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鬼と呪いの平安王朝

一、貴船の呪詛神

ごく最近、京都市左京区の鞍馬山の麓にある貴船を訪ねました。紅葉に色づく谷あいに貴船神社があり、若い男女があふれていました。

平安時代の陰陽師、安倍清明の陰陽道は、近頃若い人たちの間で大変な人気を呼んでいます。それは小説『陰陽師』(著者・夢枕獏)、同名の漫画(著者・岡野玲子)および同名の映画(主演・野村萬斎)の影響です。この小説や漫画の中に貴船神社が出てきます。さらに呪詛神として信仰され、「丑の刻参り」が有名です。

丑の刻参りというのは、丑の刻(深夜1~3時)に白い着物を着て、三本のローソクをつけて鉄輪(五徳)をかぶり、にくい相手に見立てた蝋人形に五寸釘を突き刺して呪うという儀式です。しかし本来は丑の刻に参拝して願いを掛けるという心願成就の方法であり、呪詛を目的としていません。時代の変遷とともに本来の意味が変わって憎む相手を呪い殺すという行為になったようです。

二十一世紀の今になっても、全国各地からやってきた人たちが、境内の杉の木に藁人形を釘で打ちつけているというのですから驚きです。中には「丑の刻参り」同様にわざわざ深夜に現れ呪術を行う人もいるとか。

藁人形と鉄釘はインターネットで購入できます。一セット千円。いつかテレビでこれがかなり売れていると報道されていました。

二、早良親王の呪い

延暦三年(七八四)、桓武天皇は都を平城京から長岡京に移しました。そのときの東宮(皇太子)は弟の早良親王でしたが、桓武天皇は自分の息子、安殿親王(のちの平城天皇)を東宮にするため、早良親王を廃嫡し、さらに長岡京造営責任者、藤原種継暗殺事件に関与したという疑いで流刑にすることにしました。ところが、早良親王は無実を訴えるために絶食し、流刑地の淡路島へ行く途中、淀川の高瀬橋近く(現・守口市)で死亡しました。

早良親王の死後、飢饉、疫病、洪水などが相次ぎ、さらに蝦夷の反乱も起こりました。また天皇の生母や妃などが死亡、最も愛していた安殿親王が病気がちになるなど不幸が続きました。

その原因は早良親王の呪いであるとされ、親王の御霊を鎮める儀式が幾度か行われました。また大雨によって都を流れる川が氾濫し被害が出ましたので、遷都十年後の延暦十三年(七九四)には都を平安京に移しました。

桓武天皇は、延暦七年(七八八)に一乗止観院(のちの延暦寺)を比叡山に開山した最澄に帰依し、都の鬼門(北東)を護らせました。この最澄は延暦二十三(八〇四)に還学生として入唐し、天台教学を学びます。

延暦十九年(八〇〇)、桓武天皇は早良親王に崇道天皇という諡(おくりな)を与え、淡路島から大和に移葬しました。また延暦二十五年(八〇六)には、全国の国分寺で彼岸会を毎年春と秋に修するように命じました。これらは早良親王の怨霊を鎮めるために行ったと考えられます。なお奈良市八島町に崇道天皇陵があります。また京都市左京区の崇道神社始め各地に崇道天皇を祀る神社があります。

三、平安京と鬼

桓武天皇没後六十年たって、藤原氏による摂関政治が始まりますが、次第に貴族は地位と権益をめぐって激しく対立し、互いに怨恨を持つようになりました。そのため都はあたかも魔物や鬼が住むかのようでした。

鬼の伝説は、全国各地でみられますが、とりわけ多いのは都が置かれていた京都とその周辺です。宇治拾遺物語や今昔物語などに書かれている百鬼夜行、羅生門や朱雀門で目撃された数々の怪異、大江山の鬼の頭領・酒呑童子、鈴鹿山の鬼女・鈴鹿御前などが京都内外に出没しています。

九、十世紀の平安京は、飢饉や疫病、火災などによって荒れ果て、地方で食い詰めた人々が押し寄せていました。平安時代といえば、優雅なイメージがありますがそれは宮中や高級貴族の屋敷内のことで、市中では疫病で死んでいく人や餓死した人の死体が転がっていました。それが腐ってさらに疫病が蔓延するという悪循環に陥っていました。

また飢えを凌ぐため人肉を食べることさえありました。この状態は鬼の生と考えられていました。

朝廷は手をこまねいていたわけではありません。そもそも都には鬼を入れないための結界がありました。鬼門(北東)の方角には比叡山延暦寺があり、裏鬼門(南西)には岩清水八幡宮(八幡市)が置かれていました。羅生門や朱雀門は鬼を寄せ付けないための門でした。そして当時の為政者は政情を安定さすため、真剣に神仏の加護を求めました。社寺の行う加持祈祷は重要な行事だったのです。

そのような施策で事態が好転するはずはなく、都は荒廃し、羅生門も二度倒壊しています。やがて鬼から都を守るはずだった門は治安が悪く、夜となれば歩けない場所になり、ついには鬼や妖怪の棲み家となりました。

深夜、怪しげな火を灯しながら練り歩く鬼の群、これが百鬼夜行です。夜間に外出を控えなければならない忌夜行日に女に会うため出かけて百鬼夜行に遭遇し、捕らえられそうになった藤原常行という若い貴族の話が『今昔物語集』に載っています。また百鬼夜行を見ると、遠からず死ぬという話も伝わっています。

夢枕獏は小説「陰陽師」「瀧夜叉姫」の中で、羅生門あたりで深夜出現する妖怪を次のように描いています。[夜、老人が乗った牛車が朱雀大路を南へ下っている。供の者は四人、そのうち一人は素足の童子である]

童子と老人には、近づいてくるものが見えているらしいが、三人の男には、それが見えない。それでも次第に闇に眼が慣れてくると、星明りでぼんやりとものの形くらいは見てとれるようになった。

南の方角に眼をやっていた男たちが、息を呑む気配があった。三人の男たちにも、それがようやく見えるようになったらしい。それが、だんだん近づいてくる。

それは無数の鬼たちであった。ひとつ目の大入道。脚が一本しかない犬。二つ首の女。足のある蛇。手足の生えた琵琶。角一つあるもの。牛ほどもある蝦蟇。馬の首をしたもの。首だけで宙を飛ぶもの。首長きもの。ぬるぬるとしたもの。長きもの。短きもの。翼あるもの。足で歩く壷。絵より抜き出した薄き女。足なくして這う狼。腕四本あるもの。目だま手に持ちながらゆくもの。身体中に乳房ぶらさげたる女。ありとあらゆる鬼たちが、ゆらゆら踊りながら近づいてくるのである。

鬼たちは、手に手に、何かをもっている。それは、人の腕であった。それは、人の足であった。それは、人の頭であった。それは、人の鼻であり、耳であり、髪の毛であり、はらわたであり、心の臓であり、胃の腑であり、歯で有り、唇であった。

[老人は陰陽師・賀茂忠行、お供の童子は幼少の安倍清明である。この奇話は『今昔物語集』に載っている]

もちろん、赤鬼や青鬼や馬鬼といった一般的な鬼もいますが、主役はむしろ付喪神とよばれる器物の怪で、それら妖怪の総称として「鬼」の字が使われています。

日常使っている家具や履物など道具類は古くなると霊魂が宿り、付喪神になるという民間信仰がありました。室町時代中期の『付喪神記』には、「器物百年を経て化して精霊を得てより、人の心を誑かす。これを付喪神と号す」と書かれています。

四、女の怨念

謡曲『鉄輪』は鬼になった女の悲哀を謡っています。

貴船神社の社人に夢のお告げがありました。丑の刻参りをする都の女に信託を伝えよ、というものです。

真夜中、神社に女が現れました。女は、自分を捨てて後妻を娶った夫を恨み、報いを受けさせるため、遠い道を行く晩も貴船神社に詣でていたのです。社人は女に「赤い衣を着て顔に丹(赤い顔料)を塗り、火を灯した鉄輪を頭に戴かせ、怒る心を持つなら、望みどおり鬼になることができる」と神託を告げました。

女が神託通りにしようと思うやいなや、顔色が変わり髪が逆立ち、黒雲が立ち雷鳴が轟きます。女は恨みを思い知らせてやると言い捨て、駆け去りました。

一方、女の元の夫は悪夢に悩み、陰陽師の安部清明に占ってもらうことにします。清明は、先妻の呪いにより、今夜で命が尽きるだろうと言いますが、男の懇願に応じ、彼の家に祈祷棚を設け、夫婦の身代わりとして形代を置いて祈祷を始めます。

そこへ鬼となった女が、火を灯した鉄輪を頭に載せて現れ「あるときは恨めしい、あるときは恋しい、今こそ思い知れ」と捨てられた恨みを述べます。そして後妻の形代のかつらをつかみ、男の形代の烏帽子(えぼし)に襲いかかりますが、清明の呼び寄せた守護神に阻まれ、「時を待って再びまみえよう」との声を残し姿を消します。

なおこの謡曲の筋立ては、『屋台本・平家物語』「剣巻」の「宇治の橋姫」に基づいたものです。

謡曲『鉄輪』の女は望んで鬼になりましたが、『源氏物語』「葵(あおい)」に登場する六条の御息所は鬼になった自覚はありませんでした。

東宮(皇太子)の未亡人、六条の御息所は光源氏と恋愛関係になりますが、源氏には妊娠中しかも病気の正妻、葵の上がいました。六条御息所は源氏と疎遠になりますが、それは自分が年上であるせいと思い、正妻に嫉妬します。

そして、生霊(いきりょう)になって葵夫人を毎夜悩まします。高僧が祈祷をしても、夫人から離れません。源氏は御息所の生霊のしわざであることに気づきます。やがて葵の上は出産しますが間もなく亡くなります。六条御息所は、自分が失神していたようにしていた幾日かに、衣服に祈祷する僧が焚く護摩の香が沁み込み、髪を洗い衣服を変えてもそれがとれなかったことから、知らぬ間に我が身が生霊になって葵夫人に仇をなしたかと思い、おののきます。

古来から、女は感情の生き物と言われてきました。感情を制御できなくなったとき、哀しい結末となります。現代ではどうでしょうか。

五、大江山の鬼伝説

筆者の住む宮津市の南方に、高さ七、八百メートルほどのなだらかな山容を持つ大江山連峰がありますが、鬼伝説で有名です。

その大江山に「頼光腰掛け岩」という巨岩があります。

岩に腰 吾頼光の つつじ哉        蕪村

蕪村は、個々に腰掛けると源頼光になったような気がする、あたりのつつじはまるで頼光が退治した鬼の血潮のようだ、と幻想してこの句を詠んだのではないでしょうか。

平安中期、大江山に棲む酒呑童子が配下の鬼を従え、乱暴狼藉を働いて都の人々を震い上がらせていました。天皇から鎮圧を命じられた源頼光は、渡辺綱、坂田金時ら頼光四天王を引き連れ大江山に向かいました。

いかに勇猛な源頼光とその部下とはいえ、数の多い酒呑童子軍に正面から立ち向かったならばまず勝ち目はありません。そこで一計を案じ、友好的に近づくことにしました。

酒呑童子は、親しげに近づく頼光らの魂胆を疑い、試しにさらってきた姫の生き血を出すと、頼光は平気な顔をして飲み干しました。また人肉をすすめると、これも食べてしまいました。頼光は、気を許した酒呑童子に「神便鬼毒酒」という酒を飲ませ、動けないようにして首を叩き切りました。それにしても人の血を呑み人の肉を食べる頼光の肝の据わり方は、鬼も顔負けの凄まじさだったでしょう。

後日、ただ一人生き残った酒呑童子の一の子分、茨木童子は、京都の羅生門や一乗の戻り橋に夜毎現れて人々に恐れられました。頼光の家来、渡辺綱はこの鬼に一乗戻り橋で襲われましたが、鬼の腕を切り取りました。ところが陰陽師は、鬼は腕を取り戻しにくるから決して七日間家に誰も入れてはならないと言いました。しかし七日目に摂津から伯母が着たので入れたところ、それは鬼が化けた姿でした。鬼は切りとられた自分の腕を掴み取り、天井を破ってどこかへ消えてしまいました。

六、平安貴族と呪い

「この世をばわが世とぞ思う望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ藤原道長は、平安中期に藤原北家による摂関政治の最盛期を築いた人物です。

道長は西方極楽浄土へ往生することを望み、鴨川の西に、諸国から集まった巨万の富を惜しげなく投じ、九体阿弥陀仏堂(無量寿院)始め、金堂・五重塔など壮麗な伽藍を建立しました。これが法成寺で、現在、京都市上京区の鴨沂高校の塀際に「法成寺址」と刻まれた石柱が建っています。

道長は、臨終には九体の阿弥陀如来像の手から自分の手糸を引き、念仏の声に包まれて薨去したと『栄花物語』に書かれています。

この道長は、幾多の政争を勝ち抜いて権力を手にしただけに、多くの政敵がいました。そのため道長の生涯には、幾度となく呪詛がかけられました。

道長はいつも一匹の白犬を連れて、法成寺に向かっていました。ある日、その白犬が法成寺の山門をくぐろうとした道長の着衣をくわえて、門に入るのをこばみました。道長は不思議に思い、陰陽師の安倍清明を喚んで、卜占(ぼくせん)を命じました。すると法成寺の境内に、道長を呪う呪物が見つかりました。道長は呪われて命を落とすことなく、救われました。この呪物を埋めたのは、道摩法師という陰陽師で、依頼したのは堀川左大臣藤原顕光でした。

平安時代の陰陽師には、官人身分の陰陽師と官人ではない民間の陰陽師とかいました。安倍清明は官人の陰陽師で道摩法師は非官人の陰陽師でした。

藤原顕光は血筋の上では道長と従兄弟の関係でしたが、道長一家に怨霊として祟ったので「悪霊の左府(左大臣)」とよばれました。それには次のようないわれがあります。顕光は父・兼通が関白でしたので昇進し公家になりますが、父の死後は父の弟・兼家が実権を握り、その子である道長ら兄弟に追い抜かれます。

しかし道長が左大臣、顕光が右大臣になり、さらに晩年には道長が太政大臣になると顕光は左大臣になります。しかしこの時期、顕光は東宮(皇太子)の地位をめぐって道長と争いました。

すなわち、調和五年(一〇一六)に後一条天皇が即位しますと、顕光が娘・延子を嫁がせた敦明親王が東宮になりました。顕光はこれで道長を追い落とし権力を握れると思っていましたら、翌年には道長の圧力で敦明親王は道長の孫である敦良親王(のちの後朱雀天皇)に東宮の地位を譲りました。さらに道長は、敦明親王に娘の寛子を嫁がせました。夫を奪われた延子は絶望して病死します。

これによって顕光は天皇の姻戚として権力を持つ夢が打ち砕かれ、あまつさえ娘婿を奪われたのです。この事件で顕光は一夜にして白髪になってしまい、道長を恨んで陰陽師に呪詛させたといいます。

顕光は治安元年(一〇二一)に七十八歳で死去しますが、その後、敦明親王に嫁いだ寛子、敦良親王の妃である嬉子、三条天皇の中宮であった妍子が相次いで死にます。いずれも道長の娘です。

これらの死は顕光とその娘・延子の怨霊の祟りであると言われました。そのようなことにより、堀川左大臣藤原顕光は「悪魔の左府」とよばれるようになったのです。

呪詛が隆盛を極めた時代に、もっとも呪詛の危険を感じていたのは、権力の中枢にいた上級貴族層だったのです。また権力らしいものを持っていない中級貴族層でも呪詛の標的にされました。とくに女性が呪われました。

貴族から庶民にいたるまで、誰しもが呪詛の脅威について無関心ではいられないという王朝時代の嘆かわしい実態でした。

また修験者の加持や修法に調伏されて正体を明かした「もののけ(邪気)」は死者の亡霊ばかりではありませんでした。それは貴船大明神のような神々であったり、仏に類する聖天(歓喜天)であったりしました。

平安時代に書かれた公家の日記『小右記』にみえる「金峰の霊物」は、名高い吉野の金峰山に由来する邪気ですが、その詳しい正体は神なのか、仏なのか、あるいはそれ以外の何ものか、語られていません。ただ「霊物」とだけよばれています。

死者の霊である亡霊は、平安貴族の理解において必ずしも他界にいたわけではありませんでした。高いでおとなしくしているのではなく、貴族の生活世界である此界で人々に害を与える亡霊でした。そのような亡霊が平安貴族の知る悪霊だったのです。

七、現代社会と悪霊

現代社会では、説話がらみの怨霊やもののけ、妖怪の存在を信じる傾向は失われつつあります。

しかし、人類が古代から常に抱き続けた「死後はどうなるか」「死後に霊魂はどうなっていくか」という問いは、文明の発達した現代でも重要な問いかけであります。それだけに生きている人間の霊魂である生霊の働きには疑問を持っていても、死後の霊魂、つまり死霊が怨霊、悪霊として人々を苦しめていると思う人が依然としています。

大自然の中で、本能のまま生きている動物たちは、怨霊、悪霊に悩み苦しんでいる人間の不幸を見て、人間とは哀しい存在だと思っているかもしれません。

紀元前四世紀以前の文明発生地に生きた人間も死後の霊魂の存在を信じていましたし、古代インドの神秘主義は霊魂を重視しています。そして有史前から今日に至るまで、人間は理不尽な悪霊によって残酷な仕打ちをされてきました。今日の未曾有の災害も悪霊のしわざとも考えられます。そして、これは将来にわたって繰り返されるでしょう。しかし人間は負けてはいません。悪霊と戦いながらも逞しく生きて行くと信じます。

〔参考文献〕

北山茂夫著 『日本の歴史』4 中央公論社

繁田信一著       『呪いの都 平安京』吉川弘文館

夢枕獏著           『陰陽師』「瀧夜叉姫(上)」文春文庫

グループSKIT編著       『仏と鬼を楽しむ本』PHP研究所

服部正明著       『古代インドの神秘思想』講談社学術文庫

 稲垣直樹著       『フランス(心霊科学)考』人文書院

 後藤武士著       『世界史』「古代編」宝島SUGOI文庫

 藤田真一・清登典子編『蕪村全句集』おうふう