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消された穴門国の歴史 | 日本の歴史と日本人のルーツ
消された穴門国の歴史 | 日本の歴史と日本人のルーツ

消された穴門国の歴史

山口県の人間には穴門国と長門国は同一国で山口県であることはすぐ分かる。アナトが訛ってナガトに成ったとしか思わないくらい自然な変更で疑いを持っていない。例えば、複雑な海岸線が長く続くから長門であろうと私ですら理解する。

しかし、穴門国と長門国は全く別の国と中国や朝鮮の人間は思うに違いない。名称変更は穴門国を日本から消し去ることと等しい。しかし、穴門国に関する風土記まで編纂しなかったのには奇異な感じがする。そんな重要な国家機密が有るとは思えない。

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忌宮神社、旧穴門豊浦宮


参考

弥生時代後期?に穴門にイツツヒコ王国があったと日本書紀が記述する(参考)。

仲哀天皇、神功皇后が穴門豊浦宮に滞在され、熊襲・三韓征伐の事は日本書紀(720年完成)に記述され、響灘あたりの地名も出てくるが、曖昧に書かれている(参考)。しかし、三韓征伐から帰還して応神天皇を産むが、出産の地を筑紫の宇美と偽り、真の出産の地の現下関市大字吉母を明かしていない(参考)。

656年完成の隋書東夷伝に小野妹子が秦王国として紹介した(参考)。

663年の白村江の戦いの敗戦後、筑紫の太宰府あたりの防衛については日本書紀に正しく記述されたが(参考)、長門の山城については名称も場所も記されていない(参考)。

日本書紀の中で、665年あたりに穴門国が訳もなく長門国に改名された。他に名称変更された国はない(参考)。

701年、大宝律令を発布する。倭国は日本国に名称変更した。

続日本紀によると713年に全国に風土記の作成の官命が出たが、長門国、周防国あたりは風土記そのものが作成されていない模様(wikiより)。

奈良時代の長門国は、銅を産し、東大寺の大仏の原料になり、また鋳銭使が設置されたことなど、また歴史に出てくる(参考)。