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(みをつくし 語りつくし)桂吉弥さん  - ニッカン芸能!
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速報ニュース

みをつくし 語りつくし桂吉弥さん 

[04/10 17:45]
高座に上がる桂吉弥さん=大阪市中央区、伊藤菜々子撮影
(朝日新聞社)
高座に上がる桂吉弥さん=大阪市中央区、伊藤菜々子撮影(朝日新聞社)

■両親とも教員、鍵っ子でした

 桂米朝一門の落語家、吉弥でございます。豊中、茨木で育ち、関西を中心に落語をして、関西の人に喜ばれる芸人になりたいと精進しております。

 僕、子どものころは鍵っ子でした。当時はまだ共働き家庭は少なかったんですけど、うちは両親共に教員をしてた。僕は0歳から保育所に預けられました。

 おやじの新保正秋は終戦1年前の1944(昭和19)年9月生まれです。当時は普通だったんでしょうけど、6人兄弟で末っ子なんですよ。3番目の伯母と4番目の伯父の間は一回り離れてる。戦争が激しくなって、産めよ増やせよというんで、じいちゃん、ばあちゃんががんばった。おやじは一番上の伯父とは20歳ぐらい離れてるから、もう、かわいがられて育ったみたいです。

 じいちゃんは戦前に東京帝国大学を出て日本パルプ工業という製紙会社に勤めてました。おやじの実家は豊中市岡上の町にあります。おやじは地元の桜塚高校を出て、2浪して神戸大学教育学部に進んで、ずっと養護学校、今は特別支援学校っていうんですけど、そこで教員をしてました。藤井寺養護学校の校長の時に定年を迎えました。

 非常にまじめな人なんですけど、親戚の集まりでもおやじギャグを言うてみんなをどっと笑かしたり、写真撮ったり。ムードメーカーですね。

 おふくろは46(昭和21)年生まれで、兵庫県西宮市の甲子園九番町に実家があります。それこそ、窓開けたら阪神甲子園球場のナイターの明かりが見えるようなところです。テレビ中継で歓声が聞こえるより先に「わーっ」っていう歓声が生で聞こえてくるような感じで。じいちゃんは商社の丸紅に勤めてたけど、若い時に辞めてたんで、ばあちゃんは家計を助けるために家でパン屋やってたみたいです。だからおふくろは割と苦学生で、勉強ができたんで、今の筑波大になる東京教育大学にストレートで行って教師になった。最初の赴任先だった高槻養護学校でおやじと出会うて結婚したわけです。

 僕は71年2月に生まれ、竜作と名付けられました。3学年下に弟、さらに4年あいて妹がいます。僕が育ったのは、豊中のだいぶ北のほう、島熊山にあるマンションでした。

 保育所のころから、僕は調子乗りで明るくて、わーわーやる子でしたね。当時、「秘密戦隊ゴレンジャー」っていうのがはやってた。ゴレンジャーごっこをやる時、男前やクールなやつはアカレンジャーとかアオレンジャーになりますけど、僕はぽっちゃり型だったんで必ずキレンジャー。「おもろいキャラ」みたいな、そんな感じですね。

 おふくろは高槻養護学校のあと、豊中市の中学校の国語の先生になったんです。帰って来るのがすごい遅かった。おやじは養護学校の先生なので、生徒さんはバスで定時に帰宅する。だから夕方、保育所に迎えにくるのはおやじが多かった。おなかがすくので、よく自転車の後ろでパンやおにぎり、かじりながら帰りました。晩ご飯もおやじがよくつくってました。カレーライスとかうどんを湯がくとか、簡単なもんですけどね。

 平日一緒に過ごせないから寂しいことは寂しかったんでしょうけど、おやじもおふくろも、夜や休みの日は僕らとずっと一緒にいてくれました。

     ◇

 《かつら・きちや》 小学3年生まで豊中市、その後茨木市で育つ。府立春日丘高校を経て神戸大学教育学部卒業。1994年11月、故桂吉朝に入門。2007年、上方落語の世界を描いたNHK連続テレビ小説「ちりとてちん」の徒然亭草原役で人気を博す。全国各地の高座を精力的にまわるかたわら、テレビ、ラジオにも多数出演。大阪での独演会は次回、5月12日午後2時から大阪市北区梅田2丁目のサンケイホールブリーゼで。このほか、3月31日橿原文化会館、4月6日神戸朝日ホール、4月27日和歌山県民文化会館、4月29日大津市伝統芸能会館でも。

■新興住宅地で変身

 小学3年まで住んでいたのは、豊中市のマンションでした。周りは土がほとんどなく、遊ぶ場所がなくてね。校区のぎりぎり端っこだったから、小学校まで1年生の足なら40分くらいかかったんじゃないかな。両親とも学校の先生で共働きだから、放課後は学童保育に行くんですが、学童に来るのは各学年に2、3人。クラスの友だちとはあまり遊んだ記憶がないんです。

 それが、小学3年のクリスマスごろ、豊中から茨木市の茨木サニータウンっていう新興住宅地に引っ越して、そこから僕の少年時代の思い出というのは、まったく「色」が変わるんです。

 そこは、新しくできた町だったので、地元の子がいなくて、僕と同じように、引っ越してきた子ばっかり。3学期から新しい学校に行って、「また友だちでけへんのかな」と思ってたら、みんなが声かけてくれて。すっごい、友だちができたんですよ。もともと調子乗りの性格やったのが、それまでなかなか発揮できなかったんですけど、そっからはもう、遊びまわりましたね。

 新興住宅地で空き地もたくさんあったんですよ。たこ揚げしたり、野球したり。漫画の「キャプテン翼」がはやりだしたら、サッカーボール蹴りながら帰ったり。山を削った街だから坂道だらけで、ボールを取り損なうとどこまでも転がってましたけど。

 周りは森で、初めてカブトムシも捕りました。豊中ではおやじがラグビースクールで指導してて、僕や弟もやってましたけど、引っ越してからは、サッカーと器械体操のクラブに入りました。器械体操いうても、小学生なんで、鉄棒なしのマットと跳び箱。ちょっと自慢なんですけどね、僕、茨木のスポーツ少年団の大会で2位になったこともあるんです。

■囲む食卓“発表合戦”

 僕が小学生のころ、中学校はドラマ「3年B組金八先生」でやってたみたいに、荒れてました。中学の先生だった母親は忙しかったですね。夜中に呼び出されて出て行くこともあれば、朝も「やり残した仕事があるからもう行かなあかん」と慌てて出て行ったり、ばたばたでした。

 だから両親は、家族そろって晩ごはん食べる時間をすごく大事にしてたと思うんです。ご飯食べながら、ほんと、ようしゃべってましたね。おやじもおふくろも酒が飲めないし、食べ盛りの子ども3人やから、食卓は豚のショウガ焼きがドーン、カツがドカーン。それを食べながら、子どもが今日あったことを競ってしゃべるのを、両親はにこにこ聞いてました。

 やっぱり大阪の子ですね。末っ子の妹は僕と七つ離れてるんですけど、小さいのが保育園の話をがんばってするんですよ。僕ら兄貴2人が「そんな話おもんないわ」「もうちょっとまとめてしゃべらな」とか言うて。で、「次、おれがしゃべる」って。両親はよう聞いてくれました。

 両親が先生だと、学校の行事や運動会なんかは、絶対に来てもらえないです。その分、普段の日曜なんかは、ずっと一緒にいてくれましたよ。夏は家族みんなで山にキャンプ行ったり、冬はスキー行ったり。休みの日に、お父ちゃんは誰それとゴルフ、お母ちゃんは買い物とかいうて子どもを置いて出ることは、まあ、なかったです。「趣味、ないの?」っていうくらい一緒にいてくれました。

 僕はいま、夜や土日に落語会でいないことも多くて、おやじにしてもらったことを、小学6年の息子と小学1年の娘に、全然できてないんですよね。とりあえず、遅い時間に帰っても、朝は6時くらいに起きて朝ご飯を一緒に食べてます。

■学校大好き中学時代

 小学3年の時に「茨木サニータウン」という新興住宅地に引っ越し、そこで僕の少年時代は花開きました。中学は同じ小学校の子どもがまるごと行く北陵中学です。できたばかりの学校で、僕らが、この学校で3年間勉強する初めての学年でした。僕は小学校で児童会長をやってたんで、第1回入学式で、入学の決意みたいなのを読みました。

 僕は両親が先生なんで、先生をうまくフォローする、お調子者みたいなとこがあったんですね。先生も「新保竜作をつかまえとけば、クラスもうまいこと行くやろ」っていうのがあったんでしょう。中学1年の時は生徒会の書記、2年、3年はずっと生徒会長をやりました。

 鍵っ子だった影響もあると思うんですが、学校が大好きでした。中学の夏休みに、プール指導があったんです。最初の1週間は、泳げない子のためのプログラム。僕は小学校の時にスイミングスクールに行ってたんで泳げるんですけど、そこに行くんですよ。学校が好きだから。「新保、おまえは泳げるからここは来んでええ」「でも先生、おれ、泳ぎたい」「あかん、あかん、その辺の掃除でもしとけ」。僕はデッキブラシでプールサイドを掃除しました。

 2日くらいたって先生が「プールには入られへん言うてるやろ」「先生、頼むわ。1週間あるから、6日掃除したら7日目入れてくれ」。で、最後の日に泳いだ。そんなに泳ぎたいなら、市民プールにでも行けばいいのに、学校にいたかったんですね。

 勉強の方も、わりとできました。おやじもおふくろも教えてくれますから。中3の時かな、市内全中学の英語スピーチコンテストで優勝したんです。お母ちゃんの友だちの英語の先生に、家で徹底的に指導してもらって。「ずるいわ」って言われましたけど。

■舞台導くブラバン

 山手台小学校ではサッカーや器械体操のクラブに入ってましたが、北陵中学校ではブラスバンド部です。調子乗りだったんで、音楽の先生に影響されたんです。

 男の先生で、見た目はベートーベンみたい。ぼさぼさ頭の、すごい迫力で。この先生が「この学校は新しいが、歴史をつくっていくのは君たちだ」「僕は校長先生に頼んで楽器をたくさん買い、ブラスバンド部をつくる。若者よ、きたれ!」という調子でぶち上げたんです。僕は感動して、早速友だちに「おれ、ブラバン入るわ」って。

 で、フレンチホルンっていう、ラッパが渦巻いて大きくなったようなんを吹いてました。楽器経験者はほとんどいなかったし、コンクールで上位に行くようなことはなかったですけど、地域のお年寄りの会や、山手台小の集いに演奏しに行って。楽しかったですね。

 僕の家は、前にも言いましたけど、両親が休みの時はあちこち連れて行ってくれたんで、子どもの時から家族みんなで、劇や狂言をよく見てたんです。「茨木おやこ劇場」やったかな。年に何回か、市民会館に劇団なんかが来てやるんです。「走れメロス」なら、古代ギリシャの格好した役者さんが、客席の間を走るわけですよ。「舞台って面白いな」と、思ってました。

 だから、ブラバンに入って「あ、おれ、舞台に立ってる」と、うれしかった。ここでも、また調子乗りやから、部長やるわけですけど、ただコンサートしても面白くないから、自分が前に出てしゃべるんですね。楽器の紹介したり、曲の紹介したり。「では、最後はみんなで一緒に歌いましょう」とか言うて、ミッキーマウスのマーチをやったりね。そうやってだんだん、舞台に立つ側の方に進んで行きました。

■いずれ自分も先生に

 僕を中学のブラスバンド部に誘ってくれた音楽の先生は、心臓が悪く、僕らが卒業した後、まもなく亡くなりました。僕が中学3年のころはもう入院されていて、指導にはほとんど来られませんでした。

 僕は3年の時、楽器を置いて先生の代わりに指揮をしてたんです。先生の病室に行って、曲をテープで流し、ベッドの横でタクト振って。そこで先生が「もっと、こうやって」って指導してくれた。すごい先生でした。先生がたいへんだったから、余計に頑張ろうというのもありました。

 うちは両親が教師なんで、子どもの時から何となく、自分も将来は教師になるんやろうな、と思ってました。家でおやじやおふくろに教えてもらえることもあり、ちょっと勉強ができたから、友だちに分からんとこ教えてあげてたんですよ。「先生はこう教えてたけど、こう考えた方が分かりやすいで」なんて。

 親から教わったコツみたいなのを教えてあげると、友だちが喜ぶんです。「うわあ、新保の教え方、先生よりうまいな」と。お世辞でもそう言われると、教える楽しさや喜びみたいなのを感じました。それこそ学校が大好きやったから、将来はここが職場になるんかなと思ってましたね。

 そうなふうに中学時代を満喫してましたが、3年の時、ばあちゃんに言われ、初めて塾というものに行かされました。「自分はできる」というおごりがあったんかな。すぐ嫌になって辞めました。高校は、学区の中で一番難しいのが茨木高校ですが、僕は二番手の春日丘高校に行きました。ばあちゃんは「ちゃんと塾に行ってたら茨木高校へ行けたのに」って、ぼやいてましたけど、僕は春日丘の自由な校風が好きで、そこに受かってうれしかったんです。

■高校はサッカーに没頭

 春日丘高校ではサッカー部に入りました。中学はブラスバンドでしたけど、女子も多いし、内部抗争というか、色々あるんですよ。もう文化部はええわ、小学校の時にやってたサッカーに戻ろう、と。

 でも、中学3年間やってなかったですからね。経験者と素人の組に別れて練習してたんですけど、素人の組に入れられて。覚悟を決めるために、丸刈りにしましたよ。「おい、野球部はこっちやで」「いや、サッカー部です。気合入れるためにやりました」って。練習は、きつくてきつくて。疲れがとれなくて病院に点滴を打ってもらいに行ったほどでした。

 万博公園が近いので、そこまで行って、その周りの8キロのコースを30分台で走って、それから学校に戻ってサッカーの練習。うちの学校は定時制があって、練習は遅くまでできないので、短時間で濃密にやるという方針でした。朝も6時半くらいからやってたんかな。僕が住んでた茨木サニータウンは山を切り開いてできた住宅地で、そこから学校まで自転車を必死にこいで行くんです。行きは下り坂で、ぶっとばして20分くらい。でも、練習終わって山に帰るのが、きっついきつい。40分くらいかかりました。

 レギュラーの座をとれず、Bチームでしたけど、3年でなぜか副キャプテンになりました。サッカー部を引退するまでは、授業の思い出なんかほとんどありません。中学まであれだけ学校が好きや言うてたけど、もうサッカーのことしか考えてなかった。

 春日丘高校はだいたいみんな大学を受験するので、普通は3年生の春のインターハイ予選で負けたら引退するんです。僕はレギュラーじゃなかったんですが、なんかすごくあっけない負け方だったんで、引退せず、秋の大会まで残ることにしました。

■体育教師目指したが・・・

 春日丘高校サッカー部は、3年生は大学受験のため、普通は春の大会で引退しますが、レギュラーじゃなかった僕は秋の全国選手権の予選まで、クラブに残りました。一緒に残ったのは約20人中5人くらいだったかな。残ってもレギュラーになれる保証はないんですけどね。みんなが予備校の夏季講習に行ってる間も、僕はずっとサッカーボール追っかけてました。

 最後の大会は、レギュラーで出してもらいました。2試合勝って、3試合目で負けたんかな。1点差だったのは覚えてます。僕がマークしていた相手に決められたんです。体を寄せてたんだけど、トラップでくるっと体を入れ替えられて。それで、クラブはおしまいです。

 そこから、残る高校生活の半年間は、青春を取り戻すがごとく、でしたね。ずっと髪も短くしてたんですけど、ちょっとおしゃれに伸ばして、恋なんかもしてみたり。クラスに仲のいい子ができて、放課後、自転車で一緒に帰って、万博公園の芝生に寝そべって夕日見るみたいな。

 それまで、バーベルで体鍛えたり、プロテインを飲んでみたり、そんなことばっかりやってましたから。女の子とはいっさいお付き合いありませんでした。

 でも、おかげで腹筋も割れて、すごい体になってたんで、もう体育の先生になろうと思ったんです。それで、大阪教育大と筑波大を受験することにしました。この年度が最後の共通1次試験になるんですけど、この2校なら共通1次と、あとはサッカーや50メートル走などの実技でいけるんです。ただ、筑波大なんかは、3年上に「ゴン」中山(雅史)さんや井原正巳さんのような選手がいた学校ですから。受験で周り見たらすごいやつばっかりで、こりゃあかんわ。見事に2校とも落ちました。

■浪人中は勉強漬け

 高校3年の春、将来は体育の先生に、と思って受験した筑波大と大阪教育大に落ち、浪人することになりました。大阪市の中津の河合塾に行きました。最初に、1年分の費用を全部払わないといけなかったんですよ。父さん、母さんに悪いなあと思いながら。

 高校サッカー部に加地直樹君っていう、いい友だちがいましてね。彼と一緒に河合塾に行きました。面倒見のいいやつで、「親にお金払ってもらって浪人してんねやから、第1志望に受かろうや」って、尻をたたいてくれました。いい先生の授業を探してきては、「一緒に行こうや」って誘ってくれたり。

 僕は神戸大教育学部初等教育科を第1志望にしました。筑波大の受験に来てたのは、高校ですごい選手だった人ばかりだったし、体育の教師も何やから、とりあえず小学校の先生をめざそうかと。僕はずっと理系だったんですが、神戸大の試験科目は理系でも受けやすかったんです。

 河合塾では、私立文系のコースの学生なんかは、試験科目も少ないし、けっこう遊んでる感じでした。午後からみんなでお弁当持って近くの公園に行ったり、塾で文化祭とかもあるんです。僕と加地君は国立大コースやったんで、そんなのには目もくれず、一緒に勉強してました。

 サッカー部じゃないけど、またストイックな生活に逆戻りでしたね。朝、弁当持って、加地君と同じ阪急電車に乗って、塾の授業を受けて、お昼は食堂で弁当食べながら参考書の話とかして、夕方に授業が終わったら、自習室に「集合」とか言って集まって、遅くまでずっと勉強。その1年は、めちゃめちゃ勉強しましたね。加地君のおかげで、神戸大に合格しました。加地君も第1志望に受かりましたよ。いまは大手企業に勤めています。

■「おちけん」って何や

 第1志望の神戸大教育学部に受かったら、一人暮らしをさせてほしいと両親にお願いしてました。大学近くに、トイレ・風呂共同の学生アパートがあり、安さだけでそこを選びました。山の上なのでバイクも買って、晴れて神大生になりました。

 大学では、何かサークルに入ろうと思ってたんですけど、僕が入れるサークルは限られてました。というのも、朝日新聞厚生文化事業団がやっていた、子どものための「朝日キャンプ」というのがあって、夏はそこでボランティアのリーダーをやることに決めてたんです。

 おやじも神戸大教育学部卒で、やはりそのリーダーをやってたんです。だから、おやじの友だちにも朝日キャンプのOBがたくさんいて、話はいつも聞いてたから、自然と大学に入ったら僕もやるもんやと思ってました。小中学生と1週間かけて日本海まで歩いたり、キャンプのプロデューサーをやったり。普段でも土曜午後には大阪の朝日新聞のビルで勉強会があって、ロープの結び方や救急救命法を習うとか、学習障害児の勉強会なんかもありました。

 そんなわけで、サークルや部活も夏休みは無理やなあ、なんて考えてたある日、大学の食堂に着物を着た人たちが現れたんです。「おちけん(落語研究会)です」って。「『おちけん』って何や?」。僕は友だちとサンドイッチとコーヒー買って、お昼にしようとしてたんですけど、昼休みに寄席をやるという。新入生の勧誘で来てたんですね。「お昼ご飯持って来ていいから」「和室でゆっくりできるし」と。

 着物姿の先輩たちの中には1人、かわいい女子もいたんです。それにちょっと心を動かされ、寄席をやってる畳敷きの部屋へ。このかわいい先輩はいま、僕の嫁さんです。

■「面白い」とりこに

 神戸大に入学後、後に僕の嫁さんになる、かわいい女の先輩につられ、落語研究会の寄席を見に行きました。一番最初に出てきた人は、「甲家(かぶとや)そうや」さん。川元敦雄さんという一つ上の先輩で、いま関西テレビで「よ〜いドン!」って番組のプロデューサーやってます。「いらち俥(ぐるま)」っていう人力車の話なんですけど、これがめちゃめちゃ面白くて。落語に入る前のつかみの話を「枕」っていいますが、大学の話題なんかを面白くしゃべるわけですよ。

 僕も大阪の子やし、当時は漫才ブームもあったから、遠足でバスガイドさんからマイク奪ってしゃべるほど、お笑いは好きやったんです。でも落語なんか聞いたこともないし、おじいちゃんがやる古くさいもんやと思ってました。それが「1人でこんな面白いことできるんや」って、殴られたような衝撃でした。とりこになって、何度か練習を見に行った後、入会しました。

 練習は月水金。放課後の5時やったかな、まず集まって発声練習するんです。早口言葉とか。それから先輩とマンツーマンで練習です。1年生は「つる」という、鶴の名の由来にこだわる男の話を必修科目でやるんですね。テープを借りて、全部ノートに書き起こして、その手書きノートと白いノートを持って、先輩に「お願いします」って。正座で向き合って、先輩から「ここまでは右を向いて」とか、手取り足取り教わるんです。ノートにメモしながら。

 僕は「甲家楽破(らっぱ)」という名前になりました。中学でブラスバンドやってたから。神戸大の落研は、男前は「みなと家」になるんですが、僕は浪人でちょっと肥えて、「お前は腹出てるから、甲家や」と。女の子はみんな「可愛家」です。かわいくても、かわいくなくてもです。

■吉朝の追っかけに

 神戸大の落語研究会で落語に出合い、1年生の時からプロの落語を見に行くようになりました。神戸なら元町の風月堂ホールで今でもやってる「恋雅亭(れんがてい)」。大阪なら阪急ファイブ(当時)にオレンジルームっていうのがあって、そこで毎月、「オレンジ寄席」をやってました。

 それで、2005年に亡くなった僕の師匠、桂吉朝を追っかけるようになったんです。何で吉朝さんか? いや最初は、枝雀さん、べかこさんと、テレビで見たことある人に行ってたんです。僕はテレビっ子でしたからね。で、吉朝さんが出てきた時は「こんなおっさん、知らんわ」と思ってました。「どうせおもろないやろ」と。

 ところが、お客さんが、わあわあ喜んでるんですよ。「テレビにも出てへんのに、何でこんなに受けてるんかな」って、逆に興味が出てきました。ほら「中島みゆきは紅白に出ない」とか、歌手でもあったじゃないですか。そういう人なんかなと思ったり。落語を手段に有名になろうとかでなく、「マスコミに出なくても、落語やってお客を喜ばせられたらええわ」っていう、潔さというか、職人芸というか。そんな魅力にはまっていきました。

 落語は1人で何役かするので、顔を左や右に動かして話しますね。「上下(かみしも)をふる」っていいますけど、自由席だったら早く行って、吉朝さんが上下ふった時に目があうところに座るんです。あと、「ふぐなべ」って話のなかで、吉朝さんは「北海道で買うてきましたんや。食べとくんなはれ、赤福餅」ってギャグをやるんですよ。それが好きで、赤福餅を楽屋にいつも届けてました。「神戸大落研の『楽破(らっぱ)』です」って、若い人に言付けて。「おれは今日も来てるぞ」みたいな。気色悪いですね。ストーカーでした。

■先生像に・・・はてな

 浪人時代はあほみたいに勉強したのに、学生時代は遊んでばかりでした。初めての一人暮らし。落研の先輩と神戸・三宮に飲みに行って、部室で朝までマージャンして。神戸も震災までは銭湯がたくさんあったので、先輩らと「今日は何湯に行こう」って、男女3対3で行ったり。落研の練習も楽しかったし、プロの寄席に行くのも楽しかった。

 で、留年しました。それでも実家に連絡もせず、好き勝手してたんで、さすがに親も怒った。母親は「あんたを今まで信用してたのに」って泣いてました。僕はまだ、教師になるつもりでしたよ。落語はただの趣味で、芸人なんてとてもとても。留年してたので1年遅れて4年の春に、教育実習に行きました。

 僕は神戸大付属の住吉小学校が実習先でした。そこで、「あれ、おれが思ってた先生像とちょっと違うぞ」と感じたんです。まず、授業の研究とか、こんなにたいへんな仕事やったんかと痛感しました。「ゆとり教育」が本格的に始まり、現場が揺らいでいる時期でもありました。それに、先生とは何と責任が重いことか。僕が担当したのは小学2年生で、いま言ったことをすーっと吸収するから、間違ったことは言えない。当たり前ですけど、何かちゃんと授業しないといけないぞ・・・・・・と。僕、実習でも落語のうどんの食い方とか、あほなことばっかりやってたんです。

 そして決定的だったのは、僕が思い描いていた「金八先生」や「熱中時代」のドラマと違い、現実のクラスでは、先生でなく子どもが主人公でなければならないということでした。「うーん、おれ、先生になるんかな」という疑問が、はてな、はてな、とわきました。そしてある時、ふと思ったんです。「おれ、吉朝さん、好きやん。落語家ってどうよ」と。

■吉朝さんといたい

 教師になるのやめて、落語家になると言うと、「あほやな」ってみんな言いました。バブルの時代は終わり、教員の採用試験も難しくなってたけど、神戸大の友だちは、それなりに大きな企業に就職してました。でも、僕はもう熱病に侵されたようなもので、落語家になりたいというより、桂吉朝さんのそばにいたいと思ってたんです。ずっと一緒にいるにはどうしたらいいか。弟子になるしかないじゃないですか。

 大学5年の春、みんな就職活動を始めるなか、なにか感極まって、吉朝さんに手紙を書きました。「吉朝さんの落語が好きで、独演会に通ってます。こういうとこが好きで、修業させてもらいたい。ついては、いついつ、豊中・岡町の落語会に行くのでぜひお会いして——」。生まれて初めて、超真剣に手紙を書きました。

 返事はなかったけど、岡町の落語会に行きました。電信柱の陰で、待ちぶせしてたんですけど、吉朝さんはもう楽屋に入ってたようでした。終わってから「師匠、手紙を書いた新保という者です」って声をかけると、「おうおう。じゃあ、楽屋に来いや」。楽屋には、九雀さんや米左さんら、プロの方がいっぱいいました。

 「弟子にしてください。お願いします」。でも、吉朝さんは「いやあ、おれ、弟子とらへんねん」と、つれない。「おまえ、神戸大卒業すんねやろ。教師になっとけや」「おれより、他のやつのとこ行ったらどうや」。僕は「いや、師匠がいいんです」と食い下がった。周りの落語家さんたちは「そうや、そうや」とはやします。結局、この日は弟子入りを認めてもらえませんでした。でも、僕は顔を覚えてもらったと満足でした。それでまた、吉朝さんの落語会や楽屋に通うわけです。

■ついに入門、初舞台

 あこがれの桂吉朝さんに、いったんは弟子入りを断られたものの、その後も楽屋に通っているうちに「また来たんかいな。お前、お茶でもくめや」なんて言われるようになりました。「お前、落研(おちけん)(大学の落語研究会)か。ほな、着物、畳めんのか」「はい」って、何となくずるずると「見習い期間」に入りました。大学やアルバイトに行きながら、落語会があれば、客席でなく楽屋に入ってお手伝いするという生活です。

 そのうち、吉朝師匠が「一回、稽古しよか」と言う。(兵庫県尼崎市の)武庫之荘にある吉朝さんの家に行きました。米朝一門ではまず「東の旅・発端」っていう、お伊勢参りの話をやります。右手に張り扇、左手に小拍子(小さな拍子木)を持ってトントンたたきながらしゃべるんです。これは大阪落語が大道芸として発展した名残です。お座敷でなく、お寺の境内なんかでやってたんで、とにかく派手でにぎやかにしないとお客が逃げるわけですよ。

 この「タタキ」をまず教えられるわけです。稽古といっても、毎日ではなく、吉朝さんから気まぐれに電話がかかって「おい、明日いけるか」って感じで。だから、大学の落研でみんなが落語の練習してる横で、僕は、トントン、トトン!って、教わったタタキをずっと練習してました。これをちゃんとやったら、いよいよ弟子にしてもらえるんかなと思いながら。

 そんな日々が半年ほど続いたある日、京都での落語会の帰り道、四条大橋のたもとで吉朝師匠に、「お前、ほんまにやるんやな」「けど、この世界、どうなるか分からんから、大学は卒業しとけ」と言われまして。1994年12月、大阪市北区の太融寺でやっていた「吉朝学習塾」で、吉弥という名をもらって、初舞台に上がりました。

■震災「みんな無事か」

 1994年11月、僕は桂吉朝師匠に正式に入門しましたが、翌3月まではまだ学生です。「おれ、落語家になんねんけどなあ」って思いながら、卒論を書いてました。

 そんな時です、1月17日の阪神大震災があったのは。僕は当時、被害の大きかった神戸市灘区の阪神・石屋川駅の近くに住んでました。うちは鉄筋のビルで倒れなかったけど、部屋の中はぐちゃぐちゃにひっくり返り、窓を開けたら、電柱は折れてるわ、隣の木造の家はつぶれてるわ。

 その当時、あこがれの先輩だった嫁さんとお付き合いが始まっていたので、まっさきに、阪急・六甲駅近くの彼女の家に向かいました。焦ってたせいでしょう。バイクのエンジンがかからず、走っていきました。道路のアスファルトは割れ、ガスのにおいがしてたのを覚えています。幸い、彼女は無事でした。ドラマならここでひっしと抱き合うとこですが、彼女は「え、何?」「いま、部屋ぐちゃぐちゃやから」って、なかなか中に入れてくれなかった。

 ともあれ、彼女の無事は分かったんで、次は落研の後輩たちの確認です。携帯電話もなかったですし、家まで行くしかありません。ある後輩のアパートは、ぺしゃんこにつぶれてました。部屋はそこの1階です。この後輩の安否が最後まで分からなかったんですが、部屋を空けてて無事でした。彼はこの日、大学で先輩と練習する予定だったけど、先輩の都合で中止になり、実家に帰ってたんです。

 神戸大の学生もたくさん亡くなりました。落研のメンバーは大丈夫でしたが、住むとこを失った仲間もいて、何人かは、茨木市の僕の実家に連れて行きました。阪急電車が動いてる西宮北口駅まで、たくさんの人が、ぞろぞろと歩いていました。

■米朝師匠の弟子か

 震災があった1995年、僕は桂米朝師匠の家で住み込みで修業することになっていました。吉朝さんの弟子は、米朝師匠が武庫之荘の自宅で預かるんです。大学の卒業式を前に、2月から住み込みを始める予定やったかな。でも震災の直後だったし、自分だけ神戸から逃げるようで後ろめたい気持ちもありました。

 そんな時、それまでかかわっていた「朝日キャンプ」から、「動けるか」と震災ボランティアに呼ばれたんです。「1カ月だけボランティアをしたい」と吉朝さんに言うと、「おお、やったらええ」と快諾してくれました。僕はバイクに乗っていたので、王子公園の近くにあったボランティアの基地から必要な物資を避難所に運んだり、お年寄り夫婦の部屋の片付けに行ったりしました。

 そんなことがあって、3月から米朝師匠の家で修業生活がスタートしました。それまで朝までマージャンやってたのに、朝は6時半か7時に起きて、お掃除して。たまに米朝さんの直弟子の先輩が、僕らがちゃんとやってるか、様子を見に来るんです。グラスが曇ってないか、テレビの上にほこりが積もってないか、そんなとこをほんまに見るんですよ。

 米朝師匠のとこで修業するというと、それまで「吉朝って誰や」「食っていけるんか」と言っていた親戚なんかも、態度がころっと変わりました。「米朝」というブランド、文化的な地位はすごいですね。ただ、僕としては、吉朝師匠に弟子入りしたのに、米朝師匠の家に住んで、米朝師匠の運転手をやるような生活にジレンマを感じてました。吉朝師匠は「おれが米朝師匠の家でやった3年間の修業は、お金を出してもでけへん貴重なもんやった」と言ってました。それが分かったのは、後からです。

■会えない恋は結実

 米朝師匠の内弟子だった3年間、休みはほとんどなかったです。師匠は「選挙は行きなさい」っていう方なので、僕の後から弟子入りした、よね吉なんかは、住民票が京都にあったので「選挙に行ってきていいですか」って許しをもらい、夜中まで帰って来ないことがありました。「どこまで行っとったんや。お前、選挙に出る方か」なんて言われてました。そうやってみんな、苦労して自由時間をつくってたんですね。

 大学の先輩だった彼女とは、隣のコンビニ店にあった公衆電話で話してました。師匠の家にいるので、自由に電話はできませんから。僕は兄弟子のあさ吉さんと一緒に修業してたんですが、弟子部屋には必ず誰かいないといけないんです。師匠に「おーい」って呼ばれたら、駆けつけないといけませんからね。テレホンカード持って、あさ吉さんと交代でよく電話しに行きました。それくらいしか楽しみないんでね。あまりに僕らが電話してたせいか、あるときから公衆電話が2台に増えてましたよ。

 手紙も毎週1通は必ず届いてました。だから、師匠や奥さんは、僕に彼女がいることは分かってましたね。師匠があさ吉さんを連れてどっか旅に出てたとき、奥さんに「歌舞伎を見たいんで行かせて下さい」って頼んで、出かけたんです。帰ったら奥さんが「彼女と楽しかったか」って。お見通しでした。

 僕は大阪市西成区の岸里へ太鼓の稽古に行ってたんで、その帰りに駅前の喫茶店で、15分だけお茶することもありました。嫁さんいわく「会えないからこそ恋が盛り上がり、それにだまされた」とか。1998年の春に僕は内弟子を卒業したんですけど、嫁さんとはその年の9月、神戸の東天閣という異人館で結婚式を挙げました。

■修業終え思う感謝

 内弟子時代は、師匠の落語会に運転手でついて行って、太鼓たたいたり、座布団返したりするだけでも、そこそこお金になったんです。米朝師匠の家にいるので、食費も要りませんしね。ところが卒業すると、「はい、さよなら」です。自由にやっていいんですが、何もない。実家に帰って、しばらくスーパーの魚屋でバイトしてました。午後はいつ落語の仕事が入ってもいいよう空けておいて。

 僕は修業時代に、うちの吉朝師匠に落語を10本習ったんです。それをよりどころに、小さな会でも、とにかく落語をできる機会を探したり、自分でつくったりして、しゃべってました。

 落語会の前座なんかには、わりと呼んでもらえましたが、安かったです。5千円とか7千円とか。一方で、自分への投資は、惜しむわけにはいきません。大阪の落語は三味線や笛や太鼓が、ふんだんに入るんですが、僕は内弟子時代から太鼓の稽古をさせてもらってました。そこで引き続き稽古したり、噺家(はなしか)としてのしぐさがきれいになるよう、踊りの稽古に行ったり。月謝も内弟子のときと違って、自分で払う。なかなか食べていけないですね。

 あれほど早く終わってほしいと思ってた修業時代ですが、終わってみれば、ほんまにありがたかったです。米朝師匠に3年間つかせてもらって、米朝という人がどんな生活をしてるかを見られただけでも、財産になったと思ってます。例えば、テレビを見て何か意見するときの言い方、新聞を読んでこぼすちょっとした一言。もちろん、落語もずっと横で見てるわけで、3席やるときは、こういうネタとああいうネタがいいとか、枕をどれだけしゃべるかといった演出の仕方とか。誰に習うわけでもなく、横にいて自然と体に入ってたんですね。

■居間での一席、今も

 内弟子を卒業してすぐ結婚したので、新婚時代はお金がなかったですね。嫁さんは神戸の児童館に勤めてて、収入が安定してたので助かりました。僕はどうしても車が必要だった。太鼓なんかの鳴り物と車を持ってたら、うちの師匠だけでなく米朝師匠やざこば師匠の独演会でも、仕事になるんですよ。「しゃべる出番はないけど、太鼓積んで来てくれよ」ということで。嫁さんがためてたキャッシュで買いました。嫁さんにはちゃんと返しましたよ。毎月、嫁さんから領収書をもらって。

 おかげさまで、先輩やあっちこっちから仕事をもらいました。茨木の実家近くに住んでいる丹羽さんっていう方には、「うちでやってくれ」と自宅に呼んでもらい、お宅の居間でやりました。普通の家のお座敷です。座布団を1枚だけ置いて、僕が2席やるんです。近所の人が千円持って来て空き缶に入れ、僕が全部もらうという会です。

 15年ほどたった今も続いています。部屋はぎゅうぎゅうで45人くらい入れるんですが、前は6人しか来ないこともありました。土曜の午後7時っていうわりといい時間なのに。20人くるとか言ってても、雨が降って来ると集まらない。もう落語会は始まり、僕がしゃべってるんですが、その横で丹羽のおばちゃんが電話で話してんのが、聞こえてくるんです。「あんた、何してんの? テレビなんか見てんと来てあげてや」「伊藤さ〜ん、まだ6人やねん」

 6人しかいなかったら、ほんまに面白くないと笑ってくれません。鍛えられましたね。それに、仮に20人来たら2万円ですから、当時の僕にはすごくありがたかった。いまは、1日3回、2日に分けてやってます。大きな部屋でまとめてやったらええと言うかもしれませんが、やっぱりこれは続けたいんです。

■転機は「新選組!」

 放送での初のレギュラーは、KBS京都ラジオの「桂都丸(現・塩鯛)のサークルタウン」っていう番組です。自転車に乗って京都のあちこちをリポートするんです。6年くらいさせてもらったかな。唯一のレギュラーで、ありがたかったですね。

 ただ、転機といえば、やっぱり2004年のNHK大河ドラマ「新選組!」ですね。うちの師匠が中島らもさんや、わかぎゑふさんと仲良くて、「笑殺軍団リリパットアーミー」っていう劇団に入っていたんですね。それで、僕も劇団の方たちとお付き合いがあって、声がかかったんです。

 もともと、僕もお芝居に興味があったんです。子どもの時から「茨木おやこ劇場」でミュージカルなんかを見てましたし、学生の時も、新神戸オリエンタル劇場にけっこう行ってたんです。ちょっと背伸びしたい年頃には、唐十郎さんなんかを京都の八坂神社で見て。難しいお芝居ですけど、トラックの荷台に舞台があって、ラストシーンでトラックごと闇に消えていくとか、すごくわくわくしました。

 そんなことを、わかぎさんらと話してるうちに、「じゃあ、いっぺん出てみる?」ってなって、小劇団にちょいちょい出してもらうようになってたんです。それで、三谷幸喜さんが「新選組!」を書くことになったとき、誰か関西弁しゃべるのいないか、というので僕がひっかかったという訳です。

 三谷さんから「やってください」って言われて、びっくりしましたよ。僕がやった山崎烝(すすむ)は、わりと後から新選組に入るんです。ドラマでも最初にちょっと出て、半年間は休みだったんですね。僕のこともまあ、最初に呼んでちょっと様子見て、使えるようなら使おうか、ぐらいのことだったんでしょうね。

■自信くれた大河の縁

 NHK大河ドラマの「新選組!」は、特別でした。NHKで「大河貧乏」って言葉があるんです。大河をやったがために、NHKに「1年間はスケジュール入れるな」ってびびらされて、劇団に居場所がなくなったとか、バイトがなくなったとか。中村勘太郎(現・勘九郎)さんは、ちょうどお父さんの勘九郎さんが平成中村座でニューヨーク公演をやった時で、彼もすごく行きたかったそうなんだけど、それも休んで「新選組!」に出てたんです。

 みんなNHKにずっといるから、撮影が終わったら、よく夢を語り合ってました。これからっていう人ばっかりでしたからね。食事のことを「消えもの」って言うんですけど、NHKの「消えもの部屋」で、ビールは差し入れが山のようにあったから、セットで使う箱なんかに座って、宴会シーンの余りを使った料理をつっついて。

 土方歳三役だった山本耕史君は、ええやつですよ。主演の香取慎吾君は誰にも携帯電話の番号を教えないのに、耕史君は楽屋でぱっと盗み取るんですよ。それで飲み会に香取君も引っ張り出して、僕みたいな駆け出しの噺家(はなしか)とも仲良くしてくれて。僕が遠慮してると、「吉弥さんも行こうぜ」って言うんです。

 僕は当時、芸歴10年くらいでしたけど、落語の世界ではまだ駆け出しだし、落語をやってもお客さんは来ないし、ちょっと自信をなくしてたんです。それが、テレビでいつも見てる人たちに「10年もやってるなんてすごい」って言われて、対等につきあってもらって。撮影はずっと東京だったので、向こうの小さな会場で落語会をやったんですけど、三谷幸喜さんや山本耕史君らが来てくれて、「面白いねえ」って言ってくれて。自信持てよ、ってお尻をたたかれた気がしました。

■「ちりとてちん」へ

 NHK大河ドラマ「新選組!」で、演出を担当されていたディレクターの伊勢田雅也さんと出会い、その縁で、2007年に始まった朝ドラ「ちりとてちん」に呼んでいただきました。「新選組に落語家がいたよな」と。

 落語のドラマですからね。それに参加できたのは、ありがたかったです。落語指導は林家染丸師匠がやってたんですけど、ヒロイン役の貫地谷しほりさんをはじめ、みんなすごく熱心で、僕にも「教えて」って来てくれました。

 台本がまた面白くてね。撮影しているところの3、4週先の台本をスタッフが持ってきてくれるんですけど、撮影やりながら「次はどうなるんやろ」って、楽しみでしょうがないんです。貫地谷さんには悪いけど、あれだけ脇役にスポットが当たるドラマってないと思うんです。僕が演じた徒然亭草原の結婚のエピソードが1週間続くとか。百戦錬磨の役者さんたちも「うそー」「えらいことなってるぞ」って、楽しんでました。

 このドラマのおかげで、本職の落語も、急にお客さんが来てくれるようになりました。ただ、僕の独演会に切符争奪戦をして来てくれるお客さんに、どうお応えできるか。責任感というか、プレッシャーというか、一時はすごくしんどかったです。

 僕がこうやってテレビに出られたのも、落語家だからこそなんです。「新選組!」のとき、劇団で舞台に出るきっかけをつくってくれた、わかぎゑふさんに手紙を書きました。「おかげで、大河ドラマに出してもらって」と。お返事で「あなたを舞台に上げたのは、米朝一門の落語家だからで、私よりも米朝師匠や吉朝師匠に感謝すべきだ」と言われました。そうやなあ、って思いました。師匠にあらためて感謝を伝えるようなことはしなかったですけど。

■師匠との別れ、再び

 NHKの「ちりとてちん」では、僕の師匠が亡くなるという話がありましたが、僕は2年前の2005年に、桂吉朝師匠を現実に亡くしてます。「つらくないか、この台本」って気遣っていただきましたが、もう一度、ちゃんとお別れをさせてもらったようでありがたかったです。師匠とのお別れはあっけないもんでしたから。

 吉朝師匠は、がんを患って最後はホスピスに移り、あっという間に亡くなった。会話らしい会話はできませんでしたが、亡くなる2日前、夜中にこっち向いて、ただ、にやっと笑ったことがありました。

 直前に国立文楽劇場でやった「米朝・吉朝の会」が最後の舞台になりました。自分の師匠と2人会をやるのが夢でしたから、酸素マスクつけて行かれました。僕以外の弟子6人は行ったけど、僕は行かなかったんです。京都で、修学旅行の生徒に出張落語会をやるという仕事が入ってまして。仕事の依頼があった時、師匠の会のことは知ってましたけど、その仕事を断るのは「これが最後や」って認めるような気がしたし、弟子7人が自分の仕事を置いて来てるのも、吉朝師匠はあまり喜ばないと思ったんです。

 僕は2番目の弟子ですが、師匠も最初の方にとった弟子に対しては、緊張感があったのか、わりと厳しかったです。あまり無駄話もしなかった。僕が運転してて、何か話そうとしたら、「お前、おれを笑わそうとか思わんと、静かに運転してたらええから」って言われたり。こっちもちゃんとした弟子にならなあかんと思って、わりと優等生然としてました。

 もっと一緒にお酒飲んで、あほな話もしたかったという思いもありますが、師匠が最後ににやっと笑ったのは、「これも人生や」ってことだったのかなあと思ってます。

■師匠の年に近づいてきた

 弟子が1人いまして、こないだ内弟子を卒業したばかりです。NHKの「ちりとてちん」が終わってしばらくして、なんか落語会に来るようになって。岐阜県の出身で、東京の会社で働いてたんです。企業を紹介するウェブサイトを作ってたとか。それが「落語家になりたい」って言うんで、「あかん、あかん」とか言ってたら、東京からうちの近所に引っ越してきたんですよ。そんならもう、話をせんとしゃあない。ストーカーですよ、って僕もそうでしたっけ。

 去年は僕のまわりで、たくさんの方が亡くなりました。中村勘三郎さんもそうですし、米朝師匠について行った時にお話しさせていただいた藤本義一さんや小沢昭一さんも。僕は「新選組!」で、勘三郎さんの息子の勘太郎君(現・勘九郎)と仕事をしてから、ご飯食べに行ったり、お芝居見に行ったりしてるんですけど、勘三郎さんとは一度もしゃべったことがなかったんです。

 一度、大阪で勘太郎君と2人で飲んでいたら、法善寺のおすし屋さんで勘三郎さんがカウンターに1人で座ってたんです。「うわ、中村屋や!」って思って。僕はもうしゃべりたくて「1人だからこれはチャンスかも」と考えたけど、勘太郎君は「ダメダメ、吉弥さん。おやじは話が長いし、自分のペースに持って行くから」「今日は2人で飲みたいからさ、逃げよう」って。いま後悔してます。

 吉朝師匠が2005年に亡くなって、それから奥さんも亡くなり、踊りでお世話になったお師匠さんも亡くなったんです。「年とったな」って言われるかもしれませんけど、いま落語をしゃべってるときが本当に幸せです。お客さんも色んな事情を抱えながら、聞きに来てくれるわけですよね。ひょっとしたら、僕の落語はもう見ないという方もおられるでしょう。米朝師匠は「落語は一期一会や」って言いますが、その言葉を本当に実感しています。一つひとつ、大切に届けたいという思いがいま、すごく強いです。

 そのためにも、やっぱり自分の健康にも気をつけないといけませんね。一昨年、嫁さんの郷里の島根県でやってる「なかうみマラソン」に、ゲストランナーで呼ばれて、それから、走るようになりました。1年半くらいになりますが、体重も7キロくらい落ちました。太ってると落語もしんどいんですよ。ぽっちゃりしてる方は、長い話はしない。正座してたら、足がしびれて立てないようなこともありますよ。しゃべりながら立つしぐさをしたり、家を出るシーンで1回ひざ立ちしてみたりして、足を組み替えてるんですけど、新しいネタをやるときは没頭して忘れることもありますしね。

 師匠は50歳で亡くなりましたから、だんだんその年に近づいてきましたね。落語家が自分に勢いがあって、お客さんも聞きたいっていうのが重なることは、実はすごく少ないのかもしれません。師匠が亡くなったのは、お前の後ろには誰もいないよっていう、強烈なメッセージでした。やっぱり師匠に寄っかかるような気持ちはそれまでありましたから。

 いまはテレビとかの仕事と落語の仕事を、いいバランスでさせてもらってます。なかなか僕の世代の落語家では、テレビやラジオに出させてもらうチャンスはないので、落語の敷居を下げるためにやってる部分もあります。桂文枝さんや笑福亭鶴瓶さんも、いかに落語をアピールするかを常に考えておられるので、しっかりやれということは、一門を超えて言われます。「こいつの落語はいい」って思われたい。そんな欲求がいま、すごくあるんです。=終わり

(この連載は小倉いづみ、浅倉拓也が担当しました)

 次のシリーズは野球解説者の福本豊さんです。

【朝日新聞社】