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源頼義 - Wikipedia

源 頼義(みなもと の よりよし)は、平安時代中期の武士河内源氏初代棟梁・源頼信嫡男で河内源氏2代目棟梁。

 
源 頼義
『前九年合戦絵詞』より
時代 平安時代中期
生誕 永延2年(988年[注釈 1]
死没 承保2年7月13日1075年8月27日
享年88[注釈 2]
改名 王代丸(幼名)、頼義、信海(法号)
別名 伊予入道
墓所 大阪府羽曳野市通法寺
官位 正四位下左馬助兵庫允左衛門少尉
左近将監民部少輔相模陸奥守
伊予守、鎮守府将軍、薨後贈正三位
氏族 清和源氏経基河内源氏
父母 父:源頼信、母:修理命婦
兄弟 頼義頼清頼季頼任義政
源為満室、源信忠
正室:平直方の娘、側室他:多気致幹の娘
義家義綱義光親清?、快誉
平正済室、徳姫(平則道=岩城則道(岩城氏の祖)の正室 or 清原成衡(平成衡)=岩城成衡?の正室と諸説ある)
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生涯 編集

河内源氏の御曹司 編集

頼信の嫡男として河内国石川郡壷井荘(現・大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰の館に生まれ、弓の達人として若い頃から武勇の誉れ高く、今昔物語集などにその武勇譚が記載される。父・頼信もその武勇を高く評価したといわれ、関白藤原頼通に対して長男・頼義を武者として、次男・頼清を蔵人(官吏)としてそれぞれ推挙したという(『中外抄』)。

長元元年(1028年)6月、かつて父・頼信の家人であった平忠常が関東において反乱を起こし(平忠常の乱・長元の乱)、朝廷は桓武平氏の嫡流である平直方を追討使に任じたが、鎮圧できず、大規模な反乱となった。

長元3年(1030年)に、朝廷は直方に代えて、頼信・頼義親子に忠常討伐を命じた。忠常は頼信・頼義親子の出陣を知ると、速やかに反乱を止め、降伏した。

頼義はこの反乱平定に際して抜群の活躍をしたと言われる。乱後、小一条院敦明親王の判官代として勤仕し、狩猟を愛好したと伝わる小一条院の側近として重用されている。

その一方、官位昇進は遅く、50歳を目の前にして、長元9年(1036年)に相模守として初めて受領に任じられた。

なお、次弟・頼清は、5年前に安芸守として受領に任じられており、その後も、陸奥守肥後守など諸国の受領を歴任し、着実に能吏としての道を歩んでいった。

桓武平氏の婿となる 編集

相模守在任中、平直方の女婿となった。平直方鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党をも頼義へ譲り渡した[注釈 3]

平直方は、自らは忠常の乱の鎮圧に失敗して追討使を更迭されたが、乱を収めた頼義の武勇に感じ入り、「私は不肖の将軍であったが、それでも我が家はかの平将門を討ち滅ぼした平貞盛の嫡流である。それ故に何事も武芸第一と考えてきたが、国守殿ほどの弓の名人をこれまで見たことがない。ぜひとも我が娘の婿となって頂きたい」と述べ、頼義へ鎌倉を譲り渡した。

頼義はこの直方の娘との間に八幡太郎義家賀茂次郎義綱新羅三郎義光の3人の子息に恵まれ、鎌倉の大蔵亭は長く河内源氏の東国支配の拠点となり、郎党である坂東武者達は後の奥州での戦いで大きな力となった。頼義はこの相模守在任中に得た人や土地を基盤として河内源氏の東国への進出を図る事となる。

陸奥守就任 編集

永承6年(1051年)、前九年の役が勃発し、陸奥守藤原登任が、奥六郡を支配する安倍氏に玉造郡鬼切部で敗れた。藤原登任は責により、陸奥守を更迭された。

登任の後任の陸奥守として頼義に白羽の矢が立ち、朝廷は頼義を陸奥守、さらに鎮守府将軍を兼任させるなどして、奥州の騒乱平定を期待した。こうして頼義はかつての父・頼信と同じように安倍軍鎮圧の大任を帯び、陸奥へと下向した。

頼義が陸奥守として陸奥の政庁であった多賀城に着任すると、安倍氏の首領であった安倍頼良は恭順の意を示し、自らの諱である「頼良(よりよし)」が将軍たる「頼義(よりよし)」と同じ音では恐れ多いとして「頼時(よりとき)」と名を改めるなど、平身低頭で頼義に従う姿勢を見せた。また中央でも国母である上東門院(藤原彰子)の病気平癒祈願による恩赦もあって、安倍氏の反乱自体が許された為、休戦状態(実質的に終戦)となった。

阿久利川事件 編集

以後、頼義の陸奥守在任中は何事もなく平穏に過ぎ、その任期満了である天喜4年(1056年)の年を迎える事となった。

頼時から惜別の饗応を受けた頼義が鎮守府から国府へ帰還する途中、阿久利川にて野営を敷いて一夜を明かす事となったが、その際に何者かによって頼義配下の陣が荒らされる騒ぎが起こった(阿久利川事件)。陸奥権守の藤原説貞の子・藤原光貞から頼時の嫡男・貞任の仕業であるとの言葉を受けて、頼義は頼時に貞任を引き渡すように求めた。頼時がこれを拒否して挙兵した。

頼義は軍勢を衣川の関へと差し向け、さらに朝廷からも頼時追討の宣旨が下され、再び安倍氏との前九年の役が再開される事となった。

永衡誅殺と経清出奔 編集

戦役の再開後に微妙な立場に置かれる事となったのが、頼義の幕下でありながら頼時の娘婿でもあった藤原経清平永衡であった。特に永衡は前任の陸奥守・藤原登任が安倍氏懲罰を行った際に安倍側に走った過去があったため周辺から疑いの目で見られていた。官軍が衣川まで辿り着いた時、ある者が頼義に「永衡は前国守(登任)様から厚く眼を掛けて頂いていたにもかかわらず、安倍軍に走った不義不忠の輩です。今は将軍(頼義)に従う素振りを見せてはいますが、腹の中では何を諮り巡らせているか知れたものではありません。しかもあの者の鎧は我が官軍の者とは違った色をしております。漢の黄巾賊や赤眉賊の例を見ても、装備の色や形で敵味方を判断していたといいます。これを見ても永衡が二心を抱いているのは明らかで、災いが起こる前に早くあの者を取り除くべきです」と進言し、頼義も「もっともな事である」として、この進言を入れて永衡を誅殺した。これによって疑心暗鬼となったのが相婿の藤原経清であった。経清は親しき知人に「義理の兄弟であった十郎(永衡)が将軍に誅殺されてしまった。昔、漢の韓信彭越高帝から誅殺された時、二人の同僚の黥布は背筋が凍ったというが、今の私はまさにその心境だ。どうしたらいいだろうか」と尋ねると、知人は「恐らく将軍は貴殿を信用しないでしょう。そして必ず御身に災いが起こるに違いありません。貴方は災禍が降りかかる前に舅殿(頼時)の元へ走るのが賢明でしょう」と答えたため、経清は「その通りだ」として私兵を率いて安倍軍へ走ってしまった。平永衡が真に二心を抱いていたかは不明であるが、これにより頼義は立て続けに有力な幕僚を失った。

頼時討死 編集

戦役の再開により、当初頼義の後任として予定されていた藤原良綱は、戦時となった任国地へ赴くのを恐れ逃亡してしまった為、頼義の陸奥守重任が決定された。陸奥守に再任した頼義は一進一退の戦況を打開するために、天喜5年(1057年)5月、配下の俘囚である金為時に命じて頼時の従兄弟といわれる津軽の俘囚長・安倍富忠を味方に引き入れ、安倍軍に対して攻勢を仕掛けた。一族からの離反者に慌てた頼時は、7月に富忠を説得しに自ら津軽へ向かうものの富忠勢の伏兵に遭い重傷を負い撤退、鳥海柵にてそのまま陣没してしまった。9月に頼義は朝廷に対し「私は諜略を以て金為時や安倍富忠などの俘囚を味方に引き入れ官軍の列に加えました。これを聞きつけた賊魁の頼時は富忠を引き留めようと説得を試みましたが、却って富忠の伏兵に遭い流れ矢に当たってそのまま死亡しました。しかしながら安倍軍は首領を喪ったにも拘らず未だ降伏の気配がありません。この上は官符を賜り、官軍の増援と兵糧を頂戴したく思います」との頼時戦死の報告書を送ったが、朝廷からの論功の音沙汰は無く、また安倍軍の方も頼時の跡を継いだ貞任が前にも増して気勢を上げるなど状況は官軍に好転しなかった。

黄海の戦い 編集

頼時討伐の勲功が出ないまま、同年11月に頼義は貞任を討つために兵1800程を率いて安倍軍の籠る河崎柵へ進軍した。対する貞任は精兵4000を率いて黄海(きのみ)にて迎撃を試みた(黄海の戦い)。慣れない土地柄の上、折からの風雪と慢性的な兵糧不足に悩まされていた官軍は、兵力でも大きく劣っていた為に安倍軍に散々に打ち破られ死者数百人を出す大敗を喫した。将軍・頼義もあわやという状況まで追い込まれたが、頼義の嫡男である義家の活躍で九死に一生を得たとされる。この時の義家の活躍ぶりは「矢を放てば必ず敵を射殺したため、安倍軍も懼れて散り散りに逃亡した(『陸奥話記』)」程であったという。嫡子・義家の獅子奮迅の活躍で窮地を脱したものの敗走する頼義に従うものは義家を含め藤原景通大宅光任清原貞広藤原範季藤原則明の僅か6騎で、30年来の忠臣であった佐伯経範をはじめとして、藤原景季和気致輔紀為清などの多くの家人をこの戦いで失う大打撃を受けた。なお、将軍の頼義も討死したとの噂も立つほどで、家人の藤原茂頼は「将軍討死」の報を受けて大いに悲しみ、出家して頼義の遺体を探す最中に生存していた頼義と再会している。

続く苦戦 編集

黄海の戦いで九死に一生を得た頼義ではあったが、この大敗によって受けた損害は甚大で、その後数年間は満足な軍事行動を起こす事が出来ず、ひたすら兵力の回復を待つ日々が続いた。この間も朝廷に対して隣国の出羽国の国守に援軍を派遣するよう依頼したが、当の出羽守・源斉頼は一向に援軍を派遣する気配を見せなかった。これを嘲笑うかのように安倍軍は奥六郡を思うままに支配し六郡の外を侵すことも度々であった。さらには先に安倍に寝返った藤原経清などは陸奥国内の諸郡に対して、赤符(国の徴符)ではなく白符(経清の私的な徴符)を用いさせて国へ納めるべき徴納物を堂々と奪い取り、国守たる頼義の面目を大いに潰す行動を行った。

清原氏の参戦 編集

康平5年(1062年)、頼義は再び陸奥守任期満了の年を迎えた。朝廷は新任の陸奥守として高階経重を任命して任地へ下向させたが、陸奥国内の郡司や官人達は経重の指示に従わず前国守である頼義の指図に従ったため、陸奥守としての勤務が困難と判断した経重は虚しく帰京した。これを受けて朝廷は三度頼義を陸奥守に任命し、併せて奥州の騒乱の鎮圧を頼義に賭ける事となった。

頼義は出羽に勢力を張る清原氏の兵力に目をつけ、清原氏の当主である清原光頼に対し参戦を強く要請した。はじめのうちは参戦に渋っていた光頼であったが、頼義が朝廷の命を楯に依頼したことや「奇珍な贈物」を贈り続けた事から参戦を決意し、7月に弟の清原武則を総領代理として1万の兵を率いさせて頼義の元へ出仕させた。これにより国府の兵力と併せておよそ1万3000の兵を擁した官軍は大規模な軍事作戦を行う事が可能となり、8月16日に栗原郡営岡にて以下の7陣に分けた軍団を編成した。

このうち頼義は将軍として第5陣に属して全軍を統率した。

官軍の反攻 編集

翌8月17日、官軍は安倍軍の拠点の一つである小松柵へと到達した。この柵は貞任の叔父である安倍良照と弟の安倍宗任が守将として籠っており、はじめ官軍は慎重に柵の攻略を進めようとしていた。しかし、図らずも接敵してしまったために戦闘がおこなわれる事となった(小松柵の戦い)。頼義は「攻撃は明日のつもりであったが、今既に戦いは始まってしまった。しかし戦というものは好機が来たら始めるものであって、吉凶を占い日時を選んで行うものではない。まさに今がその時だ」と意気込み、武則も「今の官軍の勢いは侵略する水火の如くです。これ以上の開戦の機会はありません」と同調した。小松柵は南を激流、北を断崖に挟まれた難攻の柵であったが、官軍の将である深江是則大伴員季らおよそ20名の兵が断崖をよじ登り、柵内に乱入したため安倍軍は大混乱に陥ったという。守将の宗任は800騎を率いて柵外へ打って出て、その奮戦は著しいものであったが、頼義は直属の部将である平真平菅原行基源真清刑部千富大原信助清原貞廉藤原兼成橘孝忠源親季藤原時経丸子弘政、藤原光貞、佐伯元方平経貞紀季武安部師方らを差し向け安倍軍に攻勢をかけると、さしもの宗任も敗れて小松柵を放棄して落ち延びた、新制官軍の初戦を勝利で飾る事となった。

小松柵の戦いに勝利を収めた官軍ではあったが、折からの長雨で徒に数日を過ごさざるをえず、やがて兵糧が欠乏するような状況となった。これを聞きつけた貞任は官軍本陣への奇襲を図り、9月5日に官軍の本陣のある営岡へ8000の精兵を率いて攻め寄せた。この時、頼義の傍に侍っていた武則は戦勝祝いの言葉を述べた。この言葉に頼義が訝しむと、武則は「地の利の無い官軍がこれ以上六郡を深く進軍しても被害を大きくするだけです。そんな中、安倍軍が自ら我らの前に飛び込んで来てくれたのです。これは賊軍を討ち果たす絶好の機会と言えるでしょう」と答えた。これを聞いた頼義は尤もな事であるとして、四方隙の無い「常山蛇勢の陣」を敷くと安倍軍を迎撃した。官軍と安倍軍の戦いはおよそ6時間続く激戦となったが、息子である義家と義綱の活躍もあって、ついに安倍軍は敗走を始めた。頼義は武則へ貞任の追撃を命じると、自身は官軍の将兵を労り、また負傷者を厚く気遣ったといわれる。この頼義の振る舞いに将兵はみな感激し、「我らの命はこの御恩の為に使いたいものだ。武者の命は義理の前にあっては軽いものであるから、今、将軍の為に死んだとしても何ら恨むことはない。かつて太宗が自らの髭を焼いて、傷ついた将兵の膿を啜ったという話があるが、我らが将軍の気遣いもそれ以上ではないか」と言い合った。

衣川関の戦い 編集

一方、安倍軍は頼義から追撃を命じられた武則の部隊によって衣川関へと敗走していた。翌6日、高梨宿に着陣した頼義は直ちに衣川関を攻める構えを見せた(衣川関の戦い)。しかしながら衣川関は、かの函谷関と比される堅牢さであり、さしもの官軍も攻めあぐねる状態であった。そこで武則は久清という部将を呼び寄せ、衣川関に潜入して火攻めを行うよう命じた。久清は命令通りこれを実行し、安倍軍はたちまち大混乱に陥った。頼義は官軍を率いてこれを散々に討ち破り衣川関を制圧した。尚、この最中に義家と貞任の有名な「年を経し糸の乱れのくるしさに(貞任) 衣の館はほころびにけり(義家)」の和歌のやり取りの逸話が生まれている。この一連の戦いで安倍軍は平孝忠金師道安倍時任安倍貞行金依方などが戦死し、貞任は父・頼時絶息の地である鳥海柵へと敗走していった。

鳥海柵制圧 編集

同11日、官軍は安倍軍を追って鳥海柵へと至ったが、すでに安倍氏は鳥海柵を放棄して本拠地である厨川柵へと退却してしまっていた。柵内には大量の美酒が残されており、はじめ頼義は毒が盛られているのではと警戒したが、毒見をした結果、その心配は無かったので将兵に酒を振る舞うなどにより官軍の士気はますます高まった。頼義は武則に「頼時を討伐してより、鳥海の柵という名をずっと聞いていたが、これまで実物を見ることができずにいた。しかし今日貴殿らの活躍によって初めてここに入ることができた。武則殿よ、今の余の顔色を見てどのように感じるか?」と語った。

武則は「将軍は長年にわたって皇家の御為に忠節を尽くして来られました。風の中で髪をくしけずり雨で髪を洗い、蚤や虱のたかった甲冑をお召しになり、官軍を率いて苦しい征旅を続けられました。既に開戦より10余年の歳月が過ぎておられる。天地の神仏は将軍の忠孝を助け、我が将兵たちは皆、将軍の志に感じ入っております。今、賊軍が敗走したことは、これまで溜めていた水が堤を切って流れ出したようなものです。私は将軍の指揮に従っただけです。どうして私に武勲などありましょうか。ところで、将軍のお姿を拝見しますと、白い御髪が半ば黒に戻っている様に見えます。厨川柵を陥として貞任の首を取ることができれば、将軍の御髪はきっと漆黒となり、痩せられたお身体もふっくらとなされるのではないでしょうか」と答えた。

これに対して頼義は「貴殿は一族郎党を率いて、羽州から大軍を発して来られた。堅牢な甲冑に鋭い太刀を持ち、矢礫に立ち向かって陣を破り城を落としてきた。その戦術はまるで石を転がすように見事なものであった。まさにその活躍によって余も皇家に忠節を遂げることができたのだから、貴殿は戦の功を余に譲ることなどない。しかし、余の白髪が黒く戻ってみえるというのは、冗談でも嬉しく思う」と笑ったという。

厨川柵の戦い 編集

鳥海柵を攻略した官軍は15日についに安倍軍の本拠地である厨川柵へと到達した(厨川柵の戦い)。安倍の本拠地だけあって流石に厨川柵の守りは固く、安倍軍は柵上より雑仕女達に歌舞をさせて余裕を見せるなど官軍を挑発した。頼義以下将兵は大いに怒り、柵を遮二無二に攻めたが徒に被害を増すだけであった。そこで17日に頼義は火攻めを決意し、近隣の村々より木材や藁を集めるよう命じた。火攻めの準備を整えると、頼義は遥か皇城を拝み「かつて漢の将軍の忠節に呼応して枯池に水が溢れて軍の窮状を助けたといいますが、今、我が国においても天皇の御威光は新たかです。この御威光により大風が起こり私の忠節をお助けください。八幡の神々よ、何とぞ風を吹かせ火を起こして厨川柵を焼いてください」と祈念して火をかけると、忽ちに大風が起こり厨川柵を焼き上げるに至った。柵を焼かれた安倍軍は大混乱となり、ある者は官軍によって殺され、またある者は捕縛されていった。そのような中、官軍から離反した藤原経清も官軍に捕縛された。頼義はこれを喜び、直ちに検分する事とした。その離反によって戦役を泥沼化させ、さらに国守としての頼義の面目を大いに潰した経清に対する頼義の憎悪は凄まじく、「貴様は源氏累代の家臣でありながら、主君たる余を裏切り、また畏れ多くも朝廷の御威光を蔑ろにした大罪人である。今ようやく貴様を虜にする事が出来た。貴様はこの状況でもまだ白符を使えとほざけるか」と罵ると、経清は深く頭を垂れたまま何も語らなかった為、頼義は鈍刀にて経清の首を刻み落とし、積年の鬱憤を晴らす事が出来た。

安倍氏の滅亡と前九年の役の終結 編集

貞任は捕縛され、頼義の前に引き出された際には重傷を負って既に瀕死の状態であったとされ、頼義を一瞥して息を引き取ったといわれる。貞任の弟である重任は戦死、同じく弟の宗任は官軍に投降した。13歳になる貞任の嫡男・安倍千世童子丸は捕縛され、頼義は千世童子丸の貴公子然とした振る舞いに感心し一時は助命をも考えたものの、武則の後の災いになるとの意見を入れてこれを斬らせ、他にも多くの安倍一族を処刑・捕縛した。こうして天喜4年の戦闘再開から8年、鬼切部の戦いから数えれば12年にわたる前九年の役が終結した。

戦後 編集

康平6年(1063年)2月16日、頼義は貞任、経清、重任の首を掲げて都へ凱旋した。都大路は遠く夷敵の地で戦い続けた老将軍と官軍の勇姿を一目見ようと物見の民衆で溢れたという。2月25日、除目が行われ、頼義は朝廷より正四位下伊予守に任じられる事となった。この当時の伊予国は播磨国と並んで全国で最も収入の良い「熟国(温国)」として知られ、そのために伊予守も播磨守と共に「四位上﨟」と称される受領の筆頭格であった。当初の無血鎮圧の目論見に失敗し、そればかりか鎮圧に12年もの歳月をかけた頼義ではあったが、この「公卿一歩手前」という恩賞を見る限り、その功績は大という評価を朝廷から受けたとみえる。この他、嫡男・義家も従五位下出羽守に任じられ受領となり、次男・義綱は右衛門尉に取り立てられた。また、清原武則は従五位上に加階の上(武則は元から従五位下)、鎮守府将軍に補任されるなど各々恩賞を受けた。

「四位上﨟」たる伊予守に昇進した頼義であったが、未だ恩賞を手にしていない将兵の為に都へ留まり、彼らの恩賞獲得に奔走した。これにより伊予へ赴任するまでの期間の官物は私費をもって納入したとも言われる。頼義は国府桜井や道前平野周辺(周桑郡新居郡)を拠点として河野親経と共に伊予国内に八ヵ所の八幡堂を建立した。

晩年 編集

 
源頼義墓

伊予守の任期を終えた後は出家し信海入道と号して余生を過ごし承保2年(1075年)7月13日に没した。享年88。晩年はこれまでの戦いで命を落とした敵味方の為に「耳納堂」という寺堂を建立し、「滅罪生善」に励んだという。その他、河内源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請して、壷井八幡宮大阪府羽曳野市)と鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身)、大宮八幡宮東京都杉並区)等を創建した。

墓所は大阪府羽曳野市の河内源氏の菩提寺だった通法寺跡にある。

官歴 編集

※日付=旧暦(明治5年12月2日まで)

評価 編集

前九年の役を描いた『陸奥話記』では「沈毅にして武略にまさり、最も将帥の器なり」「士を愛し施しを好む」とされている。一方で、阿久利川事件後の安倍氏との戦いでは、部下の離反により作戦行動に失敗していることなどから、その能力を疑問視する意見もある。とは言え、前述のように10有余年にわたって奥州で戦い抜いた頼義に対する朝廷の評価は頗る高く、伊予守という受領の筆頭格の地位を与えた戦後の恩賞を見てもそれは明らかである。

中外抄』や『古事談』には母親の修理命婦が自身の侍女の半物の恋人の随身と密通して随身中臣兼武を産んでおりこれを嫌悪し前九年の役で死亡した馬の供養はしても母親の供養はしなかったと書かれている。また母方の身分の低さから頼義自身も官職では伸び悩んでいた事もあり、それ以降河内源氏の棟梁は家柄の良い娘を選ぶようになったと『中外抄』には伝えられている。

系譜 編集

家人 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 系図纂要』では正暦5年(994年)4月8日生まれとされている。
  2. ^ 尊卑分脈』では永保2年(1082年11月2日死去、享年88とされている。
  3. ^ ただし、直方も頼義も京都を根拠とする軍事貴族であることから、実際には忠常の乱以前に京都にて婚姻関係が成立していたとみられ、頼義の相模守就任を機に直方から鎌倉を譲られた可能性がある[1][2]

出典 編集

  1. ^ 川合康「横山氏系図と源氏将軍伝承」『中世武家系図の史料論』 上巻、高志書店、2007年。 /所収:川合 2019, pp. 78–80
  2. ^ 川合康「鎌倉幕府の草創神話」『季刊東北学』27号、2011年。 /所収:川合 2019, pp. 267–268

参考文献 編集

  • 元木泰雄『源頼義』吉川弘文館〈人物叢書〉、2017年。 
  • 元木泰雄『河内源氏』〈中公新書〉2011年。 
  • 野口実『武家の棟梁の条件』〈中公新書〉1994年。 
  • 安田元久『源義家』吉川弘文館〈人物叢書〉、1966年。 
  • 川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年。 

関連項目 編集