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歴史都市防災論文集 Vol.7(2013年7月)
【報告】
安政東海・南海地震 (1854年) による大阪湾岸での被害
一摂津国西成郡伝法村(現・大阪市此花区) の史料による一
The Damage Caused by the Ansei Tokai and Nankai Earthquakes (1854) in the Region Along
Osaka Bay.
According to the Documents in Dempo Village, Nishinari, Settsu Province (Now Konohana Ward,
Osaka City).
長尾 武
Takeshi Nagao
大阪市阿倍野区天王寺町南3-8-9
This report analyzes the damage caused by the Ansei Tokai and Nankai earthquakes in the region along Osaka Bay-
Dempo Village (now Konohana Ward, Osaka City). Dempo was situated by the Dempo River, which was one of the
tributaries of the Yodo River. In Dempo, the damage to buildings was larger than in Osaka City. I estimated the seismic
intensity at over 6+ in Dempo, and 5+in Osaka City. The damage caused by the tsunami was minimal in Dempo. In
Osaka City, many people who took refuge in boats, frightened by the earthquake, drowned in the tsunami. In Dempo,
people also took refuge in boats, but then got out when the tsunami came. As the result no people drowned.
Keywords : Ansei, Tokai, Nankai, earthquake, tsunami, Osaka, Dempo, seismic intensity
1. はじめに
1854年12月23日の午前8時頃(嘉永七年・安政元年十一月四日辰刻)に安政東海地震、その約32 時間
後の翌 24 日午後 4 時頃(五日申刻)に安政南海地震が起こった。大阪ではこれら二つの地震による被害の
区別は困難である。 奉行所による調査史料である『御触及口達』によれば、四日・五日の両地震による大坂
市中(大坂三郷)での家屋の被害は潰家 83 軒、 死者は 2人 (大坂三郷人別帳に記載の者だけ)である。五
日の地震の後、津波が大阪を襲った。津波による死者は、273 人 (大坂三郷人別帳に記載の者だけ)である
1)。死者の大部分は船に乗っていた人々で、その数は史料によって異なり、 数千人とするものもある。筆者
は 1500 人程度ではないかと推定している 2 。 津波による浸水被害は、地盤の高かった大坂市中では、幸町
など一部の地域を除いてほとんど無かった。 大阪湾岸の天保山付近や木津川流域 (現、 大正区、浪速区な
ど)で起こった。 しかし、 安治川以北の伝法村や春日出新田では浸水被害は無かった。
本研究では、安政東海・南海両地震による被害を調査した。 対象地域は大阪湾岸の安治川以北に位置して
いた摂津国西成郡伝法村 (現、 大阪市此花区伝法) である (図1)。 伝法村は淀川の分流であった中津川の
下流域、 伝法川 (伝法川は中津川の下流域の名称) の両岸に位置し、 中世末頃から大坂への河港 伝法口と
して成立した。石山本願寺や豊臣政権の大坂城への物資の補給地として、また、交通の要衝として栄えた。
江戸時代においても、 木津川口とならぶ、 大坂への海の玄関口として栄えた。西国よりの船が伝法口に入港
し、古川を経て、大坂市中に入ることができた。寛文十年(1670)に幕府領となり、行政的には村となった
が、それ以前は、大坂に準じて、幕府直轄都市の扱いを受けていたと思われる 4 貞享元年(1684)河村瑞賢
が九条島を開削し、 新川 (安治川) を通じて、大阪湾から一直線に大坂市中に入ることができるようになっ
1

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た。そのため、 伝法の港としての地位は低下し、その繁栄に翳りがあらわれ、天明年間には、船数 200 余艘、
人家400戸、 人口 1900 余と、 最盛期に比べて、 半減した 5) 。 しかし、 酒・味醂・酢などの生産は盛んで、
伝法の廻船問屋樽廻船によって江戸へ輸送された。
嘉永七年十一月四日・五日の地震によって、 伝法村では多くの建物が倒壊・大破した。『井上氏蔵井西
記』には、酒造家や寺院の建物被害, 死者がでたことを述べ、 さらに、地震の揺れから逃れるために船に避
難したことが記述されている。五日には津波が襲ったが、 波止場に少し乗る程度であった。 地震の際、船に
逃れていた人々が、津波の来襲で、船から上がり、避難小屋で過ごしたこと等、貴重な記録が記されている
6)
宇佐美・他(1999年)は『井上氏蔵井西記』に記載されている四・五日の地震動による被害から、伝法
での安政東海・南海地震の震度を5~6 と推定している。 その震度推定の方法は、 個別酒造家、 寺院ごと
に評価が行われており、 伝法全体を推定したものではない。 依拠されている『井上氏蔵井西記』は信頼でき
る史料であるが、井上弥兵衛氏が観察した範囲内での記述であり、 伝法での被害として抜け落ちているもの
もある。例えば、建物に大きな被害を受けた西念寺や鴉宮についての記述が無い。
本研究では、伝法で史料調査を行い、史料集に記載されていない史料も利用して、地震動による被害から
震度を推定した。 さらに住民の避難行動などについて、 大阪市中とも比較して述べた。
西念寺は十一月四・五日の安政東海・南海地震によって、諸堂が大破という大被害を被った。 安政二年に
本堂の修復が行われたが、 当時の棟札が保存されている。これには、地震の様子が四日、五日、それぞれ記
述があり、 また、余震が頻発する中で、 檀家が協力して寺の建物の補強に尽力している様子が記録されてい
る。また、西念寺の被害だけでなく、 村内の被害についても記述がある。
安楽寺では再建工事中の本堂が倒壊し、万延二年(1860 年)に再建され、その棟札が保存されている。
以上の3史料は、鴉宮について記述していないが、鴉宮では拝殿が倒壊し、明治十一年に再建された
が、その棟札が神社に保存されている。
※大阪の表記について、明治以前は「大坂」 が使われることが多かった。本稿では前近代の歴史的な用語
として用いる場合、 例えば、 大坂市中、 大坂三郷とした。 一般的に大阪と述べる場合や、 大阪湾などについ
ては、「大阪」とした。
図1 江戸時代末期の大坂市中および大阪湾岸の地図
大日本帝国陸地測量部、1885, 明治18年測量仮製2万分1地形図 尼崎・天保山・大阪を
参照し、安政期における海岸線に修正した。 ×印は安政南海地震津波で落橋(11 橋)。
2

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2. 安政東海・南海両地震による大阪湾岸 (摂津国西成郡伝法村/現, 此花区) での被害についての史料の記
伝法村では、安政東海・南海両地震によって、 酒蔵をはじめ、多数の寺社の建物が倒壊した。
『井上氏蔵井西記』、『西念寺の本堂修復の棟札』、『安楽寺本堂再建の棟札』、『鴉宮の拝殿再建の棟
札』の4史料に記載されている地震・津波関係の記述を紹介する。
(1) 『井上氏藏井西記』の記述
伝法村北組の酒造家・井上弥兵衛による記録である『井上氏蔵井西記』 のうち、 十一月四日・五日の記録
を抜粋して紹介する。
十一月四日朝(中略)巳刻大地震す、長し。 中西 [井上弥兵衛宅]の西納屋崩れ、酒蔵西へ倒れ、西の
壁落る。内の酒蔵の船場崩る。確屋壁落ち、新場蔵過半崩る。 上の町橋本太七宅皆倒れ、東店の西蔵
少々崩る。荒牧屋の樽納屋崩れ、元店北へ倒れたり。 角本の門塀皆崩れ、大工の新助の隣皆崩る。 小寺
店の新蔵の所、西光寺釣鐘堂皆崩れたり。田村の新蔵西の壁及新蔵一ヶ所崩る。昆布久の仕事納屋も崩
れたり。此辺大方倒れ、 安楽寺後堂も崩れ、 其外挙て数ふべからず。 昼の内二度・夜四度の小震あり。
家内皆上荷にて寝る。庄屋市左衛門・年寄吉兵衛・番人清三郎等見分に来り。御役所へ可申出由なり。
他所の事ハ未だ知れず。 南伝法も数个所崩れし由なり。 又下の町髪結の女房、 並母親の両人門へ出で、
筵部屋の壁落ちて打れし為、暫時絶息せり。
五日、此日晴れ、 薭島へ人足呼に遣せバ、四十六人来り、崩所取片付る。日の入頃、又大地震す。日暮
れて又大地震す。 跡海雷の如く鳴る。 暫くして津浪三度寄せ来れり。「二度目・三度目の津浪ハ波止場
へ少し乗る」 手前家内八上荷より上りて門前に居る。其中に又地震す。因て又も船に乗りしも、再び陸
に上る。 安楽寺・正蓮寺崩る。 「安楽寺ハ二度倒る」 又南伝法の上荷廣島米参拾石積居たるもの難船
す。鈴木町役所より西島新田へ御出張、村方火の元に気を付けよとの下知ありたり。夕方より家裏の畑
中へ小屋を建てゝ 家内皆々其所に寝る。 今度地震四度ありしなり。
(2)西念寺本堂修築時の棟札の記述
北伝法に位置する西念寺(現・伝法 5丁目)は十一月四・五日の安政東海・南海地震によって、 本堂・大
殿・大門・諸堂・塔頭・房舎・回廊・鐘楼・観音堂・龍王堂等、悉く大破した。大被害を受けた西念寺は、
安政二年に本堂の修復を行ったが、当時の棟札が残っており、安政東海・南海地震での様子を記録してい
る。拙著『水都大阪を襲った津波 2012年改訂版』 で、 すでに紹介したが、以下に記す。
表面
昔、安政二乙卯六月廿八日記ノ札 添棟札以後世其謂者 去ル嘉永七甲寅歳六月十四日八ツ半刻大地震
続而霜月四日辰半刻大震動二而後堂井西廊下崩落。 翌五日諸檀中打寄片付本堂庫裡大門等丸太材木ヲ以
杖ヲ加不終ニ申ノ中刻大地震及洪浪同初更大震動二而坊舎悉ク大破ニ及フ。 村中正連寺、安楽両本堂打
倒れ、酒造村家南北三拾ヶ所相倒れ共、 人我無恙、諸国之騒動大変不大方事偏厭欣之心増進ス。是有為
之受苦一向専修之祖光不戀哉。 爰耳当院修覆喜捨之諸檀越近年之劣世勧進志ヲ不遂、漸本堂膳修理諸佛
遷座之浄財喜捨ノ担名札裏ニ書置、後代鑑焉。
南無阿弥陀仏 摂州西成郡傳法山西念寺本堂修覆圓成 廿一主廣蓮社延誉寬應代敬誌
惣檀中百三拾軒
裏面に大工棟梁、 喜捨の檀家名を記す。
・棟札に記録された地震被害と住民の対応
十一月四日辰半刻(午前9時頃)に大震動があり、 西念寺の後堂と西廊下が崩れ落つ。
十一月五日、西念寺の檀家が集まって、 片付け、本堂・庫裡・大門等を丸太や材木で支える作業を行っ
た。作業が終わらないうちに、 申の中刻(午後4時頃)に大地震が起こり、津波が襲ってきた。初更(午後
7~9時頃)に再び大地震が起こり、 坊舎は悉く大破した。
正連寺、安楽寺の両本堂が倒壊し、 「酒造村家南北 30 箇所」 倒壊したと記録されている。 ただし、 鴉宮
の拝殿倒壊が記録されていない。 また、 人的な被害は無かったとしているが、 『井上氏藏井西記』には2人
3

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の死亡が記録されており、 死者2人が正しいと考えられる。
(3) 安楽寺本堂再建の棟札
北伝法の安楽寺(現・伝法 5丁目)では本堂再建の普請中であったが、嘉永七年十一月五日夜五ッ時
(午後 8 時頃)倒壊した。万延元年(1860 年)十二月五日に再建の普請に取りかかり、翌二年三月朔日に
棟上げを成就した。 その棟札が保存されている。 以下は, その抜粋である。
表面
万延二年酉三月朔日
天下泰平五穀成就
西成郡傳法村安楽寺本堂再建
当寺二十二世之住職 普益
上棟午上刻
大工棟梁
稗嶋村 梶原宇兵衛
脇棟梁
申村
市兵衛
同断
世話方
伝法村
庄七
當村井上仁兵衛
井上惣右衛門
同隱居 惣一
岸田屋 常七
同 惣次郎
裏面
于時本堂再建之儀弘化三午年五月廿一日願之上発起願主当村岸田屋仁兵衛取扱普請中嘉永七寅年十
一月五日夜五ツ時普請中為地震之再破相成候処此度高祖六百廻遠忌ニ付再建発起之上去申年十二月五日
普請取掛則当酉年三月朔日上棟成就相成目出度大慶之事
岸田屋惣次郎謹書
屋代增之助御代官所
摂州西成郡伝法村 北方庄屋※2 又右衛門
年寄 吉兵衛
榎並屋半兵衛
南方庄屋 惣兵衛
年寄勘兵衛
※1 弘化三年は1846年。
※2 伝法村は延宝年間の旧記によれば、 南北 2 箇村に分かれ、 庄屋はそれぞれ1名であった。 天明年間か
ら以降は伝法村の庄屋は1名となったが、嘉永年間より、再び南北1名ずつの庄屋が置かれるようになった
9)
(4) 鴉宮拝殿再建の棟札
南伝法の鴉宮(現・ 伝法2丁目)は伝法川と正蓮寺川の間に挟まれた砂州の東端に位置する。
十一月五日の地震で、拝殿が崩れ、 その後、 仮殿が建てられたが、明治十一年(1878)五月三一日に再建
された。その棟札が神社に保存されている。 関係箇所を抜き書きする。
安政元甲寅年十一月五日地震ノ為崩ル、 其後仮殿之修年月過行、 今明治十一年再建営ス。
3.地震動による被害
(1)地震動による酒造家などの被害
『井上氏蔵井西記』によれば、四日の地震(東海地震)による、酒造家などの建物被害が記録されてい
る。
『西念寺の本堂修復の棟札』によれば、四・五日の地震(東海・南海両地震)によって、 伝法の 「酒造村
4

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家南北30ヶ所」 が倒れたとある。
(2) 地震動による寺院・神社の被害
『井上氏蔵井西記』 によれば。 四日の地震 (東海地震)によって、 西光寺 (現・ 伝法3丁目) の釣鐘堂が
崩れ、安楽寺後堂も崩れた。 五日の地震(南海地震)によって、 正蓮寺 (現・伝法6丁目)が崩れ、 安楽寺は
二度倒れたとある。 『安楽寺本堂再建の棟札』 には、 本堂再建の普請中であったが、五日の地震で大破した
とある。
『西念寺の本堂修復の棟札』によれば、四日の地震で、後堂と西廊下が崩れ、五日の地震で、西念寺のす
べての建物が大破したということである。 また、 安楽寺と正蓮寺が崩れたとある。 しかし、 以上の3史料に
は、鴉宮についての記述は無い。『鴉宮拝殿再建の棟札』 によれば、 鴉宮の拝殿が倒壊したことが分かる。
これらの被害があった寺院、神社の位置を図2に示した。
昭著第55G011号
図2 此花区伝法付近の地図
昭文社・エアリアマップ・此花区・9500分1・1997年発行の地図に河川名、 被害を受けた社寺
などを加筆した。 各寺社の敷地面積は、当時とは変化している。
(3) 伝法村での、地震動による死者
『西念寺の本堂修復の棟札』によれば、 「人我無恙」 とあり、 伝法では死者は無かったとしているが、
『井上氏藏井西記』 によれば、下の町の髪結の女房と母親の両人は地震に驚いて戸外へ遁れたが、 門の所で
筵部屋の壁が落ちてきて、打たれ、暫くして死亡したと記録している。 実際には2人の死者があったと考え
られる。
4. 伝法村での震度
(1) 震度評価の判定資料による震度の推定
諸史料に記載の地震被害の内容から、 震度評価の判定資料を作成した。また、震度を推定して記した。
「酒造村家南北」 30 箇所倒壊した。ただし、建物の総数は不明。→震度6以上と思われる。
・西念寺では全ての建物が大破した。→震度6強以上と思われる。
・伝法には2神社あったが、 1神社で拝殿が崩れた。→震度6強以上と思われる。
・伝法には7寺院あったが,西念寺・安楽寺・正蓮寺の 3 寺院の本堂が大破・倒壊したのであった。ただ
し、安楽寺では再建工事中に被害にあったが、 建物としての耐震性は完成時と変わらないものと考えて
いる。大破・倒壊率は 42.9%である。 →震度6強以上と思われる。
・地震動による死者数2名。安政元年の伝法村の人口が天明年間の1900人余 10) と同じと仮定すれば、地
震動による死亡率は約 0.1%である。 →震度6強以上の可能性がある。
上記の判定資料から、 伝法村での震度は6強以上と推定する。
5

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5. 大坂市中と伝法村との震度の比較、
(1) 大阪市中の震度
宇佐美・他(2003年)は、大坂市中での震度を5~6と推定している 11)
筆者は住家の被害率 (潰家率) から、 震度を推定する。
1)表屋敷の潰家率
『御触及口達』は、大坂市中の住家の被害を潰家(全壊と同意とする) で記録し、83 軒(表屋敷で
裏借家は含まない)としている12) 当時の家数(表屋敷の総数)は不明であるが、推測値を求めて、
これによって表屋敷の潰家率を求めてみよう。
安政元年(1854)の人口は321,664 人 13) 家数は不明である。
・天保七年(1836)の人口は 364,393 人 14)、家数は 18,790 軒 15) である。 家数は人口の約 5.16%である。
・天保期と安政期とで,人口と家数の比に、大きな変化がなかったと仮定し、次のようにして家数の推定
値を求める。
321, 664 × 0.0516=16, 598 推定家数は 16,598 軒である。
安政元年の推定家数は 16,598 軒、 潰家数は 83 軒であるから、表屋敷の潰家率は、 約 0.50%となる。
2)大阪市中の震度
長尾(2012)は、宝永地震(1707年)による大阪市
中での民家の表屋敷の崩家率と震度の関係につい
て、 対応表を作成した16) (表1)。
宝永期と安政期とで、大坂の表屋敷の構造に大きな
差異が無かったと思われる。 潰家は崩家より被害が大
きいとも考えられるが、どちらも全壊の意味がある。
それゆえ、潰家率と震度の対応関係について表1が適
用できる。これによれば、潰家率 0.50% である大坂市
中の震度5強となる。
表1 表屋敷の崩家率と震度との対応関係
※崩家は現代の全壊と同程度の被害と考え
ている。
表屋敷の崩家率
Y≧15%
5%≦Y<15%
1%≦Y < 5%
0.1%≤Y<1%
0
震度
7
6+
6-
CO CO
LO LO
5+
5-
(2)大坂市中と伝法村との震度比較
地震の揺れの強さは、 伝法村では震度6強以上、 大坂市中
では5強、伝法村の揺れは、 大阪市中の平均より強かったと
言える。もっとも、 西山・小松原 (2009) が宝永地震の揺れ
について指摘しているように、 大坂市中では、軟弱地盤の西
横堀川以西や堂島付近で強い傾向があったと考えられる
17) 図3によれば、 大阪湾岸に位置する伝法村では、難波累
層の基底が-25m付近にあり、 沖積層の厚さは 25m程度と
いえる 18。 大坂市中の範囲の東端が上町台地、 西端が木津川
付近であるが、 難波累層の基底は、台地上では-5m~±0
m、木津川沿岸付近で-25m程度である。 また、中之島、堂
島付近でも-25m程度である。 伝法村の沖積層の厚さは、大
坂市中で地盤がもっとも軟弱な地域と同程度であった。 その
ため、地震の揺れが大坂市中の平均と比べて強くなり、 被害
が大きくなったと考えられる。
図3 難波累層基底の深度分布図
[古谷正和(1993)]を参照し、加筆した。図中☆は、伝法の位置を示す。伝法付近に-25mの等深線が
通っている。 江戸時代の大坂市中(大坂三郷)の大部分は、 東端が上町台地、西端が木津川の範囲内
にあった。 大坂市中の最も沖積層の厚い地域で、 25m程度であることが分かる。
6

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6. 伝法村での津波被害
(1)伝法村での津波の様子
『井上氏蔵井西記』によれば、五日の日暮れ頃、 海雷の如く鳴り、暫くして津波が三度押し寄せた。二
度目・三度目の津波は波止場へ少し乗る程度であった。 伝法村では津波による浸水は無かった。
(2) 津波の被害
浸水被害は無かったが、 船舶の被害が 『井上氏藏井西記』に記録されている。 南伝法の上荷船が廣島米
三十石を積んでいたが、津波にさらわれてしまったということである。 諸史料中、 伝法村での津波被害の
記録は、この1件だけである。
(3) 住民の避難行動 地震からの避難(船に乗る) -津波の来襲-陸に上がる
十一月四日、井上弥兵衛家では、家族全員、地震の揺れから遁れるために、上荷船に乗り、夜を過ごし
た。
十一月五日、夕方、津波が押し寄せてきたので、船から下りて、 門前(戸外) で過ごした。 また, 地震が
あり、再び上荷船に乗った。 その後、 陸に上がった。家裏の畑の中へ小屋を建て、家族全員が一夜を
過ごした。地震からの避難として、 伝法の富裕層では船に乗ることがよくあったようである。
(4)大坂市中との津波被害の違い
大坂市中では、 川船に避難していた人々は、津波のために、川口から押し上げられた大型の廻船の下敷
きとなって、 多数溺死した 19) 伝法村でも船に遁れる人々があったが、 溺死者は記録されていない。当
時、伝法川には西念寺の門前のすぐ南に、備前橋があったが、これについて、 落橋などの記録は無い。津
波による被害は、廣島米を 30 石積んでいた南伝法の上荷船が難船したという記録だけである。
津波の被害が大坂市中と比べて、 伝法村では小さいのは、何に起因するのだろうか。 伝法村では、津波
は波止場に少し乗る程度であった。 津波の波高は、 伝法村では、 木津川、 道頓堀川より低かったと推定さ
れるが、しかしながら、 犠牲者が多かった大坂の市街地でも、津波による浸水被害はほとんど無かった。
最も津波被害が大きかった道頓堀川沿いでさえ、道路上に水が溢れる程度であった 20)。津波被害の大き
さを決定した要因は、津波の波高だけではなく、大型廻船が川口に碇泊していたか、否か、ということも
ある。 安治川口や木津川口では、常時、 多数の大型廻船が碇泊しており、これらの船が、避難者を乗せた
小型の川船を押しつぶしたのであった。 他方、伝法川口では大型廻船が碇泊していなかったことから、小
型の川船が大型の廻船に押しつぶされることなく、 避難者が船から無事に降りることができたと考えるの
である。
7. まとめ
本研究は、既に刊行されている地震史料に加え、此花区伝法地区に保存されている史料を調査・活用して、
安政東海・南海地震による被害について述べた。 史料に記載の地震被害の内容から、震度評価の判定資料を
作成し、 伝法村での震度6強以上と推定した。 大坂市中の震度については、 潰家率によって評価し、 宝永
地震による民家の表屋敷の崩家率と震度との対応表を適用し、 震度5強と評価した。 伝法村が位置する大阪
湾岸は沖積層のより厚い軟弱地盤のため、揺れが大坂市中の平均より大きくなったと考えられる。
伝法村では、地震による被害が、 大阪市中に比べて大きかったが、他方、 津波による被害は、ほとんど記
録されていない。溺死者も無かったようである。
地震に対する住民の避難行動について、 伝法村と大坂市中とを比較した。大坂市中では、 地震による揺れ
を恐れて、堀川の船に逃れる人々が多かったが、 その後、襲った津波のために、 小船は大船に押しつぶされ
て、多数の人々が溺死したのであった。 伝法村でも地震の揺れを恐れて、船に逃れる者があったが、津波に
よる死者は無かった。 津波が迫ってきた時、船を下りて、陸に上がることが出来たのであった。 伝法川の津
波波高が、 木津川に比べて、 低かったと推測されるが、 被害を小さくしたのは、 津波波高の差だけでなく、
大型の廻船が碇泊していなかったことにもよると考えている。
7

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謝辞
西念寺、安楽寺のご住職様、鴉宮の神主様には、棟札の閲覧をさせていただき、また、ご教示を賜りまし
た。災害の記録を保存し、後世に伝えておられることにたいして、深く敬意を表します。英文の作成につい
て、jeremy Lasen 氏、 Reena Redcar 氏から援助を賜りました。本研究について、立命館大学吉越昭久先生、
小川圭一先生、編集委員の先生方から貴重なご教示、助言をいただきました。お世話になりました皆様方に
深く感謝いたします。
参考文献
1) 黒羽兵治郎編: 大阪編年史, 22, 第22巻, 大阪市立中央図書館・大阪市史編集室, 1976.
2) 長尾武 : 水都大阪を襲った津波一石碑は次の南海地震を警告している 2012年改訂版, 自家版, 2012.
3) 長尾武 : 1854年安政南海地震津波, 大阪への伝播時間と津波遡上高, 歴史地震, 23, pp.63-79, 2008.
4)直木孝次郎 森杉夫監修: 大阪府の地名 I, 日本歴史地名大系, 28, 平凡社, 747, 1986.
5) 大阪府西成郡役所編: 西成郡史, 1915.
6) 大阪府西成郡役所編:西成郡史, 1915.
7) 宇佐美龍夫・渡邊健・八代和彦 : 安政東海・南海地震による大阪市内の被害分布, 歴史地震, 15, pp.171-200, 1999.
8) 長尾武 : 水都大阪を襲った津波一石碑は次の南海地震を警告している 2012年改訂版, 自家版, 2012.
9) 大阪府西成郡役所編 西成郡史, 1915.
10) 大阪府西成郡役所編: 西成郡史, 1915.
11) 宇佐美龍夫:最新版 日本被害地震総覧, 東京大学出版会, 2003.
12) 黒羽兵治郎編:大阪編年史, 22, 第22巻, 大阪市立中央図書館・大阪市史編集室, 1976.
13) 新修大阪市史編纂委員会 : 新修大阪市史, 4, 大阪市, 1990.
14) 新修大阪市史編纂委員会 : 新修大阪市史, 4, 大阪市, 1990.
15) 大阪市参事会:大阪市史, 2, 1914.
16) 長尾武 : 宝永地震 (1707年) による大坂三郷 (北組 南組 天満組)での崩家率, 歴史地震, 27, pp.15-26, 2012.
17) 西山昭仁・小松原琢 : 宝永地震 (1707)における大坂での地震被害とその地理的要因, 京都歴史災害研究, 10, pp.13-
25, 2009.
18) 古谷正和:大阪平野地下, 大阪層群, 市原実編著, 創元社, pp.68-86, 1993.
19) 長尾武 : 『大地震両川口津浪記』 にみる大阪の津波とその教訓, 京都歴史災害研究, 13, pp.17-26, 2012.
20) 長尾武 : 1854年安政南海地震津波, 大阪への伝播時間と津波遡上高, 歴史地震, 23, pp. 63-79,2008.
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