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青森県青森市浪岡吉内

2013/04/27取材

 

 

 

 

津軽の浪岡で「浪岡御所」と称された浪岡北畠氏は、奥羽南朝方の中心人物として活躍した北畠顕家の後裔と伝えらる。

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、元弘3年(1333)、奥州に義良親王を派遣し、北畠親房、顕家父子がこれを補佐した。顕家は従三位陸奥守に叙任され、義良親王を奉じて陸奥へ下向した。

北畠顕家は多賀城を国府とし新政の実現にあたった。しかし、公卿や社寺が優先される新政に武士たちは次第に失望を募らせていった。そのような中で、武士たちの輿望は足利尊氏に集まり、尊氏は天皇の命を無視して、武士たちに論功行賞を行うようになった。ここに新政は崩壊し、時代は南北朝の争乱へと移行していく。

奥州の北畠顕家は、義良親王を奉じ、結城、伊達、南部氏らの南朝方諸将も参加し、連戦のすえに京都に入り足利尊氏を九州へ追いやった。その後、鎮守府将軍に任じられた顕家は陸奥に帰ったが、尊氏は奥州の南朝方に対し、奥州管領斯波家長らを送り巻き返し、ついに顕家は多賀国府を維持することが困難となり、伊達郡の霊山に移り尊氏方と対峙した。

九州に下った尊氏は、体制を整え、湊川の合戦に楠木正成を討ち取り、ふたたび京都を制圧、後醍醐天皇は吉野に逃れて朝廷を開き、尊氏は光明天皇を立てて足利幕府を開いた。

後醍醐天皇から京の回復を命じられた北畠顕家は、義良親王を奉じ、結城、二階堂、伊達、葛西、南部の諸将を従え京を目指し、途中鎌倉で斯波氏を撃破、美濃でも幕府軍と戦いこれを撃ち破った。しかし、奈良般若坂の戦いで敗れ、延元3年(1338)には、和泉石津で敗れ、顕家は、南部師行らとともに討死し、奥州軍は壊滅した。

北畠顕家が戦死したのちは、弟の顕信が陸奥介鎮守府将軍に補され、父親房とともに義良親王を奉じて伊勢より東国に向けて船出した。ところが、一行は大風にあって散り散りとなり、義良親王は伊勢に漂着した。その後、陸奥に入った顕信は南朝方の中心として、南部氏、伊達氏、田村氏らの支援を得て宇津峰城に入り北朝方に対峙した。しかし、正平2年(1347)に宇津峰城も北朝方の総攻撃を受け落城、北畠顕信は北奥に逃れた。

その後の正平6年(観応2年=1351)、足利尊氏と直義兄弟の不和による「観応の擾乱」に乗じて、顕信は多賀国府を攻め、一時多賀城攻略に成功したが、翌年には吉良貞家の率いる北朝方に奪還され、ふたたび宇津峰城に立てこもった。一年余にわたって北朝方の攻撃に耐えたが、ついに正平8年(1353)、宇津峰城は落城し、顕信は出羽藤島城に退き、奥州南朝方の勢力は大きく後退した。

これ以降、浪岡北畠氏の系譜は複数の説があり定かではないが、一説には、平泉の藤原秀衡の末子頼衡が、津軽の外ケ浜に逃れて行岡(浪岡)に住み、行岡氏を称しており、その曾孫の秀種が顕家に仕え、娘が顕成を生んだとされ、顕成が浪岡北畠氏の始まりとする。

この時期、糠部南部氏は一貫して南朝方として行動し、北畠氏を庇護してきたが、南朝方の衰退により南部氏は幕府に帰順せざるを得なくなり、公然と北畠氏を庇護することができなくなり、浪岡へ一行を移したという。

顕成の娘は、十三湊安東太郎貞季の妻になったといわれ、浪岡では安東貞季が顕成父子を迎えたとされる。

浪岡に入部した北畠氏は、15世紀後半の頃、顕義の代に浪岡城を築き、そこを本拠として勢力の拡大につとめた。浪岡北畠氏は、奥羽の有力武将としてあったが、同時に公家社会の一員としても考えられており、その居館は御所と敬称され、浪岡城は浪岡御所とも呼ばれ、その権威は一目置かれていた。

その後、南部氏は永享4年(1432)に津軽から安東氏を駆逐し、三戸南部氏の津軽支配は16世紀の初頭には確固たるものとなった。しかしそれでも浪岡北畠氏と南部氏との関係は良好で、津軽の北部と東部、南部の山沿いにかけて、北畠氏は郡中のおよそ半分を支配していた。

文亀年間(1501~04)以降、津軽地方の政務はすべて北畠氏が執ったといい、それは北畠氏の五代顕具、六代具永の時代であった。とくに、左中将の官位をもつ具永は、浪岡北畠氏歴代のなかでもっとも威を振るい、勢力があったと伝えられている。具永は、朝廷から官位を受け、それを勢力保持に利用して一門の発展につとめ、弘治元年(1555)に没した。

永禄5年(1562)、一族間の領地争いから「川原御所の乱」が起き、有力な一族の川原御所の具信、顕重父子により北畠宗家の具運が斬り殺され、具信、顕重父子も討ち取られた。この騒動により、浪岡北畠氏に仕える有能な武士たちが主家に見切りをつけ、浪人したり他家に仕える者が続出し、浪岡北畠氏の勢力は衰退した。

これを立て直そうとしたのが、具運の弟で滝井館の顕範だった。具運が殺害されたとき、ただちに駆け付け騒動を鎮圧した。顕範は、浪岡御所の子三郎兵衛と川原御所の子虎五郎の二人を引き取り養育し、三郎兵衛は長じてから顕村と名乗り浪岡御所を継がせ、虎五郎は顕信と名乗り水木館主となった。

しかし顕村は、家柄を誇り公家の風を好む人物で、戦国期に時世を見る目には欠けていた。このころの津軽地方は、南部氏が郡代石川高信を石川大仏ケ鼻城において支配していた。しかし、津軽独立を目指す大浦為信は、浅瀬石城の千徳氏と同盟を結び、元亀2年(1571)、石川大仏ケ鼻城を襲撃し石川高信を自害に追い込み、津軽地方はにわかに騒がしくなってきた。

浪岡御所は顕則の代になっていたが、天正6年(1578)顕則が所用で外ケ浜に赴いた留守を突き、大浦為信は浪岡に侵攻、浪岡城は一気に壊滅した。顕則は浪岡城に入ることもできず、顕村の妻と二人の子を助け出し、再起を期して野辺地へ落ちた。

その後、難を逃れた顕則は、南部氏に仕えて浪岡氏を名乗り、その弟慶好は、安東氏に仕え、家老職として浪岡氏を名乗った。そしてもう一人の弟顕佐は、顕村の娘と結婚し浪岡北畠氏宗家当主となり館野越に隠棲し、江戸時代は山崎氏を称し、明治15年(1992)北畠氏に復姓して、今日に至る。