければ、なかったご縁だ。
また父が、言いたい放題言ってはいたけれどどんな人も拒まずにオープンな場を作っていろいろな人に宴会に来てもらっていたことが生かされたとも言える。
そんなことが全部つながった不思議なご縁だった。
私と編集の間宮さんが必死で探して取りに行ってるときには、決して見つからなかったご縁だ。
ただいっしょうけんめい生きていたら降ってきた。
父が「そうかあ、〇〇では出してもらえないか。でも決して甘くないこのご時世ならしかたありません、あせらずにやりましょう」と淋しそうに言った笑顔を忘れられなかった私は、今堂々とその笑顔を思い出すことができる。生きているうちに知らせてあげたかったけれど、こればかりはしかたない。
意図が全てだ。
自分の底から出てくる正しい意図さえ持てれば、それが潜在意識の中にうまく入れば、必ず現実に現れる。
その副作用のようなものがきついかもしれないが、とにかく実を結ぶ。
だから、力を入れて取りに行かないほうがいい。恋愛も、ダイエットも、仕事も。
ただ毎日をけんめいに生きた方が早い。


このタイプのことを書くのはあまり好きではない。
クレーマーと呼ばれることや、日本嫌いと呼ばれることはしかたないと思う。いくら私が志を持って書いていても、意見を異にする人にはただの文句だからだ。
でも、それぞれにとってなにが正しいのか、自分がどうしたいのか、少しでも考えるきっかけになりたいと願うから書く。
あたりさわりがなくて感じがよいものだけの作家だったら、少なくとも私は退屈してしまう。
心を波立たせて、鼻持ちならないと思ってもらっても、それでも考えさせられちゃうことを提示するというのも、私の大事な仕事だと思う。
そして私が書いて残したいのは、昔の日本なのだろうと思う。もちろんいいことばかりでなかった日本の、いい部分。書かないとなかったことになってしまうから。
私の知っているある有名なライブハウスでは、まず「招待客はいちばん最後、チケットを買った人、当日券を買った人が全て入ってからの入場」というルールがある。理由は、チケットを買った人が優先、平等が大事、彼らは無料で入る人だから、というもの。
それをはっちゃんに言ったら「う〜ん、平等の意味をはきちがえているような」と言っていたが、私もいつも首をかしげていた。
私はそこに完全な招待で行ったのは数回で、いつも自分だけ招待あるいは当日券にしてもらって家族の分も自分で買うので、あまり気づかなかった。
でもこのあいだ、たまたま友だちが死んでばたばたしていてチケットをとり損ない完売になってしまったので、ライブをやる側に頼んで招待にしてもらった。
ライブをやる側がすでに年配の人なので、その人たちの招待するご家族なんてもうはっきりいって老人ばかりであった。
その人たちは年齢的にきちんとしているから招待されたら一時間も前に来て、そして入り口でむげに断られるのである。
「申し訳ありませんが、招待の方は最後です」
そして、お年寄りが寒い中、列にも並べずじっと立って一時間待っているのである。 その上席がなくなり立ち見になったりしていた。
中には若い人もいて「早く来たのだから、招待でも入れてもらえませんか?」と頼んでいたが、断られて怒って怒鳴り散らして帰っていった。
ライブ前からムードが悪いったらありゃしない。
もし、音楽をやる方の目線、お金を主眼にしないで見た場合、招待客というのは、音楽家にとっていちばん世話になった大切な人であるか、人と人気を呼んでくる存在か、そのどちらかだ。
でも、ライブハウス側には一文にもならない。
だから、音楽家の利益は優先しない、そう判断したのだろう。
今はたいへんな時代だし経営上はわからなくもないが、音楽という文化を扱う立場として大きくずれているなと感じずにはおれない。
まあ、そういうルールで安心できる世代になってるっていうのも、あるんでしょうね。
日本がみんなこうなったら、ほんと、即脱出しようと思う。
これがまたすごいことに、そのライブハウスは席とりも禁止。入り口やチケットに明記されていればただ行かないのだが、特に明記されているわけでもない。幼稚園並みの管理ルールがいっぱいあるみたい。
たとえば私がひとりで早く入って十個席を取っていたら、それは確かに問題だろう。
しかしたったひとつだけ夫のために席を取っていたら、まず咳払いをしながら店の人がやってきて「あの、そこ通路なんで椅子をずらさないでください、通路にしたいからわざわざあけてあったんですけどね〜」と言った。
あ、ごめんなさい。あけておきます、と私は言い、食べ物を注文しようとしたら、
「今だと食べ物は全てすごく時間がかかりますけど、それでも注文しますか?」と言われたので、全然かまいません、と笑顔で言った。
そうしたら下の厨房からすぐさま食べ物がやってきたので、鈍い私はやっと「ああ、これは禁止されているであろう席取りをしている私に意地悪くしたかったのか」とわかってきた。
さらに開場時間になったら、その人がまたやってきて、
「あの、もう立ち見の方がいるんで、席あけてください」と言った。
彼の言うことを真に受けたら、家族三人でライブに「来てほしい」とミュージシャンに呼ばれたので自腹でチケットを買ってのこりの二人は席の確保のために一時間早くきてお店のために飲んだり食べたりしたのに、夫だけ立ち見ということになる。
「申し訳ないですが、ここに来るのは家族で、しかも今あまり体調がよくないので、許してください」と言った。
彼はぶつぶつ言って去っていったが、私は、立ち見の人全員に許可を得てでもこの席を取ろうと決意したほど、腹がたった。
私が席を立つのはなんでもない。だいたいのライブは立ち見でたまに床に座って見てるくらいだから。ただ、お金を払ってチケットを取り、食べ物をちゃんと注文し、きちんと時間より早く来ているのに、たったひとつ席を取っただけでそんな意地悪をされて、ただ言うなりになりたくなかった。
もっと言うと、意地悪をするためにだけ行動している、そしてその意地悪を正義の名のもとに行なっているということが、なんてケチくさいんだろうと思った。
あの人だって、小さい権力を持たなかったら、あそこまで意地悪にならなかったのではないかな、と思う。権力って、ルールって、堂々と正しいとされることって、ほんとうに恐ろしい。
それは、赤ちゃんが目の前でビニールをかぶって遊んでいても、おそうじの人が「私はお掃除しかしないことになっているし、なにかあったら責任取れませんので」とわざと放っておく行為にどこか通じている気がする。
ちなみに介護の現場の方は、医療行為は全くしないけれどもう少し人間的でフレキシブルです。
私は招待されてもしも感動できなかったのにいいことを書かなくちゃいけないのがいやだから、招待でライブにめったに行かない。よほど親しいか、すでに仕事でその人のことを書いている場合だけだ。
だから、チケットを買った一般の人をすいすい通り越して招待客がいい席に入っていったり、業界人が平気で遅刻して来たりするのを見て腹が立ったことも当然ある。
それでも、やはり、自分が好きな人であるところの、招待したいパフォーマー側の気持ちを思うと文句が言えないなと思ってきた。
私も次回やむなくそのライブハウスに行くときは、やっぱり自分でチケットを買って、ふつうに並んで、ふつうにお店の人とはにこやかに過ごす。そのいやな人がいてもふつうに接して、それでもいやなことをしたら、あなたが嫌いですと言ってけんかする。もし夫や子どもの席をひとつだけ取って怒られたら、また同じように立ち見の人たちに了解を得るまでひとりひとりに交渉してみようと思う。
だれが正しいとかそういう話をしたいのではなくって、単に「ロックとはなんぞや、音楽とはなんぞや」「世の中こんなふうになったら、私は個人的にはいやだなあ」ということについて、思うところを書きました。
「招待客は基本最後だけど、お年寄りや演奏者の両親だったら、目をつぶろう。足が不自由な人や赤ちゃん連れだったら、入れてあげよう。席をとっている人の数よりもうんと少ない数の席とりでしかも子連れならまあいいだろう。飲み物と食べ物を頼んでくれたから、どういう状況かちゃんと話をしてみよう。ここはお金を稼がなくちゃいけない施設だけれど、音楽家のためにせめてできることはしてあげよう」
限りある人生の時間、そういう判断をできる人と、私は過ごしたいし、そうする。
そんなふうに状況を見て判断する能力って、人間の持つ最も大切な能力だと思うから。


私だって実業家のはしくれだし、セルフ・プロデュースもしなくちゃいけないし(アドバイス 腰に悪いし親が糖尿なんだから少し痩せなさい!)、家族も養わなくちゃだし、死ぬまでに行きたい場所やしたいこともあるし、きれいごとばっかりじゃない。
でも、この日記の少し強い文体に比べたら、本人はとても素朴な小さい人間だと思う。
お調子者でてきとうでなまけもので食いしん坊で、涙もろくて江戸っ子で、家族と愛がいちばんだいじで、色ごとと賭けごとにはほとんど興味がなくて、人間同士の様々なからみからくるもめごとの意義があまり理解できない。
そんなだからこそ、書けるものや見えるものがあると思う。
台湾のイベントに行って、たくさんの若い読者に会った。
この十年、担当者の引退により、台湾のイベントにはあまり参加しなかった。でも今回は事務所に語学堪能で優秀なサポーターがいるし、親も友だちももう死んじゃって公の予定ある仕事が入れられなかった時代は終わってしまったし、台湾から呼びに来てくれた担当者もいるし、たまには行かなくちゃと思って、決行してみた。
その間に、私の本がちゃんと根づいて、読者も育っていたことにびっくりした。
みんないっしょうけんめいで、かわいくて、生きることをただそのまま受け入れられなくて、あるいはいろいろなできごとがあって私の本をお守りみたいにして、生きてきてくれた。
昔は、斜にかまえていたところがあった。
そんな、いい人の役割を、ヒーラーの仕事を、まっすぐにばかみたいに受け入れられないよ、と。
でももう五十近くなると、斜にかまえるエネルギーがもったいない。
イ・スンギはイ・スンギ。井上雄彦は井上雄彦。まじめでまっすぐで健全でよい人で、スリルはないかもしれないけれど、まじめすぎて時に体調を崩したりしながらも、地道に命のすごさを、人間のよさを訴えていく。
そりゃあ、そうでないもののかっこよさがうらやましいこともある。いいなあ、 BIGBANG。いいなあ、江口寿史(別にスンギさんや井上さんがそう思ってるわけではなく、イメージ上の例えですからね)。技術もあってその上ちょっとワルいかっこよさがあってさ。でも、その人はその人としてしか咲けないからしかたない。
自分ももうそのようでいいや、といっそう思うようになった。
たくさんの、道に迷いそうな若い人たち。理想や愛に破れた人たち。
ほんとうにひとりぼっちの気持ちになって、家族のありがたみさえ忘れそうな、普通の人たち。特別な環境になく、恐ろしい体験もしてこなかったかもしれないけれど、全てを精一杯に感じて受け止めて傷ついてきた人たち。
そんな人たちに、私の作品は寄り添えるといい。
実際の私がその人たちの家に行っても、うるさいし、わがままだし、寝てばかりだし、よく食べるし、めんどうなことを相談されるとすぐ断るし、ほとんどQちゃんが来たくらいじゃまだと思うけれど、私の本は別だ。
その人の枕元に、かばんの中に、心の中に、地獄の底に、いっしょについていける。
それがこのお仕事の幸せだなあと、国境を越えて「こんなとき読んで救われた」「恋人と別れたとき読んで生き延びた」「身内が死んだとき読んでやっと泣けた」と泣きながら伝えてくれる台湾の読者たちに接してしみじみ思った。
しかしさすがはのどかな台湾、サイン会も最後のほうになったらだんだん強者が出てきて、海賊版持ってきたり、ひとり十冊持ってきたり、他社の本だったりして、とても強く私を守ってくれていた係のお姉さんがいちいち「こら!海賊版はだめ!」「一冊にして!」「他の出版社の本はだめ!」と突っ込んでいてひたすらおかしかった。

台湾の食事についてのイベントがあって、料理研究家でおしゃれなお店もやっているイーランさんと舞台で話していたら、質疑応答の時間に、信じられないくらいおいしいものがいっぱいある「阿正厨房」のシェフのおとなりにいらした私よりも少し歳が上のご夫人が、
「よしもとさんの『キッチン』を二十回以上読んで、いつも心励まされてきた。会えてそれを伝えられる機会が来て、嬉しい」
と泣き出した。
私もとても嬉しかったけれど、なによりも、その人があまりにも私の母の若いころに似ていたので、びっくりした。
晩年の母ではなく、私が小さかった頃の母。母は母の亡くなったお兄さんにそっくりで、その女性は母の兄にももちろんよく似ていた。
同じ口の形、同じ目元、同じ笑顔。まだ母が歩けていた時代のことが生々しくよみがえってきて、私はその人を見るだけで実は質問の前から半泣きだった。
姿を見ないと思い出せないことってある。
そうだ、母はこうだった、ちゃんと歩いて、意見を言って、泣いて、笑っていた。こんなふうに。ずっと寝たきりじゃなかったし、行きたいところに出かけていたんだ。
そう思ったら、母がその人になってちょっとだけ訪ねて来てくれたような錯覚を覚えた。
母が気持ちをその人に託してくれたみたいな、温かい錯覚を。
  2013年1月 ページ: 1