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北東アジアのツングース系諸民族住居に関する歴史民族学的研究 浅川 滋男
Page 1
研究No.9502
佳宅総合研究財団
研究年報No.231996
北東アジアのツングース系諸民族住居に関する歴史民族学的研究
一黒龍江省での調査を中心に一
浅川 滋男
キーワード:])黒龍江,2)ツングース,3)朝鮮族,4)満州族,5)平地住居,6)竪穴住居,7)テント,
     8)航,9)オンドル,10)定住性
1.ツングースの住居研究
1.1北東アジアのツングース
 (1)ツングース諸語とその担い手
 広義のツングースとは,アルタイ語系ツングース諸語
を話す,すべての民族を総称する。狭義にはエヴェンキ
族のことである。ツングース諸語はツングース・満州諸
語ともよばれ,古典的には「南方=満州派」と「北方=
シベリア派」に大別されてきた。しかし,近年ではより
精綴な分類が進み,池上二良は,
 第I群:①エヴェン語(ラムート語),②エヴェンキ語,
     ③ソロン語,④ネギダール語,
 第1群:⑤ウデヘ語,⑥オロチ語,
 第皿群:⑦ナーナイ語(ゴルディ語),⑧オルチャ語,
     ⑨ウイルタ語(オロツコ語),
 第IV群:⑩満州語,⑪女真語
の4群に分けている注1)。
 第I群は,中国北部からシベリアの広大な地域に拡散
し,その担い手はトナカイの飼育をともなう狩猟・漁労
民である。第π・皿群は,アムール川の本流・支流の流
域,および沿海州とサハリン(樺太)に分布する。オロ
チ族,ナーナイ族,オルチャ族は,アムール川のサケ類
やチョウザメなどを捕獲する定住漁労民で,かつては竪
穴住居に住んでいた。一方,ウデヘ族はノロ,ヘラジカ,
クマなどの狩猟が主生業で,漁労は副次的な活動にすぎ
ない。かつてオロッコの愛称で知られた樺太のウィルタ
族は,海獣狩猟・漁労・狩猟を主生業とするが,補助的
ノこトナカイ飼育もおこなう。
 第w群の満州語は,いうまでもなく満州族を担い手と
               じよしん
する。満州族の祖先にあたるのが女真であり,12世紀に
金朝,17世紀に清朝を建国した。歴史的にみてあきらか
にツングース諾語とわかる最初の言語は女真語であり,
金代の「大金得勝陀類碑」などの碑文や鏡の銘文に女真
語が残っている。満州語はかつて中国東北地方で広範に
話されていたが,清朝の漢文化への同化とともに使われ
なくなった。現在,満州語を話す地域は,黒龍江省の一
部の県と,新麗のチャプチャル・シボ族自治県に限られ
ている。
 (2)中国のツングース
 中国で独立した「民族」として認定されている55のグ
ループのうち,ツングース語を話す民族は満州族,シボ
 (錫伯)族,ホジ干ン(赫哲)族,オロチョン(都倫春)
族,エヴェンキ(都温克)族のみである。こういう民族・
言語の分類は,欧米や日本のそれとかなり異なっている。
たとえば,ソロン語(第I群③)は,内蒙古と黒龍江の
省境周辺に分布するが,中国では,それらの集団もエヴ
ェンキ族の一部とみなしている。一方,中国ではオロチ
ョン族を独立した民族と認定しているが,上の言語分類
では,エヴェンキ語(第I群②)の一部と考えられる。
 また,シボ族は満州族の地方集団とみなしうる民族
で,18世紀中頃,松花江中流域および遼河流域のシボ族
が,新彊のイリ(伊梨)河南部に移住した。一方,ホジ
ェン族とはナーナイ(第皿群⑦)のことである。ナーナ
イ(Nanai)とは「土地の人」を意味する民族の自称で,
近隣の異民族からは,ゴルディ(Go1di)とかゴリド
 (Go1’d)とよばれてきた。また,ホジェンというのは
「下流の人」を意味し,漢籍史料にみえる「魚皮轄子」
や「剃髪轄子」もホジェン族のことをさすようである。
 (3)朝鮮族とツングース
 朝鮮語は,アルタイ系の諸語や日本語と共通点が多く,
「アルタイ語族説」が有力であるともいわれてきた。し
かし,基礎語彙レベルでの音韻対応や借用関係が不明確
であり,厳密な意味での,朝鮮語とアルタイ系諸語の親
縁関係が立証されているわけではない注2)。つまり朝鮮
族は,ツングースとは一線を画すべき民族ではあるが,
       ほっかい  .まっかつ  こう く り
女真に先行する渤海,革末鞠,高句麗などは,古代の朝鮮
半島ともきわめてかかわりが深い。もっとも,現代中国
の朝鮮族は,朝鮮半島からの難民にほかならない。清朝
は当初,一切の異民族の東北3省入植を禁じていたが,
嘉慶年問[1796−1820]頃から,越境する朝鮮人が増え
てきた。とくに同治八年[1869]の大飢饅によって,李
氏朝鮮北部の人びとが大挙して豆満江をわたり,吉林東
南部へ移住した。これより先,中国へ逃れる朝鮮族は数
知れず,日韓併合時代から朝鮮民主主義人民共和国成立
後も増加の一途をたどり,’入植の足跡は黒龍江や遼寧に
までおよんでいる。現在,朝鮮族の総人口は約200万人
という。
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1.2研究の目的と概要
(1)考古学と民族学のアプローチ
 本研究は,建築学・民族学・考古学の研究者が協力し
て,北東アジアにおけるツングース系諸民族住居の特質
と歴史的変遷を描きだそうとする試みである。ところが,
ツングースの歴史そのものが,いまだあきらかになって
いない。すでにのべたように,ツングース語の最古の資
料は,12世紀女真の碑文や銘文であって,少なくとも言
語学的にみた場合,女真以前の国家や民族については,
「ツングース」という用語を控えるべき段階にある。と
はいえ,渤海,蘇鞠,高句麗などが,その後継者たる女
真と,文化的にまったく断絶しているわけでもない。本
研究では,とりあえず女真以前の北東アジア地域をもふ
くめ,できるだけ通時的な視点で,この地の住居をとら
えるべく努力してきた。これについて,すでに浅川は,
中国正史の東夷伝・北秋伝にあらわれた住居・建築関係
の描写を集成し,歴史的考察を加えている≒主3〕。
 この基礎的研究をうけて,本研究は考古・民族誌の資
料収集をおこないつつ,民族建築学的なフィールド・ワー
クにもとりくんできた。調査地は,申国でツングース系
諸民族が最も集中する黒龍江省である(図1−1)。
(2)調査の概要
第1次調査:1995年7月20日∼29日 浅川,大貫,黄が
参加。ハルピンの黒龍江省社会科学院で打合わせの後,
建三江,同江を経由して街津ロヘ。黒龍江(アムール川)
本流の南岸で竪穴住居,平地住居,倉庫,出作り小屋を
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    1  ㌧   1 山
        図1−1胴査地の位置
調脊した。
第2次調査:1995年8月24日∼9月21日 浅川,村田,
坂田,栗原,楊が参加。寧安市爆布村で朝鮮族集落の集
中的調査および周辺漢族・満州族住居の調査。蓮華ダム
建設事前発掘調査現場で,抱婁∼蘇鞠の住居跡の視察。
第3次調査:1996年7月6日∼7月21日 浅川,大貫,
黄が参加。黒河市の新生郷,遜克県の新興郷と新都郷で
オロチ1ヨン族の住居,言内河市の興旺郷でエヴェンキ族の
住居を調査し,阿城市の金上京遺跡も視察した。
 以上の調査で実測した家屋の総数は50軒(一覧表省
略)だが,本論文では,代表例のみをとりあげる。なお,
家屋番号のロー一マ字は,以下のイニシャルを採用した。
 H=Han Chinese/漢族,P・・Pupu Vi11age/爆布村
 丁二Tungus/ツングース系諸民族      (浅川)
2.考古資料よりみた黒龍江周辺の住居と集落
2.1東北アジアにおける竪穴住居の出現
 環日本海地域以上に寒いシベリアの伝統的な住居はテ
ントであった。したがって,黒龍江流域をふくむ環日本
海地域の竪穴住居は,たんに寒冷地適応だけでは説明で
きない。その出現は,定着的な居住システムの形成とも
かかわるはずである。シベリアの後期旧石器時代にすで
に竪穴住居が登場しているが,それと東北アジアの新石
器時代以降の竪穴住居とは,今のところ連続性がみとめ
られない。その点で注目されるのがカムチャッカ半島の
ウシュキI遺跡注4〕である。新石器時代の北東アジアに
おける竪穴住居の分布からすれば北限に位置するが,そ
こから旧石器時代終末期の浅い竪穴住居が4棟みつかっ
ている(図2−1)。門道をのぞく面積は,大きいものでも
40m2前後であり,小さいものは20m2未満である。ただし,
同一遺跡の別の平地建物との区別は明瞭でない。旧石器
時代にテント状の平地住居が想定されるとすれば,その
床面をわずかに鍋底状にくぼめたものから,さらに本格
的な竪穴が成立するというプロセスが推定される。それ
がカムチャッカのみに限定されるというのは考えにくい。
じっさい環日本海の別の地域でも,断片的には新石器時
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図2−1 ウシュキIむ跡の竪穴住居 1:150
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代初頭から旧石器時代に遡る竪穴状遺構がみつかってい
るから,新石器時代に竪穴住居の普及する別の地域でも,
同様の経過をたどった可能性が高いであろう。さらに,
この竪穴住居の普及が北東アジアにおける細石器文化以
降の定着的な居住システムの形成と関連するものであれ
ば,それが北から南下するとは考えにくい。
2.2新石器時代
 黒龍江流域で最も古い竪穴住居は,中流域のノヴォペ
トロフカ文化や下流域のコンドン文化の遺跡などでみつ
かっている。黒龍江流域の竪穴住居は,少なくとも今か
ら約6000∼700()年前に遡る。ただし,それ以前の集落の
遺跡は未発見なため,より古い竪穴住居がなかったとい
えるわけではない。また,それが上流域にはまったくな
かったともいい切れないが,基本的には分布していない。
この分布の境界は,生態系に規制された生業・居住シス
テムと深い関係があると考えられ,その後もこの境界は
あまり変動しない。コンドン遺跡注5)はコンドン文化期
よりおくれる持期の住居もふくむため,詳細は不明だが,
不整方形の竪穴住居(図2−2左)が主体で,ノヴォペト
ロフカ文化でも方形である。また,同時存在した住居を
確定することは困難だが,15∼20棟程度の竪穴が蜂の巣
状の配置を示す遺跡が多い。
 竪穴住居の構造は,壁沿いに柱穴が密にめぐるものが
主流をしめる⊃面積は,コンドン遺跡では30∼40m2の小
型のものがあるほか,60m2前後の中型のもの,100m2前
後の大型のものもある。確実に時期の異なる遺構が出土
しており,あまり意味をなさないかもしれないが,大・
中・小型に分かれる点には注意すべきで,社会集団の分
節構造を反映した可能性がある。ただし,先述した旧石
器時代ウシュキIでも,すでに大・小の分節化を看取で
きる。一方,ノヴォペトロフカ1遺跡ではすべて面積30
∼40m2の小型住居であリ,規模は比較的均一である。
 ところで,大・中・小という規模の分化は,黄河流域
の仰詔文化でもみとめられるが,小型は20m2未満が一般
的だから,黒龍江流域のほうが,全体的に規模が大きい。
後半期の下流域では,コンドン遺跡のヴォズネセノフカ
文化に属する円形の竪穴住居(図2−2右)がある。中流
域では,後半期まで下るのか判然としないが,ノヴォペ
トロフカ文化に後続するオシノ湖文化でも,円形の竪穴
住居がみつかっている。また,黄河流域の竪穴には」般
的に門道があるのに対して,黒龍江流域新石器時代の竪
穴には門道がない。これについては,より寒冷な積雪地
域での越冬居住とのかかわりが考えられよう。
2.3紀元前2千年紀∼1千年紀
 黒龍江流域の新石器時代に続く段階の資料は,時問的
にかなり離れ,紀元前1千年紀中葉以降になる。この時
期,すなわちウリル文化では,住居が大型化する。面積
が200m2を超える大型のものが出現し,50∼80m2前後の
住居が最も多くなる。そして長方形化する傾向がみとめ
られる(図2−3)。この長方形化は,朝鮮半島から日本海
沿岸で紀元前2千年頃からはじまる動きに連動したもの
であろう。黒龍江流域では,柱穴列の規則性が明確では
ない。豆満江流域をふくむ日本海沿岸では,長軸方向に
棟持柱が2列ならぶ平面,朝鮮半島西部では棟持柱中央
1列平面が基本のようである。都出比呂志のいう「求心
構造から対称構造への転換」とみてよいかもしれな
い注6)。床面積の大小は必ずしも居住成員数と相関する
わけではないが,1棟の住居あたりの居住構成が変化し,
共住化する傾向があったのかもしれない。と同時に,一
つの遺跡を構成する竪穴住居の数も新石器時代より増加
しており,同時存在数は不明ながら,集落白体が拡大し
ているようである。その背景として,農耕および家畜の
導入があろう。
 リブノ湖遺跡注7)では,門道がついた竪穴(図2−3)
がみつかっている。黒龍江流域で,竪穴住居構造として
出入口がはっきりわかるのは,この頃からである。
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図2−2 コンドン遺跡の竪穴住居 1:250
図2−3 リブノ湖迫跡の竪穴住居 1:!50
-89-

Page 4
2.4 紀元前後
 つづく紀元前後のポリツェ文化では,再び平面が方形
化する。規模はおおよそ大型110m2,中型80m2,小型40
m2似下に分かれ,新石器時代のコンドン遺跡と似た様相
を示し,再び小型化するようになる。一方,ひとつの遺
跡を構成する竪穴の数は30∼40棟と増えていくようであ
る。この頃,東北アジアの暖房装置として代表的な&#28821;の
祖形形態が出現し,それは甑をともなう竈とともに,日
本海沿岸まで急速にひろがっていった。その背景には,
鉄器の普及にともなう生産力の発展があった。
装置の普及とも連動して,南から徐々に平地住居への移
行がはじまるが,それは斉一的に進行したわけではない。
また,竪穴住居以外の住居が存在したことは,民族誌に
みえる夏の仮小屋1や老山頭遺跡注10〕のテント状遺構など
からみてもあきらかだから,季節による住み替えや移動
の問題も忘れてはならないであろう。
 大型住屠の性格としては公共的な場所などの可能性も
    
あるが,&#25401;婁や靺鞨では村ごとに首長あるいは大人が
いたと史書に記されており,それとの関係が注目される。
                     (大貫)
2.5 勿吉・靺鞨から女真へ
 つぎに黒龍江流域では,史書に「勿吉」あるいは「靺
鞨」とよばれる民族が登場する。これに桐当する考古学
文化は,中国では同仁1期・2期文化であり,ロシアで
は直接「靺鞨文化」と呼ばれる。城塞集落が黒龍江流域
にも普及するようになる。ミハイロフカ遺跡注8〕は,周
囲を土塁と壕でかこまれた1ha規模の集落で,内外に
300以上の方形の竪穴住居がみられ(図2−4),魏書にい
う「築城穴居」と合致する。柱穴配置は回字状で,旧・
新唐書によれば屋根は土葺であった。
 この遺跡の竪穴にもやはり大小があるが,最も大型の
もので40m2前後であり,さらに小型化しているようであ
る。また,住居の壁の一方に突出部があり,これを出入
口ではなく,貯蔵施設とみる見解が一般的であるが,天
井出入式との使い分けを考慮しても,突出部は出入口の
可能性を検討するべきであろう。
 祖形航をともなう竪穴住居から平地住居への移行は,
沿海州では,鉄器が普及し生産力の向上した渤海時代後
期になって生じる。また,祖形妨が現代の航の形式に発
展するのは,渤海時代後期のようである注9〕(図2−51)。
その妨付き平地住居が黒龍江申流域に普及するのは,11
世紀以降のようだが,このような平地住居への移行が一
斉に進行するわけではない。それは,今日まで竪穴住居
が一部に残ることからもあきらかであろう。
 以上みてきたように,竪穴住居は,定着的な生業形態
をもった人びとの防寒用住居として,北東アジアでは新
石器時代以降に普及した。その後,生産カの発展や暖房
図2−4
/・
3.黒龍江少数民族住居の調査
3.1ツングース系諸民族の住居
(1)満州族系の住まい
 中国の東北3省は清王朝の故郷であり,かつては女真・
満州族系の民族が支配していた。清朝は当初,東北地方
への異民族の入植を厳禁していたが,しだいに王朝その
ものが著しく漢化し,同時に万里長城を越えた漢族の北
方入植も進んでいった。今では,東北地方の人口の大半
を漢族が占める。しかし,東北地方の文化の底流には,
女真・満州族の血が脈々と流れている。おそらく,住居
形式はその血をうけつぐ代表的な物質文化の一つであろ
う。東北地方では,土着の満州族住居が,入植してきた
漢族の住居形式を変質させており,その文化波及は他の
ツングース系諸民族にもおよんでいる。そこで,ここで
は,これらの民族が共有する平地式建物を「満州族系の
住まい」とよんで一括し,以下に報告する。
 満州族佳居T04寧安市江東郷棄山村は100戸あまり
の集落で,数戸の満洲族が漢族に混じって生活している。
T04(図3−1)は草葺きの住居である。現在の家主は60
年ほど前からこの村に住みついた。70代の老夫婦を中心
に,息子2人と妻子をふくむ9人住まいである。
 南向きの主屋は,敷地の中央に建つ。約25年前の建築
で,一部に赤れんがを併用した日干しれんが造である。
切妻造の屋根は,軒が腐りやすいのでセメント瓦を一部
に用いているが,もとは全面が「羊草」葺きで,すでに
30年以上経過しているという。
 平面は,典型的な3列型である。すなわち,入口とな
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                    ⑤
     0 6m                     0  1m
ミハイロフカ城塞1:1500(左)と1号竪穴住居1:150(右)
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図2−5海林河口遺跡の平地住居 1:200
-90-

Page 5
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図3−1満州族住居丁04主屋平面図 1:200
る中央間に間仕切り壁に密着して竈を設け,両脇間の航
や壁暖房施設「炉子」に煙を供給する。中央間の北壁面
にはかつて窓をあけていたが,寒いのでふさいだという。
西の脇間にはいわゆる「万字&#28821;」を設ける。三方をコの
字にかこまれた脇間中央の土間に,方形のテーブル「地
梓」をおく。老人は西側(つまり奥)の&#28821;に腰掛け,そ
れ以外の者は,南北の航の縁や椅子にすわって食事をす
る。就寝の場合は北側の妨が上位で,「老人は航の頭に
いる」といい,焚口に近いほうに寝る。
 東の脇間は南北2室に分かれる。南の部屋は土間前
室で物置と化し,特別な機能はみとめられない。北の部
屋には航を設ける。間仕切り壁中央の壁暖房施設は,双
方の室内を暖め,北東の妨に接続して排煙する。
 漢族住居HO1寧安市街に近い江南郷張家村は,郊外
住宅地といった趣きがある。住民は90%が漢族で,残り
10%が満洲族である。H01(図3−2)の主屋は木造・日
干しれんが壁・草葺・切妻造で,50∼60年前に建てられ
た。もとは典型的な3列型の平面で,かつて東西の2室
には,いずれも万字&#28821;を設けていた。西脇間は結婚にと
もなう17年前,東脇間は10年以上前に改造した。西脇間
は唯一の居室部分で,南北に2分割し,南の&#28821;付きの部
屋を夫婦の寝室とする。北の部屋にも&#28821;があり,兄弟の
寝室とする。なお,南北2室の間仕切り壁は「火墻」,す
なわち壁暖房施設とする。
 中央間には竈が一つしかない。西南側の部屋の&#28821;に煙
を送るための竈である。調理は電熱器などで補っている。
土間には方形の貯蔵穴を掘り,水道もある。東の脇間は,
現在使われていないが,17年前に改造した&#28821;は形をとど
めている。万字&#28821;を改造し,中央間との出入口をふさい
で2室に間仕切りした。北側の部屋を土間として竃を設
け,南側の部屋には航を設けている。(坂田)
 ナーナイ族住屠TO1黒龍江省同江市郊外の街津口と
いう村で,ナーナイの平地住居を調査した。満州国時代,
アムール河岸域に分散居住していたナーナイの漁労民を
関東軍が強制集住させ,街津口という村をつくった。屋
敷地はグリッド状の道路にそって整然とならぶ。敷地は
木柵で囲いこみ,その入口に鳥居形の門をつくる。内部
に主屋や倉庫が配されている。主屋は,やはり満州族系
の平地式建物である。
 調査したTO1は,敷地が道路に北面しており,その西
端に簡素な開戸の門を設ける(図3−3a)。主屋は南向
きなので,門からは大まわりしなければならない。西側
隣家との境には薪を積みあげ,区画施設の代用とする。
主屋は大壁構造の平屋建で,外壁の厚さは50cmもあるが,
背面ではさらに突っかい棒のように傾いた柱を3ヶ所に
たてる。屋根は切妻造で,葺材には茅に似たオロフ
カ注11)という草を用いる。主屋の内部は2列に分かれ,
東側は前室を厨房,後室を物置とする。西側は1室空間
で,南側に抗を設け,北側には家具をおく。妨に煙を供
給する竈は,東側前室の間仕切り壁に密着して築かれる。
排煙用の煙突は,姉上の屋内西南隅にたてる。
 主屋の東側には,2棟の累木式倉庫タグトンを設ける
(図3−3b)。ナーナイの高床倉庫には多種あり注12),累
木式構法のものもふくまれるが,街津口の場合,地面に
接するほど低い揚床形式とするところに特徴がある。も
っとも,間取りによると,かつては最低50cmの高さに床
を張っていたとのことで,現在の地倉形式はその簡略形
であるという。小屋は束立ち。その棟束を左右から斜材
で支えている。屋根はオロフカ葺の切妻造とする。なお,
この家に居住するのは,67歳の老人男性1人であった。
 オロチョン族住居丁06 オロチョン民族郷新生村は,
黒河市の北西約60kmのところにある。新生村は1953年に
誕生した。この年,黒龍江省人民政府は6,000万元の補
助金を準備し,オロチョン族の定住化政策を実施した。
呼璃県・愛輝県・遜克県で,計69棟305室の家屋を新築し,
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図3−2漠族住居H01主屋平面図 1:200
図3−3aナーナイ族住居TO1
    全体平面図 1:400
図3−3b T01累木式倉庫
    断薗図 1:100
-91-

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いくつかの拠点集落に狩猟民を移住させたのである。新
生村もその一つであり,以後,定住農耕化が進められて
きた。村の総人口は1,046人(315戸)で,オロチョン族
はそのうち161人のみだが,かれらは,今なお小興安嶺で
ノロやハンダハンの狩猟に精をだしている。
 新生村には,漢族の大工が1953年に建てた住居がいく
つか残っている。いずれもログハウス形式の壁体を土で
塗りこめた建物で,屋根は板葺・切妻造とする。漢族大
工の作品とはいえ,漢族住宅に特有な空間の村称性はみ
とめられない。内部空間は2列に分かれ,その間仕切り
壁に接して,入口側に竈,居室側に航を配する。実測し
たT06(図3−4)では,居室がさらに南北に分割され,
いずれの部屋にも航を設ける。また,杭と杭のあいだの
間仕切り壁を「火堵」とする。
 エヴェンキ族住居丁10 内蒙古との省境にちかい訥河
市の興旺郷占仁村は,エヴェンキ族の村である。ただし,
         
村民は自分たちを「索倫」とよんでおり,池上の言語分
類にいうソロン語(第I群③)の担い手と思われる。興
旺郷全体の人口は12,720人で,そのうち462人(142戸)
がエヴェンキ族。調査した占仁村は,前村と後村に分か
れ,T09が後村,T10が前村の住居である。この村の建物
は,前述したオロチョンの住居よりも総じて古く,聞取
りによればT09は1930年代,T10は150年ほど前の建築と
いう。ここではT10をとりあげておく (図3−5)。
 T10の敷地は南側の道路に面し,中央の門から20mほど
畑のあいだの通路をぬけて,主屋の前庭に至る。主屋は
切妻造・平屋建で,屋根の葺材には下地に厚い土を塗り,
その上に草を貼りつけている。正面の外壁には赤れんが
を貼るが,これは1986年の改装である。主屋の東脇には,
カマボコ土葺屋根・平屋の物置が付属する。
 主屋の平面は3列型で,左右対称の漢族住宅にちかい
間取りといえよう。この場合,両側の部屋は航付きの居
室だが,中央間は漢式の「庁・堂」系広間ではなく,左
右の間仕切り壁に3つの竈が密着した厨房的空間となる。
また,居室の姉には,あきらかな造り替えの痕跡がみと
められる。T1Oでは,左右の居室いずれもが,かつては
「万字航」の形式をとっていた。万字杭では,奥にあた
る妻壁側が上座とされ,その壁面上部にはマルと呼ばれ
る神棚をおいた。占仁村では,万字&#28821;は減ったが,妻壁
内側にマルを残す家が少なくない。
           ▲
、__   ___7980_    _、
図3−4 オロチョン族住居丁06
   主屋平薗図 1:250
    へ
    τ二「一
 T10は150年ほど前にエヴェンキ族が建てた住居だが,
その後,売買が繰り返され,現在の家主(漢族)は1978
年にこの家を購入した。夫婦と娘2人の4人住まいで,
日常の起居は,中央間と東の居室で足りている。西の居
室はたんなる物置と化しており,万字&#28821;を撤去した場所
に大きな芋の貯蔵穴を設けている。小屋組は2重梁式の
素朴な架構で,棟木から板状の材を吊り下げ,天井組子
を支えている。
(2)竪穴住居「地缶子」
 同江市の街津口では,アムール川南岸でナーナイ族の
竪穴住屠を2棟発見した。ナーナイの竪穴住居は,この
地では「地審子」と呼ばれる。
 ナーナイ族住居丁02調査時を遡る2年前に廃屋とな
った竪穴住居(図3−6)。おもての妻のところだけ草を葺
いているが,それ以外はすべて土で覆われる。屋根土は
とくに締まっているわけでもなく,黒土をのせているだ
けで,その上は草ぽうぼう。裏側からみると,ただマウ
ンド上に草が生えているだけで,とても住まいにはみえ
ない。塚のようだという,靺鞨や馬韓の土室についての
東夷伝の記載を髣髴とさせる風景が,そこに展開してい
る。
 中に人ってみると,赤れんが積みの&#28821;・竈・煙突は壊
れはじめていた。内部は逆台形状の平面をしており,奥
半分に&#28821;をおく。姉の東北隅に煙突の付根,東南隅に竃
の痕跡が残る。小屋組は棟持柱式で,棟木と周堤上の桁
のあいだに多数の垂木をわたす。垂木は径5∼8cmの柳
の枝で,それを5∼10cmのピッチでずらっとならべる。
垂木を密に配し,その上に下地のムシロを敷いてから,
屋根に土をのせている。興味深いのは,一般的に土葺き
の場合,屋根勾配は緩いはずなのに,T02・T03ではいず
れも垂木勾配が45度近くあり,さらに垂木がわずかでは
あるが内側に湾曲していたことである。
 ナーナイ族住屠丁03 こちらは2年前に新築されたば
かりの竪穴住屠(図3−7)。50歳の女性(ナーナイ族)が
47歳の夫(漢族)とともに通年居住する。居住部分は平
面が3.3×3.9mで,地面から約80cm穴を掘りこみ,そこ
         
から丸太を3∼4本校倉風に積みあげて壁体とする。内
部は奥の半分に&#28821;を設け,その手前に2本の棟持柱をた
てる。棟木は屋内2本の棟持柱と,入口の両脇の柱との
あいだにわたされる。この2本棟木システムにより,屋
  6820.......一
            ㌧ノ
図3−5aエヴェンキ族住居丁10
    主屋平面図 1:250
航の痕跡 _.⑳○ 姉
占丁
、逗
一/
1■。
 ∫」。!)一ノ
…1二二=二==.■I■
一一穴
-92-

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図3−6一ナーナイ族竪穴住居T021:約200
頂部にはフラットな面ができあがる。架構はやや複雑で,
屋根の正面は切妻だが,背面は寄棟風になっている。こ
の背面側寄棟の屋根部分に窓を設けている。四角い板枠
を組み,ビニールで覆って採光をはかっている。垂木は
       
側面では棟木∼校木間,背面では隅木∼校木間にわたす。
垂木の直径やピッチはT02と変わらない。下地にはまず
枯草を敷き詰め,それをビニールで防水してから,厚さ
15cmほどの土を葺く。居住部分の脇に貯蔵穴が付属し,
竪穴が2段堀りになる点も,この住居の大きな特徴であ
る。貯蔵穴は平面が2.O×1.4m,居住部分の床面から40
㎝掘りさげている。ここには漬物を納めていた。
(3)テント住居「仙人柱」
 オロチョン族の夏のテントT05 オロチョン民族郷新
生村の人びとに,狩猟時に仮住まいとなるテントを作っ
ていただいた(図3−8)。オロチョン語でテントはアガ
という。漢語では「仙人柱」と表現される。「仙人柱」こ
そが,定住化する以前のオロチョン本来の住居である。
ここで作ったのは夏用のテントで,場所は村から2km
ほど離れた東山(小興安嶺北部)の白樺林の中。まず白
樺の樹を伐る。長さは4mほどで,先端の枝をY字状に
残す。この材を10本用意する。そのうち径の太い(底径
約6.5cm)の材を3本選び,この3本で三脚構造アチャ
をつくる。先端のY字状の股木をからめあうので,力の
バランスがとれて,アチャは十分安定感のある構造体と
なる。あとは残りの7本を円弧上にほぼ均等にならべる。
ただし,入口部分は間隔をややひろ
くとる。こうして直径3.15m,高さ
3.66mの円錐形テントの骨組ができ
あがる。これに2枚の綿布を巻きつ
ければ,テントが完成する。布の高
さは約2m。雨の日は,さらに1mほど高くして,煙抜
きの部分を小さくする。もっとも夏の晴れの日には,屋
外に炉を設けることが多い。
 ところで,本来夏用テントを覆うのは,白樺の樹皮で
編んだマットであった。きくところによると,樹皮マッ
トをつかう場合,垂木の間隔を短くする必要があるので,
ひとつのテントに18本の垂木を用いたという。
 オロチョン族の冬のテントT07 遜克県の新郭村では,
冬用テントの製作をお願いした(図3−9)。場所は,沽河
の河岸で近くに柳の樹林がある。冬のテントは夏のそれ
よりも,ひとまわり小さい。三脚構造アチャとなる3本
の柳の木は,伐りとられた材の長さが約3.15m,底径約
6cm。その他の7本はさらに小さく,長さが3m弱,径
も4cm弱で,完成した円錐テントは平面の径が約3.3m,
高さ2.4mである。作り方は夏用テントとまったく同じ。
綿布は3.45×2.78mのものを,やはり2枚巻きつけた。
本来は,ノロの毛皮で覆うという。
3.2瀑布村における朝鮮族住居・集落の調査
(1)鏡泊湖と朝鮮族集落
 吉林省の牡丹嶺に水源を発する牡丹江は,いちど溶岩
台地の谷間にせきとめられ,そこから再び北流して松花
江に合流する。その溶岩台地の谷間にできた湖は,水面
が鏡のように美しいので,「鏡泊湖」とよばれる。この湖
名は満州語のビルトンを漢訳したものという。
 鏡泊湖の周辺に住む人びとは,大多数が朝鮮族である。
調査したのは,「吊水楼」という爆布の落水をうける渓谷
に営まれた村落で,その名も爆布村という。行政的には
寧安市に属する。瀑布村は,二つの屯田村,江欣子と二
道村からはじまった。朝鮮半島の出身地はさまざまだが,
ある老人は,1920年代に忠清北道提川郡白雲面徳洞里か
らやってきたと語った。かれらの最初の移民先は,吉林
省境により近い鹿道という村であった。文化大革命直前
の60年代前半になって,寧安政府は,鏡泊湖方面の開拓
         を奨励し,鹿道村から爆布村への移
         住が進められた。70年代にはいると,
        ・牡丹江の水力発電化事業がはじまり,
         村内3ヶ所に発電所が建設された。
  1630
 3150
]・
(、
0   2m
                  3
図3−7ナーナイ族竪穴住居T03 図3−8
   1:約200
      4
オロチョン族夏のテントT05
1:200
図3−9 オロチョン族冬のテントT07
    1:200
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しかし,かえって潅概用水の不足をまねき,瀑布村から
鹿道村へ逆もどりする一家も増え,人口は減っていった
という。近年は,鏡泊湖の開放にともなう観光業の発展
により,台地上に民宿街が形成され,村は再び活気をと
りもどしつつある。
 今回は旧二道村の全戸悉皆調査を中心に,江欣子でも
オンドル造替えや屋根葺増しについて,記録をとった。
(2)二道村の集落構成
瀑布村の住民はほとんどが朝鮮族だが,朝鮮族と結婚
した漢族もいる。人口は民宿街もふくめると1500名を超
え,旧二道村だけでも100名以上を数える。人口の流動
化は激しく,出稼ぎにでるもの,親戚をたよって移住し
てきたもの,隠居にきたものまでいる、二つの農村集落
から台地の民宿街への移住が頻繁におこなわれ,民宿街
では,小さなホテルまで建っている。一方,農村地区で
は,空家が増加し,人口は減少の一途をたどっている。
 旧二道村の集落は,牡丹江の支流が溶岩台地をえぐっ
た渓谷の南東側斜面と支流の両岸にわたって形成されて
いる(図3−10)。斜面は地皮が薄く,溶岩があちこちに
露出する。この一帯に33軒の住居(POl∼P331)と材木小
屋(P34)1棟,機械小屋(P35)1棟が,一見ばらばらに
配置されている。しかし,集落の中央を南西から北東へ
流れる小川の両岸で,家屋の配列は異なった規則性を示
す。南東側では,東西棟を主屋とする屋敷が整然となら
ぶ一帯が中心にあり,計画的な建物配置をみせるのに対
し,北西側では等高線に即した自然発生集落風の屋敷配
列が認められる。なお,集落の東を限るのはダムであり,
北端にはれんが造の水力発電所も建設されている。
 (3)二道村の朝鮮族住居
 屋敷の構成 屋敷地の中心部に,主屋・倉(図3−14)
 家畜舎・便所などの建物を設け,その周辺に畑を配し
て木柵デザーや石垣で敷地を画する。屋敷の入口となる
鳥居状の門デムンをもつ家ともたない家がある。屋敷内
建物配置に明快な法則性はない。ほとんどの家の庭マ
タンは,王屋の前庭であり,中庭となる例は4例にすき
ない。マダンには外竈ダンカマが設けられる。現在は家
畜飼料の煮込み専用に用いられているが,かつては夏に
オンドルを使わないときの炊事施設であった。
 主屋の建築構造 二道村には3棟だけ石造建物がある
が,そのほかの主屋は木造大壁構造である(図3−11)。
木舞に村1当する材は太く,縦材が柱筋にならび,側面に
横材を張りつけ,縄を巻きつけて土を塗り大壁とする。
壁面全体の厚さは2∼25cmだが,地面に近いほうがより
厚い。屋根には草を葺く。寄棟造と切妻造の両方がある
が,片面寄棟+片面切妻の例もある。屋根材は蓬スッが
最良で,葦ガールも使うが,屋根の葺増しを観察した家
ではかなり柔らかいイネ科の羊草サーイを使っていた。
 小屋組は素朴で,梁カメポーをわたし,束立にして棟
木ヨーンマルを承ける。トラスのような斜材を入れて補
強したものもある。オンドルは溶岩でつくる。煙道を確
保しながら束石をたて,その上にオンドルの床下地とな
る板石クードゥルドゥルをならへ,すさ混じり土で隙
をふさぎつつ水平面をつくり,セメントで化粧する。こ
れに板やビニールシートを敷いてすわる。
■事0n
一35m
ダ.
.ム
水力発電所
11日
図3−10 二道村集落配竈図1:1800
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 主屋の標準平面 瀑布村の主屋平面は,竈間プォック
とオントルの一体化したチョンジーと寝室ウバンの2室
だけで構成される例が圧倒的に多い。33棟の主屋のうち
24棟がこのタイプであり,これを標準平面とよんでおく。
代表例としてP07住宅を例にとってみよう(図3−12)。
 主屋の平面はチョンヂー(浄地)とウバン(上房)に
分かれ,これに納屋コカンが付属する。チョンジーはア
レパン(下房)ともいう。チョンヂーとウバンの間は引
戸ミダシで間仕切りすること多いが,P07では土壁と片
開戸を用いている。建物は平入で,正面に入口や窓を設
ける。チョンヂーには,竈カメモックをはさんで,プォ
ック(釜屋)とオンドルに分かれる。竈には3つの羽釜
カマがならぶ。入ロムンの片開戸から焚ロブォッカンま
でが土間パタッである。
 着座規範と就寝位置 食事のさいにはチョンジーのオ
ンドル上にちゃぶ台をだす。この場合,たいていの家で
は,着座位置が決まっている。主人が奥,妻が竈のほう
にすわるのである。客や子供がいるときには,奥を起点
に表(庭)側まわりに長幼の順ですわる。着座位置を男
女にわけた場合,男子が奥側と表側,女子は竈側と裏
(背面)側にすわる。人数が多くなると,ちゃぶ台2つ
にわかれ,表側に男,背面側に女のちゃぶ台をおく。ど
うやら奥を起点に表側→竈側→背面という序列が存在す
るようである。例外として,老人が背面側にすわる場合
もあるようだが,これは焚口に近いほうが冬に暖かいか
らだという。着座規範がとくにないという家庭もあった。
 チョンジーのオンドルは,ちゃぶ台をしまえはただの
広間であり,この部屋もウバンと同様,寝室として機能
する。オンドル上の就寝位置については,男子が表側,
女子が背面側に寝る。2つの部屋の間仕切りミダジに頭
をむける。足を人に向けて寝るのが失礼だからという。
老人はチョンヂ−に寝る。竈に近いチョンヂーのほうが,
ウバンよりも援かいからである。
 オンドルの航化 オンドルとは部屋の梁間いっぱいの
幅にひろがる床暖房装置だが,近年オンドルの前に幅1
mほどの土間の通路を設ける傾向がみられる。これは
「オンドルの&#28821;化」とでも呼べる現象で,パースを示し
  ■犯・箏 柳の1■い  り木        ・ 肺、 榊
  テーブン  コプE一                  一ン宇1 リーし一 ’けチ■
たP08住宅はその代表例である(図3−13)。この通路の
有無とオンドル付居室部分の部屋数を指標としてみると,
二道村の住居をさらに4つの類型に細分類できる(図3
−14)。居室は1室のみの場合と2室の場合がある。2室
のみならず,さらにウバンに桁行方向の間仕切り壁を設
けて3室にする住居も,かつては存在したようである。
                  (坂田・浅川)
4.要約と考察
4.1満州族住居と娩の影響カ
①T04やT10にみられるように,3列型の満州族系住居
は空間構造の点で,あきらかに対称性の強い漢族住宅の
影響をうけている。
②しかし,その場合でも,中央間は本来の「庁・堂」的
空間ではなく,たんなる竈間と化している。この傾向は
漢族住宅そのものにもみられ,むしろ満州族系の住まい
が漢族住宅を変質させたものと考えられよう。その背景
にあるのは,厳しい気侯条件であり,冬の寒さを克服す
るためには航が不可欠だから,煙の供給源たる竈を中央
間に集中させる必要があったからだろう。
③満州族住宅に特有な平面はむしろ2列型で,このタイ
プが他のツングースや漢族にも波及している。
4.2朝鮮族住居の系譜と変容
④瀑布村の朝鮮族住居は,あきらかに満州族系住居と系
譜を異にする。しかし,近年では航の形態に影響をうけ,
オンドルを切り縮める傾向がみられる。
⑤瀑布村の朝鮮族住居は,プォック/チョンヂー/ウバ
ンの3領域からなり,しかもプォックとチョンヂーが1
室空間となるところに特徴がある。このような間取りは,
成鏡道に類例が存在するようであり,一応朝鮮半島東北
!楓のコ面
ジ姜†ウ
図3−l1二道村・朝鮮族住居PO1
    主屋断薗図 1:200
   〃グ〃下丁て凪rr   、
ンな松よ■乱戸
こ.L_…、凪
5m
十一9920
^■
舳ドカン〕
口餉 〇
九舳O削;三〕
,享;。○け州
    トー4933→
図3−12a二道村・朝鮮族住居P07の
  チョンヂー部分のバース1:200
-95-

Page 10
  味■●岨       水胆
ドェンジャンドツク  ムルドック     時叶   窓のカ■テン
ほテユジヤパツク〕ムルドンギー〕  シギェ チヤアンム州
   皿勃 % 微        ”匡挫川誓...萎 、一,
儀㌫驚、招篶ンん
           ・椚 L  髪■’一
  む榊O  ピー1(⊇勉覧机
 r ,10   引き戸 一チエウサン
l lρち中ぶ台一一w 脇
1㍗準導絡、蟻
 /    琶    ’栃繊微 、
←一一一5413一一一一十
   図3−13二道村・朝鮮族P08
 主屋内部バース (床面レベルで1:150)
!、 一η
、/”(\  、一■型(前撒11室1/フ)
、/1/一      a4一一一一
 /      「!
    くらボ ・一・型榊/!・霊1/1〕
    マ’
図3−14二道村・朝鮮族P08
 付眉の高床倉庫ダラック
部との系譜関係を想定してよいだろう。
⑥竪穴住居から発展した朝鮮族の民家は,まずプォック
とオンドルが一体化した1室型平面(a一1型)から出
発したものと推定される。じっさい,土幕民とよばれる
人びとの半地下住居にはこの1室型があザ注3〕,爆布村
の移民も初期はこの種の竪穴住居に住んでいたという。
現在の爆布村住居は,この原初的平面にウバンを加えた
2室型であるが,1室型も現存しており,いずれも朝鮮
族住居の祖型にちかい平面を示している。要するに,た
んなる地域性を超えた朝鮮族住居発展段階の初期状態を
とどめる例として位置づけることが可能かもしれない。
4.3考古資料と調査データの比較
⑦&#28821;が現代のような床暖房装置になるのは,渤海時代以
降のことである。それにともない,黒龍江流域では竪穴
住居から竈・&#28821;付き平地住居への移行が起こる。それ以
前の祖形妨が竪穴住居にとりこまれたように,一部では,
現代的な&#28821;がひきつづき竪穴住居に残ったと考えられる。
⑧ただし,考古資料では,女真以降の竪穴住居はよくわ
からず,19世紀の民族誌記録まで空白期が存在する。一
方,民族誌自体に竪穴住居に関する詳しいデータがなか
ったわけだから,今回の資料は,その間のミッシング・
リンクを埋める貴重な資料といえるだろう。
⑨老山頭遺跡のようなテント状遺構は,オロチョン族の
村で調査した「仙人柱」が参考になる。とくに,「仙人
柱」が地中に穴を掘らずに柱をたてる点は,考古学調査
で遺構が発見できない遺跡の再検討をせまるデータとい
える。また,夏はテント内に炉を設けず外に設置し,冬
は中に設置するという習性も,考古遺跡をみる上で参考
に値するものであろう。        (1浅111・大貫)
<注>
1)池上二良「ツングース諸語」『言語学大辞典」第2巻:pp.1058
  ∼1083,三省堂,1989
b−1型(前通路付1室タイフ)
b
2
b−2型(前通路付2室タイフ)
図3−15二道村・朝鮮族住居平面の細分類
2)梅田博之「朝鮮語」(注前掲書1pp,950∼980)
3)浅川「正史東夷伝にみえる住まいの素描」『文化財論叢」n:
 pp.795−819,同朋舎,1995。このほか,ツングース系諸族の
 住居に関する研究史を紹介すべきだろうが,紙数との関係もあ
  り,本稿では省略する、
4)八HK0B,H H、 八Pxeo.η0FHHecKHe naMHTHHKH KaMHaT
  1帆し∼く0TKll H BepxHe^Koi帖1M』』MocKBa,1977。以下
 の考占学的記述全般にわたって,八(三peBHHK0,E』.,n刀e
  MeHa川川aMypbH(卜10B0cl16HpcK,1981)も参照した。
5) Oにη三1八H川くo臼 A.n.八pe B H e e n o c e.ηe 
6)都出比呂志「竪穴住居の平面形」『日本農耕杜会の成立過程』:
 pp.114−141, 岩波書店,1989
7)八epeB別HK0,A.n.I〕aHHH^凧e,ηe3Hb1尚BeK 『1pHaMyp
  b見,ll0B0cH舳pclく,1973
8) 刀1epeBHHK0,E.レ1. Mox3cKHe HaMHTHHKH Cp已五HeF0
  AMypa,H0B0cH6HpcK,1975
9)黒龍江省文物考古研究所・吉林大学考古学系「黒龍江海林市河
  口市遺趾発掘簡報」『考古』1996年2期。
10)趨善桐「黒龍江濱県老山頭遺趾発掘簡報」『考古』1962年3期。
11)以下,現地で採集したツングース諸語および朝鮮語の語彙に
 ついては,カタカナに下線をつけて表記する。朝鮮語について
  は,ハングル表記も記録しているが,省略する。
12)田[]稔「ゴリド族の倉庫に関するメモ」『民族学研究」6巻1号:
 pp.44∼48. 1940
13)金允彦「土幕スケッチ」『朝鮮と建築』9輯10号:pp.10∼
  14.1930
<研究組織>
 主査  浅川
 委員  村田
 〃  大貫
  〃  栗原
滋男
健一
静夫
伸司
〃  坂田 昌平
〃  楊  昌鳴
・  黄  任遠
奈良国立文化財研究所主任研究官
奈良国立文化財研究所主任研究官
東京大学文学部助教授
総合研究大学院大学文化科学研究
科博士課程(調査時=天津大学留学生)
京都大学大学院人間・環境学研
究科修士課程
天津大学建築系副教授
黒龍江省社会科学院文学研究所
副研究員
図面作成協力(敬称略)
    北野陽子・小倉依子・鎌田礼子・浦田智子・
    藤丼佳子・甲斐英里子
-96-