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小和田家家系図
小和田家家系図 敬称略
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【小和田家の歴史・川口素生著より抜粋】
・小和田家の歴史上の初出は1740年(江戸中期)
 小和田貞左衛門(貞右衛門)の子二人が早世し、城下の本悟寺で釈入信、釈敬信という法名を与えられたという。
 貞左衛門が雅子さまの遠い祖先にあたるものと思われるが、この頃の小和田家の系譜は判明していない
 なお本悟寺の現在の無縁墓標はかつての小和田家の墓竿(小和田家の了解を得て表面を磨き転用)だった。
 (小和田家の歴史P22を要約)
 村上市細工町の本悟寺も小和田家ゆかりの寺院である(小和田家の歴史P12)


         小和田貞左衛門(貞右衛門)
              │越後村上藩・藩士
              │
     ┌─────┴―────┐
?(1740年没)           ?(1740年没)
  法名:釈入信(本悟寺)       法名:釈敬信(本悟寺)

↑村上市本悟寺の無縁墓標
(かつての小和田家(本家?)の
 墓竿を了解を得て表面を磨き転用)
「小和田家の歴史(川口素生著)」の情報から推測できる小和田家の家系図 

(1)道助、それに父の新六匡安らの小和田家の歴代当主は武術制剛流の極意を体得しており(略)(小和田家の歴史P11)
(2)道助には兵五郎という兄弟があったものと考えられている。
  この兵五郎が分家の始まりと考えられている(小和田家の歴史P12)
(3)江戸時代後期の村上藩士・小和田新九郎、その兄弟・新六匡安、新六の嫡子郡蔵は柔術の制剛流の達人で
  村上市内の旧家には新六、郡蔵が発行した制剛流の印可奥書や免許皆伝書が現存している(小和田家の歴史P33)→郡蔵Bと仮定
(4)村上市の森井家には小和田新九郎の嫡子・郡蔵が1829年に森井百八に発行した「免許皆伝書」が残っている(中略)
  郡蔵と勝治はいとこの間柄であったから昭三氏も奇遇に驚いたといわれる(小和田家の歴史P36)→郡蔵Aと仮定
(5)道助には勝治、兵五郎という兄弟(もしくはいとこ)がいたといわれる(小和田家の歴史P37)
(6)勝治は小和田豊春氏、昭三兄弟の四代前の先祖である(小和田家の歴史P37)


(1)~(6)から家系図を作ると↓になる

        (?)
 ┌────┴────┐
 │              │                        
新九郎        新六匡安(1825年没) 
 │              │                
郡蔵A            │  
                │               ※の色は小和田家の家系として問題がないと思われる人物
                │                 *道助から分家 
   ┌──────┬─┴――┬────┐
   │(本家?)   │      │      │
道助匡利     郡蔵B    勝治*   兵五郎*(1871年没)
(1858/11/11没)          │      │・墓碑は村上市西真寺に現存(妻も同じ墓)
(享年64歳)             │      │
(墓は本悟寺?)        ()      │
                    │      │
                   ()      │
                    │      │
                   ()    【道蔵匡利】(1874年7月28日没)→匡利墓標画像
                    │      │・1874年 泉性寺に墓碑建立
                 ┌―┴―┐   │・墓碑は新潟市泉性寺(1993年4月17日に、小和田夫妻と雅子さんが墓参。妻の墓は村上市西真寺)
                豊春  昭三    │・墓碑には「小和田匡利墓/明治七甲戌年 七月二十八日 永代経金一圓/新潟県貫族 士族村上住」と
                │          │ 刻まれている(新潟県貫族=新潟県民の意)
                昌樹         │・1980年 小和田毅夫氏、新潟市泉性寺にある先祖の墓碑の台座を補修
                            │
                            │
                      ┌───┼―──┐
                      │     │     │
                    (長男) (次男)  【金吉】(道蔵の三男)(1868~1900年)(配偶者:熊蔵竹野)(墓碑の所在は不明
                                  │
                                  │
                      ┌───────┴―──────────┐ 
                     毅夫(1898~1893年10月19日没)         ミヨシ(1900~?年)
                      │(配偶者:田村静)
                      │
 ┌─┬──┬─┬──――――┴―――┬―┬―┬─┐
 顕 節子 恭子 恒(1932年~)       隆 統 紀子 亮(※恒氏以外の配偶者、子女は略)
            │(配偶者:江頭優美子)
            │
      ┌───┼―──┐
     【雅子】  礼子   節子

 

□西真寺・住職:本荘長弘師(皇太子妃雅子さまP161~)
・以前は西真寺にあったが、毅夫氏が新潟市の学校に在勤中「金吉の墓」だけ泉性寺に移した
 (※著書が1993年発行なので、その30年前なら、1963年頃)
・西真寺には「兵五郎夫妻」と「道蔵匡利の妻と道蔵匡利の子供」の二基(道蔵匡利の墓は新潟に)
・1987年11月に小和田恒氏らが村上市を訪問したが、曽祖父の墓には墓参していない。
←村上市西真寺
 兵五郎夫妻の墓・道蔵匡利の妻と子供の墓?
 見づらいが台座の右端がずいぶん欠けている。



□泉性寺・住職:広沢誠師(皇太子妃雅子さまP161~)
・小和田家の墓は明治7年より泉性寺にある
・兵五郎と金吉の墓は無い。「道蔵匡利の墓」はある。
・30年前に毅夫氏が金吉の墓を泉性寺に移したという話は知らない。
・1980(S55)年に毅夫氏が泉性寺にある墓の台座だけを直している。
・1987年11月に小和田夫妻と両親と泉性寺に墓参
 小和田豊春氏と昭三氏が、旅館に訪問(皇太子妃雅子さまP164)
・1992年8月(旧盆)に恒氏が一人で墓参。住職と挨拶を交わす。
-----
・1993年4月17日に小和田夫妻と雅子さんが墓参
 墓参後、親戚宅で食事をとり帰宅(嵩岡家?)(昼食は大橋屋が献上?)
←新潟市泉性寺
 道蔵匡利の墓
 おそらく家紋は「橘紋」




小和田家の家系全体図


     (小和田家)                       ※の色は小和田金吉の血を引く人物
       (?)                            斜字体は女性
 ┌────┴────┐                     左から、長子~末子     
 │              │                        
新九郎        新六匡安
 │             │                
郡蔵A            │   *道助から分家                                                          (山屋家(本家))
  ┌──────┬─┴――┬────┐                                                           三右衛門喜明  
  │(本家?)   │      │      │                                                              │
道助匡利     郡蔵B   勝治*   兵五郎*                                                        万左衛門(三右衛門)家明
                    │      │                                                              │ 
                   (?)      │                                                              │
                    │      │                             ┌─────────────────────┤  
                   (?)      │                        (分家)│                        万右衛門(三右衛門)辰明
                    │      │                           堪右衛門                             │
                   (?)      │                             │                           三十郎(三右衛門)時治 
                    │      │                             │…堪之丞                          │
                 ┌―┴―┐   │                             │  (堪右衛門の次男)              三十郎治明      
                豊春  昭三    │                             │  (若死)                         │ 
                 │         │                             │                            林左衛門治常
                昌樹      道蔵匡利       (熊蔵家)         堪五郎勝岑                              │
                           │           喜八郎              │(堪之丞の長男)               儀八郎(三右衛門)治径
                     ┌───┼―──┐       │               │(堪之丞、若死のため                  │
                     │     │     │       │               │  祖父の末期養子として家督を相続)      林左衛門
                    (長男) (次男)  金吉──┬─竹野           門平勝武                              │
                                      │                   │                            三右衛門龍治
                                      │                   │                               │   
                                      │                 兵太(堪右衛門)                       健之助
                                      │                   │                               │      
                                      │                   │                              直次郎
                                      │                留之助(堪右衛門)勝安                     │    
                                      │                   │                              恒次郎  
                                      │                   │                               │    
                                      │                  権八(高浜八十八の四男)                 澄  
           (田村家)                     │                   │                                 
            寛一郎                      │                   │     
             │                        │            養子・富治勝寿─┬─ヤス           
             │                        │          (大萱生忠右衛門  │  (野辺地三弥の娘)
           養女・タカ──┬──婿養子・又四郎    │   (江頭家)    秀徹の次男) │                 
      (井上七郎治の娘)  │    (嵩岡可笑の三男) │ 嘉蔵─┬─キノ            │            
                    │                 │     │                │       
                    │                 │     │                │       
                 ┌─┴─┐              │     │                他人───┬───貞子      
                 │    毅               │   安太郎─┬─米子               │     (丹波与三郎房忠の娘) 
                 │                 ┌─┴─┐      │(古賀喜三郎の娘)        │    
                 ────────┬──毅夫  ミヨシ      │                    │
                              │                 │                    │           
                              │                 │                    │  (四男五女(三男・四男は早世))
                              │             ┌―┬┴┬―─┬―┐      ┌――┴――┬―――─―┐        
   (※恒氏以外の配偶者、子女は略)     │  古賀七三郎┬英子  隆  古賀博│   太郎(長男)  ハツ(長女)      │
  ┌─―┬―─┬―─┬─―┬─―┬──┬┴─┐       │     │      │                           │
  顕 節子  恭子   │   隆   統   紀子  亮     久子   江藤淳     豊───────┬────────寿々子(五女) 
               │                                                  │         
               ──────────────┬─────────────────優美子        
                                      │
                                      │
                                ┌───┼―──┐
                              【雅子】  礼子   節子

【資料】
小和田家の歴史12
週刊現代1993/1/30号
小和田家の歴史(川口素生著)
週刊新潮:http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org5351483.jpg
737 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2012/11/20(火) 03:36:11.85 ID:QnEtqgfK0
>>732
新潟のお墓は先祖なのかな。
思い出したから、懐かしの毎日グラフ引っ張り出してきた。
臨時増刊の、1993.2.6ご婚約特別記念号と、6.26ご結婚記念特別号持ってるの。

祖先は村上藩内藤家の藩士で、毅夫の父が「金吉」、らしい、小和田家。
1787年に記された「内藤家分限帳」に、家臣として小和田「新六」の名がある。
「新六」の孫が「金吉」が有力な説だけど、「金吉」の父の名前が判らない。
もう一説は、「村上藩政役名」江戸末期に出てくる小和田「千助」。でも「村上城下絵図」は「専助」。
たぶん「千助」と「専助」は同一人物で、ついでに「金吉」も同一人物という説。名前ぜんぜん違う…。
そして、小和田家の墓がある浄土真宗「西真寺」の過去帳に載ってる名前は小和田「兵五郎」。
でも毅夫の何代前なのかは判らない。イコール「金吉」の名前は見つからなかったってことかな。
1987年11月22日に来た時は、城下絵図の「専助」邸を確認していったと郷土資料館長が証言。
ここまで2.6号。

だけど6.26号になると、1993年4月17日の墓参りに行ったのは新潟市「泉性寺」。
1874年に建てられた墓を、毅夫が1980年に立て替え、さらに恒が改修し、
墓参りの前々日に墓地の端から中央に移されたんだって。

はて?小和田家のお墓の謎は深まるばかり…。
とりあえず村上市小和田家の墓がある西真寺の過去帳に載ってないことだけは判った。