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Title 究極の哲学 --その核心への問い (新宮一成教授 退職記念 号) Author(s) <b style="color:black;background-color:#ffff66">李, 洙正</b> Citation 人間存
Page 1
Title
究極の哲学 --その核心への問い (新宮一成教授 退職記念
号)
Author(s)
李, 洙正
Citation
人間存在論 = Menschenontologie (2016), 22: 91-102
Issue Date 2016-07-01
URL
http://hdl.handle.net/2433/227039
Right
© 京都大学 大学院人間・環境学研究科『人間存在論』刊
行会 2016
Type
Departmental Bulletin Paper
Textversion publisher
Kyoto University

Page 2
究極の哲学
l
!その核心への間い
出し抜けだが、最近出された拙著の中で哲学探し﹄
に収められている﹁自の哲学﹂というエッセイを、共惑を期
待しながら読ませていただきたいと思う。
自がちょっとおかしくて眼科に行ったのだが、そこで頗番を待っ
ている間に、鵠然こんなものを読むことになった。
究極の哲学
﹁自は心の窓であり、顔は心の鏡である。心が静かであれば、顔の
表情も静かになる。院は事物を観察し、その価枯慨を判断する。日は
口のようにものをき口い、耳のように物事を開く。闘が清いとか、冷
たいとか、鵡くとか、その中に絵があるとか、詩があるとか、など
というのは、まさにそのためである。
また、千態万状に変わるのもまた告である
c
喜びと憂い、恐れと倣植民、
そして冷たさと暖かさが私たちの自の中に存在する
G
日を見ればそ
c
それは自がすなわちその人のすべて、たと
91
s二イ
っ− 1
j朱ス
j
えば人格や性矯や教養、そしてすべての美しさを映し出す窓だから
である
c
︹ : ・ ︺
また、魅力ある光を放つ知的な美しさの外に感性的な美しさもや
はり誌に映る。︹・:︺愛と喜びで充満した美しい目、そんな愛すべき
目は、心を間関き、美しさを素直に見つめる特にのみ持つことの出来
る清き自なのである。︹:・こ
i
i
S
・キンザ
i
、﹁ストレスを
知らない女は義人し
﹁自は心の窓である。﹂そこここでよく耳にした一言葉である。ぁ、
これがあれ?なんだか嬉しかった。この本がその発源地?そこまで
はよく分からない。とにかく、いい言葉には違いない。私も百パー
セント共感する。自付きは確かにその人の内陸を茂映するものに違
いない
G
美しい闘のためにも、知性と感性、両面で内面を清めねば。
そう。そうだとも
c
納得した。
勿論これを書いた作者が、物理的な自の機能と儲鑑について無知

Page 3
92
無心なはずはない。それはあまりにも基本的だから、おそらく言及
を省いたのであろう。我々に自があって、それがものを﹁見る﹂と
いうことは、実は我々に口があって、それがものを﹁食べる﹂とい
うこと、そして耳があって、それが音や声を聞くということ、そん
なことと共に人間の基本なのであり、生の基本なのである。日がな
ければ、見ることが出来ないから、それは大変である。その点を考
えてみれば、日があって見ることが出来る、ということは、それは
それは有難いことに違いない。自然や都市の美しい風景は雷、つまで
もなく、映画、テレビ、漫画、ルーブルのあの数々の名画:・。それ
に美しい彼女の目映い美貌も、それをみる巨がなければ、何の意味
も持てないはずである。もしこのすべてを見ることが出来ないとし
たら:\それは考えただけでも、ぞっとする。ボストンに住んでい
た頃、毎晩楽しく観ていたドラマがあった。一九七
0
年代に韓国で
も放映され大人気だった﹁草原の小さな家﹂というドラマである。
そのドラマに、主人公の一人として長女のメリ!という人物が登場
する。締麗で、やさしくて、スマートで、しっかりした、何一つ嫌
味のない、素敵な女の子である。そのメリーがある日、視力を失い、
見ることができなくなる。それを観ながら私は、見るということが
どれ程大事なことかを、それこそ痛いほど実感したのだった。私が
普段﹁人関学﹂の講義でしばしば触れるヘレン・ケラ
i
の場合も関
じである。そして、規力を失ってしまうあの﹁冬ソナ﹂のジユンサ
ンを愛した日本のオパサンたちにも、多分似たような感じがあるの
ではないだろうか。
大哲学者のアリストテレスも被のあの有名な﹁形而上学﹂の留頭で、
﹁すべての人閤は生まれつき見ることを好む﹂という一言葉でその重要
性を確認してくれる。万学の父とも言われるあの権威者の一言葉であ
る。この言葉があの大変な本の冨頭を飾るということは、決して偶
然ではありえないはずである。
恐らくそれ程重要だからに違いない。ところで、﹁見る﹂というこ
とは、単なる肉眼に眠らずその意味を拡張する。我々にはもう一つ
の闘があるのであり、またあらねばならないのである。所諸心の自、
精神の目、知恵の目、そういうものである。人を見る日、未来を見
る目、そういう目もある。ちなみに、私の専攻した哲学には﹁現象学﹂
という分野があるのだが、そこで強調する﹁意識の直観﹂というこ
とを、フッサ
l
ルは﹁現象学的視﹂守
E
g
g
s
o
g
r
v
んでいる。仏詑の所謂慧眼とはちょっと異なるが、これも一種の真
理を見る自である。ハイデガ
i
は、まさにその日で永遠の神秘であ
る﹁存在﹂を見たのである。
そこで私は書いたいのである。人誰にだって自は備わっているが、
目だからと言って皆同じ自ではない、と。その目が何を見る自であ
るかによって、自の種類が、自の震が、違ってくるのである。誰か
の自は、一寸先も見ることが出来ず、誰かの自は、十年百年先を見
通したりもする。誰かの自は目先の利益だけを見、誰かの自は真理
や正義を見る。誰かの自は樹を見、誰かの自は森を見る。:・あのす
べてが巨なのであり、あのすべてが見ることなのである。
さて、私たちは今、いったいどのような自で、どのようなことを、
見ているのであろうか。せっかく付いている大事な自で情けないも
のばかりを見ていたのでは、その日に・申し訳がたたない。哲学の自
で見ると、世の中には我々が真に見るべきことが、西方で我々が見
てくれることを待っている。真、議官、美、徳、正義、:・そのような

Page 4
こと。しかしそのようなことは今の人々の自に辻よく見えないよう
である。人々はそのようなことを敢えて見ょうともしない。出い自
で白眼視する。文学も、歴史も、哲学も、人々に側められる。世の
中の日は専ら金だけに向けられている。地位や名声だけが眼差しの
的となる
G
人が人を挑める自にも溢みがない。人々はよく冷たい自で、鋭い
闘で、入を見る。そういう誤差しが人に触れると、痛くなる。傷が
c
絢の中に畠が流れることもある
c
人間の韓が丸いのは、丸く、
門講に見よとの、神の思し忍しなのかも知れない
c
以前、面自半分
に書いてみた描詩を最後にご紹介しておきたい。
窓は四角だ/本は四角だ/スクリーンは四角だ〆テレピも四角だ
/パソコンも四角だ/新開もスマホも四角だ〆みんな四角だ/世界
と人生がすべて四角の中だ/四角は凄い〆しかし見る自は丸だ/故
に/円満なものは角立ったものに勝る︵
2
いよいよ哲学の眼鏡が必要な時代である
c
近くを見れない遠視も
多す、ぎるし、遠くを見れない近視もまた多すぎる
c
3
究極の哲学
さて、﹂こにも少なからぬ自と眼差しが集まっている。
我々の自は、それでは今いったい何を、どのような空間を、
どのような時間を、どのような視点から、見ているのだろう
A
O
, 刀
93
雑多な日常事に紛らされて、身辺の諸状況・諸条件に影響
されて、もしかして狭い、短い、浅い、抵い、そして小さい
ことばかりを見ているのではないだろうか・:。一震くらいは、
遥かなる宇宙、永久なる光陰、世界そのもの、人間同そのもの、
人生そのもの、儲舗というもの、そういったものを太初の観
点から挑める必要もあるのではないだろうか。
そこで、敢えて﹁究極の哲学﹂というものを本誌の、王題と
して打ち出してみることにしたいと思う。︵どうかこの趣旨
をご理解いただけますことを!︶しかし、哲学とはそもそも
何なのだろうか。数多くの一所謂﹁哲学論﹂が現にあるだけに︵
4
︶ 、
その精髄を掴むのはそれ程簡単なことではない。が、一つの
答えは、一所誇哲学史上において﹁哲学﹂として実質を得、そ
れとして展開されたものをすべて﹁哲学﹂として認めること
である。我々に伝わっているそれらには、一一一一口ってみれば、﹁歴
史による承認﹂というものがある。︵それに、その擾々様々
な哲学の多様性を貫通する共通的基盤もないわけではない。
大雑把に⋮一一一口ってそれは、告然とは、人間とは、神とは、認識
とは、一一言語とは何か?︵
5
︶ないし如何に生きるか?という真
撃な理性的自実践的関い、思惟、理解、説明の試みであると
言ってもよい。︶
しかし、哲学史上には、タ
i
レスからハ
i
パマスに至るま
で、少なくとも苔人以上もの哲学者たちがいる。そればかり
でもない。所謂哲学科のカリキュラムを見ると、実に稜々様々
な哲学が一つの枠の中に混在している。西洋・東洋哲学、古
代・中最・近代・現代哲学、ドイツ・フランス・英米哲学・

Page 5
94
ヨーロッパ・インド・中国哲学:・、プラトン・アリストテレ
ス・カント・へ
i
ゲル哲学:・、政治・社会・経済・歴史哲学
・、形而上学・認識論:・、論理学・倫理学・美学、現象学・
解釈学・分析哲学・実存哲学:・、共産主義・構造主義・解体
主義:・、等々。これらすべてが実際に﹁哲学﹂として通用し
ているのである。ところで、これらの諸哲学をよく勉強して
s空間
的地点があることに・気づくようになる。空間的に言えばそれ
は、古代の﹁ギリシャ・ユダヤ・インド・中国﹂であり、時
間的に言えば、﹁西暦での、紀元前五世紀から柁元に至る数
百年間﹂である。もっと具体的に言えば、かの有名な﹁ソク
ラテス・イエス・仏陀・孔子﹂こそ、その源泉を潤した、⋮一一一口
うなれば、代表的哲学者、彼らの哲学こそ﹁代表哲学﹂、も
しくは﹁枢軸哲学︵
6
︶﹂、または﹁究極哲学﹂ということがで
きるのである。彼らこそ、タ
i
レスからハ
i
パマスに歪るあ
の巨佐たちを超越したところに構えている﹁究極の哲人た
それでは、なぜこれか。何故これが﹁代表哲学﹂であり、﹁枢
軸哲学﹂であり、﹁究極の哲学﹂であるのか。勿論、見方や
立場によっては異論もありえよう。しかし、何よりも、①彼
らの持っその圧倒的な影響力、②人間ー生ー世界の﹁質﹂へ
の賞献を素直に−認めて、そして、神話的部分を括弧づけて、
③哲学の具体的時空間を超越した全体闘を、ないしそこでの
形勢を、考えてみると、しかも④彼らの場合は﹁生そのもの
が郎ち哲学﹂であったという崇高さを考え合わせると、誰と
てこれを簡単に否定することは出来ないはずである︵
7
広義の﹁哲学﹂においては、彼らこそ最も真正なる哲学の発
言者であり、実現者でもある。彼らの哲学史的意味もまた、
その点にあると言える。まさにそれを、彼らの哲学を、今こ
こで吟味してみたいのである。それに我々の視線を集中して
みることにしよう。
しかしそれにしても、何故今ここでこれを?その理由はき
ちんと説明されなければならない。それには、私なりの﹁時
代診断﹂が働いている︵
8
︶。私が思うに、我々の生きている
この時代は、少なくとも哲学を価値とする人間にとっては、
﹁憂慮すべき時代﹂である。﹁哲学の不在、失践、行方不明﹂
がこの時代を特徴付けているからである。微かに残されたそ
の痕跡も、至るところで石ころのように蹴飛ばされている。
下手すると、近いうちに﹁哲学の死﹂が云々されるかも知れ
ない。人々を、そして世の中を支配している錨値は、ただ﹁資
本、権力、評判﹂。生的行動の唯一の基準は専ら﹁私の利益﹂。
溢れる不正、暴力、非倫理、不道徳・:。真理の白眼視。正義
の無視・蔑視。こうした有様は、所諸国際化
E情報化の波に
乗って最早世界中の普通的現象となりつつある。とりわけ﹁暴
走する資本﹂はいまや誰もそれを止めることができない有棟
しかし、果たしてそれでいいのであろうか。それが人間に
真の幸せを粛しているのであろうか。資本は世界を楽園にす
ることが出来るのであろうか。我々は、この時点で一端立ち
止まって、そして人間の涼点に立ち戻って、真剣に考えてみ

Page 6
なければならない。︵それを我々は、﹁原初﹂の現在北、そし
てハイデガ
i
に倣って、立ち帰り︵∞のま乎きるのご、婦郷
225
山内o
g
とも呼ぶ。︵
9
︶︶人間の根本的な諮問題の原点、
正しくそこに、彼らが立って、その重摩な声で尊い教えを説
いているのである。一一千数百年もの時間を越えて。
さて、その﹁究極の哲学﹂と本格的に向き合う前に、一つ
予備的にしておきたい作業がある。それは、それらの諸哲学
z歪曲
B陳臆化目知識化
t情報化
s剥製化
s
という呪縛から解き放ち、各哲学菌有の出発点と帰着点
225
︶去︶を再認識することである︵目。それは、いうなれば、
﹁問題﹂を失ったという﹁問題﹂を見つめることでもある。
二千年ないし一一千数百年の関の﹁挨﹂や﹁垢﹂を取り払うこ
と、取り除くこと、こうした手続き︵日︶を経てはじめて、か
の﹁究極の哲学﹂はあの当初の偉大なる光を取り戻し、後ら
の教えも﹁肉声﹂で関こえて来ることが出来るようになるの
究植の哲学
それでは、その﹁究極の哲学﹂の実体はどのようなものか。
本搭的に立ち入ってみよう。しかし、それを詳しく、具体的
に﹁論じる﹂ためには、何百巻もの本が必要であるので、我々
は敢えてそれを﹁単純化﹂する曽険を敢行しよう一つまり、
それらを璃解するための接近通路として、夫々コ字﹂、合
わせて﹁四つの文字詰︶﹂を挙げたいと思うのである。それ
﹁滅﹂、であってもよい。々、ソクラテス、イエス
95
仏陀、の核心語。これは勿論私の恋意的解釈
i
実は解釈
調
﹁汝自身を知れ﹂、﹁愛しなさい/海い改めなさい﹂、﹁掲諦鶏
諦、波羅掲諦、波間羅僧鴻諦、菩提薩婆詞﹂、﹁必也正名乎/君
君たり、毘佳た、り、父父たり、子子たり﹂というあまりにも
有名なあの一一言葉を通じて我々によく知られている。﹁そんな
こと、誰だって知っているよ﹂と、誰もが思うだろう。しか
し我々は本当にそれを知っているのであろうか。それを真に
﹁理解﹂するためには、それを﹁我が物にすること日私有化
2
5
5
ロロロ∞︶﹂が是非とも必要である。単なる﹁知識﹂では
なく、﹁問題﹂としてそれを﹁受け止める﹂ことが。﹁引き受
ける﹂ことが。
それを可能ならしめるために、我々は彼らに関、
25
あなた方は何故それを語ったのですか?何故語らなければな
らなかったのですか﹂と。すると、多分彼らはこう答えるだ
ろう。﹁見てみなさい。考えてみなさい。人間たちのあの﹁無
知﹂を、あの﹁罪﹂を、あの﹁苦﹂と﹁執着﹂を、あの﹁乱
れ﹂を、﹁不正﹂︵君不君臣不院父不父子不子︶を﹂、と。︵勿
論、これもまた私の解釈である。︶
これには、﹁まず﹁結果﹂を読み、それから﹁涼因﹂を読む﹂
という私の方法論︵翻し読み︶が適用されている。そして、﹁後
なければ?﹂という方法論︵欠如佼定︶︵
M
︶も、適用されな
ければならない。そうすると、後らの抱いていた、感じて
22Z
C
E
拡宮
5
が、自然

Page 7
96
に我々に迫ってくる。
さて、その四つの核心語を一つずつ、出来る範閣で、ごく
簡単に、﹁吟味﹂︵胃
c
p
p
w
H
E
a
o
g
ロ︶してみることにしよう。
υ
まずはソクラテス。
彼の哲学を集約する﹁無知の知﹂という一一言葉は﹁汝自身を
知れ﹂︵開きを認ささとという言葉と並んで、存名である。
この言葉には、実は彼の哲学の結果としての﹁知﹂と、原因
ないし背景としての﹁無知﹂とが対比されている。内容的に
見れば、その無知には、人間と世界にとって真に価値あるも
のが何かを知らず、﹁金、地位、名声﹂などだけに馳せる人
間の有様が含まれている。そして、﹁知﹂には、﹁正義、徳、愛、
勇気、知恵、思議、敬度、良心、真一理、善、美、幸福:・﹂な
どへの真の了解と志向とが含まれている。そうした志向をソ
クラテスは、﹁精神の︵最大摂の︶向上﹂と表現する。被の
弟子プラトンはそうした姉匠の言葉がただの知識ではなく、
生そのものであったことをあの数々の対話編で実に感動的に
描いている。お︶
ソクラテスは、彼自身のあのとんでもない死が証明するよ
うな、無知の危険とも一一一一口うべき﹁問題﹂を少しでも正すべく、
人生をかけて、命をかけて、家庭や家族を犠牲にしてまで、
哲学をしたのである。それが、人々を、世界を、普の方向へ
導こうとした彼のあの﹁対話﹂に他ならなかったのである。
幻次にイエス。
彼の哲学︵日︶の核心は何と言っても﹁愛﹂である。﹁愛しな
い﹂は、被のトレード・マークのようなものである。これに
は、隣人への愛は勿論のこと、兄弟への愛、そして何よりも
神への愛が含まれる。極端には、仇への愛も含まれる。広義
で考えれば、この愛には、あの所諸﹁山上垂誹︵げにで言わ
れたすべてのことが含まれる。﹁こころの貧しい人たち、悲
しんでいる人たち、柔和な人たち、義に飢えかわいている人
たち、あわれみ深い人たち、心の清い人たち、平和をつくり
出す人たち、義のために迫害されてきた人たち、ののしられ、
迫害され、悪口を一一一一口われる人たち﹂は皆、愛する人たちなの
である。愛がなければ、そもそもそういう人にはなれないは
ずである。彼自身もまた、身をもって、命をかけて、この愛
を実践した。一一一日葉こそ容易いものの、命を捨てて愛を実践す
ることは、決して誰にでも簡単にできるようなことではない。
では、イエスは何故そこまでしたのであろうか。その背景
には、﹁愛しないこと﹂、神の御一言葉を、隣人を、兄弟を、親
を、そして真の倍値を愛しないこと、キリスト教的に言、っ﹁罪﹂
が置かれている。﹁愛と罪﹂は対を成す。彼の哲学は、罪を
愛へと変換すること、このことにほかならなかった。罪人当
人の立場からは、これが﹁晦い改め﹂であり、キリストたる
イエスの立場からは、そして神の立場からは、これが﹁赦し・
救い・救済・救援﹂である。﹁悔い改めなさい﹂という彼の
有名な言葉もまさにこのためのものであった。所謂罪の普遍
性と深さはあの聖書の至るところに描かれている。その極端

Page 8
の関がイエスを死に至らせたあのパリサイ人や律法学者たち
の憎しみである。勿論あのアダムとイブの原罪、カインの罪、
﹁十戒﹂で警告された不孝・殺人・姦混・盗み・偽−証:・等、
ソドムとゴモラをはじめ旧約聖書に描かれた人間たちの数々
宗教的な象徴をやや許すと、あの所謂﹁十字架﹂は、正し
くこの﹁愛﹂の、全人類への愛の完成、と一一言えるようなもの
に他ならなかったわけである。だからこそ、彼は﹁神の子﹂
とまで崇めれているのである。
究極の哲学
お次に仏詑。
仏陀の哲学、仏教哲学は、周知の通り、
のであり、それを締約するのは、毛頭無理な話である。しか
し、その核心と言えるものがないわけではない。私はあの有
名な﹁般若心経﹂に登場する﹁度一切苦尼﹂の﹁度﹂こそは
その一つである、と解釈する。つまり﹁渡る﹂﹁越える﹂﹁覚
る﹂ことである。﹁ワタル﹂というこの諸には、?﹂ちら﹂と
﹁あちら﹂という対比が、そして﹁こちら﹂から﹁あちら﹂
への﹁方向性﹂が、前提とされている。宗教的にはそれを﹁此
岸﹂と﹁彼岸﹂と呼んでいる。﹁車工こから﹁向、っ/彼方﹂
へ渡って行こう、というのが仏陀の哲学の核心であるわけで
ある。﹁心経﹂の最後の呪文﹁掲諦鶏詩、波羅掲詩、波羅僧
鶏諦、菩提薩婆詩﹂も正にそのこと、﹁行きましょう、行き
ましょう、彼方に︵渡って︶行きましょう﹂ということにほ
かならない。では、﹁向う﹂はどのようなところであり、﹁こ
97
こ﹂はどのようなところなのか。これまた、誰一人知らぬ者
はいない。﹁肉、つ﹂は一的謂撞楽浄土であり、で﹂こ﹂は所謂俗
世間である。しかし、その内容は、夫々どのようなものであ
ろうか。我々はそれを本当によく分かっているのだろうか。
梅楽浄土とは、実はあの﹁吾八慣悩﹂、﹁一切苦厄﹂の消え
の世界である。そして俗世間とは、閣知の通り、﹁欲望﹂の
世界、﹁執着﹂の世界、﹁無明﹂の世界、それに由る﹁煩悩﹂
の世界、﹁苦﹂の世界、つまり﹁苦海﹂である。
仏陀のあの巨大な哲学世界は、実は悉くこの﹁苦﹂一文字
から発する、と言っても決して過言ではない。その京国は、
実体でないものの正体を知らず空しく執着する態かきである、
というのが仏陀の認識であった。あの有名な所謂﹁一一一法印・
臨翠諦・八正道・十ニ縁起﹂も、すべてこうした認識と何ら
原点は、あの﹁閉門遊観﹂が示唆する通り、﹁苦﹂の認識で
ある。二苦・一一一苦・四苦・八苦、そして百八演悩。具体的に
は、内苦・外苦、︵精神的苦と肉体的苦︶、苦苦・行苦・壊苦、
生・老・病・死、﹁愛別離苦・怨増会苦・求不得苦・五議盛苦﹂
の生というものの実態、実像にほかならないのである。、だか
らこそ、これから逃れることがごく自然に要求されるのであ
る。それこそ仏陀の哲学にほかならないのである。そのため
に、所謂﹁離れる・空ける・放つ・捨てる:一等々のことも
護んに譲われたのである。何を?苦を。蒙昧を。

Page 9
98
心最後に孔子。
所謂儒教を代表する孔子の哲学︵ゆ︶は、普通は、﹁仁﹂や﹁君
子﹂という語を、もしくは﹁忠・孝﹂という語を思い出させ
る。勿論これ以外にも、実に多くの倫理的ー道徳的諮自が儒
教という枠内で説かれている。たとえば、﹁仁、儀、礼、智、信、
忠、孝、悌、恕、徳、節、誠、恕、廉、恥、勇、温、良、恭、
像、譲、知、安、懐、楽、中庸、・:﹂等々。数え切れないほ
どである。勿論それはすべて孔子の倫理に間違いない。しか
し、中でも私が最も注目する語は﹁正﹂である。﹁正す﹂と
いうこと、﹁名を正す﹂という所謂﹁正名﹂︵恕こそ、孔子哲
学の核心であると私は解釈する。というのは、孔子が終生関
心を持ち続けたのは﹁政治﹂の﹁政﹂だったのであり、﹁政﹂
は即ち﹁正﹂であると考えたからである︵忍。孔子は乱れた
人間関係、乱れた世の中を正して、言、つなれば理想的なあの
公のような富一ハの君子が治めたあの時代に倣って、理想的な﹁大
同﹂世界を是非実現したい、という夢を抱いていたのである。
彼の語った諸価値、諸徳自は、すべてそのためのものにほか
ならなかった。彼の諸国周遊も、晩年の研究・教育活動もま
こうした哲学の背景には、膏景公が﹁君不君、臣不臣、父
不父、子不子﹂︵泣︶と表現したような、﹁問題的現実﹂があっ
たのである。だからこそ孔子は、この嘆くべき現実を正して、
臣臣、父父、という﹁正名﹂を﹁政﹂の核、心
と看倣したのである。あの有名な﹁仁﹂もまた、人間らしく
ない人間を正して人間らしい人間にするための﹁人間らしさ﹂
にほかならなかった。﹁己所不欲、勿施於人﹂︵お︶という﹁恕﹂
もまた、そういう﹁人間らしさ﹂に繋がる価値であったと言
える。これが、言うなれば、大枠で見た孔子哲学の粗筋、概
以上我々は、﹁ソクラテス・イエス・仏陀、孔子﹂の哲学を、
その核心部へ通じる戸口に立って、その中から漏れて来る燦
嬬たる輝きを、指一間見た。それらは、夫々巨大な﹁思想の王
国﹂を成していて、如何なる異論も許さぬ程堅国に見える。
勿論それらは、夫々固有の出発点と婦着点とを持っており、
それでそれなりの完全性に達している。しかし、それはそれ
として、それらをその根底において貫く﹁共通性﹂がないわ
けではない。いな、そういう偉大なものだからこそ、持つし
かない共通の基盤のようなものがなければならないのである。
そういうものは確かにある。え?何だろう。私は自信を持っ
︵ 目 黒
g
c
g
s
o
z
c
s
c
c
付け加えれば、その﹁問題性の地盤﹂、つまり問題︵
US
F ω
加者青島問。︶そのものに由来/起因するというその﹁起源
の深刻性﹂。そして、それに取り組む命がけの﹁真正性﹂。﹁如
何に生きるか﹂という真撃な問いと答え。これこそが彼らの、
そして彼らの哲学の、偉大さの源だったのである。︵考えて
みよう。ソクラテスを奮起せしめたあの﹁無知﹂は、﹂

Page 10
究極の哲学
こで﹂︵庄の立さき︶果たして解決されているのであろうか。
イエスを荒野へ、そして山上へ生かせた﹁人間の罪﹂は、﹁憎
しみ﹂は、最早存在しないのだろうか。仏詑を雪山に行かせ
た、そして菩提樹の下に腔らせたあの﹁苦﹂と﹁執着﹂は今
この人間世界から捕え去ったのだろうか。孔子をして諸居届
遊の車に乗せたあの数々の﹁不正﹂は今正されたのだろうか。
決してそうではない︵宮
5
0
2
0
立︶。だからこそ我々は、彼
らのあの問題を我が物として引き受けて、富一︵撃にその間いを
改めて問い寵す必要があるのである。︶
ソクラテスにとっての善は﹁知/靖神の向上﹂、イエスに
とっての善は﹁愛/救い/天国﹂、仏陀にとっての普は﹁疫
/覚り/混繋﹂、孔子にとっての善は﹁正/徳/大同﹂であっ
た。﹁善﹂こそは究植の存在であり、究極の価値である。だ
からプラトンはそれ︵
8
2
急を︶を最高のイデアとしたの
であり、出約霊堂開には神の﹁善﹂が世界や万物創造の理由な
いし自的とされているのである云︶。まさにそうした﹁究極
の並之、﹁究撞の倍値﹂と取り組んだ哲学だったからこそ、彼
らの哲学は﹁究櫨の哲学﹂だったのである。
最後に、一つだけ付言しておこう。以上において我々は、
被らの哲学が何を目指しているか、何故生じたか、を論じて
みた。その﹁何﹂と﹁何故﹂は、ごく告然に﹁如何に﹂とい
う開いへと我々を導いていく。つまり、彼らの問題を真に我
が物として理解したならば、﹁如何に生きるか﹂、﹁如何に成
し遂げるか﹂という間いが我々の絢の中から生じてくるはず
99
葉の内面化﹂である。我々の所謂﹁勉強﹂ないし﹁研究﹂が
ただの﹁知的
s荷学的好奇心﹂や﹁知識﹂で終わるとしたら、
何の意味もない。﹁私、人間、館、世界﹂の変化こそ哲学の
一つの本領なのである。﹁知る﹂から﹁行う﹂へ、﹁行う﹂
から﹁成る﹂へ。それを、あの﹁究極の哲学﹂は要求する。
その究極のデスティネーションは、やはりあの﹁菩﹂、﹁創造
の原理﹂ないし﹁最上位の存在﹂としての﹁韮とである。正
しくそれへの絶えなき志向、回帰のために、我々も今日ここ
にこうやって集まっているのに違いあるまい。私はそう信じ
拙い話の締めくくりとして、最近の私の関心の一端を、慎
みながら、ここに引用させていただきたいと思う。
﹁一言語は精神の質を決定する﹂。これは、私の哲学の基本命
神を作っていく。然るに、この頃、我々の題辺に漂っている
言語を見れば、本当に憂い患を禁じえない。思惟もなく、意味
人間の水準、社会の水準、私は未だこんな主題に関、心があ
る。資本の量だけでは、叶うはずがない。﹁精神﹂は依然と
して有効なバロメーターである。だからこそ、その精神に﹁栄
養﹂となる言語が必要なのである。﹁知る﹂だけではない、﹁行
う﹂のための、﹁成る﹂のための・:。そうした念願で私はこ
の場に立った。ここで私は、この談義を契機に、学問的同志

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100
の皆さんと共に、あの﹁世の中﹂に向けて我々
を発信出来ればと、そう切に願うものである。まずは次の言
葉から。
目よ、汝はいま何を見ているのか。耳よ、汝はいま何を聞
いているのか。そして汝口よ、いま汝はどのような単語をそ
の舌の上に載せているのか・:。︵お︶
︷ 元
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﹀本稿は、
2015
9
2
日、﹁関西ハイデガ
i
京都大学﹂共催の特別講演会で発表されたものである。
2
︶李沫正、﹃香りの縁﹄、ソウル、センガゲナム、
2005
3
︶李沫正、﹁事物の中で哲学探し﹄、ソウル、哲学と現実社、
2015
1931197
4
︶例えば、ヤスパ
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スの﹁哲学円ハイデガ!の﹁哲学
i
それは何ぞや﹂、ヴィトゲンシュタインの諒畑理
s
などは代表的である。
5
︶これらは、それぞれ西洋における古代、中世、近世、
現代哲学の代表的関心事であると一一出回っても良い。これらを
更に在縮すると、﹁世界・人間・神﹂になるはずである。立
場によっては、これらもすべて﹁存在﹂一言に尽きる、と
6
︶庖知のとおり、これはヤスパ
1
スの見方でもある。
7
︶一生純粋形市上学としての﹁存在論﹂に携わってきた
者がこんなことを言う背景には、やはり何といっても、﹁生﹂
こそ、そして﹁如何に生きるか﹂ということこそ、︵ある意
味では﹁存在﹂よりも、そして﹁:・とは何ぞや﹂というこ
とよりも勝って︶哲学の﹁究極の主題﹂であるべきだ、で
あらねばならない、という認識が置かれている。あの﹁
4
大哲学﹂は、それぞれ何らかの形で、この﹁生﹂という究
極の主題へ人々を導いている、と私は判断している。私は
こうした広い意味での﹁人生論的転回﹂を一つの哲学とし
8
︶私は嘗て﹁ハイデガ
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の時代批判﹂を論じたことがあ
るが、それとこれとはまた別である。︿旦
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︶これに関しては、拙稿、﹁ハイデガ
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における﹁存在﹂
1990
︵印︶あの﹃存在と時間﹄の第
1
節でハイデガ!が行ったよ
うに!
︵日︶周知のとおり、これは、ハイデガーがあの﹁存在と時間﹂
1
節で示した道でもある。
︵ロ︶これを私は、﹁崇高なる哲学的文学﹂と呼びたい。
︵日︶﹁開い﹂の哲学的意義については、ハイデガ!﹁存在と
時間﹄の第
2
節と、吋家の友
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。宣言∞の哲学的主題、﹁水、空気、数、火、存在、地、種、

Page 12
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[…]
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拠度。(誤揺さ
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'掛榊)
a man who is
good for anything ought not to
calculate the chance
of living or dying; he ought only to
consider whether in
doing
anything he is
doing right or wrong -
acting the
part
of a good
man or ofa bad.[・・・]
why do you [
・ ・]
care so much about laying up the greatest amount
of money and honor and reputation, and so little
about wisdom
and truth and the greatest improvement of the soul, which you
never regard or heed at
all? Are you not ashamed of this?[・・・]
I do nothing but go about persuading you all,
old and young alike,
not to
take thought for your persons and your properties, but
first
and chiefly to
care about the greatest improvement of the
soul.[・・・]
Still
I have a favor to
ask of them.
明/
hen
my sons are grown up, I
would ask you, 0 my friends,
to
punish them; and I would have
you trouble
them, as
I have troubled you,
if
they seem to
care
about riches,
or
anything,
more than about virtue;
or if
they
pretend to
be something when they are
really
nothing
,ー
then
reprove them, as I have reproved you, for not caring about that
for
which they ought to
care,
and thinking that
they are something
when they are
really
nothing. And if
you do this,
I and my sons
朴都
ハも
閣制
亡コ

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102
学﹂として看倣すのにそれ程、抵抗はないはずである。
130
﹁子路日、衛君待子市矯政。
︿
︵幻︶﹃論語﹄ロ︵顔灘︶
i
政者正世。子帥以正執敢不正﹂
︵幻︶﹃論垣間﹂ロ︵顔淵︶!日。﹁湾景公開政於孔子。孔子釘目、
君君臣臣父父子子。公日、善哉。信如君不君臣不寵父不父
i2
。﹁仲弓問仁。子日、出門如見
大賓、使民如承大祭。己所不欲勿施於人。在邦無怨、在家
無怨。仲弓日、羅雄不敏、請事斯語実。﹂
︵お︶﹁神は見て蕎しとされた。﹂
i
︵お︶これのためにあのガダマ
i
流の﹁地平融合﹂つまり﹁解
釈学的理解﹂が要求される。
︵お︶李沫正、司事物の中で哲学探しい、ソウル、哲学と現実社、
2
0
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