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三島由紀夫ワールド
三島由紀夫こと、平岡公威は、1925年1月14日東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に農商務省官僚 平岡梓 倭文重の長男として生まれる。なお、三島の満年齢と昭和の年数は一致する。
 父・梓は、一高から東大法学部を経て高等文官試験に優秀な成績で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(のちの農林省)に勤務していた。母・倭文重は、東京開成中学校の校長で漢学者の橋健三の次女。家族は、妹・美津子(1928年生まれ)、弟・千之(1930年生まれ)。
 祖母・夏子の父は大審院判事の永井岩之丞であり、母は常陸宍戸藩藩主、松平頼位の三女高。祖母は、その長女として生まれ、後に有栖川宮熾仁親王の行儀見習いとして仕える。永井荷風と三島由紀夫は、この夏子の実家を通じて遠い親戚に当たる。特に平岡梓の風貌は荷風と酷似しており、三島は蔭で父梓を「荷風先生」と呼んでいた。
 祖父の平岡定太郎は兵庫県印南郡志方町(現・兵庫県加古川市志方町)の農家の出。東京帝国大学法科大学(英法)を卒業し内務省官僚となり、福島県知事、樺太庁長官を勤めたが、満州でのアヘン取引に関わるスキャンダルで失脚。なお定太郎は夏目漱石と東大で同期にあたり、漱石の『それから』に登場する不倫相手の旦那(平岡)および『門』の安井のモデルとされている。
 公威と祖母・夏子とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は、夏子の影響下におかれている。生来病弱な公威に対し、夏子は両親から引き離し、公威に貴族趣味をふくむ過保護な教育を行った。男の子らしい遊びはさせず、女言葉を使ったいう。家族の中で、夏子はヒステリックなふるまいに及ぶこともたびたびだった。また夏子は、歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家などの作家的素養を培った。
 1931年に公威は、学習院初等科に入学する。当時学習院は華族中心の学校で、平岡家は定太郎が樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ、平民階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたについては、大名華族意識のある祖母の意向が強く働いていたと言われる。高学年時から、同学友誌「輔仁会雑誌」に詩や俳句を発表する。1937年中等科に進むと、文芸部に所属し、8歳年上の坊城俊民と出会い文学交遊を結ぶ。以降、中等科・高等科の6年間で多くの詩歌や散文作品を発表する。1938年には同雑誌に、最初の短篇小説『酸模(すかんぽ)~秋彦の幼き思ひ出』『座禅物語』が掲載された。1939年、祖母・夏子が他界。また同年第二次世界大戦が始まった。またこのころ、生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた清水文雄と出会う。学習院に国語教師として赴任したのがきっかけだった。1940年、平岡青城(虚弱体質で青白い顔をしていたために級友より揶揄されていたことから、アオジロをもじって自ら名乗った)の俳号を使い、『山梔(くちなし)』に俳句、詩歌を投稿。詩人川路柳虹に師事する。退廃的心情が後年の作風をほうふつとさせる、詩『凶ごと』を書いた。このころの心情は、のちに短篇『詩を書く少年』に描かれ、詩歌は『十五歳詩集』として刊行された。このころオスカー・ワイルド、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マンのほか、伊東静雄、森鴎外、そして『万葉集』『古事記』などの古典文学も愛読した。