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任天堂の山内溥元社長が死去 85歳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASHD1901A_Z10C13A9000000/
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任天堂は19日、相談役で元社長の山内溥氏が同日午前に死去したと発表した。85歳だった。






山内溥

山内溥とは、かつて任天堂に君臨したカリスマ組長である。


概要

1927年、京都府京都市生まれ。本名・山内博(50歳のときに現在の名前に改名)。1949年から2002年まで約半世紀にわたって任天堂の代表取締役社長を務める。2005年までは取締役相談役に就き、現在は取締役も辞して同社相談役。

独自の経営哲学とカリスマ性を兼ね備えたワンマン経営者として知られ、それはつまり悪く言えばそれは独裁的な経営であった。
本来会社においてそういった独善的な方針は部下達から毛嫌いされがちだが、宮本茂らが「社員はみんな社長の喜ぶ顔が見たいから頑張ってる」という言葉を残しているように、社員達からの信頼は厚かったという。
率直な物言いや、あたかもその筋の人のようなコワモテな風貌から、ネット上では「組長」の愛称で呼ばれる。

京都のいち花札メーカーであった任天堂を世界に名だたる企業にした立役者。また横井軍平や宮本茂、岩田聡などを見出してしかるべきポストにつけるなど、人物を見る確かな目を持っているといえる。

社長としての経歴
任天堂の社長に22歳の若さで就任(社長を継ぐはずだった父親が失踪したため)。世界初のプラスチック製トランプを開発、これを日本中の家庭に普及させて会社を業界トップへとのし上げた。

その後経営規模拡大を狙って多角経営(ベビーカーや食品業からタクシー会社、ラブホテル経営にまで及んだ)に手を出すがことごとく失敗する。これに懲りて1970年代以降は本業に近い玩具の製造・販売に業務内容を限定。1979年には横井軍平の開発した「ゲーム&ウオッチ」が大ヒットを記録、さらにその利益を使って開発した「ファミリーコンピュータ」の発売・大ヒットによって娯楽産業における任天堂の地位を確立した。

2002年に社長業を引退し、HAL研究所から任天堂取締役へと呼び寄せていた岩田聡を次期社長に任命。この直前に岩田を社長室へ呼び寄せてマンツーマンで経営哲学を3時間語り、その際に前述の失敗の教訓から「異業種には絶対手を出すな」と厳命した話はよく知られる。

また、最後に残していったとされる「2画面のゲーム機」のアイディアは、言うまでも無く後にニンテンドーDSとなって、任天堂を再び業界トップに押し上げることになった。
その後継である3DSも、前々から山内が特に好んでいた3D表現の名残が元となっていて、宮本茂は山内がしきりに「3Dはどうや?」の「飛び出さへんのか?」と3Dにこだわっていたことを明かしている。

趣味

囲碁が趣味で、アマ6段の段位を持っている。実力はそれ以上とも。

任天堂には「山内との対局でゲームCPUが勝たなければ囲碁ゲームを出せない」という暗黙のルールが存在する、という噂がある。ちなみに囲碁はゲームの性質上ほかのテーブルゲームと比較して思考ルーチンの組み立てが難しく、日本棋院が認定しているもっとも優秀なプログラムでもアマ初段。つまりこの噂が本当ならば、CPUにアマ6段の組長に勝てというのはちょっとした無茶振りである。

なお実際のところ今まで任天堂は囲碁ゲームをほとんど発売していない。2008年8月5日には任天堂初の囲碁ゲームとして「通信対局 囲碁道場2700問」がWiiウェアで配信開始されたが、これは基本的にオンライン対戦ソフトで、コンピューターとの対局は初心者用の練習対局のみである。

寄附を行っている時雨殿の件からも解るように、百人一首も嗜んでいたらしく、寄附以前のインタビューで「子供達が百人一首に興味を持って、遊ぶようになるようにしたい」といった希望を話していた事もあった。
















ご冥福をお祈りします