嗣いだ斌宗(一九一一~五八)は、台湾鹿港の出身で、一九四三年、台湾の新
竹市に法源講寺を創建し、一九四九年、境内に南天台仏学研究院を開設し、台
湾において天台教学を伝播できる人材を育成し、その後、台北に南天台弘法院、
法済寺を創建した。斌宗の弟子である慧嶽(一九一七~)は、立正大学博士課
程を修了し、一九六六年に台湾に戻り、法済寺を受け継ぎ、天台学研究所、止
観実践堂などを新設し、教と行の両面で天台教観の闡揚に尽力している。
斌宗のほか、倓虚の法脈を継いだ暁云(尼僧、一九一三~二〇〇四)と慧峰
(一九〇九~七三)も台湾に天台の教えを伝えた。暁云は、総合教育機関であ
る華梵大学を一九九七年に開設し、大学主催の「天台学会」も五回目を数える。
一方、慧峰は若くして青島の湛山寺仏学院の学監に任命され、倓虚から重んじ
られている。一九四三年、台南市に湛然精舍を構え、南台湾における天台教学
の伝播に尽力した。しかし、一九七三年、湛然寺の改修工事の完成を見ないう
ちに遷化した。現在、湛然寺の住持である弟子の水月(一九二八~)は師の遺
志を続いで、天台山の仏隴に因み、台南の虎頭埤に仏隴道場を設け、修行道場、
天台宗の祖師堂、『因明』雑誌の編集部、仏教図書館なども置いた。
3、現在の中国大陸の天台宗寺院
一九四九年、社会主義体制の中華人民共和国が建国した。宗派や民族を超え
た中国仏教協会(北京・広済寺)が組織され、仏学院の設立、寺院の修復、仏
教典籍の整理などを進め、仏教復興の兆しが見え始めた。当時の国清寺の住持
は、諦閑の法孫にあたる澹雲(一九〇一~七五)である。しかし、一九六〇年
代の文化大革命によって、中国仏教協会の事業は停止させられ、天台宗のみ
ならず、各地の仏教寺院は破壊され大きな打撃を受けた。歴代の天台宗の祖
庭とされる国清寺、延慶寺、高明寺なども例外ではなく、僧侶は強制的に還
俗させられた。その時の国清寺の寺務は、静慧(一九一五~二〇〇〇)と唯
覚(一九一九~九〇)の両者によって担われ、一九七六年、唯覚は国清寺の住
持となった。一九七八年、文化大革命が終息し、唯覚は当時の中国仏教協会の
趙朴初会長が率いる中国仏教代表団とともに来日し、比叡山延暦寺など数多く
の寺院を訪問した。一九八二年、憲法の改正が行われ、従来の「無神論を宣伝
する自由」の条文は削除され、あらためて国民は「信教の自由を有する」こと
が明記された。九〇年代に入り、宗教活動や宗教団体の規則が整備され、仏
教界もこれを機に、寺院の復興を加速させた。国清寺、延慶寺、高明寺など