子どもの頃から、なんで学校に行けなければならないのか、言われる通りにしないといけないのか、という思いをずっと抱えておりました…。また学校は刑務所だ、などとずっと思ってきましたが、そのことについての答えがここにありました。著者はアメリカの教育制度について話していますが、日本にもかなり当てはまります。


正しい教育よりも、あえて間違った教育について話す。正しい教育とは、子どもたちのやり方を尊重し、彼らにそのための居場所と時間を与えること…。しかし、間違った教育とは、奇妙で複雑で恐ろしいものです。


筆者は元教師で、ニューヨーク州最優秀教師賞を受賞しています。
学校を教えるとはどういうことか。それは、ハーレムからハリウッドヒルズまで、どこの学校にも共通する「7つの教育方針」を教えるということだと語り、また学校教育においては、みなさんの税金も使われているので、それをどう考えるかはみなさんの自由であると…。
以下、抜粋して転載してみます。

米国と日本、大きな違いはありません。一度読んでみていただくとうれしいです。書籍からの抜粋で記してみました。


【7つの教育方針】


① 一貫性のなさ
② クラス分け
③ 無関心
④ 感情的な依存
⑤ 知的な依存
⑥ 条件付きの自尊心
⑦ 監視



① 一貫性のなさ

先日インディアナ州に住むキャシーという女性からこんな手紙をもらった。
子どもたちにとって、一番重要な認識とは何でしょう。私に言わせれば、それは、彼らの学習が体系的なものであるという認識です。つまり、学校の授業には一貫性があり、教師はただやみくもに知識を押しつけ、吸収させようとしているのではないということです。それは首尾一貫した、論理的な内容なのです。


キャシーさんは間違っている。というのも、学校の7つの教育方針の1つ目は、「一貫性のなさ」だからだ。実際、私の教えることにはまったく脈絡がない。何もかもがばらばらで、めちゃくちゃである。惑星の軌道、大数の法則、奴隷制、形容詞、設計図、ダンス、体育館、合唱、集会、びっくりゲスト、避難訓練、コンピューター言語、保護者会、教員研修、個別プログラム、ガイダンス、実社会ではあり得ない年齢別のクラス…。


一流の大学でさえ、カリキュラムとその順序については、多くの矛盾を抱えている。しかし、子どもたちはそうした矛盾に怒りや困惑を表すことも許されず、それを「質の高い教育」として押し付けられている。


学校の論理は、生徒が何か1つのことに熱中するよりも、たとえ表面的であれ、経済学や社会学、自然科学といった一通りの専門知識をもっていた方がいいというものだ。そのため、多くの教師が子どもたちに混乱を強いている。


だが、教師の世界は非常に閉鎖的で、そのほとんどがじつは専門的知識などもっていないのである。


まともな人間が求められるのは、ばらばらの事実ではなく、意味である。教育とは、生のデータから意味を引き出させることなのだ。パッチワークのような時間割や、事実と理論ばかりを優先する授業の中では、意味を模索することなどできない。これは小学校ではもっとむずかしい。そこでは、子どもたちにできるだけ多くの体験をさせることが望ましいとされ、親たちはまだその嘘に気づいていない。


そもそも、物事には自然な順序というものがある。人間がまず歩くことを覚え、それから話すことを覚えるように、日の出から日没までの太陽の動きや、鍛冶や農作業といった昔ながらの手仕事、あるいは感謝祭のごちそうの準備など、どんなことにも流れというものがある。


そこでは、1つひとつの動きに正当な理由があり、前後との結びつきによって、全体が完全に調和している。ところが、学校教育においては、1つの授業にしろ、1日の時間割にしろ、つねに順序がめちゃくちゃである。


教師も教師で、学校の方針には逆らえないため、批判の手段になるようなことは決して教えない。生徒が何かを「学ぶ」とすれば、それは宗教の教理問答を暗記するようなものだ。


子どもたちは、こうした一貫性のかけらもない学校教育を、みずからの運命として受け入れるしかないのである。


② クラス分け

私は生徒たちに、それぞれ自分の所属するクラスにいるように教える。誰がそう決めたのかは知らないが、そんなことは関係ない。彼らには番号がつけられていて、もし逃げ出しても、すぐに所定のクラスへ連れ戻されるようになっている。


学校はあらゆる方法で子どもたちに番号をつけるが、番号だけで人を判断していいものだろうか。親がそれに何も言わないのも不思議である。(学校は電話をすると、〇年〇組、〇〇番号と伝えてくれと言います)


義務教育が導入される前の時代は、あらゆる年齢の子どもたちが1つの教室で学んでいて、年長の子どもが年少の子どもを教えるようになっていた。このシステムは、子どもたちを席に縛りつけ、「教官」の話をただ受動的に聞かせるだけの授業よりも、ずっと効果的であることがわかっている。


子どもたちはまさに戦場の兵士と同じだ。いずれにせよ、私の仕事は、生徒を番号によってクラスへ閉じ込め、それに順応させることだ。上のクラスは厳しいもの、下のクラスはダメなものという先入観を植えつければ、彼らは自分の地位に満足し、クラスは軍隊のようにビシッとまとまる。


一方で、教師は褒美をちらつかせ、少しでも成績を上げて、上のクラスへ行けるようになる生徒を促す(結局は、学校全体の計画として、99%の生徒はそのままのクラスに残される)。


ソクラテスが何千年も前に言ったように、現実と学校教育とは根本的に両立しないのだ。クラス分けの目的は、子どもたちに自分のレベルを自覚させ、そこから脱出するには、点数を上げるしかないと信じ込ませることである。


③ 無関心

子どもたちがたとえ何かに興味を示しても、あまりそれに夢中にならないように教える。そのテクニックはじつに巧妙だ。まず、私は念入りに計画を立て、子どもたちを私の授業に熱中させる。彼らは興奮して立ちあがったり、私に褒められようと活発に競争したりする。


教室が熱気に包まれるのは、嬉しいもので、生徒はもちろん、私までもが気分が高揚する。しかし、一旦チャイムが鳴ると、子どもたちはそれまでやっていたことをすべて中止させ、ただちに次の授業の準備をさせる。彼らは電気のスイッチのように、素早く頭を切り替えなければならない。


私のクラスでも、ほかのどのクラスでも、重要なことは何一つやり遂げられたことがない。生徒たちがまともにやり遂げるのは学費の納入くらいのものだ。


何年間もチャイムに従って過ごすうち、一部の耐性のある子を除いて、もはや社会にやるべき重要な仕事はないと思い込むようになる。チャイムは過去も現在も打ち壊し、どの時間も均一なものにしてしまう。


④ 感情的な依存

子どもたちは、教師に褒められたい、あるいは怒られたくないと思うように条件づけされる。私が生徒の答案に〇や×をつけたり、特別な褒美を与えたり、やさしい顔や怖い顔を使い分けたりするのは、彼らの感情的反応を私に依存させるためである。つまり、教室の中では教師が支配者であるという感覚を植えつけるのである。


たとえば生徒がトイレに行くという口実で席を立ち、授業をさぼったとしても、それは条件づけのひとつの効果だと言える。なぜなら、その生徒が嘘の口実を言ったのは、彼が私に怒られたくないと思ったからであり、私に気をつかったからである。教師にどう思われようと平気なら、嘘をつく必要はなく、勝手に教室を出て行けばいいのである。


しかし、学校には自由は存在しない----------言論の自由さえ、教師は生徒を自分の基準に合うように動かし、それに反する者は厳しく罰せられる。若者の間でしきりに「個人の自由」が叫ばれているが、自由は学校制度とは矛盾するものだ。


⑤ 知的な依存

子どもたちは、何事も自分で判断せず、教師の指示を待つように教えられる。彼らが何を学ぶべきか、彼らの人生に何が必要かなど、重要な判断はすべて専門家が行う。専門家とは、私のような教師であったり、その背後にいる「影の雇い主」であったりする。


実際、こうした判断はむしろその雇い主の仕事で、私の仕事は彼らの命令を実行し、逸脱者を罰することだ。学校にとって、優等生とは劣等生の違いは、こうした思考のコントロールがどれだけ行き届いていたかによる。


「優等生」とは、教師が示した考えにほとんど抵抗せず、適度な熱意をもって、それを受け入れる生徒のことである。何をいつ学ぶのか、「影の雇い主」が決めたことに従順で、他の事には興味を抱かない。


「劣等生」とは、教師の示した考えに抵抗し、何をいつ学ぶのか、自分でそれを決めようとする生徒のことだ。教師としては、そうした生徒を野放しにしておくわけにはいかない。そこで彼らの意志を砕くため、親に連絡するという効果的な手段を使う。


親が子どもの味方になるケースはなく、実際これまで会った中流家庭の親で、我が子よりも学校が悪いと言ってきた人はたった1人もいなかったのである。親自身が7つの教育方針を叩きこまれているからであろう。


「優等生」は、大人になっても専門家の指示を待つ。今日の経済社会は、そうした人びとによって成り立っていると言っても過言ではない。もし子供たちが従順であるように訓練されていなかったらすべては破たんしてしまうだろう。


社会システムは機能せず、カウンセラーやセラピストは休業を余儀なくされる。人びとが自分で楽しみを見つけるようになれば、テレビなどの商業的娯楽も衰退する。


また、他人の作った食事に頼らない、自給自足の生活が見直されれば、レストランや加工食品といった飲食産業も衰える。学校教育が無力な人間を生み出さなくなれば、学校はもちろん、現代の法律や医療、工業なども衰退するだろう。


つまり、職を失いたくなかったら、学校改革に賛成票を投じるのは軽率だというわけだ。私たちの社会は、自分で考えることを知らず、ただ言われたことだけをするだけの人間によって成り立っている。それは学校教育のもっとも重要な方針のひとつなのである。


(学校内で問題を起こされると、私立高校などはたちまち評判が落ち、人気がなくなり、学校経営に響きます。ビジネスですから、外で問題を起こさないような子、学校内では、押さえ込んで自尊心と好奇心を奪います。時には、事件があると、揉みつぶしたりします。このようなことを私は体験しています。)


⑥ 条件つきの自尊心

親から無条件に愛されている子どもは、自尊心が強く、従わせるのがむずかしい。しかし、こういう自信家が大勢いては、社会は維持できない。そこで私は、子どもたちに、自分の価値は専門家の意見に左右されているということを教える。つまり、彼らはつねに教師に評価され、審査されるのである。


実際、生徒の家庭には通知表が送られ、テストの点などが報告される。点数が一桁だったりすると、親は我が子にガッカリするだろう。学校の存在意義をアピールするためには、そうした不満を持続させることが重要である。


これは企業が消費者に不満を抱かせ、そこから需要を掘り起こすのと似ている。教師は通知表をつくるのに手間も時間もかけないが、こうした客観的(に見える)データの積み重ねによって、子どもの自尊心は大きく左右され、自分の未来は他者の評価にかかっていると考えるようになる。


自己評価は、哲学の世界では重要な要素でも、学校教育ではまったく問題にされない。自分にどれだけの価値があるのか、それは他人が決めるというわけだ。


⑦ 監視

私は生徒たちに、彼らがいつも見張られていて、教師の監視から誰も逃れることはできないと教える。子どもたちにはプライベートな場所もなければ、プライベートな時間もない。5分間の休み時間(日本はたぶん10分)は、彼らをさりげなく接触させ、お互いにスパイさせるためである。結果的にそうなっている、極端な例は、「女王の教室」という人気のテレビドラマでそんな描写がふんだんにありました。


また、私は「宿題」という授業の延長によって、生徒の家庭生活にも監視の目を入り込ませる。学校と違い家では自由な時間を与えられている彼らは、親の許可なく、何かを食べたり、賢者に知恵を求めたりするかもしれない。


宿題は、そうした自由時間をなるべく拘束するためのものだ。つまり、「小人閉居して不善を成す」(小人物が暇を持て余すと、とかく悪事に走りやすいということ)のを防ぐのである。


教師は、意識していようがしてなかろうが、結果的にはこうした現実はあります。家庭で過ごす時間は親子ともどもありません。塾や仕事に忙しく、宿題をやり、そうでなければテレビゲームやスマホゲームに没頭し、何かを探求するようなことはますます遠のいています。


絶え間ない監視の目的は、子どもたちにプライバシーなど存在しないこと、他人は誰も信用できないことを教えることだ。こうした監視の必要性は古くから指摘され、世界中の偉大な思想家や、偉大な書物…『国家』、『神の都』、『ニュー・アトランティス』など…によって支持されてきた。彼らはその著書の中でこう言っている…もし社会を中央統制の下で維持したいなら、画一的な集団に入れるべきである。



以上が著者ジョン・テイラー・ガットの提示する7つの教育方針です。

教師自身も気づいていない場合もあります。特に日本ではそうかもしれません。矛盾を感じて教師の職を辞め、自宅学習の塾の先生をしている人もいます。


「世界の裏側ニュース」さんの記事で、「システム・マトリックスから脱出する10の方法」という記事の中に、

.自分の子供をホームスクーリング(自宅学習)させる

親として、システムから脱出するにはこれが断トツで最善の方法です。システムが嫌いなら、あなたのお子さんをその洗脳に晒す必要もないのでは?

「公立学校は、意図的な計略を促進するための権威崇拝の寺院のようなものです。あなたの生きている間にシステムが直ることはないかもしれませんが、少なくともあなたのお子さんはそのカルトから助け出されることになるでしょう。」


とありますが、まさに現代の教育制度は、権威崇拝の寺院のようなもの…と書かれていますが、全くそうだと思います。しかし、これからの人生すべてのバランスを取ろうとすると、高校を卒業し、大学に進学し、そこそこの就職口を探さねば、未来が暗いものになりそうで、結局長いものに巻かれる選択をするしかなかったわけですが、少しずつ目覚めた人も増えてきましたよね~。不登校などの人が本当に多くなってきていますし、それに対応できるフリースクールも増えてきました。


このあと、「読み・書き・計算」は百時間で学べるへ続く







バカをつくる学校
ジョン・テイラー・ガット著より

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