カネミ油症事件と私 byマサコ |

17才になる年は、青春の最低時期だった。
全身の激痛、特に顔面、歯痛のひどさは拷問並みだった。
香雪記念病院を退院してからも何のアテもなく、ただ激痛に毎秒耐えて生きる毎日。
ーこの冬、このままだったら....。一生このままで生きるのだろうか?....ー
私の苦悩は深まるばかり。
そんな夏の日、TVで2回にわたってドキュメンタリーフィルムが放映された。
私は自分の身の上に重ねられる程、被害者の方々の壮絶な状態を理解出来た。
脱臭のために熱媒体として使用されていたPCB(ポリ塩化ビフェニル)が、配管作業ミスで配管部から漏れて混入し、これが加熱されてダイオキシンに変化したという。
油では大騒動の事件が多い台湾でも、ライスオイル事件の原因は日本と同じである。
話を1969年に戻す。
私は、私と年の変わらない女性が、毒性のダイオキシンと化した湿疹の膿みを入浴してはお互いに押し合って、お風呂場で出している悲しいシーンに釘付けにされた。
カネミは右翼の会社で、従業員は「君が代」を斉唱するような調教を受けている。
勿論、補償金もまともには払っていない。
かつて、紙野柳蔵夫妻は会社の門前にテントを張って、抗議なさっていらした。
私にはキリストとマリア様に見えた。
時は過ぎて1990年代。日本が朝鮮にした事を反省して生活しているうちに、犬養光弘牧師がカネミ事件に深く関わっておられる事を知った。
あのフィルムの入浴シーンの家族の一員である紙野柳子さんと電話でお話した。
当時を振り返ると、お化けのような顔をあざ笑われ、薬品臭い体の匂いでいじめられた生々しい歴史ばかりが被害者の方々の歴史になっている。
今は、2世3世も生まれているけれど、その被害の広さも深さも、正確には調べられていない。
勿論、他の日本人は全くと言っていい程関心を持たない。
差別を恐れて被害者たちが口封じしたと言うが、口を塞ごうとしたのは、国と日本の国民だと思う。
自分が社会と繋がっていると思えなかった私も、コリアーナの来訪で立派な社会の一員であり、コリアーナと同じように歴史の主人公だと今は、思える。
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紙野柳蔵さん
被害者の一人で裁判闘争の先頭に立って闘ったキリスト者。
被害者や支援者たちがカネミ倉庫正門前で座り込み運動をし、
「元の体をかえせ、元の家族を返せ」ということが合言葉となったが、
「元の体を、元の過程を返せ、と言うが、元の体、元の家庭は人の痛みの分からない体・家庭だった。水俣の人たちの痛みがこの体になってようやく分かるようになった。元の体を返してもらっても同じことを繰り返すだけだ。私にとって公害闘争は元の体を返せと言うのではなく、新しい体、新しい家庭を創っていただくということだ」と言い、
訴訟は「生命の相場」をつくることにしか ならないと考え原告を下りる。
その後、カネミ倉庫正門前に一家4人で約3年8ヶ月 もの間座り込む。
2001年、88歳で死去。
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