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陸奥Ⅰ

Index ティータイム

陸奥の国 Ⅰ


■蝦夷

奈良地代後期から古代史の舞台は陸奥・奥州(東北地方)へと移ります。
そこには長い間、大和に抵抗しつづけたまつろわぬ人、蝦夷(えみし)がいました。

この後何回も蝦夷という言葉がでてきますが、エミシと読みます。エゾではありません。

●毛人

蝦夷ははじめは毛人と呼ばれました。
その存在は倭の五王の一人、武(ぶ)の南宋の皇帝への親書 「・・・東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国・・・」という文書からも明らかです(478年)

毛人・・・・・・・・イメージからすれば毛深い人

群馬県は古代、毛の国と呼ばれていました。群馬にかぎらず坂東(現在の関東地方)は、おそらく毛人の天下だったことでしょう。

《注意》倭の五王

5~6世紀の中国の史料『宋書倭国伝』によれば、日本国の王(早い話が天皇)が、かなり頻繁に中国と交流を行っていたことがわかります。
交流といえば聞こえが良いですが、中国皇帝に貢物を届けて自分を倭国の王として認めさせる運動でした。

邪馬台国の卑弥呼も同様のことを行い、魏の皇帝から「親魏倭国王」の印を貰っています。なぜそんなことをしたのかといえば、当時アジアで最大の軍事国家は中国でしたからそのご機嫌を取り、庇護を受けるためです。

宋書によれば、朝貢(貢物を持って来て中国皇帝に挨拶すること)をしたのは、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ) という五人の王で、これがいわゆる倭の五王です。
ではこの五王が日本のどの天皇に対応するのか。一説によればこうなります。

讃 :履中天皇(在位400年~405年)
珍 :反正天皇(在位406年~410年)
済 :
允恭天皇(在位412年~453年)
興 :安康天皇(在位453年~456年)
武 :雄略天皇(在位456年~479年)

この中で允恭天皇以下の3人はほぼ確実ですが、履中、反正天皇についてはいくつかの説があります。


■陸奥

◆はじめに

桓武天皇(在位781~806年)が即位すると、奥州への侵略は「計画的」になってきます。
天皇の生涯の目標は平安京の建設・遷都と蝦夷征伐だったのです。

桓武天皇は父、光仁天皇の要望で桓武自身の異母弟である早良(さわら)皇子を皇太子としていました。
ところが彼も人の親。
光仁天皇が亡くなると実子の安殿(あて)親王を皇太子にしようと考え、早良皇子を無実の罪で捕らえて殺してしまいました。

なぜかそれ以降、桓武天皇の周辺には不幸が続きます。桓武の夫人、藤原旅子、母の高野新笠、皇后の藤原乙牟漏の死・・・それに蝦夷との戦いには大敗しています。

一説によればこの不幸を早良皇子の祟りと信じた桓武天皇は、当時の最新科学である風水説に従い、祟りを避けるため平安京を建設したとか。そして比叡山延暦寺は平安京に祟りをなす魔物の進入を防ぐために建設されたとか。(ついでながら江戸城も風水説を採用していて、延暦寺に相当する寺院は上野寛永寺だそうです。)

魔物は鬼門(東北)の方角から進入します。
それから身を守る方法は二通りあります。
一つは、魔物の進入を防ぐこと。これが延暦寺です。平安京から見れば延暦寺は鬼門の方角です。

もう一つは積極的に魔物と戦い、これを倒すことです。
では平安京の東北には、延暦寺を除けば何があるか・・・・・常に大和に抵抗する蝦夷がいたのです。ですから桓武天皇は積極的に蝦夷征伐に乗り出したといいます。

《注意》
鬼門(東北)の方角から魔物が進入するのは当然で、中国の北方には常に中国へ侵入していた匈奴がいたのです。

祟りなど、そんな馬鹿な、と言うのは現代人の考えです。
現代ですら身のまわりに不幸が続けば、神社へ行ってお祓いをすることがあります。
まして1000年以上も昔のこと。
この説(桓武天皇が早良皇子の祟りを恐れ、遷都したという説)が正しかろうと、間違っていようと関係なく、当時の人は祟りを本気で信じ、恐れていたのです。


奥州の古代史は無数ともいえる伝説・伝承に彩られていて、複雑でわかりにくくなっています。興味深いといえば確かに興味深いのですが、あまりの煩雑さに私などには整理して系統立てて書き表すなどとても不可能なことです。

しかしそれでははじまりませんので、いくつかかいつまんで話しますと、奥州藤原氏以前のこの地の豪族で後世もっとも有名になったのは前九年の役で大和側と戦った安倍貞任(あべのさだとう)ですが、その安倍氏の祖先は安日彦(アビヒコ)と伝えられています。

日本神話によれば神武天皇は日向を出て紀伊半島に上陸しましたが、ここで神武天皇に抵抗したのがアビヒコ、長髄彦(ナガスネヒコ)の兄弟でした。この戦いでナガスネヒコは戦死しましたが、兄のアビヒコは奥州に落ち延びたと言われています。

その奥州

かつて岩手県のある地域は日高見国(ひたかみこく)とも呼ばれていました。
律令制が行き渡り、東北地方が陸奥国と命名されるとともに日高見国の呼び名は消滅しましたが、この名前は発音を変えてこの地を流れる北上川(きたかみがわ)として今に残っています。

日高見国といっても統一政権があったわけではなく、蝦夷達は村ごとに独立していました。
彼等には「国家意識」などなく、連帯感はきわめて薄く、これが大和の侵略を許す一因にもなっています。

奥州はまた金の産地でもありました。749年宮城県小田郡で日本で初めて金が見つかったとき、朝廷がいかに狂喜したか。
奈良の大仏にメッキされた金は奥州産なのです。
当時の産金方法はもっぱら砂金採取でしたが、気仙や北上川周辺ですさまじいほどに金がとれたようです。当時の日本は世界で1、2位を争う産金国だったのです。

それは奥州藤原氏の栄華を見ればすぐにわかることです。
奥州の金は日本国内にとどまらず、海を渡って元の皇帝、フビライも知るところとなりました。

フビライに会ったマルコ・ポーロはフビライ自身から「我が国の東方にあるジパングには黄金作りの宮殿がある」と聞かされたのは有名な話です。黄金作りの宮殿とは平泉の中尊寺のことに間違いないでしょう。

そして・・・奥州の金が大和側の奥州征服の目的の一つだったことは間違いありません。

 

◆アラハバキ

話をちょっと前に戻します。
ナガスネヒコの妹の登美夜毘売(トミヤヒメ)は饒速日命(ニギハヤイノミコト)の妻でした。
ではニギハヤイは何者かといえば、彼は物部氏の祖なのです。

古代蘇我氏と並び朝廷内での勢力を誇った物部氏(もののべし)。
後に伝来した仏教をめぐって、日本には「古来から伝わる神がある」として仏教受入派の蘇我氏と戦争(崇仏論争)をおこした、あの物部氏です。

その名のとおり物部氏は打ち物(兵器)を扱う軍事的色彩の濃い氏族でした。
一方で物部とは、物の怪の「もの」でもありました。
物の怪(もののけ)とは精霊や霊魂を意味し、彼らは朝廷内の宗教を司る氏族でもありました。

「古来から伝わる神」とはどんな神だったのでしょう。もちろん、それは天皇家のみならず、物部氏が崇拝してやまない「神」だったでしょう。日本神話では、ニギハヤイは神武天皇の先鋒部隊として神武天皇より先に大和の地(奈良県)に入っていましたが、実際には大和地方の土着の豪族だったと思います。ナガスネヒコもアビヒコも、ニギハヤイの支配下にあったといいます。

当然ナガスネヒコも、アビヒコもニギハヤイと共通の神を崇めていたことでしょう。そしてアビヒコが落ち延びた東北にはアラハバキという神が伝えられています。

◇ ◇ ◇

アラハバキは蝦夷の信仰する神で荒吐、荒覇吐荒波々幾などの字があてられます。
坂上田村磨が奥州を平定した後アラハバキ神は邪神とされ、信仰を禁じられました。占領軍の占領政策としては当然のことです。

しかし民衆に深く信じられているものを完全に禁止できはずもなく、現在もアラハバキを祭った神社は東北地方を中心に数多く見られます。

厨川の柵跡にあるアラハバキ神

何かに似ていると思いませんか? このコンテンツのtopにある環状列石に。厨川(くりやがわ)の柵とは、前九年の役で安部氏が最後に立てこもった城跡です。

遮光器土偶

宇宙人という人もいるし、アラハバキ神だと言う人も・・・さて・・・

 

氷川神社は関東に多くある神社です。
一説によれば、氷川とは出雲に流れる斐川(ひかわ・・・・スサノオがヤマタノオロチを退治した場所)と言います。さらに一説によれば、氷川境内にある摂社門客人社(古くから地元に伝えられる神)はアラハバキ神を祭っていると言います。

 

■蝦夷の抵抗

7世紀中期、朝鮮半島では唐・新羅連合軍の攻撃で親日派とも言える百済は滅亡寸前の状態でした。日本に亡命した百済の王子、豊彰の要請を受けた朝廷は3万の兵を朝鮮半島に送りますが、唐・新羅連合軍の攻撃の前に全滅に近い打撃を受けます。白村江の戦(663年)です。

敗戦もさることながら朝廷は深刻な状態におちいります。
勝利の余勢をかって、唐と新羅が日本に攻めてくるかもしれない。なんとかしなくては・・・・それは日本人がはじめて経験したナショナリズムでした。

朝廷の中心人物であった中大兄皇子(後の天智天皇)は、唐・新羅の日本攻勢を防ぐため沿岸の防備体制を強化する必要に迫られました。北九州に現存する大野城はその跡なのです。

673年、壬申の乱に勝利した天武天皇は兵制を整備し律令を定め、日本全体を一つの独立国として統一することを目指しました。もちろんそれは天武天皇一代で完成できる事業ではなく、1189年、源頼朝の奥州征伐まで待たなければなりませんでした。


話が先走りました。
6~7世紀。中部、坂東の地をほぼ支配下に収めた大和は続いて奥州をターゲットとします。
大和朝廷の奥州経営の最初は海から出羽方面に進出するものでした。

658年、越(北陸地方・・・このころは越前、越中、越後に分かれていなかった)の国司、阿部比羅夫は180艘の船で日本海海岸を北上し、今の秋田県雄物川河口のアギタというところに上陸しました。どのようないきさつがあったかはわかりませんがここの首長の恩荷(オガ)は阿部比羅夫に恭順したようです。

これが大和と奥州の最初の接触でした。
660年、阿部比羅夫は再び日本海を北上し上陸した地点で粛慎(ミセハシ)という部族と戦闘しています。

さて、こんどは陸上からの進出です。
海と違って陸上には前戦基地を作ることができます。
それが鎮守府(ちんじゅふ)です。

奈良時代、鎮守府ははじめは多賀城内に設けられましたが、平安期になると胆沢(岩手県胆沢郡)に移されました。鎮守府の最高責任者が鎮守府将軍です。

律令制のこの時代。
国の政治上の最高官は朝廷から派遣された国司である守(かみ)で、陸奥国なら陸奥守です。鎮守府将軍も朝廷から任命・派遣されますが、役職としては陸奥守の次になります。

それにしても陸の奥とはなんと的確な命名でしょうか。まさに近畿地方から見れば陸の最果てでした。
この地が「陸奥の国」として律令制下の国になったのははっきりした記録はありません。
大化の改新(645年)のころの記録では陸奥ではなく、道奥国と記されていました。国府は多賀城(宮城県多賀城市)にありました。

道奥国がいつ陸奥国になったのか、これもはっきりしませんが少なくとも9世紀ごろには陸州、さらには六州とも呼ばれるようになり、六州から「むつ」と言われるようになったようです。

当初の道奥国は現在の福島県全域と宮城県の一部を合わせたものでしたが、その後領域を広げて行き、最後には山形県全域と秋田県の一部を除いた東北地方全域を指すようになりました。(秋田県、山形県は出羽国)

◇ ◇ ◇

歴史は破れた側の記録を読め、といいます。
普通破れた側の記録は抹殺されるのが普通です。なぜなら勝利者は自分の立場を正当化するために敗者側の痕跡は極力抹殺してしまうからです。

ですから蝦夷の側の記録は残されていません。
しかし大和と蝦夷の抗争は明らかに大和=侵略者、蝦夷=抵抗者でした。これは西部開拓史の白人とインディアンの抗争といえばわかりやすいでしょう。
大和側の意識にあったものは差別意識以外のなにものでもありません。蝦夷については日本書紀には次のように書かれています。

東の国の人々は性質が凶暴で乱暴ばかりしている。
国を治める人がいないので、領地争いばかりしている。
山には悪い神、野には悪い鬼が住んで、道を通る人に悪いことをしたり、苦しめたりしている。
中でも最も強いのが蝦夷(えみし)である。蝦夷は男と女が雑居して暮し、親子の礼儀を知らない。
冬は穴に住み、夏は木の上で暮らしている。
獣の皮を着て動物の血を好み、兄弟は中が悪くて争ってばかりいる。
山を登るときは鳥のように速く、獣のように野原を駈けまわっている。
人から恩を受けてもすぐに忘れるが、人に恨みを持つと必ず仕返しをする。
自分の身を守ったり、仕返しをするためいつも頭の髪に矢を差し、刀を隠し持っている。
仲間を集めては、朝廷の国境に侵入して農家の仕事を邪魔し、
人を襲っては物を奪ったりして人々を苦しめている。
征伐するため兵士を差し向けると、草に隠れたり、山に逃げたりして、なかなか討つことができない


大和の勢力が奥州に浸透しはじめると、蝦夷との間に無数ともいうべき摩擦・争いが起こりました。全部紹介する必要もないので代表的なものを簡単に書くことにします。

砦麻呂(あざまろ)

780年3月伊治城において陸奥国上治郡の大領、伊治公砦麻呂(いじのきみあざまろ)は突如牡鹿郡の大領、道嶋大楯(みちしまおおだて)、按察使の紀広純(きのひろずみ)を殺害し、その勢いで多賀城も攻めてこれを焼き払ってしまいました。

砦麻呂は777年、志和郡の蝦夷の争乱を鎮めた功績で俘囚(ふしゅう・・・・朝廷に恭順した蝦夷)ながら朝廷から外従五位下という位を与えられました。一方道嶋大楯も砦麻呂と同じ俘囚でしたが、一族の道嶋嶋足が橘奈良麻呂、藤原仲麻呂の乱の時の功績で正四位に任ぜられていました。

道嶋大楯は道嶋嶋足の権威をかさにしばしば砦麻呂にたいして侮蔑的な行為に出てこれが砦麻呂の恨みを買ったといいます。
この乱に対して直ちに征東軍が派遣されますが、征東軍が現地に到着した時には砦麻呂はいずこともなく姿をくらました後で、その名が再び歴史に現れることはありませんでした。

《注意》

大領(たいりょう)・・・・国司(守)から任命された郡の長官(地元の人が多い)
按察使(あぜち)・・・・古代日本の地方行政監察官

伊治城(いじじょう)は767年、陸奥国栗原郡(現在の宮城県栗原郡築館町)に築かれた城柵。
多賀城から出土した古文書には此治城と書かれているため伊治(いじ)は、これはる(此治)とも呼ばれています。
また冒頭に陸奥国上治郡の大領、伊治公砦麻呂と書きましたが、上治郡というのは此治郡の誤記という説もあります。

 

阿弖流為(あてるい)

788年3月、桓武天皇は東海道、東山道、坂東の各国に一年後に多賀城に集結するよう動員命令を下しました。
翌789年3月9日、多賀城の朝廷軍5万は、紀古佐美(きのこさみ)を征東大使(東・・・陸奥のこと)として北進を開始しました。目的はもちろん陸奥国の平定です。


 ●第1次蝦夷征討

朝廷軍は3月28日には衣川(岩手県平泉町)に到着したものの、1カ月以上もそこに留まったままでした。蝦夷の動きが確認できず、前進するのに不安をかんじたのでしょう。桓武天皇はその報告を受けたは5月12日、いつまでも滞留しているのは不審であるとして、前進を指令しました。

やむなく朝廷軍は部隊を前・中・後の三体に分けて、渡河作戦を開始しました。
ところが前軍は突然あらわれた蝦夷軍に阻まれて渡川できず、中・後軍は川を渡ったところで蝦夷軍の奇襲を受けました。

退却しようとした朝廷軍に追い討ちをかけるようにさらに新手の蝦夷軍が現れ、朝廷軍はあっという間に突き崩され敗走。朝廷軍の損害は戦死270人、川で溺死した者、1036人という甚大な損害でした。
蝦夷の総大将は阿弖流為(あてるい)、副将は母礼(もれ)といいました。

朝廷軍は戦意を無くし引き上げ、紀古佐美以下の軍事官僚達は帰京します。
9月19日関係者は詔により処罰されましたが、なぜか紀古佐美はお咎めなしで、彼は後には大納言になっています。

●第2次蝦夷征討

1次蝦夷征討が失敗に終わった後、桓武天皇は直ちに再征討の準備に取りかかり、以後、第2次・第3次まで続きます。

794年1月、大伴弟麻呂は大将軍、坂上田村麻呂は副将に任命され10万の兵を率いて奥州に赴きました。10月、大伴弟麻呂から、討ち取った蝦夷は450人、捕虜150人の戦果が朝廷に報告されました。しかし蝦夷の本拠地、胆沢を攻略することはできませんでした。
10万の兵を以ってしてこの程度の戦果か、と桓武天皇は怒り狂います。

●第3次蝦夷征討

801年2月、桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、第3次の征討が開始されました。戦闘の経過や戦果などについては、記録をがないため不明です。しかし9月には、坂上田村麻呂は蝦夷平定を報告しています。

803年1月、坂上田村麻呂に命じて胆沢城を築き、鎮守府を置き、東国の4000人の兵をを配置しています。
さらに胆沢城の前衛として志波城を築き、こうして3次に渡る蝦夷征討は一応終結することになります。

ちなみに征夷大将軍という官職(かんしょく・・・朝廷内の役職)はこのとき初めて作られました。それ以前は征東大使などと呼んでいたのです。

●阿弖流為の死

802年奥地へ逃げ込んで抵抗を続けていた阿弖流為と母礼は、部下五百余人を率いて投降しました。猛将阿弖流為の名は朝廷でもよく知られていました。
坂上田村麻呂は、4月2人を伴って帰京し、桓武天皇に報告。桓武天皇以下公家たちは2人に死を命じます。

一説によれば、阿弖流為の人物を高く評価した坂上田村麻呂は、そんなことをしては蝦夷のうらむを買うだけだから、今後の蝦夷政策の一環として阿弖流為は生かして使うべきだと主張したといいます。

しかし公家たちは、この2人を生かしておいては虎を野に放つようなものだとして田村麻呂の意見を退けてしまいます。
彼も軍事官僚。戦争のことならともかく、戦後処理のような政治上の発言力は弱かったのでしょう。

阿弖流為と母礼は河内国杜山において処刑されました。
それを知った蝦夷達がどれほど驚き、怒り、嘆いたことか。
しかし反抗したくとも。阿弖流為亡き後、長年の戦いに疲弊した蝦夷達には組織的な戦闘はできるような状態ではなかったのです。

阿弖流為等を殺された恨みは深く、静かに蝦夷達に浸透していきます。

 

達谷の岩屋(岩手県平泉町)
阿弖流為が立てこもったと言われる

阿弖流為
(鹿島神宮所蔵)
阿弖流為、母礼の碑
清水寺(京都)

長い間、阿弖流為は朝廷に刃向う反逆者、賊将とされてきました。
しかもこの地の伝説では彼は悪路王とも呼ばれ、達谷の岩屋に立てこもり民衆を苦しめた・・・・だから田村麻呂将軍は悪路王を成敗し、民衆を救ったのだ・・・・・

それは侵略者側の論理であり、作為でもありました。勝利者が自らの行為を正当化するとき、事実はかくも曲げられて後世に伝わってしまうのです。

最近(2002年9月)岩手県内では阿弖流為を再評価する動きがあり、映画やアニメーションも作られているようです。東京では市川染五郎等による演劇も上演されるようになっています。阿弖流為と母礼達は間違いなく大和の侵略からをクニを守ろうとした郷土の英雄だったのです。

一方、坂上田村麻呂(758~811)はいろいろな伝説・伝承のある人です。
清水寺は京都ですが、東北には彼の創建による寺社が多く存在します。また彼の人となりは『怒れば猛獣も恐れ、笑えば童子もなつく』と言われました。

話半分としても、田村麻呂はなかなかの人物であったことが伺えます。
しかし・・・彼は勝利者側の人です。
坂上田村麻呂の伝説は勝利者による意図的な創作、宣伝とは考えられないでしょうか?
一つの伝説は別の新たな伝説を生みます。あの義経伝説のように。


奥六郡

奥六郡(おくろくぐん)とは現在の岩手県岩手郡、志和郡、稗貫郡、和賀郡、江刺郡、胆沢郡を指します。

阿弖流為の死後、奥州は見かけは平和になりました。もちろん戦いはなくなりませんでしたが、どれも戦争というには小さく、喧嘩というには大きい程度のものでした。

国司の役割は単に一定の年貢(当然金も含まれていたでしょう)を徴収し、朝廷へ収めるだけのものとなり、自然支配は緩んできました。

国司側にとって広大な奥州全域を管理することは難しいため、「衆の推服する所のもの一人を撰び之が長とせよ」との朝廷の指示により、地域ごとに人望のある俘囚を首長とし、その地域を統治させることになりました。

この間接統治ともいえる方法は国司には楽なことでしたが、俘囚への管理が行き届かず、彼等の力を増大させる原因となります。

 

奥六郡の首長を任命された俘囚に安部忠頼(あべのただより)がいました。すでに朝廷、陸奥守の管理は緩やかになるのと反対に安部氏の勢力は次第に強まり、忠頼の孫の頼良(よりよし)の代になって、ついに前九年の役が起こります。

前九年の役

1051年陸奥守、藤原登任(ふじわらのなりとう)と秋田城介、平重成(たいらのしげなり)の連合軍は、鬼切部(宮城県鳴子町)で安部頼良と戦い大敗しました。戦いの原因についてはどうもはっきりわかりません。

秋田城介(あきたじょうのすけ)・・・出羽における鎮守府将軍のような役職

奥六郡を殆ど私領化した安部頼良(あべのよりよし)は金の経済力をバックに軍事力を強化し、やがて陸奥守を軽んじるようになり税金を滞納(?)するようになったとか・・・・。
また金に目がくらんだ藤原登任が罪をでっちあげて安部頼良を兆発したとか・・・・。

ともあれ戦いはその後1062年まで続く未曾有宇の大乱となります。
実質12年間続いたわけで、なぜ九年というのか・・・??です。

鬼切部の敗戦の責任を問われて藤原登任は失脚し、後任の陸奥守には武人として高名な源頼義(みなもとのよりよし)が赴任してきます。源頼義の武威を恐れた安部頼良は頼義に服従し、自分の名前頼良が頼義と同じ発音であることをはばかり、頼時と改名しています。

その後間もなく朝廷より大赦の発令があり、安部頼時の戦争責任は不問となりました。
源頼義は大いに落胆します。

それから4年。平穏な日々が続きましたが事件は思わぬところで発生しました。
1056年、源頼義は陸奥守の任期が切れるため兵を引き連れて帰京する際、阿久戸川で宿営中、配下の藤原光貞の兵が何者かに殺傷される事件がおこります。

源頼義は犯人を安部頼良の嫡男、安部貞任(あべのさだとう)と断定し、安部頼時に貞任を差し出すよう命じます。
激怒した安部頼時は直ちに全軍に出動を命じ、ここに再び戦乱の幕が切って落とされました。

このときの様子を陸奥話記はこう伝えています。

 

頼時語其子姪曰。
人倫在世皆為妻子也。
貞任雖愚父子之愛不能棄忘
頼時その子姪に語りて曰く、
人倫世に在るは、皆妻子のためなり
貞任愚かといえども、父子の愛、棄忘すること能はず
一旦伏誅吾何忍哉
不如閉関不聴甘来攻
況乎吾衆又足拒戦
未以為憂
縦戦不利吾倅等死不亦可哉
一旦、誅に伏さば、吾何をか忍ばんや。
関を閉ざし、来攻を甘んじて聴かざるにしかず
況や吾が衆もまた、これを拒み戦うに足りず
未だ以て憂いと為さず
たとえ戦さ、利あらずとも、吾が儕死また可ならずやと

其左右皆曰
公言是也
請以一丸泥封衣川関敢有破者
その左右の皆曰く、
公の言、是なり。
請う、一丸泥を以て衣川の関を封ぜば、誰か敢へて破る者有らんやと

安倍頼時は一族の者を集めてこう言った。

世の中には、人の道というものがある。これは妻や子を大切にと教えているのだ。いかに貞任が愚者であったとしても、これを捨て去るなど父子の情においてできようか。
陸奥守の言うとおり貞任を渡してしまったならば、きっと一生後悔することになるであろう。この上は、衣川の関を封鎖し、陸奥守の攻撃を受けて立とう。陸奥守の言い分など聞く耳は持たぬ。
たとえ戦となり、私や皆の者が命を落とすことになろうとも、これも致し方ないことだ」

すると集まった者は皆このように答えた。
頼時様の仰せの通りである。我ら一族が一丸となり、衣川の関を固めて封鎖してしまえば、なにびともこの関を破ることなどできはしない

◇ ◇ ◇

これは明かに源頼義の陰謀でした。
陸奥守の就任は頼義自身が望んだことでした。彼は陸奥守になりたかったのです。

源頼義の目的は当然ながら陸奥の国において善政を布くためではありません。彼の狙いは源氏の勢力を奥州にまで拡大させ、さらには涌き出るような奥州の金を独占することにあったのです。

それには戦争が必要でした。
平和では、任期が過ぎればおとなしく京に帰らなければならないのです。頼義には戦いの口実が必要でした。大赦が発令されたとき、源頼義が落胆したのはこのためです。
それを見ぬいた安部頼時は頼義の言うなりになり、ひたすら恭順を装っていたのです。

安部頼時は緒戦で不幸にして戦死してしまいましたが、あとを継いだ安部貞任の指揮下、戦況は圧倒的に安部軍に有利でした。
特に1057年11月、黄海(きのみ・・・岩手県東磐井郡)の戦いでは惨敗した源頼義は命からがら多賀城に逃げ込んでいます。
この時、安部貞任が全力をあげて多賀城を包囲攻撃したら、その後の歴史はどうなったことでしょう。なぜそれをしなかったのか・・・・謎です。

とりあえず敵を追い払えばそれでいい、と思っていたとしか考えられません。
安部氏には政治も戦略もありませんでした。
「蝦夷」の中から朝廷と渡り合うような「政治的」な人物が登場するには、奥州藤原氏の祖、清衡の登場を待たねばならなかったのです。

その奥州藤原氏にしても、中央に攻めこみ天下を狙うような野心は微塵もありませんでした。
人間の意識も歴史の流れと共に成長していきます。

当時の武士は・・・軍神とさえいわれた源義家(八幡太郎義家・・・・頼義の嫡男)にしても・・・まだまだ公家の走狗にすぎず、例えば源氏も藤原摂関家のようなパトロン(?)がいたからこそ勢力を拡大できたのです。

源氏や平氏が天下を狙うほど「成長」するのはこの100年後、保元・平治の乱の後なのです。奥州は僻地のため人心は近畿地方の人ほどすれてはおらず、天下を狙うような大それたことを考えるのは戦国時代、伊達政宗の出現を待たねばなりませんでした。

◇ ◇ ◇

戦局が大きく変わったのは、出羽国の俘囚長ともいうべき清原武則(きよはらたけのり)が源頼義の要請を受けて源氏軍に参戦したことでした。
清原氏にしてみれば、ここで安部貞任が勝利をおさめて源氏が奥州から出て行ってしまえば、今度は自分が滅ぼされるのではないか、と思ったのかもしれません。

源氏・清原の連合軍の前に、長年の戦いに疲弊した安倍軍はもろくも崩れ去ります。
1062年7月、安部貞任は小松の柵が落とされた後、続いて本拠地である衣川(岩手県衣川村)も放棄することになります。
衣川の館が落ちる時、源義家が逃げる安部貞任をからかって

衣のたてはほころびにけり

・・・貞任の衣服が連戦でボロボロになったのを、落城した衣川の館(やかたですが、たてとも読みますね)にひっかけている・・・・

と下の句を投げかけたところ、貞任が

年をへし糸のみだれの苦しさに

と上の句を返したのはこの時のことです。戦いの最中というのに優雅なことです。昔の武人はしゃれたことをしました。衣川の館跡近くには、二人の武将の歌の応酬を刻んだ石碑が立っています。

 

前九年の役が終わると、一時戦場を脱出していた安倍貞任の弟、宗任(むねとう)は一族の者9人を引き連れて投降しました。宗任は伊予に流刑となります。
彼が都に連れて行かれた時、こんなことがあったと伝えられています。

1064年3月。後冷泉天皇は捕虜になった安倍宗任達蝦夷に興味を持ったので、引見させることになりました。
宗任は十数人の衛兵に付き添われて宮中に入り、公家百官の好奇に溢れる視線の中、宗任はゆっくりと正面玉座に向かって歩み進みました。
すると一人の公家が梅の小枝を宗任に見せて、いかにも相手を哀れむような表情で

東国は寒冷の地と聞いておるが、このような花をみたことがあるか

と尋ねました。
宗任は梅の小枝をちらりと見ると微笑さえ浮かべ、歌で即答しました。

わが国の梅の花とは見たれども、大みやびとは何というらん
  (梅の花にしか見えないが都の人は知らないらしい)

帝をはじめ公家百官は、顔色を失う程驚愕しました。
無学・野蛮の俘囚が・・・・・・という意識で凝り固まっている彼等には想像できない奇跡を眼前に見たのです。

任と義家の歌の応酬にしろ、宗任にしろ、これらエピソードはあるいは作り話かもしれません。
しかしたとえ作り話であったにせよ、このようなエピソードが生まれるということは、安倍一族がなかなかの教養を身に付けていたことを意味します。彼等は決して朝廷側が言う「野蛮な蝦夷」ではなかったのです。

宗任は弟の家任(いえとう)、正任(まさとう)達と伊予に流されますが、その後太宰府に移されます。
この地でもうけた女子は後に藤原基衡(奥州藤原氏2代目、清衡の子)の妻となります。
またさらに後年。宗任の子孫は肥前国松浦に住んで倭寇、松浦党の祖になったという説もあります。

◇ ◇ ◇

さてその後安部側の城柵は次々に落ち、最後に立てこもった厨川の柵が落城。貞任は戦死し、12年の長きにわたった戦乱もようやく終わりました。この戦いの結果、源頼義は宗任兄弟の監視の意味もあって伊予守、息子の義家は出羽守、清原武則は鎮守府将軍に任命されています。

源頼義・義家父子にとってはまことに不本意な結果でした。
なぜなら源頼義の野望は再び陸奥守に任ぜられて奥州にとどまり源氏の勢力を広げることと、金を確保することだったからです。朝廷にすれば源氏の勢力拡大を恐れたのでしょう。

また出羽守は鎮守府将軍の指揮下にあります。
源義家にすれば、やがて武家の棟梁となる身が俘囚である清原氏の風下に立つことなど沽券にかかわるし、とうてい耐えられることではありませんでした。源頼義は伊予守としてしぶしぶ現地に赴任しましたが、義家は出羽守就任を断っています。

安部氏が滅亡すると奥六郡は清原氏の支配するところとなり、清原氏は一躍奥州最大の豪族となります。


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