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日本の価値
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日本の価値(李洙正
平成14年年度理学専攻講演会講演*
日本の価値
イースジョン
李洙正
*本稿は、平成14年12月14日に行った倫理学専攻講演会講演原稿をもとにして、それに大]幅に刀嘩
し、拡充したものである。
はじめに、〈麗しき日本のために>
ここで私は「日本の価直」について考えてみたいと思う。ここでいう日本の価直とは、日本人
・日本社会が長い歴史において様々な形で実現した日本のよさを言う。特に歴史・社会・文化とい
う海の底で真珠のように光る精神的価値を私は注目する。つまり、ここで私は結果としての「良
き日本」にスポットを当て、その正体を--もしくはその良さの根底に隠れたる秘密を一一明か
してみようというわけである。それを日本人の「精神文化」として整理することが差し当たって
の目標である。
では、日本の価値とは具体的に何を謂うの力$一般によく言われる日本の代表的価値は、徹底
・親切・清潔・団結・勤勉・秩序・根性などである。「日本の七大価イ直」とでも言おうm「今はもう
……」と言われることもあるが、私はこの一般的評価を今なお有効であると肯定的に受け止めて
いる。勿論これだけではない。そのほかにも様々な諸価値が日本には見受けられる。ここではと
りあえず、8領域16項目だけを扱うことにする。ここで言う諸精神をどこかで誰かが-実は無
数の人々が-様々な場面で実現し、それが「総合的に」日本という社会の良さを作り上げてき
たのである。以下に述べる諸価値が日本人の生の様々な場面で働き、その総和が日本社会の力・
国力として結晶したわけである。まさにそれが(特に1970.80年代に)日本を一流国家として世界
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日本の価値(李洙正
に印象づけた。日本の真の魅力はそこにある。
理解しやすいように、日本の「よさ」の在処をもう少し具体的に言おう。結果・現象としての
日本の「よさ」、それは、各々の日本人がそれぞれの領域で様々な形で価値を実現した結果、総
合的に構成されたものである。外国人にとっては「良き印象」としてそれが一挙に感じられてく
る。客観的に見ても、日本は、OECDのメンバーであるのみならず、先進G8のメンバーとしてアジ
アでは唯一その名乘りを上げていること、(不況とは言っても)経済肝軍事的になお富強である
こと、世界有数の長壽国であること、ソニー・豊田……等の、世界最高レベルの優秀製品を数多
く持つこと、端正かつ華麗な固有の伝統文化を誇ること、黒澤明・宮崎駿・大江健三郎喜多郎・イ
チロー……等々、現代日本の各分野を飾る英雄たちが大勢いること、輝かしいノーベル賞の受賞
歴、……等、その実状は否定しがたいものである。しかしそればかりでもない。何よりも、日常
生活の場における人々のさりげない言葉や行動、そしてテレビ番組の様々な場面に至るまで、肯
定的に評価できるものは数えきれないほど多い。例えば、季節ごとに繰り広げられる多彩な生活
文化、黙々と仕事に打ち込んで見事なもの鋪りり出す職人の技、心に響くような教養で美しく磨
き上げられた日本語、などは実に感動的でさえある。それらは決して偶然できあがったものでは
ない。日本人の生活の中に溶け込んでいる、それゆえあまり目立たない、そのような生活様式・
考え方が、それを可能にしたのである。まさにそれを、私は息をのんで注目するわけである。
それを私は、敢えて、大げさに、「……イズム」と謂っている。「イズム」とは、……を殊更
気にする、気にかける、(……に)拘る、という姿勢・態度・精神、が広い範囲にわたって一般的・
普遍的に、強力な雰囲気として、支配的傾向として、そして時には潜在的願望として、存在して
いるということである。「社会的影響可能ILt」がその成立基準となる。例外は勿論あるが、それ
がこれを覆すわけではない。
さて、私はなぜこのようなことをしようとするのハー言その背景を述べておきたい。手がけ
る契機となったのは、一見矛盾しているように見えるが、日本のよさへの「愛着」とその喪失へ
の「憂慮」である。これは日本人・日本社会を「良きもの」として、「価値あるもの」として評
価することを前提とする.そうした良さないし価値は、すでに言ったとおり、人々の言葉・しぐ
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日本の価値(李洙正
さ・行動をはじめ、実に様々な場面において現れており、日本人自らの満足と、欧米など諸外国
の日本に対する高い評価とによって裏付けられる。そのような満足と評価は決して偶然ではなく、
それ相当の内実を確かに持っている。その内実はただ単に外見的なものに過ぎないのではない。
その根底には長い歴史にわたって数多くの日本人が全人生を賭けて築いてきた、また今現在も築
きつつある努力の結果が潜んでいることを見逃してはならない。それがどんなに素晴らしいもの
かを、是非とも分かってほしいと私は思っている。それだけ私は日本の良さに愛着をもっている。
だからこの論考はそうした日本人の優れた精神への拍手であり、聲援であり、尊敬でもある。
しかしその一方では、いわゆる世界化・情報化のせいか、それとも長引く経済的不況のせいか、
昔ながらの良き伝統が急激に崩れつつあるのではないか、という憂慮の声もある。現に、喪失の
徴候もみられるし、嘆きさえ聞こえている。テレビでも、新聞でも、学校でも、そして飲み屋で
も、ある種の危機感が漂っている。多くの日本人が自信を失っている。これは、日本文化を愛す
る-人の隣人にとって、そして、価値を唱える-人の哲学者・教育者にとって、まことに残念な
ことと言わざるを得ない。その崩壊は何としてでも食い止めなければならない。日本的な良さは
いつまでも保持し、さらに発展させていってもらいたい。どうしてもその良さを守ってもらいた
い。そのためには、まず何よりも日本的な良さが那邊にあるのかがきちんと解明され、それが新
しい若い世代に向けて強調されなければならない。彼らこそ価画寺続の鍵を握っているからであ
る。
では、これをどのように進めていくか、そのやり方を簡単に説明しておこう。この論議は、こ
れまでに出ている数多くの「日本論」・「日本人論」・「日本文化論」とはやや異なる方向を目指
している。つまりこれは、日本の「精神的価値」についての「哲学的探究」を標袴する。これを
私は「具体的哲学」と考えたい。ここに述べられたことは日本から学んだ私自身の哲学的思想で
もある。
したがってこの研究はそれに適した方法によって遂行されねばならない。
この研究の根幹を成しているのは、何よりも「価値評価」である。それは、何がいいかを、い
いのは何かを、注目すること.決めること・語ること.訴えることである。この際、健全なる「常
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日本の価値(李洙正
識の感覺」が何よりも主役を担うことになる。価値とは人々がよしとするところのものだからで
ある。それは、やや暖1床ではあっても、決して無視できない準拠となる。
そのための第一の手続きは「言語分析」である。ここでは、日本の価値を「反映」していると
思われる16のキーワードがその手がかりとなる。それに哲学的照明を当てる。日本語を通じて日
本を見ようというわけである。この際、主に日常生活の場で使われる普通の日本語(特に大和言
葉)が選ばれる。それが「活きた」言語だからであり、しかも響きの良い美しい言語だからであ
る。言語は理解の近道である。それは、存在の家だから。思考の窓だから。社会の鏡だから。世
界を写し出す絵だから。だからそれを通して存在を、思考を、社会を、世界を、人間を、覗くこ
とができるのである.
その次の、そしてもっとも中心的な手続きは「事例研究」である。事例研究は、日本社会の支
配的傾向(常識の大気)をサンプリングでつかむことである。具体的に言えば、それは日本の価値
が実現されていると思われる様々な「場面」に注目すること、価値を実現した典型的なケースを
見つけ出して定型化することである。それは、ごく身近な個人的体験/実話をはじめ、テレビ番
組、新聞記事、優れた諸人物の伝記、さらに日本史、日本文学、そして広く日本文化一般にまで
目を配りながら、探索的に行われる。この場合、部分をもって一般化する歸納的飛躍は避けられ
ない。それは承知の上である。しかしこの問題は、私流の「落ち葉の論理」・「氷山の論〕里」に
よって克服されうる。(一葉落知天下秋:一枚の落ち葉を見て天下が秋になったことを知るとい
うこと。氷山の一角:その一角の下には巨大な氷山が構えているということ。いずれも、その偶
然が決して偶然ではないということ。)ここでは、この「非偶然的偶然の論理」がものを言うこ
とになる。このような論理を軽く見てはならない。これが事例研究の学問性を支えている。
勿論、日本社会の普遍的本質があって、それがいつも固定的-不変的であるというわけではな
い。そんなことはあり得ない。価値は(その価値を担う人間の変化によって)変化するものである。
飛鳥奈良-平安時代の日本と鎌倉-室田T-戦国時代の日本と江戸-明治-現代の日本が同じである
はずはない。(*だから、これからの日本がどのような国になるかは、現代日本人がどのような
人間としてどのような国造りをするかにかかっている。)また、同じ時代でも、全ての人が一様
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日本の価値(李洙正
にそうであることはあり得ないbそうでない場合も確かにある。しかし、たとえ一部の場合でも、
現に働く実際の力であることが重要である。支配的傾向が重要である。この論考は、あくまでも
そのような支配的傾向を結果としての善と見倣し、それだけを超時代的に見ようとするものであ
る。
勿論、ここで述べられることは、日本人自らには意識されていないか、同意できないこともあ
り得よう。しかし、外国人(すなわち客)だから見える部分も確かにある。これはそうした客の目
から見た「源泉的客観性」に基づく、外からみた日本論として参考になれば幸いである。
-,〈自分にかかわる価直
ガンバリズム(頑張る/励む/努める/努力/奮発)
生のその都度の目標を、たとえそれがつらく難しくても、奮闘・努力して成就・達成しようと精
を出していそしむ積極的精神・努力主義、このような精神を私は、ガンバリズムと言う。楽で
ありたいという自分の本能に勝ち抜くことがその基礎となる。
また、それに対する社会的支持も、そして、怠け・怠慢・無気力に対する社会的反対も、この範囑
に含まれる。これは、日本特有の「主意主義-意志主義」とも言える。
頑張るとは、猛烈に努力し続けることであり、困難に屈せず、忍耐してやり通すことである。
頻繁に使われる日常語としての「頑張る」を、私は日本社会におけるガンバリズムの一つの裏
づけとして考えている。「頑張ります」「頑張ってください」「頑張りましたね」と日本人は、
しきりに言う。この動詞がこれだけ一般的に挨拶化して使われているケースが他の言語にあるだ
ろうか。
あるテレビ番組で、-番いやな日本語が「頑張って」だという意見を聞いたことがある。新聞
広告では、「頑張らない宣言」というのもみられる。皮肉な例ではあるが、これは、決してガン
バリズムの否定ではなく、むしろガンバリズムがそれだけ強力だという裏付けでもある。数多く
のガンバリストたちが不況の今でも日本社会の隅々を支えている。
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日本の価値(李洙正
吉田テフ子・サトウハチロウの童謡、「お山の杉の子」は、「スポーツわすれず頑張って頑張
ってすべてに立派な人となり…」と歌っている。これは、頑張ることが立派な人になるための基
本條件であることを示している。
頑張り屋・頑張った結果への稻賛・激励.認め……、それはガンバリの拡大再生産の元になる。
応援も、励ましもまた、ガンバリズムの-形態と言えよう。
一時期、出版や映画を通じてかなりの社会的反響を呼んだ「-杯のかけそば」という作品があ
る。その一場面にも、「頑張れよ、負けるなよ」という励ましの言葉がある。この作品は、基本
的にはそば屋夫婦の人情物語であるが、頑張って苦境を乗り越えていく親子三人の成功物語とし
て読むこともできるわけである。
古くは、「大智度論平安初期黙」に、「若し此の報を得むと欲はぱ、当に勤めて自ら勉み、ハ
ゲムベし」という言葉がみられる。この精神が古い伝統であった一つの証拠となり得よう。
学問の神様とまでされている菅原道真の場合、「若き日、大学の文章生となったが、そのころ
は、いつも時間が足りなくて、友人と言笑をまじえることもなく、妻子と親しみ合うこともでき
なかった」(「人物・日本の歴史』3)という記述がある。ひたむきに勉学に打ち込んでいた様子が
よくわかる。道真が後に成し遂げたことを考えると、これが良い精神であることは明らかである。
杉田玄白・前野了澤らの「解体新書」の翻訳もまた、いい例である。ほとんどオランダ語の知
識がなかった彼らが四年の歳月をかけてついに翻訳を完成させたのは、感動的な物語である。彼
らはガンバリストの化身と言っても過言ではない。
福澤諭吉の場合も看過するわけにはいかないb蘭学で身を立てた彼は、自分の誇りであり、支
えでもあったオランダ語が既に時代遅れであることを知り、それを棄て、英語の勉強という新た
な領域に立ち向かった。その際の彼の心の奥底にあったもの、それがガンバリズムにほかならな
い。結果がそれを如実に物語っている。
ハタラキズム(働く/勤める/仕事/勤勉)
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日本の価値(李洙正
働くこと・仕事すること自体、そして、それに勤勉に励むことへの価直付与・意味付与、遊んで
暮すことを「ダメ」とする精神、仕事主義、これがハタラキズムである。
働くことは、遊ぶことと並んで、人生の二大基本軸である。
私は、日本にしかない「働く」という漢字に注目している。働くことを日本では、人偏に動く
と書く。つまり、働くとは、まず、動くことである。怠けていては、動かない。動くことは勤勉
であることである。しかもそれにくっつく人偏は、須らく人間が目指すべき道を示唆していると
解釈することができなくもない。
「勤」「勉」という名前が日本人に多いのも、私には、輿リラk深い。可愛い我が子に名前をつけ
る時、その名に何らかの期待をかけるのは人情である。だから、こうした名前は、それをつけた
人、日本人の価値観を反映するものである。
宮崎験監督の「千と千尋の神隠し」は、文句なしの名作である。その多くの名場面のうち、私
にとって特に印象的だったのは、不思議な世界に迷い込んだ主人公の千尋が、湯婆を訪ね、「こ
こで働かせてください」と叫ぶところである。子供までもが!しかも生き残るために!「働かせ
て」と言うのである。それを聴いた時に、わたしは、何力神聖な生の秘密に接したような感動を
覚えた。
いわゆる会社人間は、ハタラキズムの標本的な具現者である。それはいわゆる高度成長期を支
えたごく日本的な社会現象だった。働かずして、繁栄はありえない。日本の繁栄の半分以上は、
彼ら、会社人間のハタラキズムの御蔭であるといっても過言ではない。
一時期流行っていたJRの広告に、「日本を休もう」というのがあった。これは一見、ハタラキ
ズムの反証であるかのようにも見える。しかし、これはあくまでも、働いたから休もう、働くた
めに休もう、ということであって、働くことをやめようということでは決してないのである。
石川啄木の有名な詩、[働けど、働けど、楽にならざるこの暮らし。じ-つと手を見る。」は、
人生の重みを感じさせる。働くことは実は人生の條件だったのだ。ハタラキズムは、それを積極
的に引き受けるということである.
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日本の価値(李洙正
こく仲間にかかわる価I直>
アツマリズム・ツドイズム・ヨリアイズム・トモニズム・マトマリズム(集まる/集う/携
わる/寄り合う/共に/連帯/団結/協同/纏まる/固まる)
自分一人ではなく、また人がバラバラではなく、大勢で力を合わせて何かをやって行こうとす
る精神を、私は以上のような一連の言葉で呼びたい。面白く言うなら、アリズム、ハチズム、と
言ってもよい。
組織に属し、その一員として己れの能力を十分に生かす仕組み、集団意識、協同精神、とも言
える。当然ながら、一人ではできないようなことも力を合わせることによって可能になる。集う
ことで知恵を見つけ出すこともあれば、恐いことも、大勢の中では消えることがある。
要するに、一人一人の能力や実力を、集まることで結集し、一つの大きな力へとまとめていく
ことが、この糯申である。常識的に考えても、集まって団結すればするほど、力は強くなる。
日本人は、確かに世界のどの民族よりもよく団結すると言われる。
集まるとは、一人一人が大勢になることである。しかも大勢になって-つに纏まることである。
だからといって一人一人がなくなるわけではない。-人は大勢の中に保持される。だから能力は
増大する。
我が我々になること、私が私たちになること、集合、これが集まることである。我が我々の内
に陰を残すこうした表現は世界的に珍しい。似たようなケースは、中国語くらいだろうか。
集まるとは、寄り合うことである。もし障ることがあれば、寄り合えない。水と油のように拒
み合う関係では、集まることは成立しないbそれは法則である。だから集まるとは、好き合うこ
とである。引き付け合う関係だから、一つの塊になれる。
日本社会におけるこれらの精神は、簡単に言えば、「みんなでファイト!」の精神と言っても
よい。私は、ある中学校の運動会のポスターでこの標語を目にし、なるほど、と思ったことがあ
る。日本社会で頻繁に聞こえるこの「みんなで」が、要するにこれらの精神である。
日本国歌(君が㈹の歌詞も、注目すべきものの一つである。そのなかに、「……さざれ石のい
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日本の価値(李洙正
わおとなりて……」という部分がある。常識とは正反対であるが、日本人には、昔からそう信じ
られたということが実に輿11ラk深い。伝統的に日本人は、岩を砂や細石が長い歳月をかけて固まっ
てできたものだと考えたらしい。岩はさざれ石に比べて比較にならないほど固いし、壊れにくい。
強力な存在となる。まさにそれと同じく、日本人一人一人の細石が、日本という強力な巖となる
のである。これこそアツマリズムの原形と言えるかもしれない。
日本人がとりわけ愛する櫻や紫陽花はこれの象徴とも言える。これらの花は、集まらないとあ
り得ない、集まってこそ始めて成り立つ総合的な美しさを持ち合わせているのである。
無数の島々が集まって日本という一つの国に纏まっていることも象徴的である。「大八洲国」
という古代の呼び名もそれと関連している。「日本」という一つの塊の正体がこれである。
……の集い、……する会、諸々の研究会、町内会、大学におけるゼミ(-つの単位としての)等々
は、これらの精神が生活の奥ふか<で実際に行われているということを示すものである。
私自身も院生時代にこれを体験している。例えば、学生たちは、何々教授を求心点としてそれ
ぞれのグループを形成する。その連帯は固く、共同研究が行われる場合もあり、大きな成果を挙
げることもしばしばある。こうした精神がもっとも敏感に働く場は、おそらく企業ではないかと
思う。今日の日本の企業は、ある面では、大名を中心に成り立っていた封建時代の「家」の再現
のような感じさえある。一致団結して世界を相手に戦をしているようなものだから、その競争力
は、大変なものである。今日の日本社会がよく組織化され、それが国力へとつながっていく背景
には、このアツマリズムの精神がひかえていると見るべきであろう。
「古事記』の神話をみると、須佐之男命が原因で、天照大御神が洞窟に隠れたことがある。そ
のとき、世の中が真っ暗になり、困ったので、神々が集って問題を解決することになる。問題→
集い-,解決というこの構造に注目すべきである。集うとは、知恵を出し合うことなのである。
日本人にもっとも愛される物語の一つである「忠臣蔵」にもこの精神は現れている。これは、
江戸城内で起きた刃傷事件で切腹を余儀なくされた主君「浅野内匠頭」の仇を討つべく、「大石
内蔵助」を筆頭に立ち上がった赤穂浪士四十七人が「吉良上野介」をやっつける話だが、注目す
べきことは、主人公格の大石一人ではどうにもならないことを、四十七人の力を合わせることで
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成功させたということである。それが示すように、集まることは、不可能を可能にする面を持っ
ているのである。
-つだけ注意したいのは、ここで言う「集まる」ということが、単なる「群がる」とは異なる
ということである。つまり「集まる」には、人物であれ、事柄であれ、「求心点」があるという
ことである。勿論そうした求心点は、一つに限らず、たくさんあり得るし、そのそれぞれがそれ
なりに認められるということが、注意されなければならない。それは、一種の「'1,英雄主義」に
つながっていく。力の求心点となるべき小英雄たちがいたるところに存在し、その小英雄たちが、
日本社会の各分野を支えている。そして更にその上の求心点を中心に集まりを重ね、最後には、
「日本」という最上位の求心点に集まる。日本のアツマリズムは、このようにピラミッド構造を
持っている。だから、これが堅持される以上、「日本」が倒れることは、ありえないのである。
ヤクワリズム(役割/分担)
各自がそれぞれ自分に適した分野で、自分の役害'1を忠実に果たしていく傾向を、私はヤクワリ
ズムと呼ぶ。これは、一種の専門主義であり、「適材適所の思想」といってもよかろう。
これにより、それぞれの多様な分野が発展することになる。それぞれの役のそれぞれの価値を
認めること(価値の多様化・多元化)、そしてそれぞれの役の本質を最大限に充実させることが前
提である。価値が集中すれば、それを獲得して満足する人は限られてしまう。しかし、多様な価
値が認められれば、それだけ多くの人が人生の意味を実現して、幸せを獲得することが可能にな
る。
造語を許してもらえれば、私はこれを、「役割る」という動詞で理解したい。「役害11る」とは、
社会、または人生における様々な役をそれぞれの人が分けて担うことである。人間は生まれなが
らにそれぞれ異なる。顔も性格も環境も……。当然能力・個性・素質・好みも異なる。だからそれ
ぞれに合った(適した)ものがあるはずである。それに従事した方が効率が良く、成果が良いのは
言うまでもない。
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日本の価値(李洙正
このような主義は、現代社会一般の特徴でもあるので、いたるところで見出せるが、その専門
化が、例えば一生、或いは何代にかけて、徹底していることが、日本的価値である。
この精神の良き例として、NHKの番組「プロジェクトX・挑戦者たち」にぜひ言及したい。
その番組では、偉業とも言える様々な事例が紹介されるが、例えば、「ウツルンデス」「デジタ
ルカメラ」「スエズ運Vii]拡張事業」がそうであったように、各分野の専門家があって、はじめて
それらの仕事は成功することになるのである。
タサイズム(多彩/多様/それぞれ)
たくさんの色とりどりの花々が-カ所で咲き乱れている花園のように、大小を問わず、多様な
価値をそれぞれ認め、全体的-総合的な善を演出する一種の多元主義精神を私はタサイズムと呼
びたい。各自が自分のいる場で自分の花を咲かせることがこの精神である。ヤクワリズムを結果
の面から見れば、これになる。
めいめい・おのおの・それぞれ・ひとりひとり、そして多彩・多様、等々の言葉が、この精神を代
弁する。価値が、一つに限らず、集中せず、多いということが肝心であると言えよう。
日本社会に実際に散在する無数の小英雄たちは、身をもってこの精神を裏付けている。例えば、
折り紙・児童画・作曲・漫画・演歌・映画・ラーメン……などなど、ありとあらゆる分野で、それぞ
れ最高峰と言える専門家たちが数え切れないほど多いのが日本社会である。その一つ一つの分野
が、そしてそれを支える一人一人の人間が、それぞれの価値領域として認められている。
別の言い方をすれば、モナドのように、大きかれ′l、さかれ、自分の世界を作り上げ、一家を成
す精神、とも言える。要するに、それぞれを-つの完結した単位として認める傾向を言う。これ
が全体の質の向上につながるわけである。
三、〈他者にかかわる価値>
ヤサシズム(優しい/親切/丁寧)
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日本の価値(李洙正
全ての人的・物的対象に対して、 柔らかく和やかに接する態度、そして、それを「よし」とする
社会的傾向を、 私はヤサシズムと名づける
二れが、 厳しい人生に少なからぬ救いとなる。 日本
の社会では、
の根底にも、
このような精神が-つの価値領域をなしており、 いわゆる義理・人情、そして親切
この精神が息づいている
優しいとは、 日本語でしか言い表せない日本特有の感覺である。 これは、gentle・tender・
とも違う。したがって、やさ
kind(英)とも違うし、nett(独)とも違うし、サンニャンハダ(韓)とも違う。
という漢字で表記するのはあまり適切ではない
しいを「優」
人に対する扱いが穏やかで荒っぽくないことである。
優しいとは、
である。ネガ学
しかも暖かく思いやること
良いことに違いない。
ネガテイーブに言っても、ポジテイーブに言っても、これは、
ヤサシズムを日本の価直とする-つの根拠として、 実際の日本人の言語生活で使われる優しい
という言葉の塵倒的な頻度を挙げることができる。 そして、これに対する肯定的評価、ないし憧
れ、 という現象もまたその根拠になろう
優しい風という表現の場合、それは、
肌に優しいとも言われる.こうした表エ
当たる感じがいいことを意味する。 布・化粧品などが、
11]」にとって本質的
肌に優しいとも言われる。こうした表現は、優しいということが、「受ける側」
に「良いこと」だということを示している。
親切とは、相手に対して優しい心や態度で接することを言う「 但し、身内に対しては、親切と
I±言わない。その意味では、親切は、
徳冨蘆花の「思出の記・10」「奥t
ないよ」という部分がある。親切と1
社会的やさしさの-種とも言える。
徳冨蘆花の「思出の記・10」「奥様、
ないよ」という部分がある。親切とは、
いる□
竹内塾一氏の、「日本人は「やさしし
御坊つちやまお達者に」に、「卿等の心切は決して忘れ
忘れがたきものであるということをこの文章は示唆して
「やさしい」 の力』 という本を大変興味深く読んだことがある 
の内容の紹介はあえて控えるしかない
否定的にみえるが、結局は肯定的に
一見、
「やさしい」
を扱うこのような本の存在自体が日本社会におけるヤサシズムの反映であると私は解釈する。
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オモイヤリズム(思いやる/気遣う/気配る/配慮)
ヤサシズムの-形態であるオモイヤリズムーキヅカイズムーキクバリズムとは、生活の様々な場
面において、他人の存在・立場・気持などをいつも気にかけて優しく配慮する精神を言う。
思いやりとは、その人の立場になって、親切に考えて上げること、その人のためを思って、心
配したり、何かをして上げたりすることである。変ではあるが、分析的に考えれば、思いをやる
ことである。誰に?人に、相手に。何を?思いを、親切を、酉臆を、暖かさを。やるとは?贈る
こと、手渡すこと、施すこと、届けること。相手の立場では、場面によって、もらうこと、助か
ること、役に立つこと、うれしいこと、ありがたいことである。だから、一言で、いいことであ
る。
気配りとは、物事がうまくいくように、細かいところにもあれこれ注意することである。つま
り気を配ること、心遣いである。ここでは、特に人に対してこれを考えるべきである。
思い・気・慮、これらはいずれも人の心・気持である。これはまず、無心でないことを意味する。
そして、それをやる・使う・配ることだから、これは心が相手に届くことを意味する。相手の爲を
思うことである。相手の存在が私の考え・行動において考慮・意識されていることである。相手を
意識しないことから、勝手・気まま・むやみ・無礼無視・等、不便・不愉快のもとが生じるのである。
韓国の代表的新聞、「朝鮮日報」の「グローバルエチケット」というコラムには、数多くの
美談が紹介されているが、日本人の親切に感動した逸話が際立って多いのが目を引く。
他人に迷惑をかけまいとやたら気にすること、そしてその表現の多さも、最初私には、驚きの
一つだった。先にも触れた「一杯のかけそ|剣の場合、「人間は自由だから何をしてもいいけれ
ど、他人に迷惑をかけるここだけはしちゃいけない」というセリフがある。まさにそのような精
神が、日本の「質を向上させるのである。
実生活においても、たとえば、銭湯で他人に迷惑がかからないように注意するとか、デパート
などの出入口の門を開閉するとき、後ろの人に注意するといった細かい気配りはいたるところで
目撃することができる。「他人」というものの存在がそれだけ大きいということであり、それは
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日本の価値(李洙正
即ち、一人一人の人間の価値が大きく認められるということでもある。
トウトピズム(尊ぶ/貴ぶ/敬う/尊敬/尊重)
他人を、特に、偉い.立派と思われ、認められる存在・作品・人物を、心から評価し、敬い、尊
ぶ態度を、私は、トウトピズムといい、日本の価値の一つとする。つまり、立派と思われる成果
・業績を上げた人に対する敬意の表示が、これである。また、そのような存在の前で畏まること
もその証拠となる。そして、潜在的な偉さを認め、一般に人を粗末に扱わず、大事にする精神も
またこれに含まれる。
尊ぶ・貴ぶ・敬う・奉るとは、偉い存在に対してそうでないものがとる態度である。
これによって、その偉さが浮かび上がり、それとして一つの領域・次元をなすことになる。社
会にとってそのような次元は大変重要である。何もかもやたら無視し、既して、「エライ」とい
う領域を失った社会は下品・浅薄になりかねない。下品がいいとは言えないはずである。尊ぶべ
き存在・尊ばれるにイ直する存在、これは、認められ、守られるべきである。尊ばれること自体が
偉さ-權威の維持には必要不可欠である。日本の社会では、これが比較的よく守られている。そ
の結果、多くの偉い人が存在することになる。
「一般的」信仰としての神道も、私は、こうした次元で考えてみる余地があるように思う。神
道においては、偉ささえあれば人間も神として祭られる。「祭る」と「奉る」は通じるところが
ある。奉られる存在が無数に多いことも神道の樹致である。
異論があるかもしれないが、美空ひばり、渥美情などへの文化勲章の授与もこれに該当すると
思われる。大衆文化ではあるにせよ、彼らは確かに或頂点に達した人物である。その成果に対す
る尊敬の形が、勲章だったわけである。より重要なのは、勲章という形よりも、一般の日本人の
心の中にある、それを尊ぶ精神である。
ちょっと形は違うが、児童を扱う態度、特に子どもを人間として尊重するという点においても、
この精神は見うけられると私は思う。尊敬と尊重は、確かに別だが、「尊」という点ではっなが
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日本の価値(李洙正
っている。尊重されながら育った子どもは、知らずのうちに尊重する精神を身につけるのである。
教育の現場が今荒れ果てていると嘆く声も高いが、私がみたかぎり、大多数の日本の雛而たちは、
今でも学生を人間として尊重しながら大切に育てている。
四、〈外国にかかわる価値>
ヒマワリズム(向日葵「日廻る」/1憧れる)
常に外にある良きものを志向し、それを取り入れ、我が物にして有益な結果鶴りり出そうと努
力する傾向、を私はヒマワリズムと呼ぶ。日本人には、こうした傾向が確かにあり、それがた
びたび日本の歴史の重要な部分を担ってきたと言うことができよう。勿論、ひまわり主義と言
えば、いやなことは巧妙に避け、自分の利益だけを追い求めるずる賢い機会主義、といった否定
的なイメージもないわけではないが、ここではそのような側面は一切り隙して、肯定的な面だけ
を考えるべきである。
ハイデガーにならって、私は「日廻る」という造語を提案したい。ヒマワルとは、ひまわりの
ように、常に日を見て廻ることである。ひまわりの花は常に太陽を向いており、その位置の変化
によって向きを変えるといわれている。その真億はともかく、この話の持つ象徴的な意味は大変
興味深い。ひまわりにとって太陽は良いものである。常に良いものに目を向けているわけである。
しかもその向きを変えてまでもそれは続けられる。良いものに接していると、その恩恵を受ける
ことになる。太陽の暖かさのごとく。何よりも重要なのは、ただ向いているだけでなく、向いた
結果として芳ばしく栄養たっぷりの種を実らせるということである。
日本人には、歴史の初期から、このような強し傾向が見て取れる。
耶馬台国の女王卑彌呼が、239年、魏に使節を遣わし、親魏倭王の称号をもらったことは、日
本の対外的關心の噴矢とも言えるが、これもまた、魏が当時の先進国であったことを考えれば、
ヒマワリズムの一つの形であったことは間違いない。
その本格的な形はおそらく、聖徳太子による「遣晴使」の派遣であろう。それを通じて太子は、
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仏教を始めとする進んだ大陸文化を積極的に取り入れた。現に小野妹子が607年中国の進んだ制
度・文化を学び、取り入れるため、遣惰使として派遣され、聖徳太子の国書を揚帝に渡しており、
その返書を持った表世情とともに帰国している。その際、優れた知識や文化を持ち帰って、それ
が後の大化の改新に役立ったことは言うまでもない。
その延長線上にまた有名な「遣唐使」がある。
吉備真備は717年、阿倍仲麻呂らと唐に渡り、735年、新しい知識を日本に持ち帰った。
最澄は804年、唐に行き、翌年帰国した。彼は比叡山に延暦寺を建て、天台宗を広めた。空海
も804年、唐へ渡り、高僧の教えを受けた。帰国後、和歌山県の高野山に金岡Ⅱ峰寺を建て、真言
宗を開いた。
このように古代の日本人たちは、常に「外」のいいものに眼差しを向けていた。ところで、注
目すべきは、ただ単に見ているだけではなく、ひまわりが種を残すように、そのいいものを実際
に導入して我が物にしてきたということである。今でも日本の各地で出士される各種の土器・青
銅器・鉄器、そして、鏡や金冠のようなもの、または建造物などは、すべてそのようなヒマワリ
ズムの結果として日本に残こされたものである。仏教も、漢字も、服装も、制度も、またその類
のものである。一般に日本人は、公の形でその事実をどうしても認めたがらないが、日本の最初
期の歴史における最初の太陽が朝鮮半島の文化であったことは、間違いない。考古学的にもそれ
は実証されている。当時の半島の進んだ文化は、強い勢いで日本に吸収されてきた。その次に太
陽の位置は、中国へと変わっていった。日本というひまわりは、そこへと向きを変えた。それが
日本史の形成におけるもっとも決定的なことであったことは、日本の誰もが認めるであろう。し
かしその次に太陽はまた、ヨーロッパへとその位置を変えた。西洋との出会いである。ポルトガ
ル、オランダ、イギリス、ドイツへと小回りをしながら、そしてやがてはアメリカに至るまで、
日本は積極的に西洋の栄養を吸収してきたのである。いち早くその西洋のよさに目覚めたことが
日本の近代史を決定したことは、周知の通りである。外部のいいものに対するそのような執着、
朝鮮一中国一ヨーロッパーアメリカと、地球を一周したそのヒマワリズム、が知らず知らずのう
ちに日本の国力を育ててきたのである。
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日本は島国であるので、「内」と「外」との区別がはっきりしている。そのような地政学的条件か
ら、「外」への関心が強かったのはごく自然だったとも言えよう。日本はそうした条件を最大限生
かして頑張ったのであり、その結果、今日のような、世界から注目される繁栄をなしたのである。
海外での太陽の位置が変われば、今後も日本はそちらへと向きを変えていくだろう。日本のヒマ
ワリズムは、今なお生きているし、将来においても生き続けるに違いない。
アワセイズム(合わせる/適合/変容)
外国など、外部から取り入れたものを自分に合うように作り直し、我が物にしてしまう加工主
義・改造主義の精神が日本には強い傾向として存在する。それを私はアワセイズムと呼ぶ。
この精神が自主的な日本文化の形成に重要な役割を果たしたと私は評価する。これには勿論、
取り入れることが前提になる。しかし最初は輸入したものでも、そこからやがて誰が見ても明ら
かに日本的な(朝鮮とも、中国とも、西洋とも違う)ものが生まれる。つまりこれは、日本化の精
神である。これは、上に述べたヒマワリズムと一見反対であるかのようにも見えるが、実はそう
ではなく、それと対をなしているものである。いわゆる近代化における欧化主義や今の米化主義
においても、この精神は、ちゃんと働いている。
合わせるとは、何かを何かに一致・適合させることである。これは両面を持つ。一つは、自分
を対象に合わせることであり、もう一つは、対象を自分に合わせることである。どっちにしろ、
これは、自分と対象が合わないこと、そしてそれが不都合であることが前提になる。合わせると
は、手を加えてその不都合をなくすことである。自分に合うものがいいのは言うまでもない。こ
の精神には、自分を固執しすぎないこと(柔軟性)と、対象を絶対化しすぎないこと(主体性)とが
暗黙の内に働いている。
事例として、まず古代建築の場合に言及したい。日本史の初期に創られた法隆寺・東大寺・正倉
院などを見ると、それは明らかに朝鮮や中国とは異なる。両国の強力な影響を考えるとこれは特
記すべきことである。これがやがて姫路城に代表される美しいお城文化鶴りり出すことになる。
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仏教の場合もまた同じ。道元や栄西、そして鈴木大拙などは、日本的な禅宗の確立に大きな業
績を残した人物である。彼らのようなアワセイストたちのおかげで、欧米人は、禅と言えばまず
日本を思い浮かべることになるのである。この、日本化された禅によって、剣道・茶道など、関
連した様々な日本文化が花開くのである。
漢字の場合も見逃すわけにはいかない。漢字はもともと朝鮮を通じて日本に導入された中国の
文字である。しかし日本人はそれを訓読したり、或いは日本にしかない所謂国字を創ったりして
いる。漢字をもとに作られた假名の場合は言うまでもない。これで漢字は日本語になったと言え
る。これがなかったなら、日本が世界に誇る源氏物語・俳句などは存在し得なかったはずである。
唐絵に対する大和絵の場合もまたしかり。これで日本的美が確立されてきたことは、日本文化
史の誇りとすべきところである。後の日本画の素晴らしさもこれに由来するといえよう。
また、コーヒー・ビル・テレビ・パソコン……などの言葉も見逃せない。もとは英語でもこれら
は立派な日本語である。それが言語の豊富化に貢献したことを決して軽く見てはならない。
最近の身近な例としては、ラーメンが挙げられる。ラーメンは中国生まれであるが、いまや代
表的な日本食の一つになっている。それは日本人の味覚に奉仕すべ<、今でも猛烈に改良が続け
られている。これに準じて考えれば、キムチが日本食になるのももはや時間の問題であろう。
五、〈美感にかかわる価直>
キレイズム(綺麗/清潔/清い)
身だしなみ・身のまわり環境など、生活の全ての要素に対して、清潔・綺麗さ・美しさを求める
態度、これを私はキレイズムという名で呼ぶ〕
この糯申がいわゆる「上等」「上品」「高級」の基礎におかれていると私は考える。
顔・聲・字……等に綺麗という言葉を発するときは、たとえ目立たなくても「!」マーク(感嘆
符号)がつく。それは、これが公理のような無前提的「よさ」であることの証拠である。これに
殊更こだわることが、いうなれば日本的である。すくなくとも外国人にはそのような印象を強く
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与える。「綺麗Uは、「清潔」を意味すると同時に、「美しい」をも意味する。このような用例
は、世界でも珍しい。日本では清潔と美とは不可分に結びついている。
便宜のため、ここでは綺麗lと綺麗2に区別しておこう。
綺麗1は、すっきりと美しく整っていて快いこと、つまり、schoen(独)/pretty(英)である。華
やかできらびやかなさま、とも言える。
綺麗2は、けがれや汚れがなく、澄んでいること、つまり、sauber(独)/clean(英)である。
日常的には、綺麗に食べる.綺麗に忘れる.綺麗に片付ける、などと言われる。これは、後に
何も残さないことである。その意味では、「すっきり」とつながっている。
清い.清らかとは、少しも汚れや濁りがないことである。また、世の中の汚れに染まっていな
いことでもある。
既に何度も言われたように、「清」とか「清美」等の名前においても、日本社会におけるこう
した価値観を窺い知ることができよう。
確かに日本では、「綺麗好き」が-つの社会的価値である。最近は、韓国人が「綺麗好き」だ
といって、日本人に誉められる場合もあるが、それを誉めたり、評価するという現象そのものが、
日本におけるキレイズムの一種の証拠となる。
「いただきます!の代りにキレイキレイしましょう!」という「LION」の或商品のコマーシャル
を私は非常に興味深くみている。それをはじめ、漂白剤など、数えきれないほどの清潔関連商品
が日本にはあふれている。
「きれい1は、たのしい。高画質デジタルカメラCAlVmlA」という広告も私の目を引く。これ
らの広告は、日本の一般消費者の感覺を敏感に反映するものであると解される。金のかかる企業
の広告に偶然はあり得ないはずだから。
お風呂文化も注目に値しよう。江戸時代から日本には風呂屋があり、多くの書物でその詳細を
知ることができる。これは、アジアでは珍しい現象である。
そして、大晦日の大掃除や大仏の煤払いなど、いわゆる掃除文化もその証拠としてあげておき
たい。歌麿の「武家煤払の図」は、その歴史を示すものとして参考になるだろう。
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神道の儀式として欠かせない「みそぎ」もこれに該当すると思われる。日本人の生の-部にな
っている神道においては、「清」は「聖」に通じるものなのである。
「あかき.きよき.なおき・まこと」という『萬葉集」の-句は、この精神が伝統的価値である
一つの証拠であり、しかもそれがいかに古いものであるかを物語っている。
布施無経の「虎寛本狂言」には、「さてもさてもこなたは奇麗数寄じゃ。いつ参っても持佛堂
の角から隅に、塵がひとつ御座らぬ。」という部分がある。これもまた、綺麗ずきが価値として
認められている貴重な証拠の一つである。
假名草子・浮世物語3.4には、「をよそ茶の湯は清潔にしてさはやかなるを本とし、,悟道発明の
仲立とすⅡとあって、清潔の価値がはっきりと宣言されている。
貝原益軒の有名な「養生訓」にも、「つねに掃除して潔くすべし。」といわれている。
これらの引用は、「きれい」が昔から、確固たる価値として日本社会に根づいていることを明
確に伝えている。
ウツクシズム(美しい/麗しい)(しゃれ/)|(卒/いなせ/素敵/洗練/上品/優美/優雅)
キレイズムをも含めて、考え・言葉・身なり・振る舞い等において洗練された格調の高し優美を
求める美しさへのこだわりがある。これを私は、包括的にウツクシズムと言う。いうなればこれ
は日本的な美学主義である。これが文化の基礎になり、生の質の向上につながっていく。こうし
た意識がなければ、高級文化は始まらない。
粋・いなせなど、江戸的なものに限らず、ワピサビ・雅などを含む日本人特有の美的感覺(日
本的美感・美意識)全てがこれに当てはまる。こんにちの日本人女性の尋常ならざるお酒落志向も
この枠組みで考えることができる。
そもそも美しいとは、稻賛に値するほど立派なこと、快い感じである。それが「良いこと」であ
り、「価圓であることは、理屈を待つ必要さえない。ただしそれは、時代によって、社会によっ
て、場合によって、様々なる特殊な形で現れることになる。タイトルに示された一連の言葉がま
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さにそのようなものである。
伝統的な日本人の美意識は、勿論今ではその形を変えているが、その変わった形で生き続けて
いることは確かである。例えば、各地の日本庭園を楽しむとか、テレビに俳句関連番組があると
か、また、色とりどりの生活文化がいとなまれること、などにもその痕跡は残されている。
ちなみに、品位・品格・上品・気品といった言葉の肯定的イメージ・使用例をこれと関連付けるの
も有意義であろう。特に「上」の意味を私は強調しておきたい。それは既に価値評価の形になっ
ている。これらの一連の言葉は、人間の内面におけるウツクシズムを反映するものである。
「まあ素敵!」「お見事!」「すばらしい!」といった言語行為を例にとってみよう。これら
の表現には、感嘆符がごく自然な形で付く。これらの言語が、一般に使われている場面に、ウツ
クシズムは現代的な形で生き続けているのである。その意味を軽く見てはならない。
「美人は得」という例もある。これはなにも日本に限る現象ではないが、現に日本語でこう言
われていること、つまりこういう言い方がある、ということが重要である。少なくともこの表現
は、日本におけるウツクシズムの反映なのである。
しかし、もっとも重要なのは、生活における様々な美的志向であることは言うまでもない。
考古学的な各種の文化的出土品を別とすれば、「万葉集」はおそらくその最初の歴史的例になろ
う。それに続く「古今和歌集』や、;|T・古今和歌集」も勿論それに加えられる。それに表れてい
る美意識は並々ならぬものである。
『源氏物語」に描かれた光源氏の場合は、その象徴的な具現者として数えられよう。彼の容貌
はもちろんのこと、歌・舞い・手紙・香・建築・教育・贈り物、等々、あの作品の多くの部分が彼の美
的行爲で綴られている。それは、勿論、平安時代の貴族的文化活動であり、その意味では普遍性
が欠けているとも言える。しかし歴史の過程の中で、これが一般化し、現代ではこれが階層に関
係なく広まっていることもまた、否めない。堺屋太一氏は、「日本鶴'1つた12人』で、「上品と
いう概念の原黒占」として光源氏を位置づけているが、私もそれに異存はない。
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六、〈事柄にかかわる価値〉
コダワリズム(拘る/徹底/完壁)
生活・人生のありとあらゆる場面において、大小・軽重を問わず、細かく気にして/気にかけて
完壁な最良の状態を目指す傾向、これを私はコダワリズムと呼ぶ。もっと簡単に言えば、完壁に
気に入らなければ気がすまないこと、一種の徹底主義・完壁主義がそれである。
日本の場合、日常の言語環境において、「拘る」という言葉がやたら耳に入ってくる。特に外
国人が日本で暮らしはじめた場合、それは、著しく感じる樹致の一つでもある。では、一体何に
こだわるというの力もそれは、状態であり、質である。ではなぜ?それを「よくする」ためであ
る。「良い」と納得できないと「気がすまない」からである。
この語を正確に外国語に訳すことは非常に難しい。これが日本特有の現象である証拠である。
「……にこだわりました」、と誇らしげに作品や商品を紹介する場面は、実に日本的である。こ
だわらないということは、それを重視しないということであり、省いてもいいということである。
そこからは何も生まれるはずがない。人間の手が届くか届かないかによって結果は大違いである。
いわんや心が届くか届かないかとなると……その結果は不問可知である。
辞書的には、どうでもいいようなことをぐずぐず気にすること、というふうにも説明されるが、
そのどうでもいいようなことが決してどうでも良くないというところに、この精神の意義がある。
思うに、生活の中の様々なことは、大概の場合、用が足りればそれで十分、と言えるようなも
のである。それが「普通」なのかもしれない。しかし、あえて「十分」とせずに、細かいところま
で気にし、何かを文化にまで昇華・発展させてきたのが日本人の偉いところである。それは、ま
さにコダワリズムの精神を持っていたからこそ可能だったことである。
例えば、身の回りにあるテレビや机、洋服や布団など、ありとあらゆるものに、それを作った
名もない-人の日本人のこだわりが溶け込んでいるのである。
生活の中の文化もこうしたコダワリズムに支えられるところが大きい。例えば、器もただご飯
をよそって食べるだけでなく、持ったとき熱くないように、そして気持ちよくたべられるように、
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実用性と芸術性両方にこだわって作られる。お箸だって、漆を塗ることなどで、一つの文化に昇
華させるのである。
まさにこのような精神が日本人には常識として発見されるところに私は注目している。こうし
た精神こそ、今日の日本の繁栄を可能にした最大の功労者であると私は評価している。jtRぜなら、
「メイド・イン・ジャパン」を作り出す産業の隅々にまでこの精神が溶け込んでいるからである。
単純すぎる考えかもしれないが、拘りがあるからいいものが作れるし、いいものだからよく売れ
る。よく売れるから富が積もり、繁栄が可能になるのである。不況とはいっても、この基本構造
が無効になるわけではない。これをあくまでも堅持していけば、その基盤の上でやがて不況も克
服されるはずである。
イドミズム(桃t、/挑戦/根幽
イドミズムとは、遠大な目標を設定し、それを達成すべく毅然として正面から立ち向かう姿勢、
または、生の過程でぶつかる難しい課題(難題)に果敢に臨む態度、と定義することができる。
これは、言うなれば積極的な不屈の挑戦情神である。意気込み・気迫・勇気.勇ましさ.たくまし
さ・雄志・立志、根性、などが、関連した徳目としてこれを支える。いずれも、困難に立ち向かう
強い意志をいう。但し、他への迷惑・被害を考慮しない無謀な好戦主義とは厳しく区別されなけ
ればならない。
挑む.挑戦するとは、必ず難題・普通でないこと.高い目標、に立ち向かうことである。また、
挑むに値するだけの価値のあることに立ち向かうことである。易しいことやとんでもないことに
対しては挑むとは言わないbそれでは笑い事である。難題・普通でないこと.高い目標とは、何か
しらいいことに違いない。それが実現すれば、その分だけ生は向上するはずである。一つの社会
にイドミストが多いということはそれだけその社会の多様な価値実現の可能性が高いというこ
とである。新しい領域がこれによって開かれる。
日本社会においては、この精神が幅広く、そして根強く、息づいている。その何よりの証拠は、
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まず日本社会で使われるこの単語の頻繁さである。生活の場で聞こえるこの表現「…に挑む」の
多さは、外国人には異様な感じさえ与え、強い印象を残す6しかもそれは大概の場合、肯定的な
文脈で使われる。その言葉とともにその精神もまた生き続けるわけである。
そして何気ない人の名前にもそれが反映されている。日本人の男性には、勇・猛・隆志、といっ
た名前が少なくない。それはすべて挑むことに必要な徳目である。こうした系統の名前には、イ
ドミストになってほしいという親の念願が込められており、これらを価値とする社会の雰囲気を
反映している、と解釈することもできる。現実に満足して、それに安住するためには勇気など必
要ない。志も必要ない。難関や目標を前にしてこそ、それは必要となるのである。
もちろん、大部分の人々は安定した日常生活に落ち着いているし、それはそれで悪いことでは
ない。しかし社会や歴史を一歩でも前進させるためには、新たな目標に立ち向かうだれかがその
役割を担わなければならない。そのような人たちが今の日本を作ってきたのである。
象徴的なケースとして、倭健命の場合に言及しておきたいb「古事記」によれば、彼は、難難
辛苦に耐えながら、今の九州ならびに関東(東国)を大和朝廷に服属させたとされている。まとま
った大きな勢力として世界の中に位置づけられている今の日本を考えれば、倭健命はその基礎を
形づくった功労者の-人と言えなくもない。しかし当時は、彼自身には勿論のこと、朝廷にとっ
ても、九州や東国は知られざる壁の向うだったわけである。それに彼は挑んだわけである。敵だ
った熊襲によって付けられた名前の「僧は、その精神の象徴とも言えよう。
聖徳太子の場合にも同様の精神が見受けられる。太子は、蘇我氏の強力な勢力下で弱い立場に
ありながらも、推古天皇の攝政として後の大化の改新を準備し、国家としての日本の基礎を作り
上げたと評価される。律令体制で固められた強力な中央集権国家は一つの巨大な目標だったので
あり、これに彼は、挑みをかけたわけである。晴の先進文物や仏教も彼にとっては目標だったの
である。彼の心の奥底に潜むこの糯申なくして天智天皇の大化の改新はあり得なかったのであり、
大化の改新なくして、その後の統一日本の国家形成はあり得なかったはずである。
少し下って、織田信長の場合もまた、注目に値する。信長と言えば、「天下布武」である。天
下布武とは、分権状態にあった戦国当時の日本を統一し、武士の政治的責任の下でこれを一律に
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治めるという信長の政治的スローガンであり、理念であった。数多い戦国英雄の筆頭に立つ信長
は、色々の面で変わり者とされているが、天下を統一しようとしたその抱負だけは、何がなんで
も高く評価されねばならない。現に彼はその夢を実現するために武將として戦場を駆け抜けたの
であり、その過程で果てたのである。石田光成によるいわゆる本能寺の変もその過程で起きた事
件である。命をかけて天下に挑むということは、まさに日本的な価値である。
近代において注目されるのは、前にも触れた杉田玄白・前野良澤らの『解体新割の翻訳であ
る。蘭学医だった良澤は1771年ある日、江戸で死刑になった罪人の死体の解剖に立ち会い、『タ
ーヘルーアナトミア」というオランダの解剖書の正確さに強く心を打たれた。玄白は、良澤とと
もにその本を日本語に翻訳しようと決心する。しかしそれは、ほとんど無からの創造に等しい、
無謀とも言える挑戦であった。なにしろ彼らはオランダ語がほとんどできなかったのである。そ
れなのに彼らはその翻訳に挑んだのである。四年近くもかかったその過程は実に感動的である。
その精神が、北里柴三且冊志賀瀞野口英世らを経て、今の日本の医学界にも生き続けているに違
いない。
似たようなことが西周など、近代的学問を日本に紹介した主役たちにも言える。特に学問的概
念の翻訳は全くの闇のなかで行われ、それが現在の日本語の基礎にもなったことを忘れてはなら
ない。例えば、哲学・科学・本質・現象等の概念も当時の彼らの苦心の末に生まれた結果なので
ある。それは並大抵のことではなかったはずである。にもかかわらず彼らは果敢にその目標に立
ち向かってそれを成し遂げたわけである。
現代においてもこのような精神は、日本社会の至るところで見いだされる。
NHKテレビの番組一「プロジェクトX-挑戦者たち」を-回でも見れば、この精神が現在の
日本においても綿々と生きており、いかに根強くて幅広いものであるかを、実感することができ
る。それに登場する彼らこそ、一流日本・大国日本を支えた英雄なのである。(テレビの父と言
われる高柳健Mカビ郎などがそうである。)彼らのような英雄のおかげで、計り知れない恩恵を受け
ながら、何のありがたみもなく情けない生き方をしている多くの若者に対しては、いったいなん
といったらいいのだろうか。
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「大地の果てで、汗を流すということ。」「地平線まで……」と書かれたコマツの新聞広告も、
この精神がいまでも日本社会で生き続けているというひとつの証拠であろう。実際に今現在も世
界を舞台に活躍する数多くの日本人がいる。そこでなにかに立ち向かっている彼らは皆イドミス
トの仲間なのである。
七、〈ものにかかわる価値>
イイモノヅクリズム(作る)
人間の生の過程においては、衣食住をはじめ、様々な「もの」が必要となる。それらの物を「作
る」ことを「良き事」とし、しかも、「よきもの」を作るために、己の最善を蓋くす態度、作ら
れるものの「最高の状態」を目指す精神、これを私はイイモノヅクリズムと呼ぶbその結果、すば
らしいものが作られ、生活が潤うことになる。一般に言われる職人精神・匠根性・技術者魂など
もこれに含まれる。
日本が物作り王国であることは、既に世界が認めている。StevenSpielberg監督の「Backto
thefuture」という映画に、日本の豊田のジープが主人公の羨望の対象であったり、タイムマシー
ンの部品として日本製のマイクロチップが使われていたり、未来の主人公が日本の企業の社員で
あったりする場面がある。これは、世界で認められている日本製品の質の高さを象徴するものと
いってもいいのではなかろうか。
そもそも作るとは、人間が何かの材料に手を加えて、人間に使われるべき何らかのものがその
存在を得ることである。人間の、人間による、人間のための「もの」であるという意味では、文化、
制度など、無形のものもまた物に含まれよう。この際もっとも重要なのは、作ることの主体が人
間だということである。どのような人間であるかによって、どのようなものであるかが決定され
る。日本のものがいいものであるならば、それは、それを作った日本人がいいということである。
そのいい日本人を支えるのが、まさにこのイイモノヅクリズムなのである。
例えば、ソニーや豊田、新幹線や巨大船舶、その外IMadeinJapan」のありとあらゆる工業製
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品が世界市場で猛威を振るっている。市場とは厳しいものである。その市場を制覇するというこ
とは、尋常なことではない。原点に立ち返ってみれば、結局はイイモノヅクリズムの精神が初めて
それを可能にしたのである。
私は、例えばⅣドラマ、映画、芝居、音楽、など大衆文化の領域でも確実にこの精神を感じ取
っている。個人的な好みで言えば、「北の国から」「男はつらいよ」「(80年代の)日曜劇場」「となり
のトトロ」「シルクロード」「すばる」等々、数え切れないほど多いすばらしい作品が日本には
ある。それらは日本の自慢すべきものである。ただし、これらの作品は、倉本創・山田洋吹・宮Ⅲ埼
駿・喜太郎・谷村新二など、数多くの英雄たちが、それぞれのイイモノヅクリズムの精神から作
り出したものであることを決して忘れてはならない。
芸術文化は、言うまでもない。詳論する余裕はないが、少なくとも、東山魁夷・中島潔・千住博
などの日本画家、幸田露伴・樋口一葉・川端康成などの小説家、谷川俊太郎・俵万智…などの名
前には、ぜひここで言及しておきたい。
歴史的には、いわゆる伝統文化財すべてがこの精神を裏付けていよう。先史時代の埴輪や、古墳、
その壁画、数々の副葬品から、その後の絵画、音楽、舞踊、詩歌、物語、建築、造園、そして飛鳥、奈良、
京都、鎌倉、江戸の都市作りまで、その痕跡を辿るだけで数冊の本になるであろう。狩野派の絵
や歌麿・写楽・北斎・広重などの浮世絵は、なかんずく見事な結果と言えよう。
上野の東京国立博物館には、江戸時代の着物と並んで、それを作るための手本帖のようなもの
が一緒に展示されている。丁寧に精根込めていい物をつくろうとした痕跡がそれに残されている。
私は、「作品」という言葉をこよなく愛している。人生そのものを作品にしたいとも願ってい
る。そういう次元で私は、「作品」にあふれている日本社会を高く評価しており、それを生み出し
た無数の英雄や、彼らのイイモノヅクリズムの精神を条件無しで称えたいと思う。
マモリズム(守る/秩序)
良きもの.良きことを無くならないように大切に守り通して持続させる精神、これをマモリズ
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ムと私は呼びたい。これは「良きもの」への評価と愛着を反映している。これに基づいて、たく
さんのマモリストたちが日本社会の大切な文化を維持・確保している。
守るとは、大事・大切と思うものをなくさないために、目をはなさないでじっと見つめる行爲
である。良いという評価・愛着がこの行為の前提になる。また、守らないと、それがなくなりや
すいということでもある。守られて存在を続けるか、守られず存在を失うかは、あまりにも大き
な違いである。この限り、守ることの意義は計り知れないものがあると言える。
守るとはまた、決まりを破る背く.違反することなく、それに従うことでもある。例えば、法
を.教えを.約束を信用を.沈黙を.秘密を.自然を・城を・国を.伝統を・身を.安全を.家庭を.留守
を・ゴールを守ると言う。これらはいずれも、守るに値する価値あることである。あまりにも簡
単な図式であるが、守ることはいいことであり、守らないことは悪いことである。その結果を考
えれば、一目瞭然である。サッカーでも守備は大事である。
日本社会におけるマモリズムは、実に様々な場面で現れている。
上でも何度か述べたとおり、「まもる」という名前も、日本人がこれを価値として見微すとい
う一つの証拠となる。
NHKの「紅白歌合戦」がこれほど長く持続しているのも、マモリズムの結果である。それは、
多くの日本人にいいと思われているがゆえに、大切に守られているわけである。1980年代に青春
のさなかでそれを楽しんだ人間が、2000年代に再び日本にやってきて、なおそれを楽しむことが
できるというのは、すごいことである。
しかし私がもっとも強調したいのは、何十年、否、百年以上も続く老舗の存在である。「山本
山」や「久月」などはいうまでもなく、名も知れぬノトさな老舗が日本中に数知れないほど存在する
のである。煎餅・醤油から着物・和紙まで、数多くの物の質が老舗によって守られている。
生け花・相撲・焼き物・狂言、等々の分野で見られる「……代目」という現象もマモリズムの反
映である。たとえば、「沈壽官」「市川団十郎」のように名前までが守られていく。
48作にのぼる「男はつらいよ」もまたそうである。これは48作で終わってしまってはいるが、
それは、主人公寅さんを演じた渥美情の死によるものだった。最後の最後までそれは守られたわ
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けである。
「讃責新聞」の2002年5月26日35面の記事、「職人魂消すものカリなどを見ると、守るという
この精神は、今現在も大切に守られていることがよく分かる。
博物館・資料館・記念館・図書館などの普及も私は、この角度から見ている。ただの先進的福祉に
とどまらず、その設立・運営・維持・利用、すべてにおいて、とりわけその中身への眼差しにおい
て、何らかの形でこの精神が働いていると私は言いたい。そこには書籍はもちろんのこと、CD・
ビデオ・絵画、工芸品・衣類など、数々の品が保たれて、人々の生に奉仕することを待っている
わけである。
家庭・お寺等に大切に保管されている貴重な文化財もこの精神の証左である。『日本の国寶」
を一読すれば、この精神がいかに重要であり、ありがたいかがよくわかるはずである。
韓国で長い間「幻」とされていた新羅の書物『花郎世紀」が日本のどこかに保管され、その写本
が韓国で話題になったこともある。
外国に比べて比較的穀損が少なし祭良・京都など古都の存在もここで言及するに値しよう。と
りわけ奈良の正倉院は特記すべきものである。千年以上も前の品々が-個所に保管されていると
は、驚くべきことである。そこには、本場では見られない新羅や百濟の文化財も多く含まれてい
る。保つことが即ち長く続くことにつながるということのいい証拠になる。
八、〈人生にかかわる価値>
ジンセイズム(人生)(振返る/省みる/見つめる/力みしめる/吟味する)
人生そのものを基本的・究極的な主題として考えようとする傾向、生のありのままの真実を直
視し、真っ向から見つめようとする姿勢・態度、これを私はジンセイズムと呼ぶ。
人生は、こうでもああでも生まれた以上、生きるしかないものであるが、ただ生きられるまま
に生きることと、それを振返りながら生きることとは、大きな違いがある。振返ることは、人生
に変化をもたらし得るし、文化をも生じさせる。日本人には、こうした傾向が濃厚に感じられる。
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直視するとは、目を背けないで真っ直ぐ゛に見ることである。ごまかしたり、逃げたりしないで事
実や実体などを正面から見つめることが、直視することである。
省みるとは、振返って全体を眺めることであり、真実を見つめ直すことでもある。
これらの言葉に共通しているのは、ある種の勇気というか、積極性、ないしは真面目さである。
これが人生を高揚させる役割をはたす6
1寅歌・既l謡tRと17つ歌詞[映画iドラマヴヒノミと1,台詞こ見らIDる数多くのM三]はその-つの寳寸け(ゴリミろう。私±十
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文学の場合を見逃すわけにはいかない。文学とは、そもそも人生の断面を描くことがその本質
ではあるが、人生がそもそも個人の生であり、社会性や歴史性はあくまでもその条件であること
を認めれば、日本文学においては特にその私的人生論の傾向が強いと言える。「源氏物語」「平
家物語」から「キッチン」「命」に至るまで、人生への凝視は日本文学の著しい特徴であると言
わなければならない。
貝原益軒の「養生計lUもまた、この観点から読むことができる。これは基本的には医書である
が、ただの医書ではない.立ち入ってその内容に目を通せば、養生の「生」は、人生の「生」で
あることが分かる。益軒のことを人生の達人、と言う所以である。
近代に形成された日本特有の「人生論的哲学」にも触れておきたい。私に言わせれば、これは
日本思想史における注目すべき成果なのである。私は、「日本近代哲学史」という本を韓国語に
翻訳したことがあるが、その最後の章に、人生論的問いかけを日本哲学の特徴ないし課題として
強調する部分がある。ぜひ参考にしてもらいたいと思う。そこで分かるように、哲学において
も、ジンセイズムは、日本的な特徴として性格づけることができるわけである。21世紀にふさわ
しい新しい日本哲学の可能性も、まさにこの方向で模索しなければならない、と私は思っている。
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タノシミズム・アソピズム(楽しむ)(遊ぶ)
生活・生そのものを、そしてその様々な場面や事柄を楽しく受け止めようとする肯定的・楽天的
態度、または、それを積極的に実践すること、これを私はタノシミズムと呼ぶ。
だからこれは一種の楽天主義である。これは、基本的に厳しいこの世の人生に潤いを与え、豊か
なものにする鍵となる。これにより、また様々な生活文化が花開くことにもなる。
これとハタラキズムの調和が取れオしば、まさに理想的である。両者は人生の二大枢軸だからであ
る。
楽しむとは、何かをやって楽しさを得ること・いい気持ちになることである。楽しさ.いい気持
ちは、こころに残るいい感情状態である。歪んだ表情で「楽しい」と言う人はいない。例えば好
きな人とデートした後、「楽しかったです]と人は言う。「楽しみにしています」という期待の
言葉もある。このように、楽しいことはいいことなのである。その楽しみが多いほど、いい社会
.いい人生であることは言うまでもない。
日本社会で暮していると、驚くほど頻繁に「……を楽しむ」「楽しみ」という表現に接するこ
とになる。たとえば、人生を.休日を・目を.音楽を……楽しむ、と、ごく自然な形でこの語は語
られている。これもこの精神が生きている-つの証拠であろう。
ある小学校で私は、「楽しく学ぶ」という標語を見たことがある。学ぶことも楽しむ対象にし
ているわけである。それがうまくはたらけば、子どもにとってそれに超したことはない。
町のなかのいたるところに散在する児童遊園や、ディズニーランド・USJ等も、これに備えた
ものである。
新聞で見かけるアサヒビール広告は、「お酒のさまざまな楽し丑を、もっとお届けしたい。」
という言葉でアピールしている。まさにこのタノシミズムに訴えているわけである。
日本には様々な遊びの文化があふれているとも言える。カラオケ・アニメ・ゲームの発達も然る
事ながら、その他の娯楽産業もめまぐるしいほどである。こうした現象は決して偶然ではない、
と私は言いたい。
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長い歴史の中で形成されてきた数々の生活文化にもこの精神は根づいている。
例えば、祭り・花見・雛祭り・七夕・節句・花火・流し素麺・紅葉狩り・歌会・折り紙……等々、四季
折々の生活文化は、ほとんどすべてタノシミズムの具体例であると私は解している。例えば、風
鈴は、風を音で楽しむこと、音を風で楽しむことである。俳句なら、季節を言葉で楽しむこと、
と言うこともできよう。それを読み合う句会や歌会は、心の共有を楽しむことにもなろう。
『徒然草』93には、「存命の喜日々にたのしまざらんや」という言葉が見られる。この精神の
根が深いということを覗かせる部分である。歴史的にも、事象的にも、この伝統は古くて広いも
のである。
貝原益軒の「養生訓」にも、楽しむことが養生の秘訣でもあるという洞察がみられる。
楽しく人生を過ごすbそれが人生の大きなカテゴリーの一つであることは、だれも否定すること
ができない。日本人はその人生の真実を如実に見ぬいているわけである。春の花見から夏の風鈴、
秋の紅葉狩り、冬の温泉まで、生活に溶け込んでいるタノシミズム、その意義を決して軽んじて
はならない。
おわりに、〈どうか、お忘れなく>
「日本はここがすばらしい!」、と、この論考は言い続けてきた。その根拠も丁寧に示したつ
もりである。それは日本に対する価値評価に基づくものだった。私は何の樟りもなく、日本のいい
ところを褒め称えたい。
しかし、私のこうした学術行為は、考えてみれば非常に変わったものであることを認めざるを
えない。哲学者が文化論に手を出したこともそうだし、韓国人が日本の価直云々するのもそうで
ある。だから若干の弁解を述べておきたい。
確かに変わってはいる。しかし、冒頭で断っておいたとおり、私は、このような文化論を「具体
的哲学」として考えている。これは私の哲学的理念でもある。「だれだれにおける何々について」
というタイトルで代表されるいわゆる「研究論文」が、長く哲学的活動の中心に置かれていたが、
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韓国においても、日本においても、今それが、敬遠されていることは否めない。それに腹を立て
ているだけでは、哲学者と「一般人」との間の反目が深まるばかりである。私は、哲学者が-歩
譲って一般人の期待や要求に近づくのも悪くないと思っている。「文化論」は、その点で、ある程
度一般人の期待に添った分野である、と考えられる。しかもここで私が展開したのは、「価値論」
でもある。それは、哲学固有の領域である。実を言うと、この価値論を「人生論」として読んで
ほしいという願望も私は密かに持っている。現在、世界中で模索中の新しい21世紀哲学は、一般人
と共に歩むものでなければならない、と私は思っている。そう、ご理解いただければ幸いである。
韓国人として日本の価値を論じることは、両国・両国民の真の友好親善のために、そして将来
的にはEUのような連帯に向かっていくために、必要不可欠な第一歩である。とりわけ相手のいい
ところを知ることは重要である。したがって私は、いずれ「韓国の価値」も書くつもりである。ただ
しこの論考は、韓国人ではなく、まずは日本人のために書かれたことを明言しておきたい。
何はともあれ、私は、青春時代の十年近い歳月を日本で過ごしている。「母校」も、「先由も、「仲
間」も、「後輩」も、日本にある。日本が「外国」であるという感覚はほとんどなくなっている。そ
ういう点では、日本は「私の日本」でもあるわけである。日本に対する私の愛着はそういう次元の
ものである。だから私は「韓国人」としてだけでなく、一人の学者・教育者として、日本人・日本
社会の現在と未来を憂いながら、日本の真の価値に日本人みんなの視線を導きたいのである。
日本はこんなにも立派である!日本人はこれほどの価値を実現している1なのにそれが危うい
と今ささやかれている。それをなくしてたまるものか!と私は叫びたいのである。もっと自信を
持ってもらいたい。もっと誇りを持ってもらいたい。もっともっと日本の価直を大切にし、きち
んと守っていってもらいたい。これはほとんど「愛国心」に近い私の本音である。そこまでいうの
か!と、日本や韓国両方から非難があるかもしれない。しかし、ここまで言う韓国人がいるとい
うことは、決して韓国の誇りを傷つけることではなく、むしろ、韓国の誇りそのものの現'れでも
あるということを、是非とも分かっていただきたい。
価値を支えてきた無数の日本人に改めて敬意を表しつつ、これで、「日本の価値」を結んでおき
たいと思う。
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