ヘルプ

<< 山口県 カネミ 油症 のページ検索結果にもどる

このページでは http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/sc/file/1479/20100303141648/SC20050000109.pdf をHTMLに変換して表示しています。
検索対象となった右のキーワードがハイライト表示されています:山口 カネミ

変換前のファイルはこちらから確認できます。

※Netscape4.0と4.7では正しく表示されない場合があります。ご了承ください。

※HTMLバージョンとして表示する際、レイアウトが崩れたり、文字が読めなくなる場合があります。ご了承ください。

Yahoo! JAPANはページ内のコンテンツとの関連はありません。

カネミ油症の被害と人権侵害の広がり
Page 1
下関市立大学創立50周年記念論文集(2007.3)
カネミ油症の被害と人権侵害の広がり
目 次
O.序
1.油症被害の広がり
1.1.発症時期と発生地域の偏り
1.2.病像と診断基準の偏り
1.3.認定の偏り
1.4.散在する被害者
1.5.偏りと広がりの背景
2.人権侵害の広がり
2.1。多様な実態
2。2.偏見・差別と油症のイメージ形成
2.3.調査の欠如と記録の破棄
2,4.人権侵害の背景
3.結び
0.序
本稿はカネミ油症に関わる被害と人権侵害が通常
考えられるよりも広く深いことを示そうとするもの
であるD.すなわち,カネミ油症の被害の範囲は,
発病の時期,発生地域,病像,汚染の原因のどの側
面を見ても通常考えられているよりは広く,油症
害に関する人権侵害は,通常考えられるよりもはる
かに多様な側面があり,関係者や関係組織だけの問
題ではなく現代日本社会の構造的欠陥を示す面もあ
ると考えられる2).
1.油症被害の広がり
油症の被害の範囲が通常考えられているよりも広
く,逆に言えば油症について広く受け入れられてい
る考え(通説)は被害を実態より狭く捉えていると
いう点について述べる.
カネミ油症については,九州大学を中心とする油
症研究班による理解が広く受け入れられて行政当局
と裁判所の判断の基準となり,学界においても国際
的にも通用してきたので,それを通説と呼ぶことに
する.その内容はおよそ次のようなものである3).
カネミ油症は1968年に福岡県・長崎県を中
心とした西日本一帯で,PCBとその関連物質
によって汚染された食用油を摂取したために
1800人あまりの患者が発生した食中毒事件で,
原因は1968年2月前半に製造されたカネミラ
イスオイルである.原因物質は脱臭工程に熱媒
体として用いられていたPCBだけでなく,
PCBの加熱利用により生成したPCDFなどの
ダイオキシン類の寄与がより大きいことがその
後判明した.その混入経路は脱臭回内の蛇管の
ピンホールとされてきたが,実は工作ミスで蛇
管に開いた穴から混入したらしい.臨床症状は
ざ瘡様皮疹・色素沈着・マイボーム腺過多など
が特徴的で,このほか全身倦怠感・頭痛・異常
感覚・気管支炎・爪の変形などのさまざまの症
状が見られる.
このような通説は30年間あまりのうちに変化し
てきた面もあるが,油症は特定の時期に製造された
特定の油の摂取だけによって起きたもので特徴的な
臨床症状を中心とする見方はほぼ一貫しており,こ
の見方を前提にして認定された患者の一部を対象に
追跡調査や研究が続けられ,それをもとに診断基準
や治療指針の改訂が行われてきた.
しかし,事件を少し詳しく調べてみると,通説は
汚染や被害の範囲を実態より狭く限定し過ぎたので
はないか,など疑問な点が少なくない4).
1.1.発症時期と発生地域の偏り
油症の発生時期について,通説ではカネミ油症は
1968年2月上旬に製造されたカネミ倉庫製ライス
オイルの摂取により同年春頃から夏にかけて発生し
たとされるが,実際にはこれ以外の時期に発症した
93

Page 2
カネミ油症の被害と人権侵害の広がり
例が少なからず報告されてきた,
1967年以前に発症した例があることは1972年頃
から何度か報告された.例えば1972年3月前は,
北九州市や飯塚市で1967年以前に発病したと見ら
れる8人(うち認定患者4人)について北九州市の
梅田玄勝医師が近く産業医学会で報告する,と報じ
られ,8人のうち半数以上は1963年頃から発症し
ていたという5).1973年10月には医師と被害者・
支援者により1968年以前に18人の発症が明らかに
されたと報じられ,計18人のうち認定患者が6人,
未認定患者が12人で,最も早い発症例は1961年に
北九州市で発症したという6).1973年10月下旬には
山口県でも1968年2月以前に27人が発症したと報
じられた7).矢野トヨコも,家族を含めて1963年頃
から発症したことを1972年春頃から訴えていた8).
1968年3月以降に製造された油による発症例も
少なくなかったと考えられる.例えば,兵庫県姫路
市のある未認定患者は,典型的な皮膚症状を有して
いても使用したカネミ油が1968年5月製であった
ため認定されず,1971年10月に未認定のまま独力
カネミ倉庫を訴えて起こした損害賠償請求訴訟に
おいて,判決ではPCB混入の証拠はないなどとさ
れて1980年1月に敗訴した9).
一方,地域的に見ても油症の認定患者の分布は偏
りが著しいと言えよう.1969年7月2日現在の厚
生省の集計によると,西日本を中心に24都府県の
届出者14,627人のうち認定患者913人の分布は15
都府県にわたるが,10人以上の認定患者を出した
のは,奈良・広島・山口・高知・福岡・長崎・佐賀
の7県に過ぎない10).このうち奈良・山口・佐賀の
3県は患者が比較的少なく県内各地に散在していた
が,福岡以外の他の3県では患者は県内の一部の地
区に集中していた.すなわち,長崎県では長崎市と
五島の二つの町に、広島県と高知県では県庁所在地
などに患者の大半が集中していた.このように初期
に認定患者が集中して発生した県や地域はかなり限
られていた.
しかも,これらの集中地区でも患者の発見・確認
がかなり遅れた場合があり,例えば長崎県五島の玉
之浦町では1968年12月末,島根県では1969年2
月,広島県では1969年4月,五島の奈留町では
1969年5月に,それぞれ大勢の患者がその地域で
は初めて認定されたのであった.
その後,認定患者は次第に増えて近年では合計
1900人近くになったが,上述の傾向はあまり変
わっていない.増えた分の大部分は,広島県と山口
県の各数十人を除いては,福岡県・長崎県のいずれ
かでカネミ油を摂取した者と見られる.他の府県で
は新たな患者が集団的に見つかって認定されること
は(山口県大島を除いては)ほとんどなかった.
このように患者の発症時期と発生地域が限られて
いたことは,汚染されたカネミ油の製造時期が
1968年2月上旬(または前半)に限られていたこ
とと結びつけて説明され,理解されてきた.すなわ
ち,カネミ油へのPCB(とダイオキシン類)の混入は
1968年2月上旬という特定の時期に限られ,その
時期に製造された油が売られた地域は限定されてい
たので,問題の油は認定患者が集中した地域にだけ
主に流通したというわけである.長年カネミ油を食
べて何もなかったという人が多かったので,濃厚に
汚染された油は全体の一部であり,汚染油の流通が
地域によって大きく異なっていたことはあり得る.
しかし,カネミ製米ぬか油ぺのPCB(およびダ
イオキシン類)の混入は1968年2月前半に最も濃
厚な汚染があった可能性が大きいとしても,前後の
時期の汚染の可能性は否定し得ない.PCBを通す
蛇管のピンホールは腐食によって数年間にわたって
徐々に形成されたものであり,1968年2月以外の
時期に常に塞がっていたとは限らず,漏出の可能性
を示唆する記録も報告されている.また,カネミ
庫の杜撰な操業実態は1968年初め以外の時期にも
さまざまな形で現れていた.そもそも汚染の原因に
ついて系統的かつ学問的な調査は行われていないの
であり,1968年2月以外の時期に製造されたカネ
ミ油も時折り汚染されていた可能性は否定しきれな
いであろう11).
この事件が報道され始めて数日以内には,カネミ
製の米ぬか油のうち1968年2月上旬製の油だけが
危険であるという認識が急速に広まり,それ以外の
時期の油は問題ではないとされた.判明した限りで
は2月上旬製の油の販路はかなり限定されていたた
め,多くの府県や地域の衛生行政関係者は,担当地
域に問題の油はほとんど出回っていないので認定患
者がいても汚染されたのはごく一一一・部の油に過ぎな
い,と判断した.こうして,特定の時期の製品だけ
が危険で他の時期の製品は安全という考えが急速に
94

Page 3
浸透していき,行政当局や届け出を受ける保健所職
員および診察に当たった医師たちは,この考えのも
とで事態に対処していったと見られる.
このように,調査に当たった行政当局などは詳し
い原因(病因物質と汚染の経路)が明らかにされる
以前に,汚染油の製造時期は特定の時期に限られて
いると判断し,特定の時期に製造された油とその時
期の油を摂取した患者に関心を集中させてしまっ
た.その意味で,事件発生当初の調査は,患者の被
害とカネミ油の汚染のいずれの面でも,実態を広く
把握するにはきわめて不十分であったと言わざるを
得ない.
1.2.病像と診断基準の偏り
これまで発症時期と汚染油の製造時期に関わる問
題を中心に述べてきたが,油症の被害が実態より狭
く捉えられている理由はそれだけではなく,むしろ
病像に関わる面が大きいと言える.この点に関して
は証言や記録が数多くあり,専門家を含む関係者か
らさまざまな指摘がされているので,ここでは初期
の問題を中心に概略的に述べる12).
この事件の発生直後は,塩素ざ瘡に特徴的な症状
の印象がきわめて強く,当初九大が把握した患者は
典型的な症状を有する者ばかりで,そのデータを基
に診断基準が作られた.典型的な症状を有する患者
も当初から全身倦怠感など多様な症状を訴えていた
が,あまり重視されなかった.以下,診断基準の作
成経過についてやや詳しく触れておく.
1968年10月10日の新聞報道以来約一週間は西
日本各地で連日届け出が相次ぎ,各県の衛生担当部
局や各地の保健所は対策に追われた.届出者が油症
患者であるかを判断する決め手がなく患者発生地区
が広範囲で特定の医師による診断が困難なため患者
の臨床診断の基準を統一する必要があると考えて,
厚生省食品衛生課長は油症研究班に診断基準の作成
を依頼した.これを受けて,九大油症研究班は10
月19日に診断基準を決めて発表した.
この診断基準は九大油症班が油症と診断した55
例をもとに皮膚科の医師がまとめたもので,目やに
の増加・爪の変色・ざ二様皮疹の三画面を「本症を
疑わせる要因となりうる」としたうえで,最も中心
となる皮膚所見としては角化異常はじめ10の症例
を挙げている.主な症状は奇病として報道された典
型的な患者の症状とほぼ一致していた.診断基準と
して症状を列挙する以前に「発病参考状況」とし
て,「1)米ぬか油を使用していること.2)家族発
生が多くの場合認められる.3)発病は本年4月以
降の場合が多い.4)米ぬか油を使用してから発病
までに若干の期間を要するものと思われる.」と記
載された.
診断基準は10月28日に一部改訂されたが,病因
物質が判明する以前に比較的少数例の診察所見をも
とに作られた点では変わりがない.典型的な症状の
患者でも,全身倦怠感,視力減退,はき気,呼吸器
障害,発汗過多,食欲不振,頭痛,集中力減退など
多くの症状があったが,これらは他の病気でも見ら
れるためにあまり注意が向けられなかった.
結局,当初は原因の特定を急ぐことに捕らわれて
多くの可能性が考慮されず,一段落した後も改めて
見直すことはほとんどなかったと言えよう.診断基
準はその後の改訂も含めてこのように限られた範囲
の患者の知見に基づくものであり,それに基づいて
認定作業が行われた.その後,九大病院油症外来で
の継続的な観察や毎年の追跡検診などによって数多
くの知見が追加されたが,なお油症の病像を広く捉
えるのに十分とは言えない.
認定・未認定を問わず油症患者に見られる症状は
実に多様で個人差が大きく,ざ瘡様皮疹・色素沈
着・マイボーム腺過多など特徴的な症状を除く多く
の症状は他の病気と一見共通のものが多い.加え
て,年月の経過とともに特徴的な症状の出現頻度や
程度は減少し,非特徴的な諸症状が相対的に多く
なったが,特定の症状が著しく出現頻度が高いわけ
でもない.したがって,個々の非特徴的な症状は油
症と関連づけて考えられにくくなる.油症患者を多
数診てきた医師は稀であるから,診療する医師の多
くは油症について十分な知識がないまま通常の治療
法で対応しようとする.だが,同じように見えても
一般とは異なる症状の現れ方をすることが多く,概
して治りにくいことが多い.
油症患者の症状は,人によってきわあて多様であ
るとともに,同じ人でも時によって変化の度合いが
大きい.時には本人が油症と関連づけて考えないこ
ともあり,被害者訪問の経験豊富な者が自宅を訪問
して生活歴や日常生活の様子を詳しく聞いていく中
で,あるいは被害者どうしが互いに話し合う中で,
95

Page 4
カネミ油症の被害と人権侵害の広がり
初めて明らかになることが多い.年に一回の追跡検
診や病院への通院状況だけからでは捉えきれない面
も少なくないのである.
油症研究班は2年妬きに『油症研究報告集』を刊
行しているが,そこに掲載される論文の半数以上は
PCB, PCDF等を投与する動物実験の結果を述べた
もので,皮膚科以外の各臨床科の報告は継続的では
なく,継続的な報告の対象は福岡県の患者の一部に
限られていて,毎年行われる追跡検診の結果につい
ては長崎県の報告がたまに見られる程度である.す
なわち,福岡県の患者の一部と長崎県の一時期の状
況以外については,報告がほとんど見当たらないの
である13).
1.3.認定の偏り
診断基準の作成を受けて,厚生省は届け出た者に
対する一斉検診を行うように各県に通達を出し,10
月下旬から各地で一斉検診が行われた.厚生省が認
めたこの検診で確症患者と判定された者だけが油症
患者として認定され,認定患者の家族であっても受
診しなかった者は認められなかった.
検診では,典型的な症状をほぼ揃えた患者が主に
認定され,そうでない患者はあまり認定されなかっ
た.食卓を共にした家族の間でも典型症状が揃わな
い者はなかなか認定されなかった.検診では皮膚科
の医師が中心に診察を行ったため,皮膚や眼など外
見症状が重視され,内科などの全身症状は十分には
顧みられなかった.また,1968年2月前半(特に5日
から10日まで)に製造されたカネミ油を摂取した可
能性が強いと見られる者が多く認定された.2月製
の油が残っている場合は少なく,販売記録が残って
いない場合は認定されにくい傾向があったであろ
う.
実は1968年2月前半製造の油を食べたことがあ
る程度はっきりしていて典型症状を有する者でも認
定されなかった場合が少なくない.各地で行われた
一斉検診は場所も日程も限られていて,仕事や学校
の都合などで受診できなかった者が多かった.福
岡・長崎以外の多くの府県では検診場所は県内に一
ヵ所だけで,遠隔の地に住む者は受診が困難という
事情もあった.その後,年に一回は追跡検診が行わ
れてきたが,事情はほとんど変わらず,検診場所は
さらに限られるようになった.
診断基準の表現は曖昧であり,認定に際してどの
ように適用されたのか明らかではないが,1968年2
月前半製の油の摂取がほぼ確実で複数の典型症状を
有する患者以外は検診を受けても認定されないとい
う例が少なくなかった14).
1.4.散在する被害者
これまで認定に関わる問題を中心に,多くの未認
定患者が存在する可能性について述べてきたが,実
は認定患者の実態も十分には明らかではない15).特
に,各地に散在する被害者については状況があまり
知られていないが,中には深刻な場合も少なくな
い.ここでは,きわめて限られた知識と経験に基づ
いてではあるが,いくつかの県の例を中心に簡単に
触れておく.
山口県は福岡・長崎に次いで届出患者が多く千人
を超えたが,当初の認定患者は徳山市・大島町・美
祢市の3家族11人だけであった.すなわち,1968
年11月18日までに届け出た1178人のうち384人
が一斉検診を受け,精密検診受診者83人のうち11
人が翌年初めまでに確症と認定された.1969年7
月には美祢市の14歳の認定患者Aが自宅近くの路
上で倒れて急逝した.その後4人が認定され,1972
年には当初の届出者などを対象とした一斉検診が実
施され,同年末に23人が追加認定されたことが翌
年5月に発表された.同県の認定患者約40人は大
島町に数家族が集まるほかは,下関・岩国・萩など
に散在していた16).
大島町で新たに認定された女性Bは,老後を夫の
故郷で過ごすために大島に移ってまもなく,夫とと
もにカネミ油を食べた.入院を繰り返して未認定の
まま前年11月に死去した夫の遺骨は褐色になりボ
ロボロの粉となっていた.夫のたび重なる入院のた
め貯えを使い果たして一度は生活保護を受けたが,
周囲の目のあまりの冷たさに生活保護の受給を拒
み,カネミ倉庫との自主交渉によって得た療養費で
何とかやり繰りを続けてきた.自身も,そけいリン
パ腺手術,胃炎・肝炎,全身の関節リューマチ,甲
状腺腫の手術,心筋梗塞の発作で緊急入院,膀胱炎
など入院・発病を繰り返していた.その後,1987
年3月18日に76歳で死去した17).
高知県の初期の認定患者39人の大部分は高知市
に住み,患者の発生は高知市にほぼ限定された.そ
96

Page 5
の後の追加認定のほとんどは既に認定された者の家
族である.1971年秋現在で認定患者は29世帯で35
人と家族集積性が低いが,残る家族にも被害がある
場合が少なくなかった.高知市で米穀店を営んでい
たC夫妻はカネミ油を取り扱って食べたために油症
になり,夫は1968年11月に認定されたが妻は認定
されないままだった.その後,経営がうまくいかな
くなって米穀店を閉め無職であったが,1985年6
月,夫妻は徳島県内の杉林で首つり自殺をしている
のが発見された(享年夫67歳,妻55歳).5月に
行方不明になる直前の知人への話から,将来を悲観
して心中したものとみられた18).
佐賀県では福岡・長崎・山口に次いで多い千人近
い届け出患者があったが,認定された者はごくわず
かであった.すなわち,1969年7月の集計時点で
962人の届け出患者のうち認定されたのは17人だ
けであった.その後は転出入で若干の変動があり,
1970年代後半以降は県内の認定患者数は22人前後
を推移してきた.佐賀県の認定患者は鳥栖・佐賀・
唐津・伊万里・武雄・有田・白石と県内各地に散在
し,各家族に認定患者は1人か2人であった.
佐賀県の行政担当者は県内の認定患者はみな軽症
で大したことはないという認識で(少なくとも
1972年頃までは)一貫していた19).中にはよく
なったという被害者もいたが,実はそうではない場
合も少なくなかった.伊万里市に住む一人暮らしの
女性Dは77歳頃に油症にかかって1971年8月14
日に亡くなり,同市の別の所に住む69歳の男性E
は肝硬変で同年10月9日に死去したが,それらの
死を佐賀県の担当部局が把握したのは翌年2月に
なってからと見られる20).西有田町の男性Fの一
家では8人家族のうちFとその娘Gだけが認定され
たが,Gは1976年9月9日に長崎県の西海橋から
投身自殺した.当初の皮膚症状は数年後に薄れたも
のの,髪が抜けカツラをかぶり,頭痛も頻発するよ
うになった.「黒い赤ちゃん」出産の報道に接する
たびに「結婚しても黒い赤ちゃんが生まれる」と嘆
き一時はノイローゼ状態で入院したこともあった.
佐世保で働いていたが嫁入りのために実家に戻って
まもなく26歳で遺書を残して橋から飛び降り,16
日に発見された21).白石町の農業Hの一家では3世
代の7人家族のうちHと娘だけが認定された.Hは
典型的な皮膚症状を有しており,九大の医師の指示
で県医師会館に行き150人の医師に裸体をさらした
こともあった.年々体がきつくなって乳牛を手放し
ながらもなんとか農業を続けていたが,1979年12
月2日,48歳で急死した22).
1.5.偏りと広がりの背景
以上のような油症被害の実態把握における偏りと
被害の広がりはどのような背景から引き起こされた
のか,考えられる問題点をいくつか挙げてみたい23).
第一に,事件発覚以前の九州大学医学部付属病院
の対応に問題があったと言わざるを得ない.九大病
院皮膚科は8月前半に数家族,8月末頃には5家族
(18人)がほぼ共通の症状があり,5家族すべてカ
ネミ製米ぬか油を用いたことを把握しておきなが
ら,食中毒に対する適切な手続きを怠った.たとえ
ば,9月7日には日本皮膚科学会大分地方会で,九
大皮膚科の医師が,「来診した5家族がすべて同じ
「米糠製食用油」を使用したことが「家庭的な共通
要因としてあげられる点をのべ,疫学的事象がさら
に明らかにされる必要があり,類似疾患を追加され
ることを期待した」と発表している.食中毒として
の届け出を行わず,自ら積極的に調査することもせ
ず,ただ漫然と「類似疾患の追加」を期待したこと
によって,事件が発覚するまでカネミ油を食べ続け
た多くの患者の症状が悪化し被害が深刻化したと考
えられる24).
第二に,事件発覚後の行政当局などの被害の実態
把握に関する対応に問題があった.行政当局は汚染
の可能性があるカネミ油を摂取して健康に異常があ
る者をできるだけ広く探そうとはせず,届け出た者
にだけ対応するという「待ちの姿勢」を貫いたと言
えよう.申請しない者は異常がないとみなす,この
ような本人申請主義では食中毒被害の実態に迫るこ
とはできない.前述のように検診の回数や場所がき
わめて限られていたうえ,受診した者に対しても
(かなり早い時期から)油の購入時期・発症時期お
よび症状がかなり限定されているという予断をもっ
て対処したと見られる.検診に当たる医師たちは被
害の実態を十分に把握しないまま,実態究明の努力
を傾けるよりも診断基準に安易によりかかり,むし
ろ患者の不安を鎮めようとする傾向が強かったと思
われる.
第三に,仮に当初は混乱の中での対応がある程度
97

Page 6
カネミ油症の被害と人権侵害の広がり
やむを得なかったとしても,その後の追跡・検証が
きわめて不十分であったことが挙げられる.当初の
診断基準を暫定的なものとして扱い,その後の二三
の増加に連れて診断基準を柔軟に変更していくので
あればまだしも,実際には診断基準に合わない患者
を排除して診断基準に合う患者だけを抜き出して病
像を構成していった.
第四に,行政当局の被害の実情把握や被害者に対
する対策は県や地域によって大きく異なっていた.
九州大学油症研究班は専ら福岡県内の認定患者だけ
を対象に診療記録を積み重ねた25).しかも九大病
油症外来に受診に来る患者か年に一度の追跡検診
を受ける患者だけを診ていた.長崎においても長崎
大学医学部などにより油症研究班が組織され,1984
年以降は全国油症治療研究班に統合されたが,大半
が皮膚科の医師であった.油症研究報告集における
臨床報告の大半は福岡県の患者に関するものであ
り,たまに現れる長崎県の患者に関する報告は皮膚
科に限られていた.五島を中心に数百人の認定患者
を出した長崎県では毎年の追跡検診の受診者も相当
数に上るが,皮膚科以外の臨床症状の報告はほとん
ど見当たらない.また,福岡・長崎以外の府県の患
者についての報告もまったくと言ってよいほど見当
たらないのである.行政当局の対応も府県によって
大きな違いがあった.被害者がかなり多数存在し,
被害者や支援団体等の運動がかなり活発であった福
岡・長崎両県では行政はそれなりの対応をせざるを
得ず,ある程度の運動があった山口・広島などの県
でも行政はある程度は対応した26)。
この事件に対応した行政当局や九大油症研究班な
どの関係者は,総じて未知の事態に対する構えが不
十分であったと言わざるを得ない.カネミ油症事件
は(多くの者には)未知の化学物質PCBおよびダ
イオキシン類によって起こった大規模で深刻な食中
毒事件であり,いわば人類にとって未経験の事態で
あった.未知で未経験だから新たな方法でなければ
対処し得ないというものではない.むしろその時点
における科学的知見と食品衛生行政の経験を総動員
すれば,完全にとは言えないまでも相当程度まで対
応し得たであろう.しかし,当時の関係者の動きを
総体としてみると,事件を軽く見て,被害の実態や
事故原因を広く深く追求するよりは社会不安を静め
ることを優先させた傾向が強いのである.その後の
対策の遅れ(というより無策)も手伝って,今日に
まで問題を残したのである.
2.人権侵害の広がり
油症に関わる人権侵害には多様な側面があり,人
権侵害の背景にはこの事件に関係した組織や個人の
さまざまな動きだけではなく,組織の体質や問題な
ど社会の構造的な問題も背後にあるのではないかと
考えられる.ここでは,通常は人権侵害とは結びつ
けて考えにくい問題のいくつかについても触れてみ
たい.
2.1.多様な実態
人権侵害の多様な側面について述べる前に,油症
の被害の実態がきわあて多様であることに触れてお
く.これまで油症の被害の広がりを示すために深刻
な例が少なくないことを中心に述べてきたが,実は
被害者すべてが同じように重症で深刻であるわけで
はない.さまざまな内臓疾患により入退院を繰り返
した者が多く中には若くして死に至った例もある一
方,あまり症状は現れず人並みに学業や仕事を行う
者も少なくない.人並みと言ってもさまざまで,運
動部で活躍した者もあれば,きつい体を無理して何
とか人並みに通学する者もいたりではあるが.
そもそもカネミ米ぬか油はごくありふれた日用の
食品として西日本一帯に出回っていたのであるか
ら,購買者・摂食者は社会のさまざまな階層に及ん
でいる.すなわち,金持ちも貧乏人もいて,都会に
住む者も農漁村に住む者もいて,健康な者も持病が
ある者もいて,乳幼児も老人もいるのである.同じ
家族であっても油の摂取量はかなり異なり,たとえ
ば外出がちな夫や老人は少なく食べ盛りの青少年は
多いという傾向があった.加えて,カネミ油は一様
に同程度に汚染されていたとは言えない.通説は汚
染はごく一時期でほぼ同程度(または一定濃度以
上)と見なしているようだが,それには確たる根拠
はない.結局,カネミ油を通して摂取した毒物の量
は人によってさまざまであったと言うしかない.さ
らに,それまでの健康状態や体質や生活習慣や仕事
(や学業)の忙しさなどが人によって異なるのであ
るから,症状の現れ方も多種多様となるのは当然で
あろう.しかも,同じ人でも時によって(年齢や季
98

Page 7
節や天候や一日の時間帯などの違いに応じて)症状
の現れ方が異なる場合が少なくないのである.
2.2.偏見・差別と油症のイメージ形成
油症に関わる人権侵害としてさまざまな場面が考
えられる.たとえば,病気が長く続くと仕事や学業
を続けられなくなって仕事を失ったり進学できなく
なったり,治療費がかさんで生計が困難になった
り,病気の先行きの見通しが立たないため著しい不
安に陥ったり,など.このように病気そのものに関
わる人権侵害の例は証言や記録が数多くあるので,
ここではあまり触れない27).
しかし,油症に関わる人権侵害はこのように直接
的に病気に関連して起こるものだけではない.人権
侵害の多くは油症に対する偏見と被害者に対する差
別に関連すると考えられる.初期には特異な皮膚症
状が伝染すると思われたり梅毒と間違われたことも
あった.油症の女性が妊娠すれば必ず黒い赤ちゃん
が生まれる,などその後もこの病に対する偏見は後
を絶たない.差別の多くは偏見に関連して起こっ
た.差別で最も代表的なのは就職と結婚に関するも
のであろう.油症のために就職できなかったり,職
を失ったり,婚約していて破談になったり,結婚相
手が見つからなかったり,といった話は各地で数多
く聞かれ,記録や報告も限りないほどであるが,こ
こでは個別の例に立ち入ることはしない28).
ここではむしろ,このような偏見や差別が生じた
理由や背景について考えてみたい.むろん,当初の
見込みに反してこの病が容易ならぬものであった,
すなわち広範で深刻な症状を有し効果的な治療法が
見つからないものであったことが大きな要因として
考えられよう.だが,それだけではあるまい.
油症に特有の現象として,少なくとも次の二つの
点が世間一般における油症のイメージの形成に大き
く寄与し,それが油症に関する偏見や差別を増幅さ
せる要因になったのではないか,と考える.それは
一つは独特の皮膚症状であり,一つは黒い赤ちゃん
である29).
独特の皮膚症状は職業病にも見られる塩素ざ瘡
(クロルアクネ)とほぼ同じであり油症の典型的症
状として診断基準の中核をなしていた.この症状に
よって他の疾病との区別が容易になったが,半面こ
の症状をもたない者を患者と認めない結果にもつな
がつた.何よりもテレビや新聞などによって典型的
な皮膚症状の映像が繰り返し報道されたことが,世
間一般のみならず検診に当たる医師など関係者のイ
メージ形成に大きく寄与したことであろう.
だがしかし,油症患者のすべてが典型的な皮膚症
状を有していたわけではない.診断基準が典型症状
に偏していたために認定患者に典型症状をもつ者が
多いが,典型症状がさほどではない認定患者も少な
くなく,中にはかえって重症である場合もある.絶
え間なく出る吹き出物や分泌物は典型的な皮膚症状
の証ではあるが,他方それらを通して徐々に毒物が
排泄されることにもなる.皮膚症状が典型的でない
場合は皮膚からの毒の排泄があまり働かないとも言
える.前述のように油症患者の症状はきわめて多様
であるから,専ら典型的な皮膚症状を中心にした油
症患者の理解は実態とかけ離れてくるのである.
黒い赤ちゃんに関する報道は,1968年10月過旬
北九州市で油症患者が黒い赤ちゃんを死産したと報
じられて始まった.以降,断続的にではあるが黒い
赤ちゃんが見つかったり生まれたりするたびに大き
く報道され,油症の女性が妊娠すると必ず黒い赤ちゃ
んが生まれるというイメージが世間一般だけでなく
被害者自身にも広がって定着していった30).女性患
者の結婚や出産に関する差別の多くは黒い赤ちゃん
に対する恐怖と無縁では'なかったと考えられよう.
実際,死産に至らなくても流産した女性患者も少な
くなかったのであるから,油症の女性の出産に対す
る懸念はあながち杞憂とは言えないであろう.
しかしながら,油症の女性が出産した子がすべて
黒い赤ちゃんであったわけではない.出生児の皮膚
の色は一般の場合と変わらず,その後の経過も順調
な例も多い.黒い赤ちゃんとして生まれてもその後
の生育は普通の子と大差ない場合も少なくない.前
述のように油症の女性についても毒物の摂取量は
個々に異なり症状はきわめて多様であるから,妊娠
して生まれてくる子供の状況もきわめて多様であっ
て当然であろう.むろん黒い赤ちゃんの中には発育
が遅かったり喘息気味だったりする例もかなりあ
り,未成年のまま死亡した例もあるので,状況に応
じて経過観察と健康管理が必要であろう.しかし,
全般的に見れば,油症の女性から生まれた子の状況
は健康な例から深刻な例までさまざまな段階があ
り,一概には言えないのである.したがって,油症
99

Page 8
カネミ油症の被害と人権侵害の広がり
女性から生まれた子はすべて黒い赤ちゃんという理
解は実態とかけ離れていると言わざるを得ない31).
2.3.調査の欠如と記録の破棄
それでは,独特の皮膚症状や黒い赤ちゃんについ
ての世間一般のイメージ形成の背後には,どのよう
な事情があったのであろうか.
確かに,吹き出物一面の背中の写真などの衝撃的
な映像と「黒い赤ちゃん」という短い言葉がテレビや
新聞で繰り返し報道されたことによって油症のイメ
ージが形成されていった面が大きかったであろう.
しかし,映像や短い語によって一面的なイメージが
形成されたのは,油症被害の多様な実態が十分に知
られなかったからでもあると考えられる32),このよ
うな一面的な報道は当時の報道機関だけの問題では
なく,むしろ行政当局が被害の実態を十分には把握
せず,またある程度把握した実態も十分には知らせ
ていなかったことによる面が大きいのではないか.
行政当局が被害の実態を十分に把握し得なかった
のは,言い換えれば調査が欠如または不十分であっ
たことを意味する.なるほど,この事件の発覚後,
厚生省などの行政当局は油症研究班を組織するなど
して,事故の原因究明と被害の実態把握についての
調査に取り組み始あ,ある程度の成果を得た.だ
が,その調査が方法と規模と徹底性において十分で
あったかどうかが問題であり,既に見たように,時
期・地域・病像・原因などさまざまな面で不十分・
不徹底であったと言わざるを得ないのである.
しかも問題は当時の調査が不十分であった点だけ
にあるのではない.不十分なものであっても当初の
調査で得られた資料や記録は貴重であり,その後の
追跡の手がかりになり得るものである.その後の調
査の資料や記録も同様である.しかし,この事件で
は,資料や記録の管理・保存が全体としてはきわめ
て不十分であったと言わざるを得ない.事故原因に
ついても被害の実態についてもまともな報告書が存
在しない(少なくとも公表されていない)のであ
り,当時の届出者名簿や届出時の問診票やカネミ
の収去状況など,基本的なデータが保管されている
のかどうかも明らかではない.保管の問題は当初の
資料や記録だけに限られるものではない.その後今
日に至るまで,さまざまな組織・特に公的機関がこ
の事件に関わって集め作成した資料や記録について
も,どれくらい保管されているかが問題であろう.
記録に関して,なかでも重要なのは次の三つの種
類の記録であろう.すなわち,行政当局のこの事件
に関する関連書類,病院・医院のカルテ,裁判記録
(すべての証拠を含む)である.通常の型通りの扱
いをされた場合,これらはいずれも一定の年限の保
存期間の後に廃棄されてしまう可能性があり,ある
いは既に廃棄されたかもしれない.これらの記録が
散逸・廃棄されたりして十分に残らず,あるいは必
要に応じて(むろん個人情報の保護には配慮しっ
っ)慎重かっ十分に利用されることが困難な状況
は,被害者の人権回復に支障をもたらすことになり
かねない.
2.4.人権侵害の背景
油症に関する人権侵害は多種多様な面があるの
で,その要因や背景もさまざまな面が考えられる
が,ここではそのうちのある側面に焦点を当てたに
過ぎない.すなわち,偏見や差別の一要因として油
症に関する誤った(偏った)イメージの形成があ
り,その背景として被害実態の調査の欠如または不
足と記録の破棄または不適切な保管が考えられると
いうことである.
もとより調査の欠如や記録の破棄が直接的に人権
侵害に結びつくとは限らないが,これらは人権侵害
を引き起こす現代社会の構造的な欠陥の一環として
考えられるのではないだろうか.すなわち,被害の
実態(と事故の原因)を十分に把握して追跡してい
くことは,関係の資料や記録を保存することととも
に,被害者の人権を擁護または回復していくための
一つの基盤を提供するものと考えられる.
3.結び
以上,カネミ油症の被害は通常考えられるよりも
広く,油症の被害に関わる人権侵害は通常考えられ
る以外の面を含むことを述べてきた.両者に共通の
背景として,調査の欠如または不足と記録の破棄ま
たは不適切な保管が考えられる.すなわち,被害の
多様な実態を十分に把握せず記録を残さないこと
が,油症の被害を実態より狭く捉え人権侵害をもた
らす要因または背景となるのである.
カネミ油症被害者の人権回復をはかるに際して,
100

Page 9
,当面緊急を要する認定被害者の治療費や生活上の問
題や仮払金問題から対策が考えられるのは当然であ
るが,より広範な被害者の存在を無視せずにむしろ
視野に入れていくような対策が講じられるべきであ
ろう.
記録保存の問題に関しては,この事件に職務とし
て関与した組織が関係の資料や記録を十分に残さ
ず,むしろ一定の年月を経て廃棄する傾向にあるこ
とは,被害の実態把握と対策の面でも人権の擁護と
回復の見地からも問題が大きいと言わざるを得な
い.油症事件は人類にとって未経験の事態であり,
その毒物による影響は長期に及び,かなり年月を経
てからの新たな発見もあり得る.したがって,この
事件の被害者の健康管理のためにも,また事件を検
証して同種の事件の再発防止と対策に役立てるため
にも,この事件に関する資料や記録は可能な限り半
永久的に保存し,適切に(個人情報に十分に配慮し
つつ)利用していくことが望ましいのである33).
1)本稿はカネミ油症被害者の人権救済申立に関して被
害者たちの申立書や意見書などを補うものとして計
画された.特に,原田正純・津田敏秀およびカネミ
油症被害者支援センター(YSC)の各意見書を参照
しっっ,そこには書かれていない面を中心に述べよ
うとするものである.本稿の記述は部分的に拙稿
[15][16]と重複しており,その場合は注や文献を省
略することもある.なお,本稿では敬称はすべて省
略した.
[追記]
本論文は,カネミ油症被害者たちの人権救済申立
に際し,日本弁護士会連合会(以下,日弁連)に提
出した著者の意見書「油症の被害と人権侵害の広が
り カネミ油症の人権侵害に関する意見書」
(2005年10月6日)をもとにしている.
2004年4月以降,カネミ油症の被害者519人が相
次いで人権救済を申し立てていたのに対し,日弁連
は人権擁護委員会の担当者が現地での聞き取りを含
む審議を行ったすえ,2006年4月17日,国とカネ
ミ倉庫に対して勧告書,カネカ(旧鐘淵化学)に対
して要望書を,それぞれ提出した.この勧告・要望
の理由を詳細に記した「カネミ油症人権救済申立事
件調査報告書」(2006年4月15日,日本弁護士連合
会人権擁護委員会)の中の「認定にあたって参考に
した主な文献・資料」30数点のうちに([16]ととも
に)著者の意見書も含まれている.
本論文では,提出した意見書の本文は誤記や二番
101
号の付け誤りなどごく一部の訂正を除いてほぼその
まま収録し,注において[15][16]との重複のため省
略した部分を補うなど大幅に加筆した.その際,追
記した部分の冒頭に[追記]と記すことによって元
の意見書との区別を明示した.
上記の原田正純・津田敏秀およびカネミ油症被害
者支援センター(YSC)の各意見書は,保田行雄弁
護士の「カネミ油症事件に対する人権救済申立書」
およびYSCの取り組みや被害調査の報告などとと
もに,[24]に収録されている.また,原田正純の意
見書は手を加えて[22]として発表された.
2)[追記]
カネミ油症事件の経過と問題点の概要について
は,本論文末尾の概略年表のほか[17]所収の[30]や
同書巻末の「略年表」を参照.同書の「主要文献目
録」には主な単行書や主な判決の一覧が記載されて
いる.主な単行書には,刊行順に[2][6][7][4][11]
[21][28コ[20][17][31][1][9][12][24]などがある.
なお,上記[17]所収「略年表」で「1996.3 国が
各地の裁判所に仮執行金の返還を求める調停を申し
立て.」とあるが,仮払金返還問題が表面化したのは
同年6月であって3月に調停の申し立てばあり得ず,
この記載は(おそらく翌年春と混同した)錯誤によ
る誤記であり,削除すべきであった.[9,pp272,339]
にも同様の記載があるが,誤りであろう.[9]は労作
であるが,事実関係などで誤りが少なくないので利
用には注意を要する.
3)[追記]以下の通説の内容は[31][37]などに基づく.
4)通説への疑問をやや詳しく扱ったものとして拙稿
[16]を参照.ここでは一部の点について新たに触れ
る以外は概要を示す.なお,この問題は以前から時
折り指摘されており,筆者もストックホルム国連人
間環境会議への報告[13]で論じ,自主講座で報告し
た[8,pp5-11]ことがあり,[14]でも論じた.
[追記]上で「概要を示す」と書いたが,本文の叙述は
[16]の単なる要約や抜粋に留まらず,構成も異なる.
たとえば,患者の発見・確認がかなり遅れた場合や
その後に増えた分については新たに記述した.な
お,2004年9月に診断基準に血液中PCDF値の項目
が追補されたが,本稿の論述内容には影響しない.
5)[追記]『朝日新聞』1972年3月3日および[34].
6)[追記]『毎日新聞』1973年10月12日.
7)[追記]『毎日新聞』1973年10月23日.
8)[追記]早期の発症例について,矢野トヨコの場合
は,自身の著作[20,pp17-21,31-38],彼女への聞き
取りをもとにその半生を描いた[12,、pp105-109],川
本輝夫との対談[36,pp6-12]を参照.北九州の他の患
者については,[18,pp109-115][35, pp26-27][20,
p83][12, pp108,172-173]等に記載がある.1967年
以前の発症例について,筆者は1971年から数年の間

Page 10
カネミ油症の被害と人権侵害の広がり
に,飯塚,北九州,姫路,岩国などで何度か同様の
話を聞き,[8][13][14]などで報告し論じた.
9)[追記]『朝日新聞』1980年1月21日夕刊の記事に
基づく.[30,p66]の「9月製」は誤記である.
10)[追記]
厚生省の集計は[33]掲載の表に基づく.同じ表は
厚生省環境衛生局食品衛生課編『昭和43年全国食中
毒事件録』(刊行は1972年6月以降)にも掲載され
た.1969年7月の時点では,認定患者900人余は届
出者総数1万4千人余の一割にも満たない.現在ま
での認定患者総数約1900人のうち,この頃までに届
け出ず後に認定された者も少なくない.最近でも初
めて検診を受ける者が後を絶たない.したがって,
最近よく見かける「被害を届け出た者のうち約13%
しか認定されない」などの表現([9,pp12,21,208,
289,346][24,pp20,23,41]など)は不正確である.
最も新しく刊行された[24]の「第1章 カネミ油
症事件とはどんな事件か」は,ほかにも誤りや不正
確な表現が目に付くので注意を要する.たとえば,
同書20∼21頁で,「全国油症研究班」が1968年10
月18日に発足した,としてその構成や役割について
述べているが,九大中心の油症治療研究班が「全国
油症治療研究班」に統合されたのは1984年以降のこ
とである([31,pp16-19,326-327]).その構成や発
足の経緯および診断基準についての説明も不正確で
ある.また,同書12頁には脱臭法をカネミ倉庫が開
発したとあるが,脱臭装置を設計したのは山形県の
三和油脂である.カネミ倉庫は当初の設計の範囲を
超えて独自の無理な改造を加えてPCBの過熱を引
き起こし腐食環境を促進させたとみられる([15]).
さらに,同書28頁に,1996年6月に国が各地の裁判
所に「仮払金返還を求める調停」を申し立てた,と
あるが,注2で触れたように,この頃に問題が表面
化して協議を始めたばかりであり,調停の申し立て
は後のことであった.
11)ピンホール説も工作ミス説も主として裁判上の主張
と判断であって,学問的な検証を十分に経たもので
はない.
[追記]混入経路については,工作ミス説の問題点を指
摘した加藤邦興の一連の論文([25][26][27])以外
には,この(混入)事故の原因についての詳細な学
問的検討は見当たらない.だが,その後に刊行された
[31][9][24]は,被告の鐘淵化学工業や加藤八千代
([28][29]など)が唱えた工作ミス説について,問題
点を十分には検証せずに,そのまま受け入れてい
る.[32]は限られた二次資料だけに基づいて事故調
査の問題点を論じている。なお,カネミ倉庫は以前
から杜撰な操業を行っていて常時かなりの量のPCB
を補給していた.
12)この点については,今回の人権救済申立に限っても
原田正純・津田敏秀およびカネミ油症支援センター
の各意見書および申立人たちの申立書等において,
さまざまな観点から具体的かっ詳細に触れられてい
るので,ここでは簡単に触れるに留ある.
13)[追記]『油症研究報告集』は1969年6月以来『福
岡医学雑誌』の特集号として刊行されている.2年
おきになったのは1977年の第6集以降である.最近
は動物実験の報告の論文は少なくなってきた.
14)『西日本新聞』1972年6月29日の特集記事「油症
患者置きざりの佐賀県」の中に,次のような一節が
ある(一部略記).(佐賀県の)「どの患者に聞いても
『あのころは私のほかにも近所で5,6人はおかしい
という人がいた』と証言する.(略)唐津市のある患
者は『あのとき何十人と検診に来たが,医者は”吹
き出物は全身にできるはず.このくらいは油症じゃ
ないetと顔だけの人などは簡単に帰されていた』と
証言する.」
[追記]福岡県や長崎県などでも同様の証言は数多く,
次の注15[追記]の諸文献を参照.
15)各地の被害者の状況および関連文献については拙稿
[16]を参照.
[追記]
[16]では認定患者が10人以上発生した7県(福
岡・長崎・広島・山口・高知・佐賀・奈良)の概況
を述べている.
地域(や時期)ごとの主な文献については,初期
の運動および福岡県の状況については[2][3][5][7]
[10][11][20]および[23],五島については[4][6]お
よび[2][3],広島・高知・佐賀については[2][3],最
近の状況については[1][9][17][24]が,それぞれ基
本的であろう.福岡県と長崎県(五島)の状況につい
ては文献も少なくないので,ここでは山口・高知・佐
賀の3県について具体的な例を中心に述べた.
16)[追記]山口大学の中間報告「山口県の米ぬか油中
毒に関する調査研究報告」(1968年12月)やカネミ
油症下関連絡会『油症山口No.2』(1978年2月5
日)などに基づく.
17)主に「ひとりの油症患者とともに」(藍沢)(カネミ
油症下関連絡会『油症山口』,1977年11月13日)
による.この頃の療養費は月35,000円.死去につい
ては,1987年3月20日『朝日新聞』,同日『毎日新
聞』(夕刊)および同21日『読売新聞』.なお,この
女性Bに焦点を当てたKRY山口放送制作のドキュ
メンダリー番組「生きて生きて19年∼カネミ油症事
件」は,1987年に日本民間放送連盟賞,「地方の時
代賞」映像コンクール特別賞,第3回世界テレビ映
二等海外審査員賞を相次いで受賞した.
[追記]Bの夫は1971年11月に死去しており,藍沢らが
Bに初めて接触する前年のことであった.
18)この夫妻の初期の状況については[2,pp235-240]に
102

Page 11
報告がある.妻は長崎の原爆被爆者であった.死去
については『朝日新聞』1985年6月11日夕刊.
19)1971年10月,佐賀県庁を訪ねた筆者に担当者はそ
のように説明した.先にも触れた『西日本新聞』
1972年6月29日の記事には,佐賀県環境生活課の
担当者が次のように語ったとある:「うちは患者ら
しい患者はいない.認定患者はいずれもT'油症”と確
定できない軽い症状.検診でも5,6人しか集まら
ず,問題はない」.
20)1972年頃までの佐賀県の被害者の状況については,
深田俊祐「続・人間腐蝕」(4)(5)「はがくれの里を
行く(1)(2)」(『地域闘争』1972.2,3)および前出
の『西日本新聞』1972年6月29日の記事に詳しい.
1974年春から夏にかけて岡田道仁と筆者はこの連載
などを手がかりに佐賀県内の全被害者を訪ねて二半
数の被害者に面会した.この訪問を契機にして同年
8月19日,武雄市で佐賀県カネミ油症被害者の会が
発足した(福岡市民会議代表金田弘司らが同席).岡
田は山口県大島の女性Bと佐賀県の患者数人を中心
にした映画「生木の立ち枯れていくごたる」を同年
秋に制作・発表した.
[追記]上記の被害者は認定患者のことである.この映
画は製作後まもない1974年11月に下関市立大学の
大学祭で(映画「遺民」とともに)上映された.
21)『毎日新聞』1976年12月3日夕刊および深田俊祐
「続・人間腐蝕」(57)(58)(『地域闘争』1977.1,2)
参照.
22)白石町のHについては,注20と注21の諸文献の
ほか,深田俊祐の連載「続・人間腐蝕」(『地域闘
争』)のうち,69(1978.2),78(1978.12),83(1979.5),
92(1980.2),93(1980.3),94(1980.4)の各回(各号)
および深田俊祐「あるカネミ油症患者の死」(『朝日
新聞』1979年12月19日夕刊)を参照.
23)取りあえず考えられる問題点をいくつか挙げるに過
ぎず,他にも偏りや広がりを引き起こす要因があり
得る.たとえば,被害の拡大や深刻化の防止という
点ではダーク油事件に対する関係企業および関係当
局の不適切な対応が重大な要因と考えられるが,こ
こでは触れない.ダーク油事件の経過と問題点の概
略に関しては,拙稿[15]を参照.
24)初期の九大の医師達の対応および関連文献について
は拙稿[15]を参照.
25)油症研究班員が他府県の患者を調査に行く場合も
あったが,一時的・例外的なものであった.
26)例えば見舞金や世帯更正資金の貸し付けでいち早く
取り組んだ自治体もあった.しかし,これらの県,
・例えば福岡・長崎においても行政の対策は被害の実
情に十分応えうるものではなかった.総じて運動が
退潮になるとともに行政の対応も衰退していった.
27)油症被害や人権侵害に関わる実例の報告としては
103
[1][2][3][4][5][6][9][11][12][17][18][19]など
を,被害者自らの記録としては[7][10][20]などを参
照.油症に関わる裁判(民事・刑事)の記録の中に
も証言等が数多くあるはずである.これらはそれぞ
れ貴重な記録ではあるが,ある時期の特定の(地域
の)被害者を対象としており,油症被害者全体の状
況を捉えるのに十分とは言えない.
[追記]上記のほか,[35][36]および[23][24]も参照.
28)結婚や就職など先行きの見通しに絶望して自殺した
若者の例も少なくなく,西海橋から飛び込んだGは
その一例であろう.
29)[追記]
この二つに共通するものに「黒」のイメージがあ
る.独特の皮膚症状も黒い赤ちゃんのどちらも,実
際には皮膚の色が真っ黒というわけではなく,黒褐
色か黒ずんだ色と呼べる程度であるが,普通の状態
との比較で「黒い」「真っ黒」などと表現された.
カネミ油症を扱った作品で題名に「黒」またはそ
の類義語を含むものに,佐々木博子「黒のレポー
ト⊥加賀節「海辺の黒い家」,波佐間義之「黒いゴ
ンドラ」,明石昇二郎「黒い赤ちゃん」,長山淳哉
「コーラベイビー」などがある.これらは世間のイ
メージの反映であるとともに,それに配慮した作者
や出版社の意識の現れでもあるのではないか.
30)[追記]そのたびに報道されたという本文の記述は
やや大げさで,実際には報道されない場合もあった
が,黒い赤ちゃんのイメージと結びついた結婚や妊
娠・出産への恐怖は早くから浸透していたと考えら
れる.
31)[追記]黒い赤ちゃん(胎児性油症)にかかわる問
題については[23]でも簡単に触れている.そもそも
黒い赤ちゃんに限らず油症の女性から生まれた子供
について,包括的な調査はほとんどなく,全体とし
ての実態は不明なまま今日に至っている.
32) [追記]カネミ油症を扱う作品の中には,既成のイ
メージに寄りかかり多様な被害の実態を覆い隠すよ
うな題名を付けるものもある.最近の例では『コー
ラベイビー』([12])がその典型であろう.矢野トヨ
コの半生を描いた同書の内容はコーラベイビー(黒
い赤ちゃん)とはほとんど関わりがない.内容と離
れても売れる題名を付けようとする商業主義に毒さ
れたと言われかねないであろう.偏ったイメージ形
成は今日の問題でもある.
33)本件人権救済申立の審理の全記録も適切に保管され
るべきであろう.
[追記]記録や資料の保存の問題に関しては[15]および
[32]でも論じられている.[16]の付記で触れた共同
研究は,記録や資料の保存も含む計画として,ある
プロジェクトの公募に応募して最終候補に残ったも
のの,採択には至らなかった.

Page 12
カネミ油症の被害と人権侵害の広がり
文献
[1] 明石昇二郎,黒い赤ちゃん一カネミ油症34年の
空白,講談社,2002.9.
[2] 深田俊祐,人間腐蝕 カネミライスオイルの追
跡,新報新書,社会新報,1970.6.
[3] 深田俊祐,続・人間腐蝕(1)一(112),地域闘争,
2(9)一12(12), 1971.9-1981.12.
[4] 林えいだい,鳴咽する海一PCB人体実験,亜紀
書房,1974.1.
[5] 波佐間義之編,これが油症だ,カネミライスオイ
ル被害者を守る会,1969.11.
[6]加賀節,PCB汚染の恐怖一カネミ油症の島から
のレポート,果林企画,1972.5.
[7] 紙野柳蔵,怨怒の民 カネミ油症患者の記録,
教文館,1973。7.
[8]紙野柳蔵・紙野トシエ,座り込み闘争に生きる,
「公害原論」講義録・第6学期(カネミ油症シリー
ズ)1973年5月28日,1973.
[9] 川名英之,検証・カネミ油症事件,緑風出版,
2eO5.1.
[10] 北九州カネミライスオイル被害者の会編・発行,
油症 患者は訴える,1969.12.
[11] 河野裕昭,河野裕昭写真報告 カネミ油症,西
日本新聞社,1976.4.
[12]長山淳哉,コーラベイビー一ある油症患者の半
生,西日本新聞社,2005.4.
[13] 西川和子・加賀節・会津守,カネミ油症(人間環
境に関する国連総会へのレポート草案下),自主講
座,14,18-23,1972.5.(英文)K.Nishikawa, T.
Kaga and M. Shimoda, Kanemi Yusho (Kanemi
Rice Oil Disease), in: Polluted Japan, ed. Jun Ui,
Jishu-Koza, Tokyo, 21-24, 1972.
[14]下田守,限定された油症像,止めよう!ダイオキ
シン汚染関東ネットワーク編・発行『今なぜカネミ
油症か 日本最大のダイオキシン被害』,159-165,
2000.6.
[15]下田守,カネミ油症と予防原則,環境ホルモン
文明・社会・生命,Vol.3(特集・予防原則一生命
・環境保護の新しい思想),藤原書店,63-70,2003.4.
[16]下田守,カネミ油症の通説への疑問,科学技術社
会論研究,第2号(知の責任),玉川大学出版部,
9-22, 2003.10.
[17] 止あよう!ダイオキシン汚染関東ネットワーク
編・発行,今なぜカネミ油症か 日本最大のダイ
オキシン被害,2000.6.
[18] 宇井純,公害自主講座運動 公害原論補巻皿,
亜紀書房,1974.9.
[19] 宇井純編,公害自主講座15年,亜紀書房,
1991.11.
[20] 矢野トヨコ,カネミが地獄を連れてきた,葦書
房,1987.11.
[以下,追加分]
[21] 藤原邦達,食品公害の脅威一油症事件からの証
言,合同出版,1981.12.
[22] 原田正純・浦崎貞子・蒲池近江・荒木千史・上村
早百合・藤野糺・下津浦明・津田敏秀,カネミ油症
事件の現況と人権,社会関係研究(熊本学園大学),
11(1/2), 1-50, 2006.2.
[23] 岩森道子・下田守,カネミ油症事件にかかわった
女性たち,北九州市女性史編纂実行委員会編『北九
州市女性の100年史 おんなの北九州』ドメス出版,
405-416, 2005.12.
[24] カネミ油症被害者支援センター(YSC)編著,カ
ネミ油症 過去・現在・未来,緑風出版,2006.4.
[25] 加藤邦興,油症原因事故としての「工作ミス」
説:1.樋ロシナリオを中心として,経営研究(大阪
市立大学),37(4),1-16,1986.11.
[26] 加藤邦興,油症原因事故としての「工作ミス」
説:2.汚染食用油の量とPCB濃度,経営研究(大
阪市立大学),37(5/6),33-50,1987.1.
[27] 加藤邦興,油症原因事故としての「工作ミス」
説:完.事故調査の方法をめぐって,経営研究(大
阪市立大学),38(3),19-36,1987.3.
[28] 加藤八千代,隠された事実からのメッセージ
カネミダーク油・油症事件 裁判と科学ノート,幸
書房,1985.3.
[29] 加藤八千代,カネミ油症裁判の決着 「隠され
た事実からのメッセージ」増補版,幸書房,1989.3.
[30] 川名英之・下田守,カネミ油症事件とは,[17],
49-77, 2000.6.
[31] 小栗一太・赤峰昭文・古江増隆編,油症研究
30年の歩み,九州大学出版会,2000.6.
[32] 中島貴子,カネミ油症事件の社会技術的再検討
事故調査の問題点を中心に,社会技術研究論文
集, 1, 25-37, 2003.10.
[33] 杉山太守,ライスオイル中毒事件(1),食品衛生
研究,19(8),783-797,1969。8。
[34] 梅田玄勝,カネミ油症未認定被害者に関する若干
の問題:飯塚地区検診成績と診断意見書を中心に,
民医連医療,18,49-55,1971.
[35] 矢野トヨコ・土肥シズエ・川本輝夫,東大は公害
で何をしたか」(公害原論第7学期一6),公開自主講座
「公害原論」実行委員会,亜紀書房,1974.5.
[36]矢野トヨコ・川本輝夫,認定制度の矛盾に取り組
む,公害原論第6学期一7・カネミ油症シリーズ2),公
開自主講座「公害原論」実行委員会,亜紀書房,
1973.5.
[37]吉村健清,油症,日本疫学会編『疫学ハンドブック
重要疾患の疫学と予防』南江堂,356-362,1998.2
104

Page 13
カネミ油症 概略年表
1954.4 1鐘淵化学工業高砂工業所でカネクロール(PCB)を製造開始.
1961.4.2g l小倉市のカネミ倉庫,三和油脂より脱臭装置を導入して米ぬか精製油の製造を開始.
1963 1この頃から北九州・飯塚等各地で患者に症状が出始める.
1968.1.31 1カネミ倉庫製油工場で6号脱臭缶(旧2号脱臭缶)試運転開始.まもなく本運転に.
2中旬;この頃から西日本各地で鶏の大量死や産卵の急激な低下など多発
2下旬1福岡県農政部,県下家畜保健衛生所に二社(東急エビス産業,林兼産業)製の飼料のうちカネミ倉庫製ダーク油
1を使用した特定銘柄の給与中止を命令.
1
3中旬1この頃から西日本各地でカネミ製米ぬか油を食べた多くの人に症状が現れる.
3 .18
3 .22
6. 7
6 .14
8 .15
8 .19
9. 7
10. 3
10.10
10.15
10.19
10.24
10.25
10.27
11. 4
11.16
11.25
1969. 2. 1
2 .13
5 .31
11.23
1970. 3 .22
3 .24
11.16
1971. 5. 7
10. 6
11. 1
1972. 3. 3
6. 5
7頃
9 .23
1農林省福岡肥飼料検査所,九州・山口の各県に特定の配合飼料の使用停止と回収を指示.
i福岡肥飼料検査所飼料課長矢幅雄二ら,カネミ倉庫本社工場で実態調査
1九州大学医学部付属病院皮膚科に福岡市の3歳女児が受診.
1農林省家畜衛生試験場,福岡肥飼料検査所に病性鑑定回答書を提出,「油脂そのものの変質による中毒と考察さ
1れる」と記載.
1この頃までに数家族が受診,九大の五島応安講師は患者に「ライスオイルが共通」と説明.
1厚生省予防衛生研究所の俣野景典,農林省流通飼料課にダーク油の提供依頼を拒否され,厚生省食品衛生課課長
1補佐杉山太幹に精製油への注意を促す.
1別府市の第26回日本皮膚科学会大分地方会で九大医学部の都外川幸雄らが報告.
1大牟田市の国武忠,自宅のカネミ残油を持参して大牟田保健所に届け出.
1大牟田・福岡・北九州で正体不明の奇病が続出と朝日新聞(西部本社版)夕刊で報道.
1厚生省汰阪晒の各府県に米ぬか油販売停止と患者の報告を指示.
{九大油症研究班,油症の診断基準を決定・発表.
1北九州市で油症の母親が黒褐色の子を死産.
1福岡県内各地で届出患者の総合検診が始まる(∼10.28).
}国立衛生試験所,カネミライスオイルから多量の塩素を検出.
1九大油症研究班分析専門部会,カネミ工場脱臭工程の熱媒体カネクロールが原因と発表.
1九大工学部調査団(団長篠原久),6号脱臭缶に3ヵ所の穴(ピンホール)を発見.
i厚生省,第3回米ぬか油中毒事件本部会議後,中問結論を発表.
1被害者45人,鐘淵化学工業・カネミ倉庫・加藤三之輔に対し提訴(福岡民事).
1田川・北九州両地区の被害者の会が連携 カネミライスオイル被害者連絡協議会を発足.
i北九肺カネミ倉庫の営業醐を許可
}長崎市に6地区の代表が集まり,カネミライスオイル被害者の会連絡協議会を結成.
1北九州市でカネミライスオイル被害者を守る会全国連絡会議結成.
1福岡地検小倉支部,カネミ倉庫社長加藤三之輔と工場長森本義人を業務上過失傷害で起訴.
1福岡・山口などの被害者300人,カネミ倉庫・加藤三之輔・国・北九州市に対し提訴(小倉民事第一陣).以後,
1数次にわたり計708人が提訴.
1玉之浦油症患者の会幹部,佐賀県嬉野町でカネミ社長と示談契約を締結.
}姫路市の未認定患者藤原節雄,弁護士を付けずカネミ倉庫に対し提訴(姫路民事)、
1小倉民事第一陣訴訟原告,被告に鐘淵化学工業(鐘化)を追加.
1北九州市の中原診療所長梅田玄勝,1968年1月以前に発症の8例について発表.
1スト。クホルムの国連燗環殿議に7雌賭の木下忠行.漸騰繁光らが参力。.
1矢野トヨコ,北九州の未認定患者を訪ね始める.
1福岡県添田町の紙野トシエ,カネミ倉庫正門前に座り込み,二人の子供も同調.翌日,夫紙野柳蔵も加わり,一
1家4人掛無期限座り込みに入る(∼1976.5.18).
105

Page 14
カネミ油症の被害と人権侵害の広がり
1973. 8 .20
1975. 9. 8
10.15
1976. 10. 8
1977. 8. 2
10. 5
1978. 3 .10
3 .24
7. 6
7. 7
1979. 4. 6
12. 9
1980. 1 .21
1981. 10.12
1982. 1 .25
3 .29
1984. 3 .16
3 .17
6 .20
7. 6
1985. 2 .13
2 .14
7 .29
11.29
12.23
1986. 1. 6
5 .15
1987. 2 .27
3 .20
6 .25
1福岡市でカネミ油症被害者の基本的要求を決議する全国集会開催(∼8.21).
1紙野柳蔵ら十数人,農林省に対してダーク油事件の責任を追及,省内に座り込み(∼9.13).
i被害者14団体と31支i援団体が北九州市に集まり,カネミ油症事件全国連絡会議を結成
履害者155人が鐘化.カネミ倉庫.力藤三之輔.国.北九州市に提訴(,」、倉民事第二陣).
1北九州市の広本政美,認定保留処分の取り消しを求めて厚生大臣に行政不服審査を請求.
1福岡民事第一審判決.原告が鐘淵化学・カネミ倉庫・加藤三之輔にほぼ全面勝訴.
l
l小倉民事第一陣第一審判決.原告がカネミ倉庫・鐘化に勝訴,加藤三之輔・国・北九州市に敗訴.
1原告側,鐘化本社などに強制執行(∼3.13).
1刑事裁判第一審判決.加藤三之輔は無罪,森本義人に禁固1年6月の実刑判決.
1全国連絡会議未訴訟対策委員会,鐘淵化学と確認書調印.一時金一人130万円など.
l
l未訴訟対策委員会,カネミ倉庫と確認書調印.医療費負担継続,一時金一人22万円など.
1厚生省,広本政美に行政不服審査請求却下の裁決書を送付.
1台湾で米ぬか油による中毒が発生して患者千人以上と報道
i姫路民事判決未認定の原告二二力s'カネミ餌に敗訴
1被害者29人が鐘化・カネミ倉庫・加藤三之輔・国・北九州市に提訴(小倉民事第三陣).
1刑事控訴審判決.元工場長森本義人の控訴を棄却,
;小倉民事第二陣第一審判決.原告が鐘化・カネミ倉庫・加藤三之輔に勝訴,国・北九州市に敗訴.
1小倉民事第一陣控訴審判決.原告がカネミ倉庫・加藤三之輔・鐘化・国に勝訴,北九州市に敗訴.
1福岡民事控訴審判決.原告が三二化学に勝訴.
1国が約25億円,鐘化が約31億円を一陣原告側に仮払い.
1田川・北九州・五島などの一陣原告319人,統一原告団を離れカネミ油症新原告団を結成.
1カネミ油症新原二二,カネミ油症原告連盟に改称.
1小倉民事第三陣判決.原告が鐘化・カネミ倉庫・加藤三之輔・国に勝訴,北九州市に敗訴
i国が約2億円鐘化が約3.5億円を三二原告側に仮払い.
;新認定の被害者10人が国・鐘化・カネミ倉庫・加藤三之輔に提訴(小倉民事第四陣).
l
l未訴訟対策委員会の560人が油症福岡訴訟団を結成.
1元未訴訟対策委員会の74人,国・鐘化・カネミ倉庫・加藤三之輔に提訴(小倉民事第五陣).
1油症福岡訴訟団の被害者303人,鐘化・カネミ倉庫・加藤三之輔に対し提訴.
1
{小倉民事第二陣控訴審判決.原告が鐘化・国・北九州市に敗訴,カネミ倉庫・加藤三之輔に勝訴.
1最高裁第三小法廷裁判長田中正己,原告と鐘化に和解勧告.
1最高裁で各原告団(計1896人)と鐘淵化学の間に和解が成立.
1
;国,各原告の訴え取り下げに対する同意書を最高裁に提出.
1
1996.6上旬1農林水産省九州農政局,各原告に仮払金の返還について督促状.
6∼10壊二水産省仮払金返還問題で各原告団と協議上に大筋合意
1997. 3 .21
1999. 9 .12
12. 6
2002. 6 .29
2004. 4. 6
2006. 4 .17
1国が患者ら815人に対して全国20カ所の裁判所で調停を申し立て.
1東京の市民団体「止めよう!ダイオキシン汚染・関東ネッワーク」,ヴェネチアの第19回ダイオキシン国際会議
1に矢野トヨコ・忠義夫妻とともに参加.
1油症医療恒久救済対策協議会会長矢野忠義ら,ダイオキシン関東ネッワークとともに,厚生省・農水省などと交
1渉.
1東京でカネミ油症被害者支援センター設立.
1油症被害者147人,日本弁護士連合会(日弁連)に人権救済を申し立て.以後,数次にわたり計519人が申し立
iて・
1日弁連,油症被害者の人権救済について国・カネミ倉庫に勧告書,カネカに要望書を提出.
106