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追悼 サイレンススズカ

サイレンススズカに寄せる

昭和40年日本ダービー馬キーストン

サイレンススズカ(1998年天皇賞・秋で故障、予後不良)

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    今年の秋の天皇賞は悲劇でした。断然の一番人気、春のグランプリホースであるサイレントスズカがレース中に骨折し、安楽死処分されました。骨は砕けており回復はきわめて困難という、スピードがリスクととなり合わせであることを改めてまのあたりにしました。
    千メートルを57秒代で走るという、語り継がれるべきこの快速馬は、逃げることしかできなかった。逃げながら勝つという、勝負の世界でいえば邪道に響くこの「逃げ」こそが彼の唯一の戦法であった。
    しかしなぜあんなにがむしゃらに逃げなくてはいけなかったのか?
    誰もが天皇賞の勝ちを保証せざるを得なくなるような、二段腰の逃げを演じた毎日王冠の時よりも早いタイムでこの日も逃げたのである。止まらなければ1分57秒代の勝ち時計が推測された。現に後方は遥か後ろで10馬身はあっただろう。時速換算、約62、63キロである。通常の千のラップは1分をきれば早いと言われる。今までのレコードは1分58秒2である。
    文字どおりサラブレットの限界まで行ってしまったのかもしれない。脚にかかる負担は一本につき体重の8倍、4トン近い。ほんの少しの衝撃が必要最小限までに細められた骨をくだくことは仕方がないことだろう。選ばれし者のみが行き着けるところへ脚をかけそこねたのか。
    勝負だけならそれほどの危険を負担は必要なかったであろう、戦法としての「逃げ」以上のものがあったのだろう。それは極限への挑戦権をもつもののみが誘われる危険と背中あわせの約束の地なのか、あるいは彼が自分を語るうえで欠くことのできないものなのか、あるいはライバル以外の何かかから逃げなくてはいけなかったのか。
    サイレンススズカが3本脚の痛々しい姿でいる場面を見ながら、寺山がくりかえしたキーストンのことを思い出した。キーストンをめぐる記述のなかでキーストンのところをサレイレンススズカとよみかえてみると、自らを逃げ馬と語った寺山の逃げ馬への思いを改めて間近でみる思いだ。サイレンススズカはクラシックには縁はなかたが。
    キーストンは昭和40年のダービー馬である。
    けして大きくなかったというキーストンと同じように450キロと小柄なサイレンススズカ、寺山は栗毛のサイレンススズカをきっと好きになっていただろう。


    「逃げ馬一代キーストン」
    走りながら死んだ馬にもいろいろあるが、私がいまでも心にかかっているのはキーストンのことである。キーストンは小さな馬であった。デビュー戦から逃げて逃げまくり、とうとう六歳の暮れの阪神大賞典で四コーナーを曲がったところで、力尽きてバッタリと倒れて死んでしまったのである。私の友人のバーテンをしていた李という男は、「夕陽よ急げ」という言葉が好きで、下宿の壁にマジックで大きく書いて貼って貼ってあったが、「どういう意味なのだ」ときくと答えてくれなかった。だが祖国韓国にいたころ、貧しくてかっぱらいを働き、少年院にぶち込まれ、それ以来”逃げる”ことだけを青春として生きてきた男だけに、この言葉はひとしおの悲しみと恨みとが込められているように思われたのだった。
    李は「オレは弱いので逃げてばかりいた」と言った。「強かった仲間たちは。いまでも政府のファシズムと戦っているよ」
    この李に競馬を教ええたのは私であった。李は競馬新聞の脚質の欄を見て、逃げち書いてあるのを選んで買った。だから福島や函館のローカルではよかったが、府中になるとなかなかとれないことが多かった。そんなころのキーストンが現われたのである。
    この小さな鹿毛の逃げ馬には、どこか運命的なものがあった。タマミのような激しさ、ベロナのような華麗さ、そしてヒシマサヒデのような迫力はなかったが、盗みを働いた少年が青野を必死で逃げて行くような、言葉につくせぬとような悲劇的ムードが漂っていたのである。

    (中略)

    六戦全勝、そのうちの三つがレコード勝ちというすばらしい成績を持ちながら、澄んだ目はいつもなにかにおびえるようにオドオドしており、ファンに決して強い馬という印象を与えなかった。
    そのころ李はキーストンが出走するたび、その馬券を買って少しづつ貯金を増やしていった。だがその連勝に終止符を打つ日がやってきた。コダマ、シンザンの後継者と目されたヒンドスタンの子のダイコータというすごい追い込み馬が現われ、スプリングステークスで逃げ切ろうとするキーストンをあっさりとらえられてしまったからである。(中略)「結局、メッキがはげたのさ」とファンは噂した。中略「ダービーの日は朝からどしゃぶりの朝だった。激しくドアをたたく音に目を覚ますと、レインコートを着た李が立っていて、警察に追われているのだという。何をしたのか、ときいても答えず、これから海峡を渡って祖国に密航するのだという。
    「それできょうのダービーで、オレの残していく金全部でキーストンの単勝を買ってくれ」と李は言った。私はそれは無茶だと思ったが、李には意見を差しはさませない切実な何かがあった。そして李は雨のなかに消えて行った。ダービーはダイコーター中心と思われていたが、キーストンが捨て身の逃げを成功させて勝った。私はキーストンの逃げ切りと、李の政治逃亡とを二重写しにして考えていた。

    マッチ擦るつかのま海に霧深し
    身捨つるほどの祖国はありや

    その後キーストンは再び連勝しはじめた。私はキーストンが逃げ切るたびに、うまく警察の手をのがれている李のことを思った。キーストンの出走レースは、さながら李の便りなのであった。
    だが昭和四十二年十二月十七日、阪神競馬場の三千メートルのレース、四コーナーを曲がったところでキーストンがもんどりうって倒れたとき、私の頭の中には一瞬にして李のことがひらめいた。それははるか朝鮮海峡のかなたの空に響いた、一発の拳銃の音のこだまであった。キーストンはそのまま倒れ、私の親友の李は、プッツリと消息を絶ったのであった。


    幸福論より
    キーストンは走りながら死んだ馬である。それは見事な生死の一致の瞬間であった。
    「生が終わって死が始まるのではなく、生が終われば、死も終わるのだ。死はまさに、生のなかにしか存在しないのだから」と、私は私の戯曲の主人公に語らせたことがある。実際、死が生のなかに見えかくれしながらつきまとう「人生の脇役」だということは、私たちのしばしば経験することである。私たちはつねに生死一致の夢見、「いかに生くべきか」という問いかけと「いかに死ぬべきか」という問いかけのあいだを、歴史が引きはなしてしまわぬことを望んでいる。
    ゲートがあくとまず「逃げ」てそのまま必死でゴールまでにげつづけては連勝を記録していった希代のスピード馬、まるでロバのように小柄で、黒鹿毛とまがうばかりの真っ黒な毛艶-「生くることにも心急ぎ、感ずることも急がるる」といった走法には、早くから死のカゲがちらついていたとも言える。キーストンは、なぜあんなに逃げるのか?何の追撃を怖れているのか?-と、ベテランの競馬記者、石崎欣一が書いたことがあるが、それほどキーストンの逃げ方はパセティックで、さびしい感じだった。
    「追ってくるのはダイコーターではなくて、キーストン自身だ。キーストン自身の死なのだ。」

    (中略)

    その日の阪神競馬場のメインレース「阪神大賞典」ではキーストンが一番人気だった。

    あっという間にキーストンが先頭に立ってしまい、一周目にスタンド前で、観衆の拍手を浴びるやぐんぐんとのびて、七、八馬身の差をつけてしまったのだ。
    直線へ入ると、枯芝を蹴ってキーストンが逃げはじめた。
    しかし、その時ふいに騎手の山本がのめるように馬の首づたいに地上にことがり落ちた。まったく思いがけないことだった。キーストンは立止まり、落馬した騎手は二、三メートルころがると、そのまま動かなくなった。フイニイらの一団が、風のようにその傍らを駆け抜けて行き、立ち止まったキーストンはただ首をふっていた。
    誰の目から見ても、前脚の一本が折れているのがわかった。よろめくようにキーストンは、三本の足で、自分の「死」に向かって歩き出した。
    それがキーストンの最後だった。
    (中略)
    オリンピックの「英雄」の円谷幸吉と、ダービーの勝者キーストンとはどこか似たところがある。それは「走ることで自分を語りきってしまった」ランナーは、そのあとの一生をどのようにして、他人の期待と向きあってゆかねばならないのか、という悩みを持っているということである。「さあ、お前の<いかに生くべきか>は終わったのだ。これからは<いかに死ぬべきか>を考えろ」と言われるほど、むごいことはない。