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相馬大作(そうまだいさく)とは? 意味や使い方 - コトバンク

相馬大作(読み)そうまだいさく

精選版 日本国語大辞典 「相馬大作」の意味・読み・例文・類語

そうま‐だいさく【相馬大作】

江戸末期の南部盛岡)藩の地方給人。本名下斗米(しもどまい)秀之進。もと南部家に臣従していた津軽家が、主家以上の権勢を得てきたことに義憤を感じて、文政四年(一八二一)同志らとともに津軽侯を暗殺しようとしたが発覚。江戸に逃れ名を相馬大作と改めたが、幕吏に捕えられ小塚原で斬られた。寛政元~文政五年(一七八九‐一八二二

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デジタル大辞泉 「相馬大作」の意味・読み・例文・類語

そうま‐だいさく〔サウま‐〕【相馬大作】

[1789~1822]江戸後期の南部藩士。本名、下斗米秀之進しもとまいひでのしん。もと南部家に臣従していた津軽家が、主家以上の権勢を得たことに義憤を感じて津軽侯殺害を計画したが発覚。江戸で捕らえられて刑死

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「相馬大作」の意味・わかりやすい解説

相馬大作
そうまだいさく
(1789―1822)

南部(盛岡)藩の浪人。檜山(ひやま)騒動(南部騒動)の首謀者。本名は下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)。父は南部藩士。1803年(享和3)15歳で江戸に出、平山行蔵(ひらやまぎょうぞう)(子龍(しりょう))の門に入り修業。帰郷して福岡(岩手県二戸(にのへ)市)に道場兵聖閣(へいせいかく)を開き、兵法と砲術を指南する。津軽(弘前(ひろさき))・南部両藩の対立は立藩以来のものだが、江戸中期には家格競争となって表れた。08年(文化5)津軽藩は10万石に高直りし、20年(文政3)藩主津軽寧親(やすちか)はついに侍従に昇進した。これを不正によるものと憤激した大作は、関良助らと謀り21年4月4日、白沢村(秋田県大館(おおだて)市)岩抜山(いわぬきやま)(一説に矢立(やたて)峠とも)で寧親襲撃を企てたが、事が露見し暗殺計画は失敗した(檜山騒動)。江戸へ逃れ相馬大作と変名し道場を開いたが、翌年正月捕らえられ、8月小塚原(こづかっぱら)で獄門に処せられた。大作は北方警備にも強い関心を抱いていた人物という。

[工藤睦男]

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改訂新版 世界大百科事典 「相馬大作」の意味・わかりやすい解説

相馬大作 (そうまだいさく)
生没年:1788-1822(天明8-文政5)

江戸後期,盛岡藩の地方給人。本名は下斗米(しもどまい)秀之進。盛岡藩領福岡の下斗米惣兵衛の子。家は代々平野屋の屋号を持つ商人でもあり,紙・蠟・油・漆などの販売を行っていた。1802年(享和2)江戸に出て,幕臣夏目長右衛門および紀州藩士平山行蔵に兵法武術を学んだ。15年(文化12)郷里福岡に帰り,講武場を設け,子弟の教育にあたった。師である平山の影響をうけ北方警備に関心を持ち,18年(文政1)松前に渡り地理風俗を視察した。彼は藩主南部利用に位なく,津軽藩に比して家格が低いことを憂憤し,21年に羽州秋田領白沢宿の岩抜山で,帰国途中の津軽寧親を暗殺しようとし,道筋に地雷を埋め,大筒を備えて待ちうけたが,計画が露見して失敗した。妻子および門人の関良助と江戸にのがれ,相馬大作と姓名を変えたが,津軽藩の要請を受けた幕吏に捕らえられ,良助とともに獄門に処せられた。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「相馬大作」の意味・わかりやすい解説

相馬大作【そうまだいさく】

江戸後期の陸奥(むつ)盛岡藩の地方給人。本名は下斗米(しもとまい)秀之進,下斗米家は紙,蝋,油,漆などを扱う商人でもあった。江戸に出て兵法武術を学んだ秀之進は帰国後郷里福岡(のち金田一に移転,いずれも現在の岩手県二戸市)に私塾兵聖(へいせい)閣を開き,門弟の指導にあたっていたが,もと盛岡藩南部家に臣従していた弘前藩津軽家が江戸時代に南部家をしのぐ勢いとなったのを不満とし,1821年門人の関良助らとはかり,帰国途中の弘前藩主津軽寧親(やすちか)を襲撃しようとして発覚(檜山(ひやま)騒動),相馬大作と名を変えて江戸に逃れたが捕らえられ,獄門に処された。
→関連項目二戸[市]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「相馬大作」の意味・わかりやすい解説

相馬大作
そうまだいさく

[生]寛政10(1798).盛岡
[没]文政5(1822).8.29. 江戸,小塚原
江戸時代末期,文政4 (1821) 年に起った南部騒動 (檜山騒動 ) の首謀者。南部 (盛岡) 藩士下斗米 (しもどまい) 総兵衛の子。通称秀之進。相馬大作はその変名。もと南部家の家臣だった津軽家が小田原征伐のとき主家を欺いて独立し,江戸時代になると南部家以上の権勢をふるった。これに不満をもつ相馬大作らは,津軽藩主の弘前入部の途中,矢立嶺,六郷川畔でこれを襲撃しようとしたが失敗し,江戸で捕えられ処刑された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「相馬大作」の解説

相馬大作 そうま-だいさく

1789-1822 江戸時代後期の武士。
寛政元年生まれ。陸奥(むつ)盛岡藩の浪人。藩主南部家の家臣筋にあたる津軽家(弘前(ひろさき)藩主)の官位昇進などにいかり,文政4年津軽寧親(やすちか)の参勤交代の帰途を襲撃しようとしたが発覚(南部騒動),江戸で捕らえられ文政5年8月29日処刑された。34歳。本名は下斗米将真(しもとまい-まさざね)。通称は秀之進。
【格言など】ふかばふけ倒さば倒せ秋嵐こころの山をいかでうごかん(辞世)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「相馬大作」の解説

相馬大作
(通称)
そうまだいさく

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
講談桧木山実記 など
初演
明治14.9(大阪・角の芝居)

出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の相馬大作の言及

【矢立峠】より

…峠は羽州街道の難所で,吉田松陰はそのようすを《東北遊日記》に記している。1821年(文政4)南部藩士相馬大作らが参勤の津軽藩主を襲おうとした事件の舞台ともなった。現在は峠の西を奥羽本線矢立トンネルが通る。…

※「相馬大作」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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