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八千草薫さん、お願いです!
八千草薫さん、お願いです!
入れ歯のCMはやめてください

マドンナにおそれ多いが、こればかりは耐えられない!


最初に断っておくが、スクリーンでの天下の美女は、洋はエリザベス・テイラー、邦は八千草薫にとどめを刺す、と思っている一人である。
ン十年これでやってきて、今だに他の名前を思い浮かばないのは芸がない、と私も思う。

この間、イングリッド・バーグマンだオードリー・ヘプバーンだ、サユリストだのコマキストだの巷間、付和雷同型のブームが来ては去った。何事も「至誠一貫」が 大事である。本題はタイトルにあるように八千草薫なのだが、その前振りとしてエリザベス・テイラーの話から。

「若草物語」の10代の写真がないのが
残念 だが、これはずっと後年のリズ。

「若草物語」のリズは輝くばかりだった。何度も映画化されているが、マーヴィン・ルロイ監督のもの以外は駄作だ。出演者を見てもジューン・アリスン、マーガ レット・オブライエン、エリザベス・テイラー、ジャネット・リー、ピーター・ローフォード、ロッサノ・ブラッツィとすごいが、戦後まもなく大阪の千日前で見た ときはそんなことより、4姉妹の食卓に目を奪われた。日本の貧しい食事に比べ、豊かな米国の生活に目がくらめいたものだ。リズの美しさに目を奪われたのはその 後よだれをふいてからの話だ。彼女の出番は少ないしセリフもあまりないが、印象は一番だった。

「花嫁の父」
スペンサー・トレーシーとの「花嫁の父」も可愛かった。モンゴメリー・クリフトとの「愛情の花咲く樹」もよかった。「ジャイアンツ」でのジェームス・ディーンとの共演くらいまではいい。ユダヤ系なのでイス ラエルに戦車や戦闘機が買えるくらい献金したのも許せる。許せないのは、その男遍歴だ。マッチョや富豪など何人と浮き名を流してきたか数え切れない。途中省略 するが、1991年に入院先の病院で知り合った元建設工と8度目の結婚、5年で離婚。すっかり太っていまや外電に接するのが怖い。


マイケル・ジャクソン葬儀でのリズ(2009年)。
クリックでアップになるがおすすめできません。
2010年4月その怖いニュースに接した。「78歳エリザベス・テーラー、29歳年下と9度目結婚へ」というもので「ジャネット・ジャクソンのマネジャーのジェ イソン・ウィンターズ氏(49)と婚約。彼女は現在は4人の子供と9人の孫がいる」とあった。前年親交のあったマイケルジャクソンの葬式に出席した写真を見た。 もはやアップに耐えられないのは明らかで、まさか、と思ったら案の定、人気のツイッターを通じて否定した。78歳がそんなIT技術に通じているとも思えないから事務所が気を利かせたのだろうが、もう、どうでもよかった。

◇ ◇ ◇

エリザベス・テイラー死去

お堅い「タイムズ」も1面トップで
世紀の美女の死を報じた
【3月24日 AFP】50年にわたるハリウッドでの活躍同様、華やかだが波乱に満ちた恋愛遍歴でも知られた米女優エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor) が2011年3月23日、米ロサンゼルス市内の病院で死去した。79歳だった。
テイラーは数年前から体調を崩しており、2月に欝血性心不全でロサンゼルスのシダーズ・サイナイ医療センターに入院していた。

4人の子供と孫が10人、ひ孫が4人いるが、息子のマイケル・ワイルディングさんは「子どもたちに囲まれ息を引きとった。母は素晴らしい女性で、偉大な情熱と愛 情とユーモアで精一杯生きた」とコメントした。

ハリウッドの黄金期を代表するリズは、1960年の『バタフィールド8』と1966年の『バージニア・ウルフなんかこわくない』で2度のアカデミー賞主演女優 賞を獲得している。

リズの訃報は英米の新聞は残らず1面トップで報じたが、日本では折から東日本大震災の直後とあって脇の方に追いやられたのは仕方ないが、それでも3段ほどのかなりの 扱いだった。翌24日、ロサンゼルス郊外グレンデールのフォレストローン墓地で近親者だけでユダヤ教徒として葬儀が行われたが、なぜかセレモニーは15分遅れで始まった。 その理由をふたたび新聞記事に求めると、

テイラーさんの広報担当によると「葬儀は午後2時からの予定でしたが、遅れて始めるようにというミス・テイラーの依頼がありました。ミス・テイラーは次のような指示を遺されていました。 告別式は公式に発表した時刻よりも少なくとも15分遅く始めること、その際『彼女は自分の葬儀にさえ遅刻したがった』と発表することとありました」。

このくだり、時事通信のニュース原稿そのままだが、日本語として少しおかしい。原文に当たったら、

The service was scheduled to begin at 2 PM but at Miss Taylor’s request started late. Miss Taylor had left instructions that it was to begin at least 15 minutes later than publicly scheduled, with the announcement, ‘She even wanted to be late for her own funeral.’

「自分の葬儀に15分遅刻するワ」という、リズが遺言に残した最後のジョークと受け取っておけばよいだろう。銀幕の女王はいつもスタンディング・オベー ションで迎えられたものだ。その最後もまたそうありたい、という台本を書いていたのだ。ニヤリとウインクしているリズの姿が見えるようだ。

約1時間の告別式では、ジェラルド・マンリー・ホプキンスの詩、「The Leaden Echo and the Golden Echo」のほか、子供や孫たちが捧げた言葉が読み上げられた。 孫のリース・ティビーさんはトランペットで、讃美歌『アメイジング・グレイス』」のソロ演奏を披露した。

2年足らず前、長年の友人だった故マイケル・ジャクソンが葬られたと同じ墓地。「棺は閉じられ、グレンデールの渓谷に香り高く咲くたくさんのクチナシやスミレ 、ユリで覆われました。ミス・テイラーは大霊廟に葬られ、ミケランジェロの大理石の天使がそびえ立つふもとに安置されました」(広報発表文)

■子役からトップスターへ

1932年2月27日、英ロンドンで生まれ、39年に両親とともにカリフォルニア州に移住。父親の画廊でユニバーサル・スタジオ会長の婚約者に見出されたことをきっか けに女優の道に進んだ。

42年にデビュー。44年の『緑園の天使で、少年になりすまし障碍競馬のグランド・ナショナルで優勝する少女を演じ、子役スターとしての地位を確立した。ジェー ムス・ディーン、ロック・ハドソンと共演した56年の『ジャイアンツ』では高い評価を受け、58年の『熱いトタン屋根の猫』ではポール・ニューマンと共演。59年 の『去年の夏 突然に』には、キャサリン・ヘプバーン、モンゴメリー・クリフトとともに出演した。

60年に初のオスカーを獲得。62年には『クレオパトラ』に主演。当時としてはハリウッド史上最高額の製作費をかけた同作についてリズは、「エンターテイ メント史上最も奇抜な作品」と語っている。

■恋多き女優

私生活では8度の結婚を重ねた。最初の結婚は1950年、18歳のときだった。相手はホテル王の息子コンラッド・ヒルトン・ジュニア。華やかな結婚式を挙げ3か月間 の新婚旅行へ行ったが、2人の結婚生活は203日間で幕を閉じた。

次に19歳年上の英俳優マイケル・ワイルディングと52年に結婚し、2人の息子をもうけた。ワイルディングといると落ち着けると語ったリズだったが、56年 に離婚を申請。

別居後まもなくプロデューサーのマイケル・トッドにプロポーズされた。堂々とした態度のトッドは、リズが初めて深く愛した相手だった。57年8月に娘が 生まれたが直後の11月には夫と京都観光のため初来日。羽田空港には100人を超えるカメラマンが集まり、報道陣の数が多すぎて会見を2回に分けるほどの盛り上 がりだった。

だが翌年トッドはニューメキシコ州の飛行機事故で命を落とした。その葬儀で落ち込んだリズの隣にいたのがトッドの親友でもあった歌手のエディ・フィ ッシャーだった。

2人は59年に結婚するが、リズは『クレオパトラ』で共演した当時既婚者だったリチャード・バートンと恋に落ちた。2人は互いの離婚後、1964年3月に結婚。 その頃には『バージニア・ウルフなんかこわくない』で共演していたが、結婚生活の崩壊を描いた同作のストーリーをまねるかのように74年6月、2人は離婚した。翌 年10月に再婚したが、76年8月に再び離婚している。

その後リズはアルコールに溺れ、女優としての活動も下降線をたどった。バージニア州の上院議員ジョン・ワーナー氏と76年から82年まで結婚生活を送 ったが、リズの悲しみが癒されることはなかった。80年代には入退院を繰り返すが、アルコールと鎮痛剤への依存症を克服し、エイズ患者のための活動に力 を入れるようになった。

70年以降、映画への出演は減っていったが、舞台や、テレビにも進出。82年には中東和平を願いイスラエルを訪問し、エイズの撲滅に向け熱心に取り組み88年、94年 にキャンペーンのため来日。「開発途上国のエイズ予防のために、日本にはリーダーになってほしい」と熱心に訴えかけていた。

91年にはリハビリ施設で出会った40歳の建設作業員と結婚して世界を驚かせたが、3年後、円満に離婚している。90年年代後半になると病気やけがで入退院を繰 り返し、03年のアカデミー賞授賞式出席を最後に女優業引退を宣言。表舞台に出ることは少なくなったが、09年には親しい友人だった人気歌手マイケル・ジャクソ ンの葬儀に車いす姿で出席した。(AFPなど外電から)

◇ ◇ ◇

リズが亡くなった時、日本は東北大震災の最中だった。新聞もテレビもマグニチュード9.0の大地震に続く高さ30メートルの大津波、そして悪夢のような東京電力 福島第一発電所の炉心溶融事故と三重苦の震災報道一色でリズの死の扱いはごく小さかった。だが、欧米のメディアは違った。

お堅いはずの英「タイムス」紙が興奮して1面トップで報じたくらいだから、欧米のメディアの扱いは概ね「旧きよき時代を代表する銀幕のスターの終焉」というものだった。 これまで探したがなかった多くのリズの写真がネットに流れた。これを利用しない手はないので、美しきリズの姿をスライドショーでお見せすることにした。ただしサイトの亭主の特権で 「バターフィールド8」以降のものはすべてカットした。またサイトの亭主は馬術をやっていたので、世紀の美女の乗馬姿を恣意的に2枚も入れておいた。お許しあれ。

追憶のエリザベス・テイラー
(スライドショー7枚です)


我が永遠のマドンナ、八千草薫


「清楚」を絵にするとこうなります
一方、八千草薫(その名も美しいではないか)の方は谷口千吉監督ただ一人を守って、 不思議にトシを取らない。年齢を知っているが言わない。ますます輝くばかりである。

こういうプライバシーに関することを公開するのははばかられるが、マドンナは八ヶ岳に山荘を構えておられる。それも、我が山墅から数十メートルと離れていないところである。 それはまた奇遇で、といいたいが、実は家族には内緒だが、それをわかっていてここを購入したのである。

いまだにこのイメージで止まったままです
今でこそ互いにそっぽ向いて、同じ「西武」の名前でも、カードすら相手方では使えないほど疎遠だが、堤義明氏率い、西武鉄道やプリンスホテルなどを経営するグループ(コクド)と堤清二氏が率い、 ホテル西洋やインターコンチネンタルホテル(共にもう手放したが)、さらに西友や西武百貨店を経営するグループ(セゾン)は、 広報など仲良く一緒にやっていた時代があった。(二つのグループの確執と栄枯盛衰は「50年前の設計図」に詳述。)

私がいるこの自然郷はセゾングループに属していて、当時は西洋環境開発が開発していた。はじめてやってきたのも両方の広報から案内されてのことだった。 今もあるがロッジ名物の八ヶ岳弁当をごちそうになっているとき「ここには、八千草薫さんもお住まいです」とちらり広報マンが漏らした。通りすがりの土地がそうでなくなったのはこの時からである。

「宮本武蔵」の1シーン
初めて彼女の映画を見たのは、小学生の頃。うちの女中さんに連れられて隣町の公民館(当時は映画上映などやっていた)の板張り床にすわってみつめた「宮本武蔵」のお通の清楚なこと。中学も同じ関西の私立だったが、学校の水泳大会が近くのプール女学院で開かれた。 なぜよその学校まで泳ぎに出かけたのか憶えていないが、ここは八千草薫の母校である。同じプールで泳ぐというだけで、やたら興奮して、メドレーの選手として力量以上 の泳ぎをみせて入賞してしまった。府立高校では写真部に入ってエリザベス・テイラーと八千草薫のモノクロ写真を大量に焼き増しして配ったものである。 なかには要らないという不届きなのもいたが、おおむね受け取ったから、ファンは多かったのだ。

宝塚時代だと思うが、八千草薫の清楚な雰囲気がある写真。
新聞掲載用なのでトーン調整の修正がされている。
やがて、今でも彼女の代表作だと思っているイタリアとの合作映画「蝶々夫人」に主演した。マダムバタフライを今で言う「口パク」とは思えない原語で歌った。アリア 「ある晴れた日に」を聴くと映画のシーンが自動的に目に浮かぶ。

この歌曲、母が声楽をやっていて、小学生の頃はよく松坂屋での発表会に連れて行かれていたので自然に耳に 入っていた。大阪の南郊の田舎とはいえ、コロラチュラ・ソプラノでやられると隣近所を思って恥ずかしかったものだが、今では二つのシーンが目に浮かび、時としてうるうるすることもある。

「蝶々夫人」の一シーン、
どちらがピンカートンか知らないが。
映画「蝶々夫人」の方だが、イタリアとの戦後初の合作映画ということ以外にあまり評価されてはいないようだ。確かに時代考証的にど うかと思うところは多々あった。

左のスチール写真を見ても、料亭での会席なのだから畳の上に本膳、二の膳、時に三の膳が並んでいるべきだろうに、卓袱台(ちゃぶだい)の上に汁椀と焼き魚の皿や鉢が雑然と並んでいて 、中央にまさかガス台ではなかろうが、そのように見える不可思議なものが見える。なんだかすき焼き鍋を囲む家族のような光景ではある。

だが、そんなものはどうでもいいのであって、八千草薫の美しさを見て歌を聴いていればあとは大根と かぼちゃが並んでいると思えばすむ話だ。それが証拠に男優の名前など誰も記憶にない。

最近になって八千草薫本人がこの時の「ある晴れた日に」を今だにイタリア語で歌えると語っていることを知った。若い頃に覚えたことは忘れないものではあるが、一度 聴いてみたいものだ。練馬で開業医をしている従兄の家に映画のビデオがあるのを知っているのだが、いいトシをして、と言われそうで躊躇しているが、思い出の中に封印しておくのが いいのかもしれない。

これであのアリアを歌うのだから‥
大学、社会人時代には地方にいて、映画、特に邦画は全くといっていいほど見る機会がなかったのでマドンナから遠ざかっていた。札幌での 学生時代はNHKの「うたのおねえさん」の真理ヨシコがお気に入りで、講義に出る前に童謡に聞き入り、遅刻したこともあった。新聞記者になって三重県の津支局に赴任したが、市政記者クラブ、県警記者クラブで見ていたのは「おはなはん」の樫山文枝で、これまた 、マドンナさまから離れて「浮気」していた。発表にやって来た役人を廊下に待たせて、あるいは一緒にソファーに座って放送が終わるまで見入った。
しかし、この間 、彼女が谷口千吉監督と結婚するという衝撃的な事件があった。確か19歳ほど年上で、男は 何度目かの結婚というので、なにかヒヒじじいにさらわれた気持ちで悲嘆にくれたものだ。

寅さんのマドンナで
その後、大阪本社の社会部で、南回りという西成、阿倍野、住吉など7警察署を担当するサツ記者で天王寺動物園内にある記者クラブに詰めた。 ここは「釜ヶ崎担当」といってよいほどで、連日、住人相手にホルモン焼きつつきながら過激派が次に襲撃予定のパチンコ屋の割り出しと左翼運動の活動家「梶大介」の消息を 追うことに明け暮れていた。その生活の一端は「ブン屋の戯れ言」の「「釜ヶ崎のアラン・ドロンや」で紹介したが、 朝から女の酔っぱらいが道端に転がっていて、そのスカートをめくって通行人から金を取るような輩がいた。通天閣も管内なら有名な「飛田新地」も管内というところで、 およそ清純派の八千草薫さまには似つかわしくない、どちらかというと汚濁にまみれた雰囲気の場所で、こちらの方から見るのも聞くのも遠慮した。

浴衣姿のマドンナ。私が彼女のファンと知っている、山荘でお向かいの方に
わざわざお届けいただいた。ファンはこの頃の写真が一番好きだろう。
やがて、我が国最初のタブロイド夕刊紙「夕刊フジ」の創刊に携わり、東京本社に転勤したのだが、所属する夕刊フジに「ぴいぷる」というインタビュー面があった。 まとめて本になったこともある売り物のページだった。ここで山田洋次監督のインタビューをした。記事を書く必要上、頼み込んで「男はつらいよ」の寅さんシリーズの何本かを特別に、 松竹本社の試写室で見たのだが、その中に八千草薫がマドンナの一編があって、遠ざかっていたファン心理に火がついた。

恣意的といわれればその通りだが、デスクに頼まれもしないのにカメラマンを連れて八千草薫インタビューに出かけた。 NHK放送センターの玄関から彼女が出てきたとたん何を聞こうとしていたのかきれいさっぱり忘れた。すぐ近くの喫茶店に1時間ほど彼女といたのだが何も憶えていない。別れるとき、一緒に写真を撮ってもらった。 じゃあ僕も、というのでカメラマンの分は私がシャッターを押した。 後日、飲み屋で定期入れから秘蔵のスナップを出して、どうだと見せたら、向こうも、定期入れから、どうだ、と私がシャッターを押した八千草薫との併立写真を取り出した 。Nカメラマンも隠れファンだったのだ。

やつがれとマドンナの、半世紀前のツーショット
上述した一件、つまりデスクに頼まれもしないのに勝手に八千草薫の「押しかけ取材」をしたことだが、その後何年にもわたって、楽しい思い出になった。だが、そのときNHKのロビーで撮った写真はどこに紛れ込んだか杳として見つからなかった。ところがそのツーショットが40数年たった2020年10月、押入れから出てきた。

偶然ではなく、家内が、マドンナはあの頃と殆ど変わらぬ美貌であるのは当然として、新婚そうそうで我が亭主も若かった、と懐旧の念にとらわれてスクラップを引っ掻き回して見つけ出したものである。よく見ると「霧の旗」と読めるテレビドラマの台本を抱えている。調べると、昭和44年(1969)フジテレビのテレビドラマのようだ。NHKの収録の合間に次に出演する他局の台本を読んでおられたのであろう。マドンナの美貌に紛れてやつがれの姿を披露するのは気が引けるが、お付き合いいただきたい。


ともかく、そんなわけでマドンナの近くにいることはいるのだが、めったに会わない。当たり前だが。一度真っ赤なベンツの4WDで走っている夫婦とすれ違ったが、あいかわらず若い。理想的に歳(よわい)を重ねるというのはこういうことだというサンプルだろう。 従姉が散歩中の二人に出会ったそうだ。この親戚は、だいたい厚かましい人なので、声をかけた上、立ち話に及んだそうだ。 そんな罰当たりな振る舞いは到底まねできない。その話をしたところ、医者をしていて1.5キロほど下に山荘を構えている従妹のご亭主が「そうだ、そうだ」といった。5つ上だが、年齢的にも、これも隠れファンと私はにらんでいる。


いまもテレビに舞台にCMにご活躍だが・・・
最近、知る人ぞ知るあの「2ちゃんねる」で、小泉純一郎首相もファンだということを知った。なんでも、 秘書官に彼女の出演テレビ番組の録画を頼むそうだ。そうだったんだ、と思うが、だからといって、連帯感を持つほどのことはないのが、 この人のファン層の年代的特徴ではないか。束にならないでひそかに沈澱しつつ、八千草薫の名前に惹かれるのだ。かわいらしいものだ。
しかし、一国の首相がチョンガーで、誰もいない官邸で、八千草薫のビデオに見入っている図というのもぞっとしない。

それにしても、あの入れ歯のCMはやめていただけないものか。

2002年1月、衝撃の余り卒倒しそうになった。テレビを見ていたら、 なんと、白髪染めかカツラかのコマーシャルに登場したのだ。もっと前から あったのかもしれないが、このときはじめて気づいた。特に名を秘すが、入れ歯と、白髪染めかカツラ の会社にはそのうち火付けに行くかもしれない。




「皇潤」の新聞広告。よく撮れているのだが。

小さな親切、大きなお世話

この小見出しは愛読している曽野綾子のコラム(産経新聞)からの拝借だが、近頃(2012)気になっているのがサプリメントの「皇潤」という通販会社のコマーシャルによく登場することである。 三国連太郎との共演バージョンもある。昔一緒に映画に出ていたそうで、その回顧にふけりながら若さを保つ秘訣をそれとなくアピールする仕組みである。こっちの脳裏にはそんな男と共演したことなど露ほども記憶にない から三国連太郎なんてどうでもいいのだが、この「皇潤」と言う会社、大丈夫なんかいなという心配である。コマーシャル打ちすぎて利益が出ず、役員総取っ替えなんて記事を経済面で見た。ご覧のようなきれいな写真を 撮ってくれるのはありがたいが、会社がぶっ潰れる前兆としてよく見られる現象である。もらうものもらったら是非撤収をお願いしたい、というのが標題のいわれである。
(三国連太郎は2013年4月14日、急性心不全のため、東京都内の病院で死去。90歳)

八千草薫の自伝がある

上で浴衣姿の八千草薫の写真を紹介したが、これは八ケ岳の山墅でお向かいの方が、サイトの亭主の傾倒ぶりを知っている方が2018年5月、わざわざ届けてくださったものだ。どこかの週刊誌にあったもののようで出処は不明だ。 同時に彼女の「自伝」もあった。こちらは出処がはっきりしていて、「週刊文春」2012年5月12日号と欄外にある。初の写真集「八千草薫」の出版にあわせて、聴き語り形式で半生を話しているのだが、大阪・上本町で育ち国鉄、六甲道駅の 祖父母の家に預けられていたとある。上で書いたように、こちらもその辺で小学校から高校まで過ごしたのでよく知っている。家内の実家が芦屋だったのと六甲道の隣の住吉には叔父叔母がいた ので六甲山の下にも土地勘がある。

ファンの端くれながら、ろくすっぽ彼女の人生は知らないでいたので、あの上品な、育ちのよさそうなところの由来もわかるような自伝である。週刊誌4ページなので読める程度に全文を 掲載する。(画像クリックで拡大できます

4-2 4-1
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4-4 4-3
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◇ ◇ ◇

マドンナが山荘を構えておられ、そこから数十メートル離れたところに、このサイトの亭主の山墅(さんしょ)がある八ヶ岳高原「海の口自然郷」では、季節ごとにオーナー向けに 広報の小冊子を発行している。頼まれて2009年4月の春の号に一文を書いた。このコーナーでは次の執筆者を指名できることになっている。 迷うことなく谷口千吉夫人、谷口薫さん、つまり八千草薫の名を挙げた。3ヵ月後に掲載された玉稿は以下のようなものである。

雪降る夜、マドンナはそのように物思いにふけっておられたか。そうか同じ頃ほんの近くでやつがれもまた物思いにふけっていたのだ、といたく満足した。

リレー雑記   「自然郷の小さな山小屋」    谷口様 
 

 『へえーマイナス15度!!』キラキラ舞うダイヤモンドダスト。ひと息吸う間に消えていく幻想的な霧氷。冬に訪れることが多かったせいか、頭に浮かんでくる 八ヶ岳の自然郷は白の世界が圧倒的だ。亡くなった主人も犬もまだ元気いっぱいの頃で、雪の中、1750mから、もう戸を閉めているロッジまで飽きもせず毎 日のように往復した。

 夜、しんしんと降る雪のかすかな気配は、昔『雪国』の映画の撮影で、越後湯沢にロケした時、川端康成先生が『聴雪』と書いてくださったのを思い出す。私たちは もう冬の雪山に登ることも無いだろうという、少しの寂しさと、でも雪の木立に包まれて、小さな小屋で静かに雪の音を聴く。これも少しづつ齢を重ねていく私達へ の神さまのプレゼントかも知れないと思った。

考えてみると、この30年あまり(小屋が出来たのが丁度30年前)1度も何処へも旅行したことがない。自分でもちょっと驚いた。犬の面倒を見てくれた母が いなくなって、よそに預ける決心もつかず、結局犬たちが大威張りでいられる場所は何処だ、ということで、以来『八ヶ岳へ行こう』という言葉を発すると、人間 も犬も目を輝かせた。そしてひたすら八ヶ岳行が始まった。

吹雪の日、自然郷の橋の手前の”チェーン脱着場”で凍えそうになりながら、二人でチェーンを着けたり、夏には橋にさしかかると、緑の中を渡る風が待ちきれず 車の窓をいっぱい開けて深呼吸したり。

 夏は山も賑やかになる。久しぶりで懐かしい方たちにお会いするのも東京とは違った楽しみの一つだ。そして思うのは、この長い年月、家を管理してくださる事 務所の方たち、変わることが多いものなのに、ずっと同じでいてくださる。それが嬉しい。

 八ヶ岳で暮らした主人との思い出に会いに、これからも犬を連れて、10年(?)5年(?)ガンバレれば良いなあと思っています。


マドンナ拙宅にご来駕

山墅にやってきて22年、この項をアップして10年ほどたった2009年夏、我が家の10大ニュースどころか、これから先の長きにわたってビッグニュースであり続ける だろう出来事があった。なんと我が山墅(さんしょ)にご来駕いただいたのだ。

私たち夫婦はそれぞれまるで違う趣味を持っているのだが、一つだけ共通しているのがバードフィーダーの普及。このサイト「八ヶ岳の東から」でもアメリカから二 人で手に提げて持ち帰ったバードフィーダーのいろいろを紹介するコーナーを掲載していて販売もしている。もっとも目下ほとんど売り切れ状態なのだが。

今のところ、アメリカに旅行する予定もないので、こんなのが欲しいというメールをもらっても、その要望にこたえられないでいる。 そこで、これまでの経験から、なかでもっとも野鳥に好評で、また人間側にも使い勝手がよかった木製バードフィーダーの展開図を書き、すぐ下の長野県・小海町の製材所に持ち込んでキットにしてもらった。夏の間、これを組み立てた完成品を門柱のそばに展示していて、野鳥愛好家などにときどき訪問いたただいている。そこにマドンナが立ち寄られたのだ。

八千草薫さんとお買い上げの
バードフィーダー(2009.8.14)
彼女は我が別墅から数十メートルはなれたところにお住まいなのだが、2009年8月14日あさ、愛犬との散歩の途中立ち寄られ、このバードフィーダーをお求めいただい たのだ。前日夜「タニグチですが明日朝は何時ごろならいらっしゃいますか」と電話をいただいたのだが、近くの野鳥愛好家だろうとしか思わなかった。「犬がいますから夜明けごろから起きてます。いつでもどうぞ」と答えて、ややあって気づいた。

翌朝、愛犬ともども立ち寄られた。
「3日ほど前に上がってきてあと4日ほどいる予定」とか、「このバードフィーダーを東京の家で使うか八ヶ岳で使うか迷っています」と か、「主人が亡くなってからクルマを運転する人がいなくなりました。運転免許証はもっているものの、周りの者から禁じられているので、事務所や知り合いの方のお世話で上がってきています」といった立ち話をした。

上述したように彼女は私どもより以前から山荘を構えておられるのだが、この20余年、見かけることはあっても話を交わす機会はなかった。いつも拙宅の前を通って散歩されているというのに。新聞記者時代にインタビューしたことがあるものの、テレビ以外近くで拝見することはついぞなかっただけに、サイトの亭主はマドンナを目前にしてすっかり舞い上がった次第。

この時は大きなお札しか持ち合わせないのでということで、いつでも結構ですからというと2週間ほどあともう一度愛犬(名前は聞いたものの舞い上がって度忘れ)とお見えになっておかきの手土産とともに代金を頂戴した。

アメリカにいる義姉が家内から大ニュースを聞いてさっそくメールをよこした。
「そのお金とおかきは神棚にあげて手をつけてはなりません」。

このバードフィーダーは木材や錆びないネジや蝶番(ちょうつがい)などいいものを選んでいるので、やや高くついているものの頑丈さには自信がある。マドンナは小脇にかか えて帰られたが、その後通りかかったプロパンガス屋が「これと同じものが八千草さんのお宅にありましたよ」と言ってたので、どうやら東京ではなく八ヶ岳の野鳥が餌の 恩恵にあずかっているようだ。

八千草薫、皇后陛下と試写会に

いい年をしして、八千草薫の「追っかけ」をしている体たらくをだらだらと書いているこの項は、サイトの亭主が主宰している「八ケ岳の東から」というホームページの、 「八ケ岳雑記帳」という項目の中の、さらにずっとずっと下にある。つまり路地で言えば奥の奥にあり、よほどヒマな人でないと目に触れないのだが、2013年11月15日、 アクセス数が爆発的に増えた。

ホームページを作った人でないと理解の外だろうが、プロバイダー(接続業者)からのサービスで、そのサイトへのアクセス数がどのくらいあったかがわかる「アクセス ロ グ解析」というものが毎日届けられる。ページビューといって、「この日何人がホームページのどこを読んだか」というのがわかる仕組みである。10数年前のサイトスタート当 初は1日1000もあれば、大した反響だと悦に入っていたものだが、最近では3万、多くて4万というカウントになってきた。花見時や、JALジャンボ機御巣鷹山墜落事故があった お盆前後などサイトでなにがしかの記事を書いている時節になるとドンとアップして5万台といった具合である。フロントページにカウンターがあるが、こちらは微増なのに全体 ではボンと跳ね上がるのは、グーグルなどの検索で見つけて直接そのページに入ってくる人が多いためである。

皇后さまと試写会に臨んだ八千草薫(2013.11.12)
2013年11月15日突然「8万3663」という数字に跳ね上がった。驚いて中身を見た。ログ解析ではベストテンも出てくるのだがそのほとんどが「八千草薫」関係項目で占 められていた。

理由は分かっている。今年101歳で亡くなった詩人・柴田トヨさんの半生を描いた映画『くじけないで』が16日から公開されたことと、4日前の試写会に は皇后、美智子さまがお出ましになり、主演の八千草薫や武田鉄矢などの出演者と一緒に観覧されたニュースが多くのメディアに取り上げられたことによるものだ。

検索で「八千草薫」と打ち込むと、不肖サイトの亭主の書き散らかした一文がどういうわけか堂々3番目くらいにランクされているので、ついでに覗いていただいたものと見 える。
なら、この際、少し加筆する必要があろう、とこの一文を付け加える次第。

このニュースはサイトの亭主も注目していた。この夏八ケ岳で犬と散歩中の彼女と立ち話をした。すでに撮影は済んでいて11月何日の公開ですとも聞いたのだが、てっき りテレビドラマだと思い込んでいたので、今回のニュースで映画だったとはじめて知った。

立ち話の続きだが、昨年夏の同じ頃、我が家の愛犬アナスタシアと八千草薫の愛犬ベルが死んだ。ところが、散歩ではそっくりな犬を連れていたので二代目ですかと聞いたら、もう 数代目になるが、いつも同じ犬種だという。強度のペットロス症候群で一日として犬がいないと耐えられないというから相当なものだ。サイトの亭主が手を出すとカゲに隠れるので、「かなり 臆病な犬ですね」と言ったら、キッとした声で「いえ、デリケートなんです!」と言い返されたので、これは相当な病膏肓ぶりだとお見受けした。「私もトシですのでどうしょうかと少し 迷ったのですが、もしもの時、犬の面倒を見てくれると言ってくれる方がいたので決心しました」とも。

ところで、皇后陛下と八千草薫は「清楚・上品・聡明・美しさ」など共通のキーワードくくられようが、そのお二人のツーショットはかねてからサイトの亭主も 待ち望んでいたものだ。近頃女優にしろタレントにしろやたらバタくさいのが増え、どこの国から来たのかわからない輩が跋扈している。これぞ、日本女性の美しさ、いや 日本そのものといえる見本を見たかった。それが今回はからずもこの映画で実現した。

あえて「美智子さん」とお呼びするが、昭和34年4月10日のご成婚パレードは母の実家である山形県米沢市でテレビ中継で見た。機屋(はたや)をしていたので女工さんもたく さんいたが、おりからの「ミッチー・ブーム」で仕事の手を休めてテレビの前に集まって見入っていたものだ。折しも、城跡の桜は満開で、当時はモノクロテレビのはずだが私の思い出の中ではフルカラーになっている。大学に合格し て大阪から札幌に向かう途中、この町でテレビ中継をみたのだが、大学に入った青雲の志と相まって、日本もこの若いお二人で明るい未来が開かれると予感した。実際はたち どころに「60年安保」に巻き込まれて、それどこではなくなったのだが。

その後馬術を通じて皇居東御苑にあった宮内庁の乗馬クラブや馬術の先輩が今上陛下の皇太子時代の侍従であったことからいろんな方とお近づきになった。新人記者の時は 、常陸宮ご夫妻の新婚旅行で、伊勢路の旅に随行したし、札幌五輪では三笠宮寛仁殿下と毎日バーを飲み歩き、帰京しては赤坂のご用地に招かれたり、果ては、昭和天皇崩 御の際は新聞社の特別取材班で宮内庁と裏の折衝に明け暮れるなど皇族と親しくお付き合いする羽目になった。群馬県館林市の美智子さんの疎開先の正田家もよく知ってい る。誰も言わないが皇室のイメージは美智子さんのおかげで飛躍的に良くなった。だから特別の思い入れがあるのだが、その美智子皇后と八千草薫が並び立つシーンとなる とやはり黙ってはいられない。

試写会のあと八千草薫は「上映が終わってすぐに『とても良いものを見せていただきました』とのお言葉を頂戴しました」。同席した武田鉄矢によると「八千草さんのお顔が とても美しいと驚かれ、日本の誰もが憧れるおばあさまの姿を描いていただいたと喜んでいらっしゃいました」という。

柴田トヨさん
柴田トヨさんは、98歳で刊行した初の詩集がベストセラーとなり、今年1月に101歳で亡くなったのだが、その素朴で人を引きつけてやまない作品の舞台は、産経新聞 の題字の左に毎日掲載される「朝の詩」だった。撰者の新川和江さんの発掘で陽の目をみたのだが、サイトの亭主は連載中からこの心和む作風を愛読していた。「柴田トヨ 」という作者の活字を見ると真っ先に読んだ。ものを見る視点が並の詩人とは違っていたし、詩のリズムが魅力的だった。その後「くじけないで」として出版され、200万 34r4部のベストセラーとなったのもむべなるかなである。

また試写会での話に戻るが、武田鉄矢は「柴田トヨさんに『こおろぎ』と『先生に』という詩があるんですが、それを皇后陛下がそらんじていらっしゃったんです」と驚いていた。 この詩は八千草薫も好きだそうで、NHKのあさイチの「プレミアムトーク」に登場して朗読していた。トヨさんの悲しみが、ふと、こおろぎの視線に転換されて、「明日 は笑顔で待ってるよ」という呼びかけで終わる。トヨさんの性格がとてもよく感じられて好きな詩なのだという。

「こおろぎ」

八千草薫はトヨさんの
「こおろぎ」が好きだそう

深夜 コタツに入って
詩を書き始めた
私 ほんとうは
 と 一行書いて
涙があふれた
何処かで
 こおろぎが鳴いている
泣く人遊んであげない
 コロコロ鳴いている
 こおろぎコロスケ
明日もおいでね
明日は笑顔で
待ってるよ

「先生に」


私をおばあちゃんと呼ばないで、

「今日は何曜日?」

「9+9は幾つ」そんなバカな質問もしないでほしい

「柴田さん西条八十の詩は好きですか? 小泉内閣を

どう思いますか?」 こんな質問ならうれしいわ

来るべきときが来たーーという寂寥の思いとともに、同時代に生きた、という満足感のようなものが沸き起こった。サイトの亭主は、勝手に自分のマドンナとしての彼女を描いてきたが、世に八千草薫をマドンナと思う人は多いはずだ。亡くなったことを報じる新聞の多くも、1面に「本記」を、社会面に「雑感」をもってきて、丁重に弔いの記事を掲載していた。

新聞記事で「本記」というのは死去の様子と告別式などの日取りを、「雑感」というのは本人をめぐるエピソードとか その人を知る著名人の思い出を書く。中央紙の殆どがそういう扱いだったが、中でも産経の記事が一番よく書けていたのでここではそちらを引用する。

昭和30年代の八千草薫の初々しい姿。産経の記事に添えられていた写真だが、
背景に写るクルマの車種やビルから大手町の産経本社前で撮られたようだ。

「清楚で可憐 “日本の理想の女性”だった八千草薫さん」という見出しの記事(2019年10月29日付け)はこうだ。 

 清純なマドンナから優しい母親、上品なおばあさん役…。年齢とともに役柄は変わっても、可憐(かれん)で初々しく、かわいらしい笑顔は終生変わらなかった。“日本の理想の女性”と呼ばれ、24日に88歳で亡くなった女優、八千草薫さん。

 昭和6年、大阪に生まれた。幼い頃は体が弱く、空気の良い兵庫・六甲山麓の祖父の家に預けられた。大阪のミッションスクール在学中に終戦を迎え、宝塚歌劇団に入団した。

 清純派の娘役として「源氏物語」などの舞台で評判を取るかたわら、映画「宮本武蔵」にお通役として出演し、その清楚(せいそ)なたたずまいから人気を博す。

 32年に宝塚歌劇団を退団すると、映画だけでなくテレビドラマや舞台にも引っ張りだこの存在となり、夫を支える楚々とした「理想の妻」「理想の母」を演じることが多くなる。

 40代になっても、マスコミの取材にはにかんだ様子を見せることも。スキャンダルはゼロ。幅広い世代から支持され、ある企業が行った「好きな俳優」女優部門のナンバー・ワンに選ばれたこともあった。

 その後も母親役、おばあさん役として映画、ドラマには欠かせない存在となり、80歳を過ぎ、たて続けに映画に主演する。産経新聞の「朝の詩」の投稿で話題となった“100歳の詩人”柴田トヨさんを演じた映画「くじけないで」では、「その役が好きになって、何となく自分の中に溶け合ってくる」と役作りの極意を口にしていた。平成29年には連続ドラマ「やすらぎの郷」で戦前からの大スター役を好演した。

 私生活では昭和32年、映画「乱菊物語」(31年)に出演して出会った19歳年上の映画監督、谷口千吉氏と結婚し、生涯、「先生」と呼んだ。一緒に山登りを楽しむなどおしどり夫婦として知られた。平成19年、50年連れ添った夫と死別。

 29年暮れには膵臓がんが発覚し、翌年1月に手術を受ける。術後の経過は順調で、舞台「黄昏」(たそがれ)の主演などをこなしたが、31年に再発。主演の予定だったテレビドラマを降板した。治療に専念し、「帰ってまいります」と誓っていたが、希望はかなわなかった。

 所属事務所によると、八千草さんは亡くなる前日も食事を取り、テレビドラマや政治の話などをし、当日も看護師の問いかけに応じていた。「お別れの会」などは未定だが、八千草さんは「開かないでほしい」と話していたという。

 年末公開の映画「男はつらいよ」の新作には47年前の八千草さんも登場する。山田洋次監督は28日、「僕たちの世代にとって若い頃から長い間、心の人であり続けた。(新作に出てくる)八千草さんの美しいクローズアップを通じて、お別れを言ってください」と語った。

また、31日の「産経抄」ではこう書かれた。筆者の田中規夫論説委員は新人の時からよく知っているが、サイトの亭主の後輩である。

◇ ◇ ◇

 29日付の社会面では、「永遠のマドンナ」と呼ばれた女優、八千草薫さんの88年の生涯が紹介されていた。同じ紙面には、エッセイスト、木村梢さん(92)の訃報も載っていた。黒澤明監督の「七人の侍」などに出演した俳優、木村功さんの夫人である。

 ▼文筆家としてのデビュー作となった『功、大好き』の題は、木村さんが死期の近づく病床の夫の耳元でささやいた言葉から取られた。目を少し開いた夫は、「ばかアー」とテレたように笑った。直球ど真ん中の夫婦愛の物語は、ベストセラーになった。

 ▼「おしどり」ぶりでは、八千草さんと50年連れ添った映画監督、谷口千吉氏の夫婦も負けていない。3歳で父親を失った八千草さんは、19歳年上の夫を家庭では「センセイ」と呼んでいた。共通の趣味は山登りである。一緒にエベレストの3千メートルの所まで登ったこともある。

 ▼テレビドラマの歴史に残る名作『岸辺のアルバム』では、不倫に走る主婦を演じて反響を呼んだ。実は八千草さん、一度は出演を断っている。放映から2年後の昭和54年、小紙の記事で、記者とこんなやりとりをしていた。

 ▼「ドラマでは、浮気をしても家へ戻ってくるわけです。私なら戻ってこられるかしらと」「そもそもね、女の人の浮気って理解できるかなって」「当然、ご経験もないことでしょうし(笑)」「はい、ないです(笑)」。八千草さんの辞書には、「不倫」などというよこしまな言葉は載っていないようだ。

 ▼八千草さんは、「お別れの会」などは、開かないでほしい、と言い残していた。長い女優生活で出会った多くの友人に別れを告げたかったはずだ。ただ何をおいても、12年前に死別した最愛の夫との再会を急ぎたかったのだろう。

◇ ◇ ◇

夫の映画監督・谷口千吉さん(左)と八千草薫さん
=1972年10月25日、東京都世田谷区の自宅で。産経紙面から。

八千草さんは今年2月に肝臓がんを公表し、その後は入退院を繰り返した。10月2日、肺に水がたまり、痛みを訴えて入院。病室では元気な様子で、愛犬のベルに会うため、3日ほど帰宅した。

亡くなる前日23日には、八千草さんが「病院の食事はまずい。おいしいものを食べたい」と要望し、お手伝いの人が松茸ご飯と茶わん蒸しを持参し、喜んで食べたという。24日早朝に検診に来た看護師とも「変わったことはないわ」と会話を交わしたが、直後に容体が急変。連絡を受けた所属事務所社長にみとられて、息を引き取った。

28日に親族10人ほどが参列して密葬を行い、荼毘(だび)に付した後に、死亡を公表した。八千草さんの生前の意向で、葬儀は身内だけで行い、お別れの会も行わない。

晩年はがんとの闘いの連続だった。2017年春に乳がんが発見され、手術を受けた。しかし、同年12月にも人間ドックですい臓がんと判明し、翌18年1月に7時間に及ぶすい臓の摘出手術を受けた。その後は抗がん剤治療を受けて順調に回復。同年8、9月に舞台「黄昏」に主演し、ドラマ収録にも参加した。しかし、19年1月に熱が出たため、病院で検査を受けたところ肝臓にがんが見つかった。

そのため、4月スタートのテレビ朝日系ドラマ「やすらぎの刻(とき)~道」にヒロインしの役で出演を予定していたが、降板。八千草さんは親交のある倉本聰さんの脚本ということもあって、仕事の続行を希望したが、医師の説得で降板した。ただ、前作「やすらぎの郷」で演じた九条摂子役として前半部分で出演しており、がん公表から3日後に極秘で撮影に参加した。トレーナーの愛犬の散歩に後ろからついて行き、世田谷の砧公園を1周し、7000歩も歩いた。5月も理事を務める日本生態系協会の「昆虫の家」除幕式に出席。30度を超える暑さの中、野外で2分間のスピーチを行い、これが最後の公の場となった

八千草薫さんの死去を中国メディアも報道した。中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報は29日付で、八千草さんについて「常緑樹」という表現を使って年を重ねても失わなかった若々しさを形容。映画「雪国」などの出演作品が中国でも高い知名度があると指摘、その死を悼んだ。

◆ ◆ ◆

新聞では報道されていないが、この項でサイトの亭主が書き散らかしたように、八ケ岳は横岳の稜線の下に山荘を構えておられて、拙宅とは数十メートルと離れていない「間柄」である。愛犬「ベル」と散歩中の姿をよく見かけ、時々季節や花のことで立ち話をした。私がアメリカから取り寄せてお分けしているバードフィーダーを買い上げていただいたこともある。このとき頂いた五千円札は、家内が「使えない」と今も仏さんの前に袋ごと置いてある。

愛犬「ベル」はシェットランド・シープドッグで、"本名”は「ヴェルディ」という。山田五十鈴にもらったので彼女の愛称にちなんだようだが、ご本人が存命中は恐れ多いと、半濁音で「ペル」と呼んでいた。犬の寿命は短いので、次に飼うときも同じ犬種とこだわり、現在の犬は12頭目で亡くなる3年ほど前に来た。今年6月に出版した本で《「自分がもうそろそろ終わるという頃に、この子たちが何歳になるのかを考えないと……」(中略)「飼いたいけど我慢しよう……!」直前まで、そう思っていたんですけれど、最後の最後で我慢できなかったんですね》と語っている。今度は正式に「ベル」と呼んで、これまた飼っている元野良猫の「フィオリ」とともに可愛がっていた。

ミヤマモジズリ
彼女の山荘で咲き続けるであろう
今考えると、彼女に膵臓がんが見つかった年になるが、平成27年夏、散歩中に拙宅に立ち寄られたので、私が八ケ岳で栽培していた高山植物のミヤマモジズリ(深山捩摺)をプレゼントした。ぐい呑みくらいの器に納まる小さいラン科の花だが、どう育てればよろしいかというので、そのへんに置いとけば肥料も何もいりません、というと、夫の谷口千吉監督の筆で「うさぎ小舎」と書かれた山荘の前の台の上に置いて「こんな可愛いい花があるんですね。このへんには」とあの笑顔で喜んで頂いた。

サイトの亭主の偏見で、「ヒヒじじいに攫われた思い」などと書き散らかした夫の谷口千吉監督の写真は意識的に掲載しなかったが、産経抄にある「何をおいても、12年前に死別した最愛の夫との再会を急ぎたかったのだろう」という一文に賛同して、ここで初めて上掲のようにお二人のツーショットを紹介する次第。

芸能人にはつきものの「お別れの会」はしない、という遺言だそうだ。去り際も清楚で見事なものだった。サミュエル・ウルマンはその詩で「青春とは人生のある時期ではなく、 心の持ち方を言う」とうたった。それに倣えば、私の青春も終わった。


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